1972年5月15日にアメリカから施政権が日本に返還されて51年
私が沖縄に行って自分自身の将来が決まった時でもあった
1970年の夏に内地で知り合った沖縄の友人と一緒に
彼が住む北谷村(当時)に約1ヶ月滞在した
当時内地から沖縄へは「身分証明書」という旅券と同じ?
ものを持参して入国した
東京から舟で那覇港まで向かった
入国まで税関職員が一人ひとり身分証明書をチェックして
どこに止まるのか?
1ヶ月も必要なのか?
かなり厳しいチェックを受けたことを思い出す
国道1号線の風景は素晴らしかったのが第一印象だった
Aサインバーを経営していた友人の家は
米国人を相手にしている関係で結構裕福だったようだ
Aサインバーの許可は大変厳しかった
男性が利用する小水トイレは手に石鹸を付けて
素手で洗うことだった 今では信じられないかもしれないが
一週間に数度MPが検査に来て
不合格だと店をOpenできないからだ
夜になると嘉手納基地で勤務する米国人が毎晩のように
店に来てジュークボックスから流れる音楽を聴いて
楽しんでいた
ある晩
米国人が悲しげにウィスキーを傾けていた
聞くと
ベトナムで同僚が亡くなった と話す
形見というのだろうか 片耳をカウンターの上に置いて
グラスを傾け亡き仲間を静かに偲んでいた
今は沖縄市となっている町が昔はコザと呼んでいた
夜遅くいくともうそこはアメリカ一色だった
ホワイトビーチと言って白人しか入れないビーチもあった
白人しか入れないバーもあった
黒人は黒人専用のバーで飲んでいた
そんな沖縄を知っている人も少なくなった
明日からしばらく沖縄のことを書いてみる
基地を反対反対とばかりではなく
本当の沖縄を今の沖縄の若者に伝えないと
素晴らしい沖縄の心が失われていくような気がしてならない
私は沖縄の人と米国人が今の私を育んでくれたと信じて疑わない
今の反対ばかりの沖縄では少し寂しいのだ・・・