昭和の時代。
家の近所に煎餅屋さんの工場があった。そこのKちゃんは小学1年生の私よりひとつ年上で身長は
私よりもずっと高かった。のちに彼女の家が引っ越しをするまで頻繁にふたりで遊んでいた。
夏休みが始まり、その日も工場の階段を駆け上りKちゃんに会いに行った。するとKちゃんのお父さんが満面の笑みで「今日は、海へ連れて行くぞ」メガネの奥の大きな目が「どうだ!嬉しいだろ!」と言っているようだった。
Kちゃんと私は声をあげて喜び、私は急いで家へ戻って水着に着替え、浮き輪を手にしてKちゃんの
お父さんの軽トラックに乗り込んだ。
海水浴場につくと海は”芋洗い状態”に混んでおり、子どもたちの喜びはしゃぐ声が空に響いていた。
その中に私達は勇んで入っていった。
少し荒い波が人の大群を引き寄せては戻し、引き寄せては戻し、その度に子供たちのきゃあきゃあ叫ぶ声が鳴り渡る。
私は浮き輪をしていたが、知らず知らずのうちに大群と一緒に足の届かないところまで流されて
いた。まわりの子どもたちは海水の下に足がついているのか、いないのか、波に引き寄せられる度に
あげる歓声は止まない。このまま流されて周りの人から離れてしまうのではないかと怖くなった。
浮き輪をつけずに遊んでいたKちゃんは、私から少し離れたところで大きな口を太陽に向けて開け広げ
大声をあげて喜んでいる。
そのうち、不安な顔をしている私に気づいたKちゃん。私の目を見て笑ったまま人をかき分けながら
やってきて”ぎゅっ”と手をつないでくれた。一気に不安は消え去り、私も大きな口をあけ空にむかって声をあげて笑ったのである。
その時、海水浴場に大音響で流れていた曲が黛ジュンの“天使の誘惑”だった。
たまに懐メロで聞こえてくるこの曲は、瞬時にあの夏の海を思い出させてくれる。
Kちゃんの大口をあけた喜びの顔、おじさんの嬉しそうな顔。
波、浮き輪姿で足をバタバタさせているワタシ。
これら全部をひっくるめて“夏の思い出”のひとつになっている。