新年早々、福袋を求めて東京駅の大丸デパートへ行ったが、時間が遅すぎたのか

お目当ての物は既に売り切れていた。初売りを手にするには努力が必要、ぶらぶら

散歩がてらの私に宝物がゲットできるわけがない。これを教訓に、来年は初売り

福袋を望まないことにした。

 

せっかくなので、駅とつながっている書店へ立ち寄った。思いのほか、家族連れで混んでいた。

今話題のコーナーへ行くと東欧に関しての本が数冊置いてあった。小学5〜6年生の男児が

「これ、読みたい」と父親らしき男性に言ったが、その男性は「こんな難しい本、読めないだろう。

子供のコーナーへ行こう」とエスカレーターへ向かった。男児は「読めるよ」と小さな声で

つぶやきながらその本に思いをのこしたまま父親らしき男性の後を追った。

 

児童が読みたいと手に取った本はウクライナ情勢が書かれているものだった。

この本を読みたいと思う小学生がいることに感動した。

 

とても恥ずかしい告白になるが、私が本に興味を持ち始めたのは20歳を過ぎてからである。

小中高と、参考書を除いては本がほしいと親に願い出たことはない。

小学校4年生の時に町内の横断歩道橋を数人で掃除して町内会(たぶん)から「15少年漂流記」を

進呈された。その本さえまともに読んでいない。小学生の時に読書の時間があったはずだが、

どうやってその時間をやり過ごしたのだろう、まったく記憶にない。

春夏秋冬、1年中、暗くなるまで外を駆け回って遊ぶのが常であった。

 

世界情勢に興味を持っているあの男児は、普段からテレビのニュースを見ているのだろう。

ウクライナ情勢を知りたいと思っている小学生はそれほど多くはいないかもしれないが、

多種多様なことに興味を持っている子供は多いと思う。

 

知りたいこと、探求したいことの情報にアクセスしやすい時代である。

適切なアクセスの仕方をまわりの人間が協力できたらいいのに、

と思わせてくれた男児であった。