本シリーズで、ここのところ「企画院事件」を通して見てきたのは、当時の「転向者(隠れ共産主義者)」たちが、「天皇制護持」は誓約しつつも、政府・公官庁・民間調査機関/研究所などにおいて、「國防國家確立」のための諸国策要綱を策案していたことです。その各要綱が示す国家像は、結果的には天頂に天皇陛下を戴くことを除けば、実はソ連型社会主義国家体制に極めて近似した政治経済体制であったのです。つまり国家機構体制としては、先に実質的な社会主義国家化を進めておいて、敗戦革命などのタイミングで天皇制を廃止し、共和政体に移行させ、さらに時機をみてプロレタリア革命による共産化(日本人民共和国)を図るという遠大な構想があったことが、尾崎秀實や企画院事件で検挙された人々が供述した内容を綜合すると、浮かび上がってくるのです。

   特に日華事変が長引き、かつ広大な中国大陸に、総計百万もの陸軍兵力を投入していった過程で、その膨大な軍需物資の供給難や、陸軍兵力大規模動員に伴う国内若年男子労働力の減少による生産力の停滞懸念、及び巨額の戦費捻出のための財政金融対策などに緊急対応するため、陸軍中央は昭和初期から永田鉄山将軍が構想していた総力戦に対応する「国家総動員体制」の確立を目指しました。それは、二・二六事件により皇道派を一掃したあと、陸軍中央中枢を掌握した統制派の将官と中央幕僚たちが主軸となって推進したわけです。

 その統制派が目指した「高度国防国家の完成」のために、策案・樹立された各国策要綱及び政治新体制を列記してみます。(*出典:『國防國家の綱領』企画院研究会著、昭和16年11月17日第一版発行、新紀元社刊)

 (1) 基本国策要綱:昭和15年(1940年)8月1日閣議決定

 (2) 大政翼賛会結成:昭和15年10月12日於第二次近衛内閣

 (3) 経済新体制確立要綱:昭和15年12月7日閣議決定

 (4) 財政金融基本方策要綱:昭和16年7月11日閣議決定

 (5) 日満支経済建設要綱:昭和15年10月2日閣議決定

 (6) 国土計画設定要綱:昭和15年9月24日閣議決定

 (7) 科学技術新体制確立要綱:昭和16年5月27日閣議決定

 (8) 勤労新体制確立要綱:昭和15年11月8日閣議決定

 (9) 人口政策確立要綱:昭和16年1月22日閣議決定

 (10)戦時貿易対策に関する閣議決定要綱:昭和15年7月2日閣議決定

 (11)交通政策要綱:昭和16年2月14日閣議決定

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 これを見ると殆どが第二次近衛内閣(昭和15年7月22日~昭和16年7月18日)に於いて、矢継ぎ早に閣議決定されていることがわかります。同内閣では、東條英機陸軍大臣と星野直樹企画院総裁のコンビで、こうした「高度国防国家」完成に向けた諸国策を精力的かつ一気呵成に策定・樹立して行ったわけです。この諸国策は、主に企画院の「転向者」が主体となって策案したものであったのです。

   また彼らと組んで、この国家統制体制を推進していた東條英機陸相麾下、武藤章陸軍省軍務局長、佐藤賢了軍務課長(のち軍務局長)、田中新一参謀本部作戦部長などの陸軍「統制派」出身中央幕僚らは、もとより決して共産主義者ではありません。そもそも天皇制を否定する帝國陸軍将校など、存在するはずはないのです。しかし、陸軍統制派は「天皇制」はあくまで護持した上で「強度の国家統制」による「高度国防国家の完成」を、強く推進していました。そしてそのために、大政翼賛会による「一国一党」の統制的政治体制や、この企画院策定の「経済新体制確立要綱」に基づく主に軍需物資の安定供給と生産力増強を必要としていたのです。この意味では、構造機能的に近似な「社会主義的計画経済」を骨子とする「統制経済体制」による「国家総動員体制」の確立を強く希求していたのです。

 それではここからは、この陸軍統制派の考え方を見てみたいと思います。永田鉄山陸軍省軍務局長のもと、鈴木貞一陸軍省新聞班長と後任の根本博班長が検討して、昭和9年(1934年)10月に発表された『陸軍パンフレット(国防の本義と其強化の提唱)』の原案を作成したのは、当時陸軍から派遣学生として東京帝大で学んでいた池田純久陸軍歩兵少佐(経済学部)と四方諒二陸軍憲兵少佐(法学部)でした。

   この池田少佐(陸士28期、陸大36期)は、その後陸軍中央中枢の陸軍省軍務局軍事課勤務を経て欧米に出張し、昭和12年(1937年)9月には内閣資源局企画部第一課長に出向、そのまま組織改正で10月に企画院調査官(当時中佐)となり、国家総動員体制確立などに尽力しました。その後大佐進級に伴い歩兵45連隊長として日華事変に出征し、のち奉天特務機関長、さらに少将に進級して関東軍参謀・同参謀副長を歴任ののち、陸軍中将として終戦時の内閣綜合計画局長官を務め、最後の御前会議にも参列しました。

 陸軍統制派の理論的主軸を担ったといわれるこの池田純久陸軍中将の戦後著作『日本の曲り角**』(1968年千城出版刊)から、統制派の考え方を探りつつ、企画院官僚(共産主義転向者)や革新を希求した青年将校らとの関わりについても、拾遺してみたいと思います。(*裕鴻註記、漢数字を含む一部表記等修正)

・・・昭和の初めごろの世相は、まったく険悪そのものであった。第一次大戦を契機として、日本の資本主義は急速に発達し、それに伴って国力も大いに伸張したが、その反面、資本主義の弊害もまた遺憾なく露呈してきた。(*中略) 

   ことに昭和5年(*1930年)の未曾有の大豊作は、かえって米価の大暴落(大正6年以来の安値)をもたらし、いわゆる“豊作飢饉”を招来する一方、輸出の大宗であった生糸は、昭和4年(1929年)のニューヨーク株式大暴落に端を発する“世界恐慌”のあおりを食らって、アメリカの購買力が激減し、その価格もまた大暴落(明治29年以来の安値)をきたした。(*中略) 時の政府は、これに対する的確十分な施策に乏しく、また社会施設も見るべきものがなく、農民たちは、ただただ苦境に喘ぐのほかなかったのである。

 おまけに政党政治は腐敗堕落し、政商の暗躍とともに資本家の利益を肥やす途は図っても、窮境に立たされた農漁村に対しては一顧だに与えないという実情であった。(*中略) これらの農村の疲弊、中間階級の貧窮、政財界の醜状などは、共産主義にとっては、もってこいの温床となった。恐るべき勢いで青年層は“赤”に染まって行った。ことに優秀な学生生徒にその傾向が強かった。巷の書店は赤い書籍で書架を埋め、このままでは日本は国を挙げて共産主義に埋没するのではなかろうかとさえ思われた。政府累次の共産党弾圧(当時は共産党は公然と認められておらず、治安維持法と刑法の「不敬罪」とによって国体の変革を未然に防いでいたのである)を試みたが、彼らは巧みに法網をくぐって地下にもぐり、その勢力は侮りがたいものであった。

 一方目を国外に転ずれば、各国は自由主義経済の破綻から生じた“大恐慌”の対応策として、各国ごとのブロック経済へと変貌したため、海外にブロック地域(*つまり独自経済圏)を持たなかった日本の海外貿易は、至る所で締め出しを食らい手の施しようもなかった。まさに文字どおり、“八方ふさがり” “泣きっつらに蜂”のありさまであった。特に隣邦支那(*中国)における排日排貨運動は、日増しに熾烈をきわめ、われわれの祖先が(*日清・日露戦争で)血であがなった諸種の権益すら、まさに大陸からたたき出されんとするような累卵の危に立たされたのであった。

 この突如として日本全土を襲った内憂外患に、心ある人士は心胆を砕き、正しく強い政治の出現を待望する声がようやく高まって来たが、一方それに便乗する矯激な右翼テロ団も続出し、直接行動に訴えて政財界を粛正しようと企て、昭和5年(*1930年)11月14日、浜口首相(*濱口雄幸)を東京駅頭に狙撃した愛国社、井上準之助、団琢磨らを射殺した血盟団などの右翼団体によって、ひそかに要人暗殺が計画され、物情騒然たる険悪な世相を現出することとなった。

 このような国家危局の情勢が、軍隊に影響を与えないわけがない。血の気の多い青年将校たちにとって、この世情は悲憤慷慨以外のなにものでもありえなかった。軍人の政治干与はきついご法度である(*軍人勅諭に反する)ことは知りつつも、明治維新の志士にならって、自分たちが一身を挺して国家革新の事に邁進しなければこの危局は救いえないものと信じだした。ここに皇道派誕生のじゅうぶんな要因があったわけである。ことに日本の将校たちは、英国その他欧州諸国のそれのように貴族出身でもなければ、特権階級の出でもない。泥臭い地方農村の出身が多いことから、農民の窮状はわが事のように目に映じ、飢餓線上をさまよう小作農民の悲惨な生活、中小企業者の転落・倒産、部下の兵士の身寄りの子女が製糸工場へ年季奉公に出されたり、あるいは売春婦として“人肉の市”に売られてゆく可憐な話を聞かされては、彼らは胸を裂かれる思いがするのだった。青年将校の中には、もはや矢もたてもたまらなくなり、日曜や休日には軍服をかなぐり捨てて農家に出向き、農耕の手伝いをする者さえ出るなど、悲壮な美談も少なくなかった。そうした彼らが政治の改革を叫び、ついには政治運動に没入するに至ったのは、やむにやまれぬ彼らの至情から出たものであった。

 それに目をつけて、将校たちの激情を扇動しこれを利用せんとしたものが右翼職業革命家たちである。その代表的人物に、北一輝、大川周明、西田税などがあり、革命思想をかき立てたものとして、愛郷塾頭橘孝三郎の愛郷精神による唯物観念と資本主義の排撃、その流れを汲んだ井上日召の日本精神を指導原理とする革命思想と一殺多生の血盟団テロによる直接行動がある。(*中略)

 政治の衝に当たるもの、前車の轍を踏まないよう大いに反省して、正しい政治の確立に邁進しなければ、再び過去の険悪な世相を生み出すに至ることは火を見るよりも明らかである。「歴史はくり返す」とは真理であると思う。

 さて当時北一輝の執筆に係る『日本改造法案大綱』はあたかも“革命のバイブル”であるかのように青年将校たちから愛読されたから、その感化力、影響力はすこぶる大きかった。この書は北一輝が支那から帰朝する前に上海あたりで執筆したもので、支那革命(*辛亥革命)の経験から、革命の最短コースは軍事革命(*クーデター)であるという教訓が基調となっているが、革命の実行過程に、在郷軍人(*予備役OB)を使ったり、植民地解放の戦争を正当化し、これを謳歌している点が血気の青年将校たちの共感を呼んだものであろう。そのうえ天皇を中心とする革命を標榜し“錦旗革命”を旗幟としたので、天皇中心の精神に徹している青年将校たちを魅了するにじゅうぶんであったろう。

   かくして軍部内に革命思想が生まれて来ると同時に、当然これを実行に移す段階が来るわけである。三月事件、十月事件のごときクーデターの未遂事件が勃発し、ついに海軍士官と陸軍士官学校生徒および農民との合作による四十数名から成るクーデターが起こった。五・一五事件がそれである。これは軍人が主体となったものではあるが、軍隊としては参加したものではない。軍人有志だけの行動(*個人行動)である。この点がのちに起こった、二・二六事件で軍隊の組織を動員したの(*組織行動)とは、本質的に違っていると見なければならない。

 さてここで彼らの抱懐する革命思想がいかなるものであるかに触れなければならない。一言にしていえば、資本主義の止揚であり、国家社会主義の建設である。そして多かれ少なかれ、その建設理論や社会分析には、マルキシズムの影響をこうむっていた。余剰価値説や歴史形而上学の臭味が鼻につく。口に共産主義を排撃しつつ、あるいは“錦旗革命”を唱えながら、道は知らず知らずのうちに“赤”に通じていたともいえよう。もちろん彼ら(*青年将校)は、意識的には社会主義とか“赤”とかはきらっていたが、社会科学思想に対する研究や経験の乏しさから、そういう逆の結果に陥ったのである。

 もっとも彼ら(*青年将校)の思想は、左翼論者の唱えるように、階級闘争によって特定階級だけの利益を戦い取ろうとするのでもなく、労働者(*プロレタリア)独裁のごときは真っ向から反対し、また共産主義のごとく私有財産を否定しようとするものでもなかった。

 そして青年将校たちの期待する天皇制とは、明治以来生じた醜悪な元老、重臣、政党、軍閥、財閥などに囲繞されるものでなく、彼らの牙城をくつがえして、一君万民の社会主義天皇制を念願したのである。したがって軍に成長した革命思想は、右とも左ともつかぬ日本独特の形態であって、それゆえにこそ素朴・単純のそしりは免れなかった。

 したがって、右翼革命家たちが青年将校に接近するばかりではなく、左翼革命家たちも青年将校に食指を動かし、手づるを求めて接近しようと試みていた。大衆党党首麻生久や社会民主党の幹部たちも、しばしば将校に接近していたのである。麻生久は私(*池田純久氏)と同郷のよしみもあって、時々懇談するの機会があった。彼は、「軍は資本家の走狗だとか、財閥の番人だとかいう公式論的批判は、日本の軍には当てはまらない。日本の軍はなかなか進歩的だ」と言って感服していた。そして彼は(*陸)軍の統制派や皇道派の派閥闘争を評して、「派閥闘争は軍だけではない。われわれの左翼運動にも同様の現象が起こり悩まされてきたものだ。派閥闘争というものは、決して内部でいかに努力しても解消するものではない。外部的圧力とかなんらかのショックによってはじめて解消するものだ。(*後略)」と予言めいたことを言っていた。

 はたして彼の予言のとおり、昭和8年7月の神兵隊事件、同9年11月の十一月事件(*士官学校事件)、同10年8月の永田軍務局長斬殺事件、それらに引きつづいて起こった二・二六事件という一大ショックによって、(*陸)軍部内の派閥(*皇道派)がようやく一掃されて、軍ははじめて大同団結の道を、たどることができるようになったのである。(*つまりは統制派が陸軍中央中枢を掌握した。)

・・・(**前掲書3~8頁より抜粋)

 このようにして、昭和初期の経済不況からくる社会不安が、純粋単純かつ激情的な青年将校たちを、“錦旗革命”を旗幟とした「一君万民の社会主義天皇制(天皇制国家社会主義)」に向かわせたことがわかります。但し、彼らが五・一五事件や二・二六事件で襲撃・惨殺・重傷を負わせた人々は、決して「明治以来生じた醜悪な元老、重臣」などではなく、昭和天皇をはじめ宮中・政府・海軍関係者等には受容し難い「凶悪不忠の逆心」行為でした。二・二六事件で実際に襲撃されたのは、海軍出身の三名、斎藤實宮内大臣(死亡)、鈴木貫太郎侍従長(重傷)、岡田啓介首相(生存)と、日本銀行出身の高橋是清蔵相(死亡)、そして陸軍出身の渡邉錠太郎教育総監(死亡)と松尾伝蔵首相秘書(死亡)ほか、護衛の警察官5名殉職・1名重傷といった人々であり、上記に言うような、右翼や青年将校が思い込んでいた「陛下の聖明を覆い奉る君側の奸臣」などではなく、昭和天皇が信頼し頼りとされていた、側近の老成した忠臣たちであったのです。陛下は、本庄繁侍従武官長(*陸軍大将)をお召しになったとき、「自分が最も依頼している老臣をみな倒してしまうのは、真綿で自分の首を締めるのに等しい行為である」と仰せられた、といいます。

 当時、昭和天皇ご自身のお考えは、侍従武官長(*陸軍出身)、陸軍大臣、参謀総長、教育総監など陸軍首脳には、その時々に漏れ伝えられていたのですが、これらの陸軍首脳が歴代に亙り、陸軍部内、特に青年将校たちのレベルにまで、きちんとそれをお伝えしていなかったことにも、非常に大きな問題であったものと考えられます。もし直接陛下のご真意が伝わっていたら、これら青年将校が暴発することもなかったと思われます。しかし一方で陛下は、専制君主ではなく「立憲君主として課せられた規範(のり)」からも、ご自身のお考えを直接話されることには、明治憲法下での憲政上の困難性があり、御前会議でさえ「発言されない慣習」に阻まれていたことから考えても、こうした君臣の意思疎通に国家構造的な障害があったことも見逃せません。これは戦前日本の、国家の制度設計上の問題点であったとも考えられるのです。

 さて、一般には、陸軍は図式的に「皇道派」対「統制派」という対立軸だけで捉えられていますが、実は、「陸大優等卒業エリート中枢将校」対「陸大不進学(含む未入学)の隊附将校」という対立軸もありました。陸軍大学校には、陸軍士官学校卒業者の約1割しか進学できず、残る9割の陸軍将校は、隊附勤務という、言わば現場部隊で一生を過ごすことになります。

   陸大卒の将校は、主に中央官衙(陸軍省・参謀本部・教育総監部)での勤務と、部隊勤務を交互に経験しながら、陸軍将官に累進してゆくエリート・コースに進むわけです。しかも陸大を優等(恩賜)で卒業した者(5位か6位まで)とそれに続く成績の大体計10名から人数の多いクラスで15名位までの成績上位者は欧米などに留学し、その後上述の通り中央官衙でもさらに中枢部門(陸軍省軍務局や参謀本部作戦部など)での勤務に就くことになるのです。

   その陸大の受験資格者は、陸軍現役兵科将校(除く憲兵将校)のうち、陸士を卒業して少尉任官後、隊附勤務(部隊勤務)を二年以上経験した中尉と少尉で、かつ所属長(連隊長等)の推薦を受けた者とされていました。そして大尉に進級すると受験資格を失いました。いくら陸士の卒業成績が優秀であっても、中には出世など眼中にない者や、中央官衙の勤務を好まない将校もいたでしょうが、一般的には入れるものなら、陸大に進学したいというのが普通の考えであったと思われます。しかしいくら頑張っても厳しい入学試験で振るい落とされるのですから、残る90%の陸軍将校は陸大に進学することなく、隊附勤務に粛々と就いていたわけです。

   統制派と呼ばれる人々は、基本的に陸大を優秀な成績で卒業したエリート将校が主体です。つまり陸士出身者の1割の陸大進学者のさらに上位1割が優等ですから、全体では上位1%の少数エリート将校です。これに対して、皇道派と呼ばれる人々も同じく陸大卒のエリート将校が主体ではあるものの、上記のような中央幕僚の秀才グループというよりは、荒木貞夫陸軍大臣と真崎甚三郎参謀次長(のち教育総監)の二人の将軍を中心にした人脈に連なっており、「天皇護持の意味で反共産主義」であるため「対ソ戦重視」の傾向や、従来の国軍を「皇軍」と称して「国体明徴」を訴求し、「天皇機関説排撃」を行って「天皇親政」を謳う、国粋主義的かつ排外的な精神主義的思潮を持っていました。

   二・二六事件を起こした青年将校たちは、厳密にはこの「皇道派」というよりは、荒木将軍や真崎将軍に期待を寄せてはいたものの、むしろ上記の「陸大不進学(含む未入学)の隊附将校」の中で、上記の池田純久中将の解説による“錦旗革命”を旗幟とした青年将校たちだったのです。指揮官級の大尉クラスは、既に陸大受験資格を失っていますから、陸大卒ではありません。唯一の例外は、村中孝次大尉は昭和7年12月に陸大に入学したものの、陸軍士官学校事件(クーデター未遂事件)で検挙されたため、昭和9年11月に退校処分になって拘禁され、一旦停職処分となった後、さらに『粛軍に関する意見書』を出したため、ついに昭和10年8月に免官処分となっています。そして民間人として昭和11年の二・二六事件に参加したのです。(昭和12年8月銃殺刑)

 一方でこれに先立ち、池田純久少佐(*当時陸軍省軍務局軍事課員)ら陸軍中央中枢幕僚は、昭和8年(1933年)11月、数次に亘って、九段の偕行社でこれら青年将校たちと懇談しました。その様子を前掲書**から紐解きましょう。

・・・集まったものは、(*陸)軍首脳側(*中央幕僚の意)として、清水規矩中佐、土橋勇逸中佐、武藤章中佐、影佐禎昭中佐、池田純久少佐、田中清少佐、片倉衷少佐であった。青年将校側としては、大蔵大尉、常岡大尉、柴大尉、寺尾大尉、目黒大尉、村中大尉、磯部主計(*大尉相当)が列席した。

 懇談会では、いろいろ議論も出たが、両者はただ平行線をたどるだけで、ついに一致点を見いだしえなかった。われわれ(*中央幕僚)の主張する点は、

   「(*陸)軍内の横断的団結は、(*陸)軍を破壊分裂する危険があるので避けるべきだ」「国内革新は、(*陸)軍の責任において、みずから組織を動員して実行する。だから青年将校は政治策動から手を引いて(*陸)軍中央部を信頼し軍務に精励すること」「青年将校たちが荒木大将をかつぎ革新の頭首として仰ぐことは、(*陸)軍内に派閥をつくり、政党を結成するようなものだ。平素青年将校は政党を攻撃しながら、みずから政党化するのは矛盾していないか」「荒木大将はみずから国家革新の頭首となることを是認しているのか」

 これに対して、青年将校たちの所論は次のようであった。

   「(*陸)軍の組織を動員して革新に乗り出そうとするのは理想論であって、実際的ではない」「われわれ青年将校らが挺身して革新の烽火を挙げる。(*陸)軍中央部は、われわれの屍を越えて革新に進んでもらいたい」「荒木大将は、われわれの気持ちを最もよく理解している。その示教を受けるのはさしつかえないではないか。忌避する理由がわからない」

 荒木大将が革新の頭首を是認しているかどうかという、われわれの問いに対しては明確な答弁は得られなかった。さて、いよいよ懇談の最後になって、村中大尉は、「(*陸)軍中央部はわれわれの運動を弾圧するつもりか?」と念を押してきた。青年将校としては最も痛いところであろう。

   これについては、われわれ(*中央幕僚)の態度はすでに決まっている。影佐中佐が立って厳然として言い放った。「そうだ。今後(*陸)軍の方針――それは今話したとおり――に従わねば、断固として取り締まるであろうし、あくまで政治活動を望むならば、軍籍から身を退いて野に下り、自由自在に活躍するがよい。それはもちろん自由である。しかし(*陸)軍の埒内ではかってな行動は許さない」

 一瞬、険悪な空気が場内にみなぎって、せっかくの懇親会も物別れとなったが、青年将校たちの動向を知るためにはもっとも有効な会合であった。

・・・(**前掲書14~16頁より)

 こうして物別れした青年将校の一部は、この2年3ヵ月後に二・二六事件を起こすのですが、一方で中央幕僚側も、何らかの陸軍を主体とした国家革新計画を確立することになります。その模様は、次回に引き続き、検分したいと存じます。