日本人は今も昔も、外国人がどのように日本や日本人を見ているか、を気にしています。持ち上げられることも、批判されることも、当然あるわけですが、極端な排外思想のように「井の中の蛙」の狭量な見方・考え方に囚われた態度ではなく、虚心坦懐にその批評を受け止め、反論すべきは反論し、反省すべきは反省するという、是々非々の冷静なスタンスを執ることが、時を越えて大切な知性ある姿勢のように思います。こうした外からの意見を、全否定することにも、逆に全肯定することにも、このどちらかに極端に偏した姿勢からは、決して自律的で主体的な進歩や進化は生まないように思われるからです。

 「西洋の衝撃(Western Impact)」に遭遇した幕末日本を、当時のオランダやアメリカなどの海軍士官たちがどのように捉えていたか、を今回は取り上げたいと存じます。まずは、藤井哲博氏(海兵73期、戦後京大理学部物理学科卒の原子力技術者)が著述された『**長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』(1991年刊中公新書)から、嘉永6年(1853年)の米海軍ペリー准将率いる黒船艦隊の来航のインパクトにより、幕府が鎖国政策を放棄し、海軍を創設するに至った際、重要な提言をしてくれたオランダのファビウス(G. Fabius)海軍中佐(後の観光丸となる軍艦Soembing艦長)の意見書要旨を見てみましょう。(*裕鴻註記)

・・・ファビウスの甲寅(*嘉永7年:1854年)の意見書

 水野(*筑後守)忠徳(*長崎奉行)が彼の方からクルチウス(*オランダ商館長:J.H. Donker Curtius)に西洋の軍艦についての質問を下僚に出させたのに答えたのが、ファビウスの第一回目の意見書であったが、このなかで彼は単に水野(*筑後守)の質問に対して答えただけでなく、当時の世界海軍の大勢を懇切に説明し、この機に幕府海軍を創設すべきであると、積極的に自分の意見を述べたのである。

 その内容を要約すると、

   (1) 日本の地理的人的条件は海軍に最適である。開国は洋式海軍を創設する好機である。

   (2) 西欧では帆船軍艦の時代は終り、軍艦は蒸気船の時代に変わったが、それもこれからはスクリュー式の時代で、外輪式はもはや新規に造るべきではない。

   (3) 船体は当分木製でもよいが、世界の大勢は鉄船の方向に向かいつつある。

   (4) 将来造船も心掛けるのなら、造船所(引上ドック・乾ドック・修船場)と造機工場(鍛冶場・鋳造場・機械加工場など)のことも知っておく必要がある。

   (5) 士官および下士官・兵の乗組員(航海科、運用科、機関科、砲術科、水夫、火夫、海兵)の養成には学校 ―伝習所― 教育が良いが、士官は特にそうである。士官と職方の教育には先進国海軍への留学でも良い。オランダはこの両方について日本に力を貸す用意がある。

 このファビウスの回答は、一見何でもない、ごく当たり前のことのようであるが、いちいち地理的あるいは歴史的事実を示したうえで、その結論として述べており、はなはだ説得力に富んだ啓蒙的意見書であった。これを見ると、彼の巨視的な国家戦略の造詣の深さが並々でないのを感ずる。彼は将の器(うつわ)であり、後にオランダ海軍の位階を極めるのも首肯できる。それはさておき、この回答を得て、水野(*筑後守)がさらに行なった補足質問に対する回答が、ファビウスの第二・第三の意見書である。その内容も要約しておくと、

   (6) 先にオランダ側が提示したコルベット(*Corvette)艦の船価(一隻当たり四万両)には、船体、機関、艤装、運用上の必需品(例えば錨・鉄鎖・帆・船具類)が含まれており、大砲は含まれていない。

   (7) 今後の艦砲はボム・カノン(炸裂弾砲)である。材料的には、青銅砲は時代遅れで西洋では大分前から鋳鉄砲の時代になっている。

   (8) オランダ海軍の伝習所は、蒸気船の運航法、大砲の操法と製造法、蒸気機関の取り扱い方と製造法について教育する。そのため伝習生は少なくとも、数学・天文学・物理学・化学などの普通学と、測量術・機関術・運用術・造船術・砲術その他の軍事学を学ぶことになる。

   (9) この教育を受けるには、日本は長崎にオランダ語学校を設け、生徒に言葉の予習をさせておくのがよい。

   (10) 上記の軍艦の建造、海軍の伝習教師団の派遣、士官職方留学生の受入れ等のオランダの援助を受けるには、前提条件として日蘭両国間に条約を締結しておくことが必要である。

 長崎奉行・水野忠徳の海軍創立の基本構想

 三回にわたるファビウスの意見書を詳細に検討した水野長崎奉行は、オランダからの軍艦購入、幕府海軍の創立および海軍伝習所設立に関する一括構想をたて、在府長崎奉行を経由して老中に伺いをたてるにいたった。

・・・(**前掲書4~6頁)

 この水野筑後守の意見は、開明的な阿部伊勢守正弘を筆頭老中とする幕閣の承認を得て、結局蒸気機関搭載スクリュー式コルベット艦二隻(のちの咸臨丸と朝陽丸)が発注され、さらにオランダは翌安政2年(1855年)国王陛下から将軍家に外輪式軍艦Soembing(観光丸と改名)が贈呈され、これが初代練習艦となりました。前回までに見た通り、こうして長崎海軍伝習所での教育・実習が開始されたわけですが、その第一次教官団の団長となったペルス・ライケン海軍大尉(離日時、中佐)が書いた報告書の内容を、次に見てみましょう。前回触れた海軍士官は「GeneralistかSpecialistか」の問題も、ここには含まれています。

・・・(1) 日本は伝習所でスペシャリストを養成しようとしている

 ペルス・ライケンの報告書に行間にうかがわれる彼の海軍士官教育の根本思想は「キャリア・オフィサー(伝習所出の士官)はゼネラリストであるべきである」ということである。このことは彼に限らず、日本に海軍というものを教えた明治の英国海軍教師団のダグラス団長(少佐、慣例的にはドゥグラスと呼んでいる)、これと同じくらい生徒に影響を与えたアナポリス(*米海軍兵学校)出身の松村淳蔵海軍兵学校長(少将)、(*英国)海空軍出身のセンピル英教師団長(大佐)、皆同じことを強調している。つまり西欧海軍に共通する考え方であった。

 欧州海軍にはスペシャル・オフィサーという制度があった。米海軍にはキャリア・オフィサーのなかにエンジリアニング・デューティー・オンリー(*Engineering Duty Only)という制度があった(原子力推進海軍を作ったリッコバー大将がこれに該当する。彼はなんと八十六歳まで現役であった)。日本にはこれらと少し性格が違うが、「特務士官」という制度があった。これもスペシャリストの士官という点では、西欧と同じである。(*中略) 特務士官(*水兵・下士官出身の各専門職種での優秀者)は年配で扶養家族も多いが、同階級の学校出よりははるかに多額の給料をもらっていた。彼等は待遇で報われ、学校出は給料は多くないが階級が高く、それぞれ満足していたのである。海軍は、他の社会に比べて、かつてそこにいたことを誇りに思う者が多いのは、このような西洋流の合理的な配慮が随所に見られたことに一因がある、しかし兵学校の目的は特務士官のような一芸の達人を養成することではなかった。

 ペルス・ライケンは「伝習生の専攻を早くから決めてスペシャリストにするべきではない」と、永井(*尚志)総督を戒めている。スペシャリストは大切なものであるが、一艦あるいは一艦隊の指揮官に向かぬということは、多くの海戦の戦訓から得られた結論であったからである。

 (2) 日本の身分制度

 伝習を通じて、日本のあらゆる生活習慣を支配する基本ルールはその強固な身分制度にあると、彼等西洋人は理解していた。例えば、特別な許可なしには、平民には銃器を扱わせない。自分よりも身分の低い者からは、物事を教わらない。士官は日常の艦上業務にはまったく関与せず、もっぱら下士官・兵任せにする。等々の事柄は、民主主義の日常生活に慣れたオランダ人の眼には、理解し難いほど奇異なものに映った。一番困ったのは、通詞が日本の上司からの通達は忠実に訳すが、教師団から日本側の総督へのクレームなどは曖昧にしか訳さず、その真意が一向に伝わらず、彼等をいらいらさせたことであった。また身分の高い伝習生に対する叱責も通詞によって骨抜きにされることは日常茶飯事で、教育自体にも悪影響を及ぼした。

 今でも海軍の実権がどの階層にあるかについて、「英国は水兵、米国は士官、日本は下士官」などとよくいわれるが、これは或る意味で真実を突いているとされている。この文句は、民度の高さ、言い換えれば民主化の程度をも表わしているというのだ。米国が一番、日本が二番目、英国は三番目という訳だ。オランダ人は百年も前に、このことを指摘していた。すなわち「日本人水兵は、身持ちが良く、穏健でしかも気が利き、理知的であることは、世界に類例をみない。今は身分制度のために士官と下士官・兵の間に壁があるが、士官がもっと民主的になれば、下士官・兵は必ずついてくるに違いない」と。卓見というべきであろう(英国は階級制度が細かく、下士官と兵の間にもう一枚の壁があった)。

 (3) 艦内の火気の取り扱い

 ペルス・ライケンが艦内生活で一番気にしたことは、食事時になると水夫が各自コンロ(*七輪や火鉢)を持ち出して炊事をすることであった。また日本人は好きな時、好きな場所で、煙草を吸い、火鉢の炭火でお茶を沸かして飲んだ。オランダ教師団は館内の火気の取り扱いについて水夫たちを厳しく躾けようとしたが、長年の国民的習慣になので一朝一夕ではなかなか改まらなかった。(*中略) 船火事の恐ろしさは、見た者でないとわからないし、ましてそれが洋上で起これば、一船の乗組員全員の命取りになる。木造船の時代が去ってすでに久しいが、「火の用心」の大切さは、陸上と海上では、陸の人には想像がつかないほど違っていたのである。決して、ペルス・ライケンが細かいことをやかましく言った訳ではない。

・・・(**前掲書79~82頁)

 これに引き続き、第二次教官団長のカッテンディーケ海軍大尉(離日時には中佐に進級)の報告書内容も見ておきたいと思います。

・・・日蘭の文化の違いに根ざす伝習上の摩擦

 カッテンディケ(*ママ)にはジャワの勤務がなく、オランダ本国からいきなり長崎に来て日本人に接して、そのカルチャー・ショックがペルス・ライケンに比べて相対的に大きかったせいか、彼の報告書はそのことに多くのページを割いている。それに関して主なものを述べておこう。

   (1) 日本人の知識の無秩序と勉学の無方針

 西洋人の眼から見ると、日本人の持っている知識は局部的・断片的であって、知識相互の脈絡・関連がなく、物事を(今の場合は海軍というものを)、一定のルールに従って順序よく学ぶということを知らない。教師団がそのために工夫して一定のカリキュラムを作って教えようとしていることすら知らない。彼等の教育に対する要求・希望も、好奇心の赴くまま、まったく無秩序・衝動的であると、ペルス・ライケンも嘆いていたが、カッテンディケは彼等の究極の目標が海軍軍人になることであるのか、得た知識によって将来の自分の進路を決めようとしているのかわからないといっている。彼によると、「この長崎海軍伝習所は、日本の科学振興には役立っただろうが、果たして海軍士官の養成という本来の目的に役立ったかどうか疑問に思う」と書いている。日本人の国民性である過度の「好奇心」は彼のいうように確かに欠点かもしれないが、一面積極性の現われでもあり、大きな長所の一つであった。カッテンディケが百年以上も前に「日本は海の強国になることを約束されている。(中略) それは日本の地理的位置によるというよりはむしろ、日本人の国民性によるためである。しかしそこに到達するには時間がかかる。それは多くの偏見と障害のもとになる制度を取り除くことが必要だからである」と東インド総督に出した公式報告書に書いているのは注目に値する。

 「伝習所で得た知識によって自分の進路を決めた」例として、第一期の艦長候補伝習生・永持亨次郎を挙げることができる。一期の三人の学生長の中で旗本らしい旗本の家柄は、彼ひとりであった。彼は長崎奉行の下で外国方関係の徒目付(*かちめつけ)を勤めているところを、伝習生の監督の意味で学生長を命じられた。与力クラスの士官伝習生を取り締まるには、徒目付がちょうどいいからである。しかし伝習所で学ぶうちに、海軍士官というものは幕臣のなかではスペシャリストに過ぎないことが、だんだんわかってきた。彼は兄とも相談して、ゼネラリストの道こそ自分の進むべき路だと思い定めた。後に横須賀造船所の機器調達のための使節として、ヨーロッパに赴く柴田日向守剛中(*たけなか)が彼の実兄である。永持は、首尾よく伝習生から長崎奉行支配組頭に転出することに成功し、前途を嘱望されていたが、人の運命はわからぬもので、元治元年目付介(目付次席)として京都に派遣中病死した。これは余談。

 (2) 「全天候型」でない日本人の航海

 カッテンディケは運用科出身であったので、咸臨丸による巡航実習を重んじた。その結果、日本人の士官伝習生は運用術の指導力に欠け、水夫長(下士官)任せであることを見抜いていた。この習慣は、筆者ら(*海兵73期)の時代まで尾を曳き、運用科士官のことをひやかして「ドウカソウカ・オフィサー」と呼ぶことがあった。その意味は、兵学校出の若い士官は運用術では経験の深い下士官にはかなわないので、号令をかける前に自分ではよく考えないで、下士官に「こうやろうと思うがドウカ」「それでよろしいと思います」「ソウカ」とやるからである。

 長崎の下士官・兵候補の幕府伝習生は、大部分、塩飽(*しわく)諸島の水夫たちであった。彼等の航海は、港々にある日和山(*ひよりやま)に登り、いわゆる観天望気を行なって、晴天の日の昼間だけを選んで航海するのが長年の習慣であった。脆弱な日本船(*弁才船)で夜間の航路標識のない日本近海だけを航海したことから生じた習慣である。従って天気の良い日には巡航実習を喜んでやるが、雨の日には勝手が違うので実習を渋るのである。下士官・兵伝習生がそうであるから、士官伝習生はなおさらである。

 これがカッテンディケを日本人の航海は全天候型でないと嘆かせた因(*もと)なのである。また彼は長崎湾口が夜でも識別できるように、伊王島に灯台を設けることを提案したが、長崎奉行は、何を好んで夜の入港を許す必要があるのだ、夜入られたらかえって警備に困るではないかと、この提案を何時までたっても取り上げようとしなかった。カッテンディケの日本人の航海を全天候型・昼夜兼行型にしようという目論見は、彼の任期中にはついに達成されなかった。日本人はそれくらいの腕で太平洋横断を企てたのであるから、大した度胸である。われわれの世代が教わった「修身」の国定教科書は、「勇気」という題で咸臨丸の太平洋横断を取り上げていたが、「勇気」という題をつけるとは、文部省の役人もよく考えたものである。

 (3) 机上の知識に偏る日本人の向学心

 日本人伝習生はある意味ではよく勉強するが、それは頭で覚えた学問であって身体に覚え込ませた技倆とは言い難いと、カッテンディケは指摘している。航海術を例にとると、オランダの海軍伝習が始まる前の時代に、船乗りでない数学者が西洋流「航海術」の本を書くことが日本で流行ったことがあった。例えば、本多利明の『渡海新法』、坂部広胖の『海路安心録』、石黒信由の『渡海標的』などであるが、これらは頭のなかで組み立てた航海術であって、理論的間違いもあってその通りに実施できるものではなかった。船乗りは初めからそのことをよく知っていて誰も実行しようとはしない代物であった。一種の知的お遊びである。西洋でも学者による、間違いではないが、むずかしすぎて実施不可能な航海術の時代が長く続いて、十九世紀中頃になって、やっと大洋を航海できる実際的航海術になったのである。十九世紀中頃に出た航海術書の標題には必ずといっていいほど「プラクティカル (*Practical)」という文句が入っていることがそれを物語っている。プラクティカルというのは、理論的にも正しく、揺れる帆船の上で、必ずしも教養が高いともいえない船乗りにも実行できるぐらいむずかしくない、実際的航海術であるという、キャッチ・フレーズなのである。日本は西洋に比べて大分遅れていて、まだ見掛けの理論的精緻さを有難がり、実用性を軽んずる風があったから、カッテンディケは机上の知識ではいけないと特に戒めているのである。

 (4) 寛容と無規律、生まれながらの適性の問題

 日本の士官伝習生は下士官・兵伝習生を叱るべき時に叱らない。一見寛容のように見えるが、これが艦上生活の無規律の因である。日本海軍もヨーロッパ海軍と同様に艦上生活の規則を設けるべきである。この規則はおそらく日本人の長年の生活習慣と大いに異質のものとなろうが、これが定着するまでにやかましく躾けなければならない。そのためには叱責や懲罰も必要な手段であるとカッテンディケはいっている。

 また人には適性と不適性がある、適材を適所に配置すべきはもちろんであるが、どうしても海軍に向かないものもいるから、そういう人物は早目に発見して摘出した方が良いともいっている。

 日本の下士官・兵には、ややもすると公の需品を湯水のように浪費する悪癖があった。カッテンディケは早くからそのことに気付いて報告書に書き残している。戦前の日本海軍に、依然このような習慣が残存したことは、「親方日の丸」という海軍用語が残っていたことからもわかる。

 (5) 機関科士官の養成は伝習の最も明確な功績

 「今回のオランダ海軍の伝習における教師団の功績として最も明確なのは、優秀な機関科士官を作りあげたことである」とカッテンディケは書いている。「オランダは将来このことで、日本から感謝されるに違いない」という文章で、その報告書を結んでいる。

 カッテンディケという人は、なんだか評論家的なところがある。勝海舟と一脈通じた性格で、悪く言えば「口舌の徒」という感じを受けないでもない。政治家的予防線を張っているのかも知れないが、彼は「艦内規則」の必要性、「当直」と「部署」の重要性を説いたが、日本人伝習生にはわからなかったと書いている。伝習生は、艦内規則・当直・部署とは具体的にどういうものか全然教わらなかったといっている。後に、アメリカ海軍、フランス海軍を通して初めて知ったのである。オランダ伝習の足りなかったところは、艦隊の海戦術に触れなかった点、艦内規律の維持の仕方を教えなかった点であるというのが、大方の日本側の認識であった。あとを読んでもらいたい。

・・・(**前掲書108~114頁)

 もう一人、今度は咸臨丸の太平洋横断航海往航に同乗して、航海を支援してくれたアメリカ海軍士官のブルック海軍大尉による幕府海軍の評価も見ましょう。

・・・ジョン・M・ブルックの見た日本人乗組員

 ジョン・M・ブルックは、フェニモア・クーパーという小さな測量用スクーナー艦を指揮して日本に来る際、帰国する漂流日本人ジョセフ・ヒコをサンフランシスコからホノルルまで乗せたことがあった。それからもう一人政吉という漂流日本人も、ホノルル以来横浜を離れるまで、通訳兼小使として召し使っていたから、日本人に対する人種的偏見は持っていなかった。どちらかというと親日家のほうであった。そのことを念頭に置いて、次のような彼の日本人評を見たらよかろう。

 (1) 艦内規律がないに等しい

 艦内の規律・秩序がないとは、具体的には当直・部署がほとんど実行されていないということを意味しているのである。当直とは平常時(航海中・停泊中)の士官・下士官・兵の配置のことであり、部署とは非常時(戦闘、荒天など)の配備(*配置)のことである、こういうことをきちんとやるのは、日本人の普段の生活習慣とはまったく相容れないことであるようだと、カッテンディケがいっていたが、ブルックもまったく同じことを『咸臨丸日記』に書いている。

 小野友五郎の『航海日記』などを見ると、初めから毎日当直士官の名が書いてあるから日本側は当直は決めていた。ブルックの『咸臨丸日記』には「いつも当直らしい水夫がデッキの片隅にうずくまっていた」ように書いてあるから、当直中は士官もデッキに詰めていなければならぬということを日本人士官は知らず、事なければ当直は水夫任せにし、事あれば当直士官を呼びに来させる日本的システムでやっていたのだ。このシステムが欧米海軍の基準にてらすと、よくないということになかなか気付かなかったのである。

 部署についていえば、例えば「荒天準備」の部署において、誰がトップ・スルの縮帆をやるとか、誰はハッチの閉鎖を確認するとか、誰々はボートの固縛をやるとかなどのことが全然決めてなく、ブルックの教示で初めてその必要性と有用性がわかったのであった。

 それ以前の問題として、船の上では常に、船室のドアはきちんと閉めておかねばならぬこと、嵐の前にはビナクル(羅針盤箱)の照明を明るくしておくこと、砲口栓をしっかり閉めておくこと、湯飲みややかんがひっくりかえらぬように固定しておくこと、また平素からガラスの上に乗ったり手をついたりしないことなど、の習慣を身につけておくべきであると、ブルックは忠告している、これらは「艦内規則」で決めておくべき事柄である。咸臨丸のこの航海中、日本人水夫がブルックの船室の天窓を踏み破り、そこから海水が流れ込んでクロノメーターの一部が潮水につかったし、また水夫がよろけてアネロイド晴雨計のガラスに手をついて、晴雨計をつぶしてしまったりした。

 (2) お粗末な運用術

 ブルックの見たところ、日本人は士官・下士官・兵ともに運用術がきわめてお粗末であった。彼等はオランダ伝習以後も日本流の好天の昼間航行という習慣を繰り返していたのだ。ブルックは、日本人が悪天候の下での航海の経験が全然ないのに冬の北太平洋に乗り出したことを知って、唖然とした。悪天候の下では、日本人乗組員は、帆を展げることは勿論、縮めること畳むこともできない、舵手は風を見て舵を取ることができない、いわんやブレース(*転桁索)、シート(*帆脚索)の引き具合と舵取りの操作を連動させることなどできっこないのであった。出港後一週間経って、ブルックの指導でやっと、自分たちで強風下の前檣のトップ・スルが畳めたのであった。この時点ではまだ縮帆はできなかった。咸臨丸はこの航海で二回大嵐に遭っているが、荒天航行の経験がなかったから、滑り止めにデッキに撒く砂を積んでいなかったのは、危険極まりないことであった。落水者が出なかったのは偶然にすぎない。

 そのうえ部署が決まっていないのであるから、誰かがやるだろうということで、針路を変えるとき「オール・ハンズ・オン・デッキ (*All hands on deck:総員上甲板) 」の号令を下しても、士官も水夫もデッキに出てこない。日頃は温厚なブルックもさずがにこの時は怒って、自分の部下に「日本人がデッキに出てこない限り、咸臨丸をやりっ放しておけ」と命令した。日本人乗組員は完全に少数の米人に咸臨丸を任せきりにしていたのである。

・・・(**前掲書133~136頁)

 この他にも、上記のペルス・ライケンの指摘にもあった船内での火気取扱いの問題や、オランダ語の号令がわかる水夫は一部だけであったことなどが、ブルックにも指摘されています。これらのことは、江戸時代の炭火と火鉢・七輪しか用いない調理の生活習慣などもありますが、やはり西洋式ライフスタイルとシーマンシップを伴う海軍生活と、艦上勤務の実態をまだよく習得できていなかったことが根本原因です。その一方で現代にも通じる、日本人のメンタリティーも浮かびあがってくるように感じられます。まさに西洋文明の衝撃を、真っ先に受けたのが幕府海軍であったのです。