8年前のある日、私は母の指の爪を切った。生まれて初めて、最初で最後のことだった。
いつもは施設で働く方々が切ってくれていたのだが、その日、母が私に切ってくれと言ったのか、
私が気になって自ら切ったのかは覚えていない。
母の手に触れるとその柔らかさに驚いた。
台所に立っていた頃の母の手は荒れていた、特に冬は。ガサガサに捺さくれだっていた時もある。
毎夜、たっぷり塗っていたハンドクリームの大きな緑の容器を思い出す。
アロエ入りだった。
家事をしなくなって何年にもなるからか、母の手はつきたてのまだほんのり温かいお餅よりも柔らか
かった。
母がお世話になっていた施設に、ひとりとても活発な介護士さんがいた。
いつも忙しく立ち働き、大声でぽんぽん荒い言葉を口にしたりする。
「あの子ね、ああ見えて爪を切るのがとても丁寧で上手なの。優しい子なのよ」
私は彼女よりも下手だったに違いない。
母が彼女に爪を切ってもらっている姿を想像すると、今でも、彼女に感謝の気持ちが湧き上がる。
先月の中頃、入院していた叔母を訪ねた時、叔母は言葉を声に出すことはなかったが、自分の手を私に差し出した。その手を両手で受け、その柔らかさに母の手の感触が瞬時に戻った。
叔母は数年前まで元気に雪片付けをしていた。
子供たちが「もうそんなことは止めろ、自分たちがやるから」と言っても
雪が積り始めると家の中でじっとしていることが出来ない性分だった。
子供たちがいない間に外へ出て家の前の雪片付けをした。
外から戻り、ストーブにかざしている小さな手は分厚くて見た目にはごつごつしていた。
最後に触れた母の手と叔母の手は同じように柔らかく、私はその感触を生涯忘れないと思う。
ふたりとも若い頃よりもずいぶんと身体は細くなった。それに伴い手も痩せてしわしわなのに、触るとふっくらとしている。どうしてだろう。
その感触が私の手の中と心の中にのこっていることを幸せに思う。