兄は、小学高学年になった私にチェスを教え込んだ。
自分で興味を持ちチェス盤と駒のセットを買ったものの、対戦相手の存在が必要と気づき、身近にいた私に白羽の矢を立てたのだろう。同じ家に住んでいる私ならいつでも対戦が出来るが、友達だとそうはいかない。
最初に簡単なルールを教えてもらった。ルールはやっていくうちに覚えるものである。兄に勝つようになるまでそれほど時間は必要ではなかったと思う。チェスは私の性分に合っていたのかも知れない。
相手の数手先を読んで行くのが面白かった。この駒をこう動かしたら相手はこう動く、その次に私は
こう置いて、その後相手はこう動く、そういうことを考えるのが得意だった。
兄と私は自分の好きなお菓子を賭けて対戦し、負けた方が買いに行く。多くは私が美味しい思いを
した。その様子を見た父は「兄ちゃん、何故、お前が負けるんだ」と頭を抱えこんでいた。
私は学校の勉強が嫌いだったので成績は良くなかったが、兄は真面目に勉強をしていたので成績も
良かった。チェスは学業とまったく別の頭脳を使うようであると子供ながらに思ったものである。
その後、兄は高校受験勉強で忙しくなりチェスをすることはなくなった。
元来、外で身体を動かして遊ぶことが好きだった私は夕方まで外を走り回り、夕食後はテレビを見て
すぐに眠るような生活に戻った。
大人になってから、アメリカ人の友人とチェスをする機会があった。英語が出来なくてもチェスは出来る。ルールは世界共通である。忘れかけていたルールを相手に教えてもらいゲームを開始するも、駒をどう動かすべきか悩みまくる、集中力が続かない、何よりも面白みを感じなくなっていた。
Netflix: Queen's Gambit(クイーンズ ギャンビット)というドラマがある。親の事故死で養護施設に入所した9歳の少女がチェスに興味を持ち、天才少女として注目を浴びる。生活費を稼ぐために始めた大会への参加を機に世界一をめざす物語。ドラマは孤独や依存症などの闇の部分も多く描いている。
ひとつのことを極めるのは並大抵ではなく、「これしかない!」という思い込みと、研究・努力の継続が不可欠であることが描かれている。
才能があるといわれる人たちの多くは「自分はそれに関しての才能があるのではない、ただ、それを
継続する才能があるのだ」と仰る。
何事に於いても、私に欠けるのはその部分であるように思う。
頭の体操のために再度チェスを始めようとオンラインでAIと対戦してみた。
初日、文字通りあっという間に負けた。
とりあえず、続けてみよう。面白いと思えるようになるまで。