2年前、帰国して数ヶ月後のことである。

久々にNYの友人からメールが送られてきて嬉しくなった。

 

私がNYを発つ前、彼女の仕事はリモートになりオフィスにいた時よりも

逆に忙しくなってしまったと嘆いていた。

 

やっと仕事が落ち着いたのか、と思いメールを開けると、

それは彼女の旦那さまからのものであった。

 

メールには友人が天国へ旅立ったと記されており、突然のことに驚き、動揺した。

病気だとは聞いていなかったし、その事実を受け入れるまでに時間がかかった。

 

仕事が落ち着いたら会いましょう。旅から戻ってきたら会いましょう。

お互いの都合があるのだから、いつでも会いたい時に会えるわけではない。

それは仕方のないことである。

 

あの時に会っておけば良かった、と後悔してもどうにもならない。

 

亡くなった友人は近い将来、ポルトガルへ移住したいと話していた。そのために、生前

何度も現地を訪れていた。あんなに楽しみにしていたのにと思うと残念でならない。

 

NYに長く住んでいた時、通常は1年に1度のペースで帰省していた。

出発の前に、友人のひとりがいつも電話をしてくる。

「いつ日本へ行くんだっけ?」

日にちを伝えると「出発の前に会いたい、何かあったらもう会えないから」と言う。

嬉しいような、不吉なような、複雑な気持ちであった。

 

コロナ禍の間にふたりの叔父が亡くなった。突然であった。最後に会った日を思い出し、

あれが最後になったのか、としみじみ思う。70代と80代といえばいつ何があっても不思議では

ないのだが、それが最後になるとはまったく思っていなかった。

 

2020年3月末、NYがロックダウンしたその日の夜に高熱を出した。感染したら命が危ないと

思われていた時期である。少し熱が下がった時、友人たちに手紙を書いた。感謝の言葉を綴り、

自分ではこれが最後かも知れないと思う気持ちがあったから、まるで遺書のように重々しいものに

なった。今となれば気恥ずかしく、皆がその手紙を既に捨てていることを願うばかりである。

 

人と会う時、話す時に「これが最後」という気持ちをいつも持っていたいと思うのであるが、

時として感情に振り回されてそれどころではなくなってしまう。

 

決意と反省を繰り返す日々である。