貫太郎には戦争中の苦い思い出がある。
29年前3月10日東京大空襲(1945年)の夜だった。東京の下町は火の海。
降りかかる火をはねのけて逃げまどい、どうにか歩けるようになった明け方、ふと気づくと足元には
今にも息絶えそうな人達が横たわっている。一人の女性が「水を下さい」と貫太郎に手を差し出した。乳飲み子を抱いたその女性は体中に火傷を負いながらも「お願いです、どうか、お水を下さい」と懇願する。たぶんこれが末期の水になるのだろうと思われるその女性に、貫太郎は水筒に入っている水をあげなかった。彼女のまわりには同じような人が15〜16人もいたのだ。彼女ひとりにあげたら皆にもあげなくてはならない。心を鬼にして通り過ぎた。
おそらく、あの女性は亡くなってしまっただろう。そのことがずっと心に残っており、特に終戦の日が近くなるとそのことを思い出して胸が押しつぶされ、水に恐怖を持つのである。
ある日、58〜59歳の女性が貫太郎を訪ねて来た。
「東京大空襲の日にお水を恵んで頂きました。水筒の蓋にいっぱい」
水筒に「谷中・寺内」と名前が書かれていたことを覚えていたそうである。いつかお礼をと思っていながらも訪ねることをしていなかったが、昨年大病をし、命があるうちにと思って貫太郎を訪ねてきたというのだ。
貫太郎はあの女性に水筒の蓋一杯の水を飲ませていたのである。女性が水を飲み終えそのコップを返した時、もう一杯あげたいけれど、と躊躇したが水筒のコップをしめてその場を去った。
その時に2杯目の水をあげなかったことの心残りが、記憶違いにつながったのであろう。
貫太郎は苦しむ必要のないことでずっと心を痛めてきたのである。
(寺内貫太郎一家 脚本:向田邦子)
そのような事は誰にでもありそうである。記憶違いで苦しんでいたり、また逆もあると思うのだけど。
先日、妹と子供の頃の話をした。冬休み、東京の叔父夫婦の家へ遊びに来た時のこと。
時は年末で叔父と叔母が大掃除や買い出しをする間、従兄弟ふたりと妹と私、4人を映画館へ連れ出した。観たのは「男はつらいよ」である。叔父が自分好みの映画を適当に選んだのだろうと、私はずっと思っていた。
しかし、妹はどうして「男はつらいよ」を観ることになったのかをはっきりと覚えていたのである。
子供たちは皆、その時に話題になっていた「ジョーズ」を観たいと言ったのだが、TVのニュースで
「気持ちが悪くなった」「怖い!」ということを聞いていた叔父は渋っていた。でも、子供たちが
どうしても観たいというのなら仕方ないと映画館まで送ったらしい。
ところが、映画館についたちょうどその時、救急車が映画館の前に停まっていたのだという。それが
「ジョーズ」を観て気分が悪くなった人の為のものなのかどうかは知らないが、叔父は「ジョーズ」を許可せず、私達は「男はつらいよ」を観ることになったのだそうだ。
そのような経緯を私はまったく覚えていない。
その経緯がわかり、「男はつらいよ」エピソードが叔父の人柄が滲み出る思い出に変わった。