2011年3月11日(金)14時46分、東日本大震災の日、私は母が入所して間もない施設にいた。
前日と前々日、午後2時過ぎにわりと大きめの地震があった。新しく建てられた施設だったので崩壊
することはないと思っていたが、11日の地震の揺れは長く、私は施設で働く人達と一緒に廊下の窓を開けに走った(これが正しい行動かは明確ではないが)。
地震と同時に停電になったが、怪我人もなく、壊れた物もない。
しばらくして入所者も施設で働く人達も落ち着いた。
雪国の3月はまだ日が短い。その上、吹雪で空が灰色、暗くなるのが早くなりそうであった。
公共の交通手段も絶たれた状態だが徒歩で帰れる場所ではない。
施設の従業員を送る車に便乗させてくれるというので暗くなる前に施設を出た。
信号もない道、すぐに暗くなることを考えれば車を運転するドライバーさんも大変だし危ないだろうと思い、私は途中で降ろしてもらいそこから歩いて帰った。
自宅へ着いた時にはずいぶんと暗くなっていた。街中にある自動販売機のあかりが普段どれだけまわりを明るくしていることか。日が暮れると真っ暗である。母の住まいには石油ストーブがあった。
灯油の予備がそれほどないので寒さをしのぐほどのことは出来ないが、部屋の中を少し明るくするには
十分だった。
その時の私は日本で使用できる携帯電話を持っていなかった。停電でテレビも映らない。母が使用していたラジオがあったが雑音が大きくてなかなか聞き取ることができない。
翌日のお昼過ぎに電気が復旧するまで、私は東北で起きていることをわかっていなかった。
その日もバスは動いておらず、空車のタクシーも走っていない。日本滞在中、その日だけが母に会いに行くことができなかった日である。
そして、その後、それを後悔したのである。何故、施設に泊まらなかったのかと。
慣れない場所で母がどれだけ不安だったか、不便だったかと思うと不憫になるのである。
あとになってそんな事を言う私に、友人曰く、
「私達の親は戦争を経験しているのよ。私達よりもずっと強い!」
そう言えば、思い出した。
地震から8ヶ月後、私は既にNYへ戻っていたのだが、母が急に体調を崩し、危篤状態だという知らせを受けて慌てて日本へ向かった。数日後に母は意識を取り戻したが、医師の勧めで病院の緩和ケアー病棟に移動した。しばらくの間、食事は私が母に食べさせていた。その後、母は徐々に快復し、私はまたNYへ戻ることにした。
私が日本にいない間、東京近郊に住む妹が何度か母のもとを訪れた時のこと。
母が妹に言ったらしい。
「お姉ちゃんさ、私がひとりで食べられないと思ってスプーンで食べさせてくれるんだけどさ、
お母さん、ひとりで出来るのよね。なんかお姉ちゃんが一生懸命だからやってもらってたけどさ」
えっ、驚いた!
いったいどのあたりからひとりで出来る状態だったのだろう、まったく気づかなかった。
腹も立つが、私に気を使って上手に”役”を演じていた母に笑ってしまう。
その後、母は増々快復し、とても元気な状態で緩和病棟から出ることになったのである。
やはり、母は強かった。