たった一人か、仲間を入れても十数人にも満たない人間が、世論や国論を形成することは可能でしょうか。戦前日本では、旧制大学の数も、所謂知識人の数も、メディアの媒体も限られていました。ラジオはありましたが、ニュースといっても限定された情報しか流されません。テレビもまだなく、ましてやコンピュータもスマホもインターネットも何もない時代で、基本的には新聞と雑誌という紙媒体に、精々公会堂などでの演説会があったくらいです。

 そういう時代に、論壇という言論界の比重は極めて高く、各主要新聞はもとより『中央公論』『改造』『日本評論』などの雑誌は大きな役割を担っていたと言えるでしょう。前回見た通り、尾崎秀實をはじめとするオピニオン・リーダーの論文や座談会などの記事は、世論・国論の形成に、現在よりも遥かに大きな影響力を持っていたのです。

 前回は『中央公論』昭和14年(*1939年)1月号巻頭論文として掲載された、尾崎秀實の〔「東亜協同体」の理念とその成立の客観的基礎〕を取り上げましたが、今回は尾崎など当時の著名な言論人や知識人が集まった二つの座談会の記事や、当時の言論界の投稿内容を検分してみたいと存じます。前回に引き続き、三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略**―戦争と共産主義―』(昭和62(1987)年自由社刊自由選書版、初版は『戦争と共産主義』昭和25(1950)年民主制度普及會刊)より、関連する記述部分を拾遺してみたいと存じます。(*裕鴻註記、旧仮名遣いや漢数字等表記も一部補正。尚、原著の傍点部は下線部として表記。また文中の「――」は著者三田村氏による省略部分。)

・・・次に注目すべき記事は、同じ『中央公論』の(*昭和)十四年(*1939年)五月号所載の「第二次世界大戦と極東」というテーマをとりあげた座談会である。この座談会の出席者は細川嘉六、堀江邑一、尾崎秀實、平貞藏、城戸又一、丸山眞男の六名であるが、この座談会に於て、細川、堀江、尾崎、平のグループが出した意見の結論は、結局欧州大戦は起こるであろう。(*実際にこの僅か四ヶ月後の同年九月一日に勃発。) 起こった場合、日本は独、伊と提携強化して行く他はない。世界大戦が起った場合、日本が捲きこまれずにいるようなことは単なる仮説で、結局日本も参加する。又大戦が起れば米国も何れ参加するであろう。要するに戦争なしに新秩序建設の方向に行ける可能性はないというのである。

 この座談会で注目すべきことは、尾崎が東亜協同体の理論家として指摘されていることである。而もそれが、尾崎と近衛内閣の関係を詳しく承知しているはずの平貞藏の発言である。尾崎はこの平の発言に答えて、東亜協同体実現のためには、奥地の対日抗戦政府(*蔣介石重慶政権)に対抗し得る新政権(*のちの汪兆銘政権)を作りあげることだといっている。

 次に最も注目すべきことがらは、その翌月即ち、十四年六月号の『中央公論』に「新時代を戦ふ日本」と題する土肥原賢二(*当時陸軍中将、陸士16期、陸大24期)の論文が寄せられていることである。その要旨の一節に曰く、

 「今次事変(*日華事変)の聖戦の意義は、単に国家が自己の生存上の問題や、発展のためにのみ戦っているのではなくして、世界の正義と新秩序と、新文化の為に戦っておることである。

 今次事変を契機に、東亜の新秩序、東亜の協同体世界、東亜の新文化、戦争の世界史的意義等々がさかんに論議されるに至ったのはこの為である」

 「東亜協同体の理念は今次事変の血と砲煙と犠牲と死の中から吾々が得た貴重な理念である」

 「東洋は吾々の真理で支配するか、それとも吾々東洋人は、欧米デモクラシーや、ソ連のボリセビーキ(*共産党)の奴隷となるか、吾々の理想か、吾々の新文化か、彼等の旧支配か、吾々の新時代か、彼等の旧時代か、血の決意のみがこの結果に勝利する」

 「ここに吾々が今回提唱し、実践しつつある東亜協同体の政治的意義の重大性がある」といっている。

 この論文は原文のまま要点を抜萃したが、その用語と、構想は蠟山(*政道)、三木(*清)、平(*貞藏)、尾崎(*秀實)等とそっくりそのままのところがあり、どこからか借りて来たような文章であるが、当時参謀本部にいた土肥原賢二中将が公然と署名して、中央公論誌上に載せたことは注目すべき価値がある。即ち、軍閥とその幕僚の背後に何があったかを物語る有力な証拠ともいえるであろう。

・・・(**前掲書171~173頁)

 それでは引き続き、前掲書**資料篇に、『中央公論』昭和14年(*1939年)5月号の、当時の著名な知識人たちによる上記座談会「第二次世界大戦と極東」抜萃が、掲載されていますので、皆さんもぜひ、じっくり読んでみて戴きたいと存じます。(*旧仮名遣いは修正)

・・・出席者―細川嘉六、堀江邑一、城戸又一、丸山眞男、尾崎秀實、平貞藏

     世界危機下の日本の立場(本欄八四、五頁)

 尾崎:大雑把に言えば、こういう非常に大きな問題の中でですねえ、日本は将来そういう重大な時局に備えて、大きな広い観点から準備しなければならん。或いは政策上の間違いがあったら修正しなければならんという状態に在ると思うのですが……。

 平:――欧州大戦(*第一次世界大戦)前の状況と今日(*1939年5月頃)の状態とは似通ったことになっている。で、もしこれ以上国家の発展が阻止される、国家の面目が潰されることになれば国内的、国際的にも世界大戦に訴える外(*ほか)はないという情勢に近付きつつあるが、そこでそいつを最後に決定し得る力は、日本とアメリカだろうが、その点で日本の立場はデリケートであり重要でもあると思うのです。

 ――欧州大戦が始まった場合の日本の立場は色々なことから考えて考慮の余地もあると思うが、現実の日本は、矢張り独伊と提携強化して行く外なくなった。それで我々が茲(*ここ)でどうすべきかという議論をしても、それは議論の限界を一寸超えて来たという気がするんですがなあ。

     第二次世界大戦に日本はどうする?(同八八、八九頁)

 尾崎:城戸さん、さっきから何遍もお尋ねするのですが欧州大戦の危機はですねえ、ヨーロッパにお出(*いで)にになって御覧になると殊に駸々(*しんしん)として進んで行くように見えるでしょうが、その場合極東はどういう形でその中に捲き込まれるか、捲き込まれない場合があり得るか、というようなことに就いて、その見透しですねえ。

 城戸:そうですね、それは私の考えでは日本が全く捲き込まれないでいようと思えば、捲き込まれないで済むという気がするんですがねえ。

 尾崎:さっきの平氏の話と結論が違う訳ですね。

 平:――大戦になる場合は決定的に世界が二つの陣営に分かれた時だ。だから日本が大戦が起った場合に捲き込まれずに居られようかというようなことは、単なる仮説じゃないかということなんだ。

 堀江:現在支那問題(*日華事変の長期泥沼化)を控えておって、そこへ大戦の危機が迫っておるのだから、逆に大戦の勃発を待つという気分が相当多いですなあ。

 城戸:結局に於てですね。欧州に大戦が始まれば日本もきっと始めるでしょう。結果から見ればヨーロッパの戦争というものは、結局世界全体の戦争になる、これは間違いないと思いますが。

 細川:始まれば日本は無論参加するでしょう。その参加する場合にですね――国力はまだ戦争準備に費やされる余裕はあるが、今度のやつは更に大きいですからねえ。だから矢張り満を持した戦略ということが必要だろうと思うんだ。

 平:――英仏にしろ、ロシア(*ソ連)にせよ、自分が戦争をし乍ら支那(*中華民国)を助けるということはないので、そうすると日本が有利な地点に立て籠(*こも)って、反撃して来る勢力(*蔣介石の国民政府軍)を抑えるには却って非常に有利になる一面もあるのじゃないか、素人論だが……。

 細川:此方も素人論だが、ソ連、イギリス、アメリカ等の世界的な勢力の連中がジワジワ動いた日には、ヨーロッパの戦争が起れば支那(*中華民国)が武器なんかの援助を受けられんと、そう甘く見られんと思うがね。

 尾崎:まあ平氏の言われる状態になるにはもっと先のことと思うのですが、支那(*中国)の奥地の抗日政権(*蔣介石政権)と対抗し得る新政権(*のちの汪兆銘政権)が、本当に確立強化されるということになれば、あなた(平氏に)の言われる条件が出て来る。

 細川:それはその通りだ。

 尾崎:それは細川氏の言うような条件で、武器なんかを売って貰えないということは問題にならぬような反日的勢力が盛り返して来るということになるだろうと思う。そのためにはどうしても、それに対抗するものを造って置かなければならん。

 平:その時に抗日政権に対抗するだけの政権、○○○工作などよりもう一段と突っ込んだ工作をする以外にはないと考えるのですが。

  アメリカは大戦に捲き込まれるか (同九四、五頁)

 記者:ここで一寸ヨーロッパに戦争が始まった場合、アメリカは中立を守れるか、民主主義国に加担するかという問題を願います。

 平:殆んど参加は決定的じゃありませんか。

 記者:アメリカにしてもソ連にしても最初は財政的、物資の援助という形で、そいつが長引けば途中から参戦するという形になるのでしょうね。

 堀江:そうなって来ると思いますね。

 記者:結局戦争無しに新しい秩序と言うか、そっちの方に行ける可能性はないんじゃないか、これは宿命的のものですね。

 堀江:そうじゃないかと思う。

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 堀江:最後に尾崎君に総括りをやって貰いたいが、

 尾崎:無い方がいいのじゃないか。

 細川:それは容易じゃないからね。

 平:それでは(尾崎氏に)東亜協同体の理論家として相済まんじゃないか。(笑声)

 尾崎:東亜協同体と云っても、――僕の考えでは、支那(*中国)の現地に於て奥地の抗日政権(*蔣介石の重慶政権)に対抗し得る政権を造り上げること、それが一朝一夕に仲々むづかしいとするならば日本がそれを助ける方策、有効な方策を採って行く。そういう風な一種の対峙状態というものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗する面を少くして行く……曾(*かつ)て或る時代の日本が考えたような形で征服なり、解決したりするというのではなくて、そういう風な条件の中から新しい……それこそ僕等の考えてる東亜協同体――本当の意味での新秩序をその中から纏めて行くということ以外にないのじゃないか。(同九六頁)

・・・(**前掲書253~255頁)  

 もう一つ、ナチスドイツのポーランド侵攻によって欧州大戦が勃発(9月)した直後、昭和14年(1939年) 11月時点の『中央公論』臨時増刊号(世界大戦支那事変処理)から、「事変処理と欧州大戦」という座談会の記事を取り上げたいと思います。尾崎秀實は参加していませんが、共産主義者の同志西園寺公一が参加しており、やはり当時一流の言論人・知識人たちによるものです。出席者は、笠信太郎、和田耕作、平 貞藏、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田 順、後藤 勇の各氏です。尚、三田村武夫氏は、同座談会記事の冒頭に次のような註を加えています。

 (註、この座談会は、欧州は結局第二の世界大戦になる。この場合日本の世界政策の建て方如何という立場で論じられたのであるが、出席者のメンバーから見ても次に摘記する意見の建て方から見ても重要な意義をもつものである)

 では、前掲書**資料篇からこの座談会の模様を読んでみましょう。

・・・「(*日華)事変処理と欧州大戦」(座談会)

 平:動乱(欧州)の見透しは後の話しの発展のために相当大切ですが――後藤さんちょっとそこで何か意見を出して戴きたい。

 後藤:要するに戦争を終局まで持ってゆかずに、中間に於て処理しようとする努力は、西方の国に於て尚お継続されるんじゃないか。しかし結局その努力は効果を結ばずに、戦争――所謂大戦に入る。こういう可能性を多分に持っている――。

 平:中間にどんな努力が払われるにせよ、大体本格的な戦争になるだろうという見透しが多いようですが――こういう新しい世界情勢に打(*ぶ)っつかって見て、我々日本の世界政策はどんな風に樹てて行ったらいいか――。

 牛場:――東亜新秩序建設に具体的内容を与えて行く。ということが先決問題ではないでしょうか。

 笠:それはむろん当然で、いまの日本の前面に立ちはだかって居る問題だから――東亜の新秩序を建設するということが前提で、このための大きな世界政策、外交政策というものが問題となって居るわけでしょう。

 西園寺(*公一):その前提をもう少し徹底させなくてはいけない。どうも見ていると、今の日本が直面して居る局面は、一体重心がどこにあるかということを忘れ易い。――事変処理というものが、どの位の深刻性を持っているかということについて、認識が浅いのじゃないか。だから国内の体制をちゃんと立て直さねば、結局時局は乗り切れない。

 牛場:どうしてそれを忘れやすいかというと東亜新秩序建設ということを抽象的にいうだけで、何をやって行くか、どういう方針でやって行くか、ということが国民に知らされていない。それが非常な原因であろうと思う。

 後藤:――欧州戦争が起って一番感ずることは戦争が始った結果、事変処理が容易になったんじゃないかという、つまり欧州動乱神風説的な見解が相当多いことだ――これに対してもう少し検討して行かなければ、国内の革新をやらなければならんという議論を推進させるのに邪魔になる。――アメリカの日本に対する態度ですが、英国が実際上東亜から退却した後を承けて、東亜に於ける旧秩序の番犬となる傾向が全面的に強くなるんじゃないか。その傾向は既に起って居ります。――アメリカは太平洋という広い海を隔ててはいるが、英国とは違い極東に相当強い軍事力を持っている。これが支那問題を繞(*めぐ)って、表面に乗り出して来た。こういう事態を考えるならば、事変処理に関する国際情勢というものは、戦争を契機として一層深刻になって来たということが出来る――。

 平:日本が直接対象として考えねばならぬのは、ヨーロッパの大国の植民地である。だから結局太平洋問題は、太平洋だけの問題ではなく、ヨーロッパを含めての世界問題――つまり日本の世界政策の一環として考えねばならぬ問題――だということに落ちつくのではないかと思う――。次に日本はどういう気構えで、この(*日華)事変を処理してゆかねばならぬかという中心問題に移りたい。和田君一つ――。

 和田:――近衛声明による東亜新秩序の建設という不動の国策があるが――右の大方針を実行して行く場合の大局的な段階について――第一段階、第二段階、第三段階といったように、段階的の見透しが必要になって来る。――新秩序建設の革新的な内容は、思想的には資本主義の弊害を除去して修正的な立場に立つことが必要であり、政治的には重慶政府(*蔣介石政権)を打倒して日本と親善関係に立つ新中央政権(*汪兆銘政権)を樹立することが必要である。――。

 聽濤:私は(*日華)事変処理と欧州戦争との関係を神風論のように考えたくない。――欧州戦争に捲込まれないと云う方向に日本の政策を進めることは歓迎すべきことだが支那(*日華)事変を根本的に解決するために、将来、非常に尖鋭化した国際問題にぶつかることを覚悟してかかる必要がありましょう。

 平:東亜の事態自身が変って来たのだから、それに順応するように、九カ国条約なども適当に改訂しようということを提議するのはどうでしょう。

 牛場:それは日米通商条約廃棄の後で大いに騒いだのだが、何にもやらないんだから仕方がない。(笑声) いづれにしても対米関係と云うものは悪化して来て居ると思う。平沼(*騏一郎)内閣の媚態外交の為に、すっかりアメリカに舐められてしまった。――これを建直すには余程長い期間が要るが、そのためには先づこちらの実力を付けること、少くとも断乎たる決意、何度も云い古るされているけれども、本当の意味の断乎たる決意を示す、これ以外に途はない。――

 西園寺(*公一):結局欧州の喧嘩が神風かどうかと云うことそれ自体は第二義的な問題で、今君(牛場)のいうように日本の打つ手がふえたと云うことには賛成だ。併しその機会を捉えるには、政治、経済その他凡ゆる国内の体制がきちんと確立していないと、今迄のような媚態外交になったり、向うの餌に直ぐ喰付くような外交になる外はないと思うね。だから外交といっても、結局国内の問題が基礎にならなければ、たとえ神風が吹いても何の御利益もない。

 平:新秩序の内容となる日本自体の政治体制或は経済体制が変らぬとすれば、支那(*中国)の占領地域で行っている日本人の経済的活動も従来とさっぱり変らない訳で、それならば何の新秩序であるか、という疑問が支那(*中国)人の間に当然起ると思うね。国内革新が第一歩だ。

 笠:――当面の問題はもっと大きく根本的に考えねばならんでしょう。これまで革新という言葉もいろいろに使われたけれども、浮いたような革新ではどうにもならない。――「――日本の社会の中堅になる階層の人々が、先づ新しい目標に向って、一つの結成をするといったことが火急な必要であろうと思う。――そこから日本の政治体制そのものを作り上げて行く。――はっきりした新しい国民組織――国難を乗り切ろうとする政治的な国民運動でありますが、そういうものの支持を受けて、始めて本当の仕事が出来る。そこの中に今までバラバラに割れ勝ちであるところの日本の政治上の意見というものを根本的に融和するようなそういう政党のような体制(*のちの大政翼賛会)を考えたい。」――今までやって来た統制経済でも、現に非常に大きな変動を起して居る。今後は、今までやって来た統制経済の方向とはまた違った方向に、更により以上に進まねばならん。――従来の自由経済(*資本主義経済)の土台の上に立つ古い政党……これと対立した意味での社会党なども同様であるが、これらのすべて古い地盤の上の政党は、物がいえない時代になって全く新しい姿、新しい経済的システムの上に、それぞれの新しい職能を代表するような政治的組織が必要となるのであるが、それは西洋の一国一党といったものではなく――私はそれを包摂する形態が万民輔翼といった日本人の根本的な団体意識であろうと思う。そこで、要するに、外にあっては支那(*日華)事変処理問題、内にあっては経済的の新しい体制を堅めるという、この内外二つの目標の上に、旺(*さか)んなる政治意識が樹てられなければならんという風に考える。――。

 西園寺(*公一):結局、(*日華)事変処理の深刻さと、それと国内問題との深い連関性を、骨の髄から感得していない。

 笠:――何んでもよいから一日も早く自由の経済組織に還したいという念頭しかない。――こいつは実は不可能だ。――現に(*国家)総動員法を発動させて、実際には一歩一歩そういう方面に近づいているに拘らず、生れ出る新しい制度の構図が考えられていないので推測が区々で、いろいろと違うところが出て来る。寧ろはっきりと、勢(*い)として出て来る姿を描いて、それを最も合理的なよい姿にするということに勢力を集中することが必要である。――。(二三四頁乃至二六〇頁)

・・・(**前掲書260~264頁)  

 ここで語られているのは、国内は政治体制を万民輔翼という皇國主義に則った一国一党(大政翼賛会)にし、経済体制は産業奉還・金融奉還による「資本と経営の分離」を謳う「民有国営化」という、国家総動員体制下の国家社会主義の方向性であり、その中身と実質はソ連の社会主義体制のシステムに近似しているのです。つまり天頂に天皇陛下を戴いているところだけが、ソ連最高指導者のスターリンやのちの中華人民共和国の毛沢東主席、北朝鮮の金日成主席など、共産党のトップを天頂に戴いている点と異なる以外は、かなり近い組織・制度体質を有する政治・経済システムが想定されていたと捉えることができるのです。

 その内容をトレースするため、次回は「隠れ共産主義者」たる「転向者たち」が中核を成していた「企画院」の考え方を取り上げたいと存じます。

   因みに、上記座談会に登場した西園寺公一(さいおんじきんかず)氏は、「最後の元老」である西園寺公望公爵の孫ですが、英国オックスフォード大学留学中にマルクス主義者となり、帰朝後東京帝大大学院に学び、一時期は外務省嘱託をしていましたが、一旦退職後米国カリフォルニア州ヨセミテで開催された第6回太平洋問題調査会に、日本代表団書記として参加した際、渡航する船内で同室となった尾崎秀實氏と親交を持ち、その後も外務省嘱託や近衛内閣嘱託を務め、近衛内閣のブレーンとして活動していましたが、尾崎・ゾルゲ事件が発覚して逮捕され、尾崎経由でソ連に機密情報を流したことで、禁錮1年6ヶ月の有罪判決を受けたものの、結局は執行猶予(2年)で保釈されました。最後の元老であった西園寺公望公の孫が、まさか共産主義者であるとは誰も思わず、彼は近衛文麿公からの信頼も受けて、内閣中枢の機密情報を入手してソ連に流し、また尾崎と共に言論・政治での謀略活動に従事していたのです。

   戦後は、国交成立前の中華人民共和国に家族と移住し、大臣級の厚遇を受けました。また日本共産党にも入党しましたが、後に日中の共産党が不和となり同党からは除名されました。文化大革命も当初から礼讃していましたが、自身の立場が危うくなって日本に帰国し、その後も国内の言論活動で文化大革命礼讃を続けていましたが、中華人民共和国内で文化大革命が批判される様になると一転、礼讃していた江青女史を批判する等の変節ぶりが指摘されています。更に晩年には創価学会に接近していたといいます。

 実はこの西園寺公一氏は、尾崎秀實氏とともに昭和13(1938)年春、茅野長知氏による蔣介石政権との日華和平交渉を妨害し、汪兆銘政権の樹立に尽力していたという逸話*があります。茅野長知翁は、「犬養毅、頭山満、宮崎滔天等と共に孫文の中国革命に協力し、蔣介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄にあった」人物で、日華事変勃発から三ヶ月後の昭和12(1937)年10月、当時の支那派遣軍の松井石根司令官の委嘱により上海で活動し、賈在得氏を介して孔祥熙(中華民国財政部長、行政院長)氏と日華全面和平交渉を進めていましたが、当初乗り気であった板垣征四郎陸相や近衛文麿首相はこの間に「蔣介石政権」との断交と「汪兆銘政権」樹立に向けて方向転換をしており、結局この和平工作は実を結びませんでした。この時、西園寺公一氏と尾崎秀實氏は一緒にドイツ客船に乗船して上海・香港間を往復し、茅野和平工作阻止の謀略活動をしていたのです。この逸話については、三田村著前掲書**150~158頁「日華全面和平工作を打ち壊した者」をご参照下さい。