制作:イギリス 黒澤明監督「生きる」(1952年)のリメイク
* あらすじ(公式サイトより)
1953年。第二次世界大戦後、いまだ復興途上のロンドン。公務員のウィリアムズ(ビル・ナイ)は、今日も同じ列車の同じ車両で通勤する。ピン・ストライプの背広に身を包み、山高帽を目深に被ったいわゆる“お堅い”英国紳士だ。役所の市民課に勤める彼は、部下に煙たがられながら事務処理に追われる毎日。家では孤独を感じ、自分の人生を空虚で無意味なものだと感じていた。そんなある日、彼は医者から癌であることを宣告され、余命半年であることを知る――。
彼は歯車でしかなかった日々に別れを告げ、自分の人生を見つめ直し始める。手遅れになる前に充実した人生を手に入れようと。仕事を放棄し、海辺のリゾートで酒を飲みバカ騒ぎをしてみるが、なんだかしっくりこない。病魔は彼の身体を蝕んでいく…。ロンドンに戻った彼は、かつて彼の下で働いていたマーガレット(エイミー・ルー・ウッド)に再会する。今の彼女は社会で自分の力を試そうとバイタリティに溢れていた。そんな彼女に惹かれ、ささやかな時間を過ごすうちに、彼はまるで啓示を受けたかのように新しい一歩を踏み出すことを決意。その一歩は、やがて無関心だったまわりの人々をも変えることになる――。
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英国版では、紳士の身だしなみ、振る舞い、マナーが描かれている。スーツ、山高帽、緩みなく
きっちり巻いた長い傘。誇り高きイギリス人と言われる所以がそこに見える。
医師から余命宣告をされた数日後、元部下の若い女性との会話:
「通りや庭で子どもたちが集まってボール遊びやカウボーイごっこをして遊んでいるのを見ていると、やがて彼らの母親たちが迎えに来る。子どもたちはまだ遊んでいたいのにしぶしぶ帰るのだけど、たまに遊びにも参加せず、楽しいわけでもなく、かといって楽しくないわけでもなく、隅っこに座ってただ母親が迎えに来るのを待っている子がいる。私はそうはなりたくないと思っているんだよ」(意訳)というようなことを語るシーンがある。
何もせず最後の日が来るのをただ待つだけの日々は嫌だ、最後の時が来るまで“生きたい”と、
私は解釈した。
その話をした後、主人公は“やっと見つけた!”かのように生き生きとし、役所のデスクの上に積み重ねられた書類のひとつ“公園づくり”に奔走する。それを進めるには困難もあったが、ついに小さな公園が完成する。完成するまで諦めなかったのである。
雪が降る夜、主人公は誰もいないその公園のブランコに乗り歌いながら揺らしている。それを見た警官が早く帰るように促そうとするが、主人公の姿が幸せそうだったので声をかけずにその場を去った。
雪は大ぶりになってきたし、そのうちに帰るだろうと思ったのだ。
後に警官はその時に声をかけなかったことを後悔するが、主人公の同僚が「あなたの行動は正しかったと思います。その時の彼は今までかつてないほどに幸せだったでしょう」と話す。
主人公のお葬式の後、同僚たちはいろいろ話し合い、故人の意思を受け継いで行こうと誓う。しかし、時が過ぎればその思いは薄れていき、結局また机の上にいくつもの書類が積み重ねられていく。
ずいぶん前のことになるが、多数の方が犠牲になった大きな事件が起きた後、友人と私は声にして
誓った。「いつ何が起こるかわからない。ずっと先の将来のことを心配するのではなく、今、目の前にあることを一生懸命やろう!明日はないかも知れない。人生を楽しまなくては!」
その誓いは予想以上に早く崩れた。あっという間に、もとの日常に戻った。
私の場合、決意は簡単だけれども継続は難しいのである。一緒に誓った友人も同様である。
“どのように最後を迎えるかは、どのように生きるかである”と、主人公が語っているように思える。
尽力せねば、とまたもや決意する私である。