北谷村(当時)での生活も少しずつ慣れ、米軍のアメリカ人とも親しくなった
徒歩で約50分程度か歩いて行ける繁華街がコザ(現沖縄市)もよく行った
当時の沖縄の多くの人は日本復帰に不安を抱えていた
ここコザに住む多くの沖縄人は復帰反対派だった
何しろ米国人で成り立っている町だから不安になるのは当然だ
早く沖縄が復帰すると良いねなどと言うと大きな声で叱られたことを
昨日のように覚えている
コザの夜は沖縄の現状をそのまま魅せていた
そこには黒人は入れない白人専用の飲み屋があったり
逆に白人が入れない黒人専門の飲み屋もあったのだ
私は両方のお店に行ったが
さすがに黒人専門の飲み屋は少しびびって飲んだ記憶がある
毎日どこかで米国人同士のケンカが絶えない
そのたびにMP(Military Police)(日本語で憲兵)が来て車に乗せ
連れ去っていくのをよく見た
そんなコザの飲み屋の一軒に知念孝子さんという方が経営するお店があった
このスナックでもお客を含めて沖縄複雑な思いを聞いた
沖縄人の想いと政治が抱える問題はかけ離れているのもよく分かった
雰囲気のよかったこのお店にはよく通った
飲むのはいつもジョニーウォーカーのハイボールか水割り
復帰に不安を覚える女性は親しくなった米国人と結婚するといって
米国に渡る準備をしている人も沢山いたのも事実だ
私がお世話になっている家の親戚の女性も米国人の彼を連れて
家に来た
お母さんに紹介しこの人と結婚して復帰前に米国に行くと話していた
話しは元に戻るが
米国人と親しくなると
基地内の飲み屋に招待してくれた
とにかく何でも安いというのが印象に残っている
昼間のように明るいネオンは消えることはなかった
沖縄のここでは締めの食事はラーメンではなくステーキなのだ
千鳥足で歩いて帰る片道50分道のりはさほど辛いと思った事は無かった
何しろ夜は交通機関がないので歩くしかなったのだから・・・