まず始めに、少し前回のおさらいをしますと、時は幕末、嘉永6年(1853年)6月に浦賀沖に現れた、アメリカ海軍の蒸気機関を備えた二隻を含む四隻の黒船艦隊により「泰平の眠り」から目覚めさせられた江戸幕府は、直ちに近代的海軍を創設・保有することを決め、急遽オランダに軍艦二隻を発注しました。これに関連して長崎に寄港したオランダ海軍の外輪蒸気軍艦が、オランダ国王陛下から将軍徳川家定に贈呈されて「観光丸」と命名、これを初代練習艦として、安政2年(1855年)には長崎海軍伝習所が開設されます。

   そしてオランダ海軍の教官団を迎え、永井玄蕃頭(岩之丞、のち尚志)が伝習諸取締となり、その下で、幕府伝習生となった矢田堀鴻(景蔵)、勝海舟(麟太郎)ら幕臣39名と、薩摩や長州、佐賀、筑前などの各藩から派遣された128名の計167名が長崎に赴任・集合し、近代的な海軍伝習の修業を開始しました。

 安政4年(1857年)3月に、第一期生の大半は、永井玄蕃頭以下、矢田堀鴻を艦長格として観光丸に乗艦して江戸に帰府し、新たに築地に創設された軍艦教授所(のち軍艦操練所)に移り、そこで教官・教員となって幕府自身による海軍教育を開始します。その一方で、長崎でのオランダ海軍による教育の引継ぎ役を命じられた勝海舟を頭に、他4名の一期生と、安政3年に加わった榎本武揚ら第二期生11名、そして安政4年の新入生徒26名の第三期生は、交代して新着した第二次オランダ海軍教官団に、引き続き海軍伝習教育を受けます。

   勝海舟は、上述したオランダに幕府が発注して、安政4年(1857年)8月に長崎に到着した咸臨丸を、二代目の練習艦として用い、さらに咸臨丸の江戸回航後は、同じくオランダに発注して翌安政5年(1858年)8月に長崎に到着した、朝陽丸を三代目の練習艦として、これらの長崎海軍伝習を継続しました。また同安政5年(*1858年)には、長崎に来航したイギリス帆装商船「カタリナテレシアヤ号(カタリナ・テレジア号)」(蒸気機関の装備なし)を購入し「鵬翔丸」と命名、伝習生の帆走訓練に用いており、同船は同年(*1858年)5月に伊沢謹吾船長指揮で榎本武揚ら60名の伝習生が乗り組み、日本人のみで浦賀まで回航しました。

   また同安政5年(*1858年)7月にはイギリス艦隊4隻が品海(品川沖)に来航し、スクリュー式蒸気機関搭載の元英国王室ヨット「ストームヤクト・エンピロル号」(*Steam yacht Emperor号)を、当時のヴィクトリア女王から将軍家に献上され、幕府海軍は同号を軍艦に編入して「蟠竜丸」と命名しました。同艦は、函館湾海戦では松岡磐吉艦長の巧みな指揮の下奮戦して、新政府海軍に転じていた軍艦朝陽丸の火薬庫に砲弾を命中させ、これを轟沈しました。しかしその後弾薬が尽き、松岡艦長は蟠竜丸を浅瀬に乗り上げさせ、乗組員は総員陸戦隊となって戦い、艦長以下生存者はのちに降伏後収監され、松岡艦長は獄中で病死しました。幕府海軍ではこの松岡磐吉艦長と、宮古湾海戦で単艦突入して奮戦した回天の甲賀源吾艦長(艦上で戦死)が、優れた海上指揮官とされています。回天と戦った薩摩藩軍艦春日丸に三等砲術士官として乗り組んでいた東郷平八郎提督(のちの連合艦隊司令長官)は後年、敵ながら甲賀源吾は勇敢な偉い男だったと、評価していたといいます。

   話を少し戻しますと、幕府では多大な財政負担から、海軍教育は江戸の軍艦操練所に一本化されることになり、安政6年(1859年)3月に長崎海軍伝習所は閉鎖され、5年間に亙る長崎海軍伝習は終了しました。

   それではこの辺りの続きを、前回取り上げた中島武海軍少佐著「幕末の海軍物語**」1938年刊行・2023年復刻版(経営科学出版)から読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・安政六年(*1859年)一月五日、勝麟太郎(*海舟)は朝陽艦(*幕府軍艦、591英トン、全長約49m、幅約7m、100馬力、大砲12門)に乗って長崎を出港し、四月十五日、江戸湾(*東京湾)に入って帰府した。

   (*1859年)一月二十日には

   「今後、御国総印は白地に日の丸の旗を舮綱(*ともづな)へ引き上げ、帆は白布を用い、公儀の軍艦は中黒の細旗を中マストに引き上げる」と伝えられた。

 安政六年(*1859年)二月、政府(*幕府)より長崎における(*海軍)伝習中止の命令あり、同月新教師(*第二次オランダ海軍教官団)は長崎を去って帰途に着いた。この際、礼物は旧教師(*第一次教官団)に準じて贈られた。伝習のために建造したカッター船は長崎鎮台の管轄に所属することとなった。

 長崎における(*海軍)伝習開始以来、五年間で伝習はすべて終わりを告げ、新生徒は皆陸路で江戸に帰った。終わりを完うしたのは木村図書守(*芥舟)だった。

 この長崎における海軍伝習に関連してできたのが、飽之浦製鉄所(*現・三菱重工業長崎造船所)だった。それは伝習開始の年(*安政2年/1855年)、永井玄蕃頭(*岩之丞、のち尚志)が「蒸気機械の取り換えや手入れ等に必要な品がなくては、損傷等ができた時の問題となる」と言うので、政府(*幕府)に上申して、これらの諸道具類をオランダに発注したが、安政四年(*1857年)になって、諸工師(*技師)も来着し、諸品(*部品・部材など)も持って来たので、稲佐郷飽之浦に製鉄所を設けることになり、同年(*1857年)十月に起工し、工事はオランダの機関方士官ハルデスが主としてこれを担任し、文久元年(*1861年)四月に竣工したのだった。

 文久三年(*1863年)八月六日

   「軍艦は御国印の白地日の丸の他、白地中黒の旗を常に大マストに掲げるものとする」と伝えられた。(*後略)

・・・(**前掲書86~90頁より部分抜粋)

   尚、この国旗については、そもそも上述した観光丸(旧蘭軍艦スームビング号)を贈呈される際、安政2年(1855年)7月に、来日していたオランダ海軍軍艦へデー号のグフアビュス艦長より、次のようにアドバイスされたといいます。

・・・「スームビング(*のちの観光丸)で練習した者を、今後来着する艦(*咸臨丸・朝陽丸)に乗せて日本海軍の基とするため、とりあえず乗り組みの者を命じて置くことが必要である。それからもう一つ申し上げておくことは、世界の諸国には国旗があって、国民がこれを尊敬していることである。船に旗章がないか、または不分明な時は、海賊(*船)と間違えられて奪取されるおそれがある。ことに軍艦は旗を掲げるもので、艦尾の旗は国旗と称し、いずれの国に属しているかを示す。その他にマストの一本に長旒(*ちょうりゅう)または将旗を掲げる。もし日本に国旗がなければ、旗章を作ることが肝要である」と国旗制定の必要を述べた。・・・(*前掲書65頁より)


 以上の記述からも、二百年に亙る鎖国を諦め、その代わりに海防の要となる近代海軍の創設に取り組んだ江戸幕府は、オランダから導入した最初の幕府海軍軍艦「観光丸」「咸臨丸」「朝陽丸」の三隻と、上述した帆装運送船「鵬翔丸」、そして大英帝国ヴィクトリア女王陛下から贈呈された蒸気機関搭載元王室ヨット、軍艦「蟠竜丸」など、ご公儀の軍艦・海軍運送船には、当時すでに万国公法(International law:国際法)に従って、日本国籍旗(国旗)としては「日の丸」、幕府の海軍旗としては「白地中黒旗」を掲げることとしていたことがわかります。当時も今も、海上での艦船の「国旗」掲揚は、国際法上の必須要件であり、しなくてはならない「船の法的義務」なのです。

   安政5年(1858年)に長崎海軍伝習所を二期生として修了し、江戸の軍艦操練所教授となっていた榎本武揚は、幕府が新たに発注した大型蒸気軍艦の開陽丸(2590トン・砲34門)受け取りを兼ねて、他の十名と共にオランダに留学し、帰国して幕府海軍副総裁となりましたが、当時貴重な国際法(平時と戦時の海上法規)の『万国海律全書』を持ち帰っていました。函館戦争の際、同書が戦火に失われるのを防ぐため、激戦中にも拘わらず新政府軍陸軍参謀の黒田清隆に送り届けたという逸話があります。これに対し新政府軍海軍参謀名で感謝の書状と酒肴が返送されたといいます。敵味方に分かれて死闘をするなかにあっても、幕府軍も新政府軍も共に、これから国際社会で日本が生きてゆくためには、万国公法(国際法)が如何に重要であるかを認識していた証左です。

   わが国の「国旗」に関して言えば、いにしえより「日の丸」の起源は、諸説がありますが、例えば聖徳太子が随の煬帝に送った国書の「日出處天子…」の文言にも見られる通り、「日の本」の国という国号「日本」を飛鳥時代に命名していたことや、源平合戦の旗印に平氏は「赤地白丸」を、源氏は「白地赤丸」を用いていたこととか、九鬼水軍の日本丸の旗印が日章旗だったとか、徳川幕府の公用旗も日の丸だったとか、徳川将軍家の御船図に描かれた安宅丸の船尾にも日の丸の船印があるなどの実例があり、「日の丸」が古来わが国を表す旗印であったことは間違いありません。

   そして近世・近代の日本においても、幕府の御用船の船印として、また幕末の幕府海軍の日本国籍旗(船舶用国籍標識)として「日の丸」が使われていたのです。上記の通り、1859(安政6)年に徳川幕府は、日章旗を「御国総標」(国旗)と定めて布告し、翌年米国に派遣された幕府軍艦咸臨丸も日の丸を国旗として艦尾に掲揚し、またその幕府使節団一行がニューヨークのブロードウェイをパレードした際には、星条旗と並んで、日本の国旗としての日章旗が掲げられていました。

   それは、上述した通り、当時の国際法(万国公法)においても、船舶には国籍を示す国旗を掲揚する義務が定められていましたから、開国した幕末日本には、国旗がどうしても必要だったのです。

   そしてこの日章旗は、明治維新を経て新政府が1870(明治3)年初に制定した商船規則にて日本船の船印とされ、また同年10月には海軍御国旗としても日章旗が定められました。1899(明治32)年制定の船舶法においても日本船舶は日本の国旗を掲揚することを定めており、その国旗として日章旗が幕末・明治以降ずっと日本国籍の艦船には掲揚されてきたのです。これらの歴史的事実からも「日の丸(日章旗)」が日本の国旗として用いられてきたことは明瞭です。

   しかし筆者の経験でも、1990年代の初頭、日本国籍の客船に、文部省の初任教員の方々が研修で乗船されたチャーター航海があり、その時の船長から後年伺った話なのですが、船内プログラムの中に、船長講話があり、求められて乗船者の方々にその船長が、お話をされたのです。それまでに三十年以上世界の海を航海してきたそのベテラン船長は、外航船舶の洋上での国際的常識と国際法に触れ、もし皆さんが乗っているこの船が、船尾の旗竿に「日の丸」を掲げずに航行し、公海を航海したり、外国の領海に入ったりした場合は、通常ならば「商船の無害通航権」により、問題なく無事に航海を続けられるところが、国旗を掲揚していない場合は「国籍不明船」として取り扱われ、場合によっては、当該国の海上保安機関(日本の海上保安庁や米国の沿岸警備隊に相当する機関)ないしは、各国の海軍(殆どの国では海軍が海上の警察機関を兼ねている)の艦艇による「誰何」を受け、「停船」を命ぜられ、ボートに乗った武装要員による「臨検」を受けることもあり得るというお話をしたのです。

   しかるに、当時の日教組や日本共産党は、「反・日の丸」の立場から、日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えていました。そのため、このベテラン船長を誹謗・非難するようなことが起こったのです。即ち日教組はその船会社に抗議状を送りつけ、当該船長の罷免を要求したのです。そのためその船長はそれ以降は、この初任教員研修の航海からは外されたと言います。他の例としても、当時は学校の入学式や卒業式で国旗を掲げることや国歌を斉唱することに対し、こうした日教組や共産党による「日の丸」への抗議活動のために、自殺した高校校長まででたといいます。人命までも奪ったのです。そこで、ようやく政府は1999(平成11)年に「国旗及び国歌に関する法律」を制定し、衆議院と参議院の国会での賛成多数による可決を経て、ようやくこの不毛な議論に終止符を打ちました。

 今、行われているパリ・オリンピックでの日本選手の活躍により、金・銀・銅メダルの獲得や惜敗しても敢闘する姿が、多くの日本国民を元気づけてくれていますが、日本のみならずその国の共産党が支配する中国やベトナム、そして北朝鮮であれ、選手も応援する観客も、それぞれ自国の国旗を掲げています。日本選手が活躍した場合は、観客のフランス人など外国人でさえも、日本選手の日の丸を、応援し拍手し讃えてくれているのです。それはオリンピックに限らず、野球でもサッカーでもラグビーでも、国際大会・世界大会では当たり前の光景であって、日本国民のごく一部だけにしろ、自国の国旗である「日の丸」を蔑み、不当な扱いをするなどということ自体、「世界の非常識」であると言っても間違いありません。このような歪んだ思想が、戦後の左翼全盛の時代にわが国の教育界や学界、言論・マスコミ界に蔓延してきたことの是非を、ソ連が崩壊し、中国・北朝鮮という共産主義社会の実態がわかってきた今日、あらためて心ある日本国民は自らも含めて問い直すことが求められています。

 

   因みに各国海軍では、この国籍を示す「国旗」以外に、それぞれの海軍に伝統的な「海軍旗」乃至は「軍艦旗」(Naval Ensign)が定められています。例えば、イギリスのRoyal Navyは、White Ensignを軍艦旗とし、アメリカ海軍は、星条旗のカントン部のみを国籍旗(Union Jack)として用いています。そのほか順不同ながら、ロシア海軍の軍艦旗、ドイツ海軍の軍艦旗、中国人民解放軍海軍の軍艦旗、中華民国(台湾)海軍の国籍旗と軍艦旗、フランス海軍の軍艦旗、イタリア海軍の軍艦旗、スェーデン海軍の軍艦旗、デンマーク海軍の軍艦旗、ポーランド海軍の軍艦旗、ノルウェー海軍の軍艦旗、フィンランド海軍の軍艦旗、エストニア海軍の軍艦旗、ベルギー海軍の軍艦旗、タイ海軍の軍艦旗、サウジアラビア海軍の軍艦旗、大韓民国海軍の国籍旗、(北)朝鮮人民海軍の軍艦旗、インド海軍の軍艦旗、バングラデシュ海軍の軍艦旗、オーストラリア海軍の軍艦旗、南アフリカ海軍の軍艦旗、ウクライナ海軍の軍艦旗、ボリビア海軍の軍艦旗など、世界の各国海軍ではそれぞれ軍艦旗や国籍旗を定めて、国際慣習法に従って運用しています。

   日本の軍艦旗である「旭日旗」は、明治3年から日本で制定されて使用されてきたデザインの旗であり、歴史的には明治43(1910)年の「日韓併合」の四十年も前から使用されています。海軍でも明治22(1889)年から「軍艦旗」すなわち「国際法に基づく旗章の一部」として公式に制定され、継続的に運用されてきており、この「旭日旗」を否定されることは、日本にとっては、明治維新以降の、国としての存在や歴史を全否定されるようなものなのです。

 現在海上自衛隊で使用している旭日旗は、デザインに共通性があるとはいえ、昭和29(1954)年に、改めて当時の東京藝術大学や意匠専門の画家の意見を聴取した上で、新たに法令で海上自衛隊の自衛艦旗として制定されたものです。因みに韓国においても、2011年以前には、旭日旗を自衛艦旗として掲揚する海上自衛隊艦艇が、韓国に寄港しても何も問題にはなっていませんでした。

   しかし特に文在寅政権時代には、この自衛艦旗を否定する国際儀礼上の無礼な態度をとるなどの異常な事態がありましたが、現在の尹錫悦大統領の政権下では正常化しました。私見ですが歴史的に見て同国では、もともと帝國海軍の軍艦旗に対しての反感ではなく、帝國陸軍の象徴としての連隊旗のデザインに対する心理的反感が根底にあるのではないか、と思われます。それは特に日韓併合初期の陸軍出身総督による陸軍憲兵を用いた過酷な武断統治が遠因であると考えられます。それに加えて、戦後韓国の学校教育に於ける「反日種族主義」による、事実とはかけ離れた歴史の捏造が、多くの青少年の心を痛めさせたことに、こうした感応の原因があるようです。

 ご参考/弊ブログ記事:韓国の「異常な反日」の理由とその背景(但し、文在寅政権当時のもの)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12661338955.html

 同じく、弊ブログ記事:「戦犯国民」というラベルが意味するもの

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12661566969.html

 弊ブログのテーマ別シリーズ:日韓関係の歴史戦に関する考察(1)明治日本の地政学と甲申事変、(以下16回まで)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12650292121.html?frm=theme

   しかし、そもそも「旭日」のデザインを嫌うのであれば、結局は虚偽であった「慰安婦報道」を繰り返した、朝日新聞社の社旗も立派な旭日のデザインです。「旭日のデザイン」がナチスのような「戦犯のシンボル」だというのなら、なぜ「朝日新聞の社旗」に対しては何らの非難も抗議もしないのでしょうか。また古くから日本各地の漁船が掲げている「大漁旗」にも同様の旭日のデザインが多数用いられています。

   他国にも公用または商業利用されている「旭日のデザイン」は、日本のみならず世界各国にあります。例えばアメリカのアリゾナ州旗、ベネズエラのララ州旗、ベラルーシの空軍旗、ロシア空軍旗、チベット国旗、北マケドニア共和国の国旗などです。これらの国々に対しても、一部の過激な韓国人は「旭日のデザイン」を変更せよと迫るのでしょうか。もしそうなら、国際的な常識を無視した、全く常軌を逸する主張です。であるからこそ、アニメの「鬼滅の刃」に出てくるイアリングのデザインにまで文句をつけるのです。これなどは「デザイン・意匠」という「表現の自由」を弾圧・圧殺する行為とも言えるのです。

 ただ、こうした日韓関係の歴史と現状認識はよく踏まえた上で、やはり日本は、特に現在の尹錫悦大統領の政権下の韓国とは、友好的関係を促進してゆかねばならないと、わたくしは考えています。それは何より日本と日本国民のためでもあるのです。韓国及び韓国国民との関係正常化は、どうしても取り組まねばならない現代日本の課題であり、責務であることには変わりはないのです。

 ご参考記事:高度な平凡性から見る韓国疲れ(Korea Fatigue)(但し、文在寅政権当時の記事)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12443985437.html

 

 さて、話を幕末の幕府海軍に戻しますと、前回ご紹介したように、万延元年(1860年)の遣米使節団の護衛として、木村芥舟軍艦奉行(司令官格)、勝海舟教授方頭取(艦長格)の指揮の下96名の乗組員により、幕府軍艦「咸臨丸」(625英トン、全長約49m、幅約9m、100馬力、大砲12門)は、太平洋横断往復航海を実施しました。そしてサンフランシスコ港到着後、荒天の続いた航海中に船体各所を損傷していたため、同艦は郊外にあるメア・アイランド米海軍造船所の浮ドックに入渠し修理を受けました。その際のことを、前掲の中島武海軍少佐著「幕末の海軍物語**」から読んでみます。(*裕鴻補説・註記)

・・・咸臨は日本を出る前に余日がなく(*幕閣命令で派遣艦が急遽「観光丸」から変更されたため)、昼夜兼行で(*外洋航海準備)工事を急いだために各所が速成でできが悪く、渡米の途中に怒濤に翻弄され、動揺がひどかった時に数ヶ所を破損し、鋲釘がすべて弛解した。そこで(*万延元年/1860年)三月三日、メーア・アイランド(*Mare Island Naval Shipyard)の浮きドックに入れて修理をすることになった。そして同島で総督館舎(*ママ)の隣で空いていた士官の住宅を借り受け、乗組員の旅館とし、四日に上陸してここに入った。

 咸臨艦修理の監督にあたったのが、マッキヅーカルという甲比丹(*Captain:海軍大佐)であったが、非常に熱心親切で大抵日の出から(*作業を)始め、日没に終わり、晴雨ともに怠りなく、一索一板を改造するのにも必ず勝(*海舟艦長)に告げ、詳(*つまび)らかにその利害得失を論ずるのだった。

 ある日勝(*艦長)が彼に向かって

 「もし貴方が悪いと思う所があったならば、私に話さず独断で改造して下さい。この艦がこのように破損し、貴方方の御配慮に預かるのは、もともと私共が学問(*造船工学)や技術に乏しく通常の処置がうまくできず、また修理も堅実ではないためで誠にお恥ずかしい次第です」と言った。

 「いや、そうではありません。もし(*外)洋中において不時の暴風が起こり、帆を縮め、索(*ロープ)を伸ばしてその危険を避ける時、平素一索一板といえども、その利害はどうか、その力はよく堪えるか否かを考究しておかなければ、いくら焦慮しても駄目です。また指揮官たるものが、これらのことを詳(*つまび)らかにせず、指揮が停滞し、機を失する時は、非常に危険で、たちまち覆没(*転覆沈没)してしまいます。ゆえに一船の諸部が堅実で、帆や索具がよく烈風に堪えるかどうかを明らかにし、少しも懸念する所がないのでなければ、大洋千里を航行することはできません。私はこれを心配するから、小さなことでも他人には話さず、必ずあなた(*艦長・指揮官)に告げて、その遺念がないかどうかをお伺いするだけです。こうしなければ私が安心できないのです。どうかそのつもりで聞いて下さい」

 勝(*艦長)はこれを聞いて(なるほど、もっともだ! )と深くその言葉が的を射ていると感心した。

・・・(**前掲書103~104頁)

 アメリカ海軍のこのCaptainの言葉からは、いろんな意味を読み取ることができます。艦側と造船所側という用兵・運用者側と修理・製造の技術者側との関係を示唆するとともに、そもそも艦長・指揮官の責務や掌握しておかねばならない実務的領域と範囲が、示されています。日本型組織のトップは、名目的とまでは言わないにせよ、細部の実務は実務担当者に任せ、まして技術的事項は専門職たる技術者/技師などに委ね、極めて大枠の統裁事項だけの決裁者としての機能を果たせばよいというような、日本的組織文化が、すでにこの幕末日本の江戸幕府でも確立していたのではないかと考えられます。

   しかし軍隊、特に海軍の指揮官はそうはゆかないのです。艦長(*船長)は危険な箇所、例えば狭水道の通航時や入出港時は、艦長自らが操艦(*操船)の指揮を執ることになっています。航空機でも緊急事態や離着陸時の操縦は、大型軍用機などで機長が操縦士でない場合を除き、機長自らが舵を握るのです。

 フネの場合は小型船を除き、艦長(*船長)が自ら舵を握るわけではありませんが、操舵命令や機関出力(*速力や前進/後進)の指示命令は、艦長(*船長)自らが出すのです。従って、江戸時代の殿様のように「良きに計らえ」と言えば、あとは全て部下が上手くやってくれるわけではないのです。従って、艦長や当直士官は、その実務の詳細も把握して、航海中や入出港の作業を直接指揮できなければなりませんし、商船とは異なり、さらに戦闘時の戦闘指揮をも執らねばならないのです。

 私自身は、十二年間の外航船舶での海上勤務以外に、東京湾の海上工事関係の仕事で、小型船の船長兼機関長として、八年間実際に舵を握り、機関整備や小修理をしながら海上で仕事をしてきましたから、このあたりのことは、実感としてもよく理解できます。そして尾道の海技専門学院で泊まり込みの寮教育を数ヶ月受け、広島で海技試験を受けて大型船の海技免状も取得しましたので、ある程度の航海術、運用術など船乗りとしての基礎も習得しています。従って、「モノづくり」とはまた異なった、「運用技術」というものの重要性も感得しています。船乗りは、まさにこの意味での「Operator (運用技術者・操船技術者)」でもあるのです。

 因みにナポレオンは、直接自身で命令書を書くか、少なくとも命令を口述して書記に書き取らせて、全軍の主要指揮官に命令・指示を出していたといいますが、これが欧米流のトップダウン構造のいわば元型(*Archetypus: by Carl Gustav Jung)です。しかし、日本型の組織的体制は、いわゆるボトムアップ式の意志決定構造であり、例えば民間会社であれば、中堅の俊秀なる担当者が先ず「起案」をして、「事務局」として担当課から関連部署に合議や協議を諮り、関連部門の同意を得て、ラインの担当課長から次長(副部長)、部長、担当役員、役員会議へと上程して行き、その会社組織の機関決定を行うというスタイルです。

 旧陸海軍でも、基本的には同様であり、担当者から「起案」をして上程してゆくスタイルでした。つまりはボトムアップ乃至はミドルアップとも言うべき、組織的意志決定構造です。こうしたボトムアップ組織のトップは、自らが詳細を把握して、直接判断したり指揮統制したりする役割ではなく、下から上がってきた起案を最後に綜合的に勘案して決裁を与える、いわば「天皇機関説的存在」です。あくまで最終段階の「決裁機関」としての機能と役割を担う存在なのです。

 それぞれに良さも悪さもあるため、一概にどちらが良いと言うことはできませんが、求められる機能と役割が異なるため、欧米型のトップダウンのリーダー像と、日本型のボトムアップのトップ像には、相当な乖離があるのです。

 しかし艦船や航空機の運航や戦闘に於いては、いちいち針路の変更を決定するために会議をして合議しているヒマはありません。勿論、艦長は、航海長や機関長、砲術長や水雷長などの部下に、必要な情報・情況の確認を行ったり、短く意見を聞いたりする場合もありますが、基本的には、自ら最終的な判断を下し、命令します。特に荒天時や狭水道通航時、まして軍艦の戦闘時には、悠長に意見を徴する時間的余裕もなく、ごく短時間ないしは瞬時にして、決断を下さなければならない場面も多いのです。そのためには、上記の米海軍大佐の言葉ではありませんが、艦長・海上指揮官は、あらゆることに精通し、理解を深め、自らが誤りなく適切・的確なる判断を下せるように、日頃から修練と準備をしておく必要があるのです。その命令によっては、何百名何千名もの部下が死傷することも起こり得るからです。

 戦後の日本では、このような厳しい情況下で、自らが直接しっかりとした指揮を執れるトップを、育てる組織や実力機関は、数少ないのです。この意味では、陸・海・空自衛隊、海上保安庁、警察、消防などの実力現場部隊を有する組織では、こうした指揮官の育成教育・訓練がなされているわけですが、その原点の一つは、まさに幕末の幕府海軍にあった、と言うことができるのではなかろうか、とわたくしは考えているのです。(次回につづく)