戦前日本では、中枢たるソ連共産党政治局(要はスターリン)が主導する、コミンテルン(*国際共産党本部)や赤軍(ソ連陸軍)情報部、ソ連政府外務人民委員部(*外務省に相当)などの各機関からの指令に基づいて、ゾルゲが、尾崎秀實や、アメリカ共産党から派遣された宮城与徳らの協力のもと、諜報活動はもとより、主に尾崎秀實による近衛内閣や帝國陸軍中央中枢である陸軍省軍務局を対象にした「政治的謀略活動」を実施していました。

   それは、日本の主に陸軍力を「北進」つまり対ソ戦(シベリア方面)に向かわせず、蔣介石率いる国民政府(中華民国)軍と戦わせ、かつ汪兆銘(精衛)政権を樹立させることで、蔣介石政権との講和を決定的に阻み、また「聖戦完遂」や、「東亜協同体構想」に基づく「東亜新秩序」の標榜により、日華事変を終息させないで「長期・泥沼化」に持ち込ませる方策を、近衛ブレイン・トラスト(朝飯会や昭和研究会)と国内言論界での活動で、推進することに全力を挙げていました。

 その上で、さらに大日本帝國を敗亡に追い込むため、日華事変の継続に加えて、どう見ても最終的な勝利を見込めない大国、米国と英国(含む豪州・新西蘭)、そして蘭印では独自の軍事力(主に海軍力)を保持していたオランダ亡命政府(在ロンドン)との「敵対」を決定的にするため、「欧州新秩序」「世界新秩序」を標榜していた枢軸国側(ファシスト政権)との「日独伊三国同盟」の締結を推進し、更には南部仏印進駐によって陸軍力を「南進」させることに成功しました。

   殊に1939年(昭和14年)9月に始まった欧州大戦により、イギリスは既にドイツと交戦状態にあり、アメリカは未だ参戦せずとも次第に英国支援の方向性を強めていました。こうした国際情勢に於いて、現に英国と交戦中のドイツと三国軍事同盟を締結することは、ごく普通に常識的に考えれば、日本は、英国とそれを支援する米国に対して、敵対的な立場を明確にしたことになります。

 しかし、特異な米国観(米国には力で対抗・均衡すべきとする)を抱いていた松岡洋右外相は、この三国同盟を締結させ、さらに訪独の帰途、一時的な「独ソ不可侵条約」を基にした「日独伊ソ」四国連合を構想して、電撃的に「日ソ中立条約」を締結して帰国します。スターリンは自らモスクワ駅まで見送り松岡洋右外相を抱擁までして、松岡を有頂天にさせますが、冷静冷徹に考えれば、この中立条約により、ソ連は日本軍による東からの攻撃を回避し得たのですから、スターリンが喜ぶのは当然です。

 またドイツ・ヒットラー総統の元々の思想傾向から、ソ連の共産主義とナチズムが相容れるはずはなく、あくまでもポーランドからフランスに至る西欧諸国に侵攻を開始するため、当面の弥縫的措置として「ポーランド分割」を餌に、ドイツ東部にとって「背後の脅威」たるソ連軍を縛り付ける意味で「独ソ不可侵条約」を締結したに過ぎないことを、現地の大島浩駐独大使(予備役陸軍中将)は察知し得ず、また本国へ報告もしていませんでした。ドイツ人よりもドイツ人らしいと評され「駐独ドイツ大使」と皮肉られるほど、ナチスドイツに肩入れしていた大島大使は、冷静冷徹にドイツ側を見るのではなく、ドイツ側に有利となる観点での報告を繰り返していたのです。

   それは東京の帝國陸軍中央でも同様の雰囲気があり、「親独・反英米」という基本的な心情的偏向があったと言えます。明治期にプロイセン(ドイツ)陸軍式の教育を陸軍大学校に導入して以来、ドイツに対する敬意と親近感を維持してきた陸軍は、枢軸側の独伊と結び、国内体制もファシズム的「統制国家(国家総動員)体制」を希求し、本来は「皇國」として共産主義とは相容れないはずである「反ソ的姿勢」から、なぜか急激に「反英米的姿勢」に転換しつつありました。それは、蔣介石政権との日華事変が泥沼化し、局地戦での連続勝利によっても終息しないのは、英米が「援蔣ルート」(仏印・ビルマ経由)での物資補給を重慶に行っているからだ、との断定によるものであり、そこに更に、幕末以来の欧米列強のアジア侵出と植民地化に対する反発と憎悪が、重なっていたものと思われます。

 しかし一方で帝國海軍は、明治建軍時代に当時の世界一の海軍国であった英国海軍を師匠とし、イギリス流の海軍制度に倣ったこともあって、少なくともワシントン軍縮条約後に日英同盟が解消されるまでは、イギリスに成績優秀な留学生や駐在武官・補佐官を送る人事が続いていました。しかし四カ国条約によって日英同盟が解消されてからは、海軍の秀才は、次第にドイツに留学・駐在するようになり、その年代の海軍将校が大佐になり中央官衙(海軍省・軍令部)の課長クラスになるのが、およそ昭和15年(1940年)頃なのです。

   つまりは、対米英開戦に向かってゆく最重要時期に、海軍という官僚組織を動かす、根幹となる中堅の課長クラスに「親独派」が増える結果をもたらしたのです。つまり結果的には、陸軍中枢は元々中堅も上層部も「親独派」であったわけですから、その頃には、陸海軍中央中枢ともに「親独派」が占めることになったのです。

 こうして、日本(主に帝國陸軍)は、陸軍の想定敵国第一位であるソ連に対する戦争の備え、つまりは本来の「反ソ」から、軸足を「反英米」に移してゆくのです。このことは、第(86)回で取り上げた、当時特高警察係長であった宮下弘氏の次の証言にもあった通りであり、このあたりの情況が、対米英蘭戦争開戦に向かう素地を、形成していったものと思われます。

・・・当時の愛国運動は革新運動といったのですが、英米撃つべしという革新運動の反英・反米論は、まったく異常なほど強烈でした。その反面、反ソはほとんど言わないのです。血盟団事件以前は、愛国運動即赤化防止運動で、当然ソ連は仮想敵国でした。

 ところが(*日本)共産党がもう微力というか、姿を消したせいか、(*共産主義者からの)転向者がたとえば東亜協同体運動に参加していったせいか、あるいは統制経済を推進する知能者として戦時体制のなかで重宝がられてきたせいなのか、反ソの声が小さくなってしまった。とくに満洲国建設、シナ事変(*日華事変)と時局が推移していく段階で、いろんな分野で、転向者の能力が、(*陸)軍を中心として大きく買われていったようです。そういう意味で、当時の反英・反米機運をつくっていくのに、転向者がなにがしか寄与したことは、否定できないとおもいます。・・・(『特高の回想―ある時代の証言―』(宮下弘・伊藤隆・中村智子編著、1978年(昭和53年)田畑書店刊、225頁)

 こうした主に帝國陸軍への「転向者(隠れ共産主義者)」や尾崎秀實とそのシンパによる影響を見てゆくことは重要です。そこでここからは、三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略**―戦争と共産主義―』(昭和62(1987)年自由社刊自由選書版、初版は『戦争と共産主義』昭和25(1950)年民主制度普及會刊)より、前後順不同で関連する記述部分を拾遺してみたいと存じます。(*裕鴻註記、旧仮名遣いや漢数字等表記も一部補正)

・・・かくして敗戦へ――以上述べて来たごとく日本の敗戦は最初からプログラムの中に書き入れてあったのだ。だがこの正確な筋書を知っていたものは極めて少数の、おそらくは数名乃至十数名のものに限られていたであろう。同じ日本の革命乃至改造を目的としていたとしても、所謂青年将校の中から生まれた革命思想は飽くまでもファッシズム革命で、それは天皇の下に国家至上主義と一君万民の平等主義に立脚した倫理的正義観に発足したものであった。したがって一部の論者が言う如く、所謂軍閥政治軍人が客観的には容共派であったとしても、主観的には敗戦主義を肯定していたのではなく、飽くまでも「戦争に勝つこと」「勝てること」を信じていたものと見るべきである。そうでなければ、敗戦革命の筋書を書く場合、この政治軍人を謀略の対象とすることは危険なのである。「勝てる」と信じ「天皇革命」が可能だと信じているところに利用価値があったのだ。したがって彼等は敗戦革命への協力者であったが同志ではない。また近衛周辺の所謂進歩的理論家が敗戦謀略の同志だったとも思われない。彼等もまた政治軍人と同様にその進歩的思想家、学者の自意識のために、意識せずして敗戦革命への巧妙なる謀略戦術に利用された「意識せざる」(*unwitting)協力的同伴者となったものであろう。企画院の革新官僚、人民戦線フラクション(*細胞)、昭和研究会の進歩的理論家にしても同様なことが言えるであろう。だが、しかし、歴史的現実の客観は、飽くまでも共同の責任である。知らなかったとか、そんなつもりではなかったとかの言葉で済まされるような生やさしい問題ではない。八千万国民(*当時)の苦痛だけではなく、東亜全民衆に、更に米、英その他善意なる世界の人類にも過害(*ママ)を及ぼした世界史的な重大問題である。・・・(**前掲書200~201頁)

・・・軍隊に対する認識――次に共産主義者が、その共産主義革命の戦略的見地から、日本の軍隊を如何に見たかを検討することは重要である。この問題に関しては、前掲コミンテルン第六回大会の決議で既に一言しておいたが、更にこれを具体的に明らかにして見るならば、

   「多くの共産主義者が犯している主要な誤謬は、戦争問題を頗る抽象的に観察し、あらゆる戦争に於て決定的な意義を有する軍隊に、充分の注意を払わないことである。共産主義者はその国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分に検討して、その態度を決めなければならないが、その場合、決定的な意義を有するものは、当該国家の軍事組織の如何にあるのではなく、その軍隊の性格が帝国主義的であるか、又は、プロレタリア的であるかにある」

   「現在の帝国主義的国家の軍隊は、ブルジョア国家機関の一部ではあるが、最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして各国共に人民の全部を軍隊化する傾向が増大している。この現象は、搾取者と非(*被)搾取者の関係を軍隊内に発生させるものであって、大衆の軍隊化はエンゲルスに従えばブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるのである」

 「労働者を軍国主義化する帝国主義は、内乱戦に際し、プロレタリアの勝利をもたらす素地を作るものなるが故に、一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とは、その立場を異にする。我々の立場は労働者が武器をとることに反対せず、ブルジョアの為にする帝国主義的軍国化をプロレタリアートの武装におきかえるのである」

 といっているが、この基本的立場に従って、第二篇で明らかにして来た三月事件、十月事件、五・一五事件によって表現された所謂青年将校の思想的傾向を見るならば、そこに極めて重要なる思想的繋がりを発見し得るのである。即ち、先に引用した「雄叫び」の思想、更に二・二六事件の被告の獄中手記に、

 「大多数を占める窮乏国民の、絶望的必死の怒号叫喚と、これに方向を与える新生の覚醒と、何物をも恐れざる気魄と、犠牲心とを打って一丸とせる一大国民運動――、合法、非合法をはるかに超越せる――によってのみ、改造は断行せられ、頽廃衰亡の極所より生新なる大活力を具有する理想国家を生み出し得べし」といい、

 「従来一部有志の運動より、全国民的運動に転進せざるべからず。従来の口舌的運動より転じて、外礫をまき、鉄火を呼び、碧血を迸出せしむる、真摯激烈の運動を展開せしめざるべからず」

 「昭和維新も兵卒と、農民と、労働者との力を以て軍閥、官僚、政党を粉砕せざる間は招来し得ざるものと覚悟せざるベからず」

   といい、又同じ二・二六事件被告の一人新井元陸軍中尉は、

 「政党政治が崩壊しても、それだけで青年将校の国家改造運動は、到底おさまる筈がなかった。昭和三年(*1928年)来全国を襲った深刻な不景気、特に中小商工業者や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じとったのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうというのが、かれらを貫く思想であった。陛下の赤子といわれるのに、一面では栄耀栄華に暮らすものがあるかと思えば、一面では働けど働けどその日の生活に喘ぐ者があった。中でも東北地方の冷害で、満洲に出征した兵の家庭では、姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運はおさまる道理がなかった」といっている。

 日本陸軍のこの性格は、コミンテルンの決議で、その国の軍隊が如何なる階級又は政策の武器であるかを充分検討し、軍事組織そのものよりも、その軍隊の性格がブルジョア的であるか、又はプロレタリア的であるかを検討して、その軍隊に対する態度を決定せよといい、大衆の軍隊化は搾取者と非(*被)搾取者の関係を軍隊の内部に発生せしめるものであって、この軍隊に対する態度は一般平和主義者の主張する反軍国主義的立場とは、その立場を異にするといっている主張と対照して極めて重要な意義がある。屢々述べた如く、昭和三年(*1928年)以来アジア共産革命への方向を驀地に追求して来た尾崎秀實及びその一連の共産主義者が、この日本陸軍の反ブルジョア的な、即ち、プロレタリア的な、而して革命的な性格を持つに至った傾向を見逃すはずはなかった。ここに政治的角度に立脚した素晴らしい謀略の手が差し延べられたのである。

・・・(**前掲書143~145頁)

・・・既にかくの如く、軍部の中心部深く、左翼の政治謀略は喰い込んでいたものと見ることが可能であり、したがって、表面の政治的処理如何にかかわらず、軍部政治幕僚につぎ込まれた侵略戦争の理念的裏付けは、外部における輿論指導と呼応して東亜新秩序の建設、大東亜共栄圏確立へと発展して行ったのだ。

 蔣(*介石)政権の否認と長期戦への突入――かかる計画のもとに起こされた日華事変なるが故に、近衛内閣の不拡大、局地解決方針もついに、一片の声明として終り、翌(*昭和)十三年(*1938年)一月十六日、帝国政府の国民政府否認声明となり、かの有名な蔣介石政府相手とせずの方針となったのである。この政府の方針は、日本歴史の上に極めて重要な意義を持つものであることはいう迄もないが、この政府声明に呼応し、同月十九日付読売新聞夕刊一日一題欄に「長期戦の覚悟」と題する三木清(*1897-1945)の論文があらわれたことは注目に値する。彼はその中で、

   「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それは勿論、新しいことではなく、事変の当初から既に予想されていたことである。今更改めて悲壮な気持になることはない」

 「長期戦の覚悟として必要なのは強靭性である。長期戦となれば、いきおい局面は複雑化し、思いがけない事の起って来る可能性もふえるわけであるが、これに処して行くには強靭な精神が必要である」

   といっている。三木清が共産主義思想の把持者で、その為に彼は昭和十七年(*1942年)治安維持法違反として検挙され、獄中で悲惨な死を遂げたことは周知の通りである。(*獄内の不衛生な毛布による疥癬症が起因の腎臓病の悪化による病死) 終戦後彼は戦争に反対したが故に軍閥政治の犠牲となって獄死したかの如く伝えられたが、この読売紙上の一論文でも明らかな如く、まっ先に長期戦を支持したのは彼等一連の共産主義者のグループであった。・・・(**前掲書149~150頁、下線部は原典傍点部分:以下同様)

・・・長期全面戦争への政治姿勢――ここで一度政界に眼を転じ、軍部の全面的長期戦体制が、政治の面に如何に現れて来たかをながめてみよう。

 第一に、最も重要な意義をもつものは、昭和十三年(*1938年)春の議会に提案された国家総動員法と、電力国家管理法である。当時政界では日華事変の勃発を中心にして、大体二つの潮流があった。一つは、自由主義的な立場から、感情的に(*陸)軍の政治干渉に反対する一派と、一つは、この事変によってかもし出された革新への動向に同調する一派とである。国家総動員法は戦争目的のために、国家の総力を動員するための体系的組織法であって、それは長期全面戦争への準備体制であることは言うまでもない。電力国家管理法もその部分の一つをなすもので、重要産業の基幹であり且戦時施設と密接な関係を持つ電力事業を先づ、軍部官僚の管理下におかんとしたものであるが、この二法案は軍部(*主に陸軍)の政治力を背景とし、所謂革新国策と銘打って押し出された所に、筆者の言う論理の魔術性が含まれていたのである。この頃から企画院を中心とした商工、大蔵、農林、鉄道などの所謂革新官僚がはばをきかせ、資本と経営の分離などの理論がしきりに展開されだした。所謂民有国営論である。

 筆者(*三田村武夫氏、当時衆議院議員)は、国家総動員法の特別委員として、直接その審議に参画した一員であるが、後の(*陸軍省)軍務局長佐藤賢了の「黙れ」問題が起きたのはこの委員会であった。佐藤賢了は当時、(*陸軍省軍務局)軍務課の一中佐(*陸士29期、陸大37期)で、勿論政府委員ではなかったが、この国家総動員法は、電力国家管理法と共に、国防上絶対必要なりと主張する軍部(*陸軍)の立場から発言を求め、国防国家論を持ち出して長時間に及ぶ演説を始め、この法案に反対するものに非国民、国賊であるといわんばかりの論旨を進めて行った。そのとき丁度佐藤中佐の正面に宮脇長吉委員がたまりかねた態度で、佐藤中佐の説明に野次を入れたとたん、彼は大声を発して「黙れ」と怒鳴ったのである。この佐藤の一カツ(*喝)が問題となり、あのカーキ色(*陸軍軍服)の暴漢をつまみ出せと怒号する者が出るなど大騒ぎとなったが、結局杉山(*元)陸相の釈明で落着した。筆者(*三田村氏)はここで、自分の政治的見識の欠如と不明を詫びなければならないが、筆者もこの総動員法に賛成した(*議員の)一人である。当時、陸軍の推進力によって強引におしきられたこの総動員体制に反対したのは僅か、政友会の一部所謂、自由主義者のグループと称された鳩山(*一郎)系の一派その他極めて少数のものであったことを記憶している。この法案が委員会で可決され、本会議に上提された時、討論に立った牧野良三君(*1885-1961、政友会正統派)は、本法は全権委任法であり、(*明治)憲法の精神に反し、(*天皇)大権の干犯だと断じたが、このときから鳩山一郎の一派は自由主義者として軍部(*陸軍)からにらまれるようになったのだ。

 この本会議席上、もう一つ極めて重要な問題は、西尾末廣君の除名である。西尾君は総動員法の賛成討論をやったのであるが、演説の中で、近衛(*文麿)首相を激励する意味から、スターリンの如く、ヒットラーの如くしっかりやりなさいといった。ところが陸軍は、スターリンの如くといったのはけしからんと抗議し、遂に強引に西尾君の除名を要求したのである。この西尾君除名に対する陸軍の腹は、スターリンを礼賛したのが不適当たというのではなく、むしろそれを口実に(*陸)軍の威力を示すことが目的であった。我々はこの時、総動員法には賛成したが議会の独立と権威を守るために西尾除名を要求する(*陸)軍の暴挙と、これに屈服した大政党の態度に憤慨して猛烈に除名反対闘争をやり、筆者は守衛と取組み合いを演じて頭にコブを作ったことを憶えている。このとき長老、尾崎行雄氏は老軀をおして登院し僕が西尾君と一言一句違わない演説をするから、僕も一緒に除名せよと主張してきかなかった。だが軍部(*陸軍)に屈服した大政党(*政友会・民政党)の幹部は此の先輩尾崎氏の演説を阻止して軍部(*陸軍)の意を迎えたのである。ここで筆者(*三田村氏)はもう一つ懺悔話をつけくわえるが、その前年即ち(*昭和)十二年(*1937年)の十月、ヨーロッパ視察の旅に出掛けて行った中野正剛は、出発にさきだちて、当時、東方会(*政党)の幹事長をしていた杉浦武雄氏と筆者(*三田村武夫氏)に対し、「今度の議会に総動員法と電力国家管理案が提出されるはずだが絶対に反対せよ、特に電力管理案に対しては、どんなことがあっても賛成するな。東方会が電力管理案に反対すると、軍部(*陸軍)の奴等は、中野は電力資本家の代弁者だ。池尾芳藏に買収されて反対したというに違いないが、何と言われてもかまわんから反対せよ、この電力管理案を出発点として、日本の政治も経済も、(*陸)軍と官僚の手に握られ日本は大変なことになってしまう。絶対に反対せよ」といいおいていった。ところが扨て議会に臨んでみると、革新国策と銘打たれ、当時のジャーナリズムもこれを進歩的国策の最初のこころみとして支持しており、社会大衆党を始めとする所謂革新陣営は全部賛成の立場をとっており、この法案に反対することが、あたかも反動的な立場にあるが如き雰囲気であったため、杉浦氏も「中野さんはああいったけれども、ここまでくれば反対出来んではないか。帰って来て怒るかも知れないが賛成することにしよう」ということになり、我々もこの両法案に賛成したのである。今にして思えばまことに不見識な話で懺愧に堪えない次第である。

 かくして、国家総動員法と電力管理法は成立し、政治の実権を軍部(*陸軍)と官僚の手に握られてしまった。政治家は西尾除名の実物教育の前におぢけ立ち、議会と政党の権威は急速度に失われて行った。

・・・(**前掲書158~161頁)

 上記に登場する佐藤賢了陸軍中将(陸士29期、陸大37期)は、陸大学生時代から当時教官であった東條英機中佐に可愛がられるようになったと言います。そして昭和5(1930)年から二年間アメリカに駐在し、米陸軍野砲兵第12連隊附として過ごしたことから、陸軍内では「知米派(米国陸軍の専門家)」という扱いを受けていましたが、彼自身は米国と米国人を嫌っていて、駐米中も米国人とはあまり深い付き合いもせずに帰朝し、しかも最悪なことに「米軍の実力」を見下していました。その後、陸軍省軍務局で軍政畑に携わり、昭和13(1938)年3月3日、衆議院委員会で国家総動員法の陸軍説明員として長口舌を振るっていたところ、上記の通り宮脇長吉議員の野次に対して「黙れ!」と一喝して退場するといういわゆる「黙れ事件」を起こしたことでも有名です。

   また昭和15(1940)年2月10日、北部仏印進駐の際に「武力進駐」を強行した南支那方面軍参謀副長としても有名です。そして開戦前の昭和16(1941)年3月1日に陸軍省の中枢たる軍務局軍務課長に就任して対米英蘭開戦を推進し、翌昭和17(1942)年4月20日には軍務局長に就任しました。まさに重大な時期に、陸軍軍政の中央中枢にいた人物です。戦後最年少のA級戦犯として終身刑となり、昭和31(1956)年まで収監され、釈放後は東急系の会社社長を務めました。その彼が当時書いた論考を少し読みましょう。

・・・ 一、佐藤賢了「東亜協同体の結成」(『日本評論』昭和13年12月号)

   漢口作戦が終わると直ぐ蔣介石政権が参るか参らぬかは俄かに断定出来ぬが――名実共に一地方政権に転落することだけは間違いない事実と思うのである。斯くて今日は支那の全急所を押えたのであるから、一地方政権として残存する蔣介石政権が何うあろうとも意に介することなく、どっしり据り込んで、所謂長期建設をどんどんやって行くことが必要とされるのである。さて長期建設とは更生新支那の建設と云うことである。

   もう一度言わしむれば、(*昭和13年)一月十六日の声明に示された如く、蔣介石政権は相手にせず、新興政権の成立発展を助けて、更生新支那建設に協力することが今事変解決の終局の目的である。そこで更生新支那とは何ぞと言うに、現在の支那から欧米依存容共抗日思想を芟除(*さんじょ)して日満支(*中)三国が真に提携共助し得る支那の姿である。

   所が世には支那を更生させるの新支那を建設すると云うが、我国民の尊い血を流しながら、日本は何うなるのだ、我等国民生活との関係は何うなるのかと云う疑いもある様であるが、然し今申した様に、欧米依存、容共抗日思想を芟除した新しい支那が建設せられて、真に日満支三国の提携共栄が出来たならば、東洋は茲に始めて共産主義其他西洋の思想的侵略から解放せられ、真の東亜文化の復興を見ることが出来、又久しい間支那に加えられた西洋の政治的経済的侵略、圧迫搾取を取除いて、東亜協同体が結成されれば、我々は人口四億(*当時)の(*中国大陸)市場を確保して、我国民の生存発展を永遠に保証するの途を拓き支那は圧迫搾取の指から逃れて、我良質廉価の生産品に依り、今迄動物的生活水準を脱し得なかった(*中国)大衆の生活を向上することが出来るのである。

   此の一点だけ見ても東亜協同体の結成と言うことが、真に日支の共存共栄となると云うことが理解せらるると思うのである。目先の小さい利益に捕わるることなく、支那全体否東亜全体を眺めて、正しく、大きく、且(*つ)永遠の事を考えて真実に腰をどっかり据えて強力に、勇敢に、忍耐して事変解決の終局目標に向って邁進することが今後事変第二期の仕事である。

   斯様なことを断行する為には政治、行政、経済各般の部門に亘りて非常な大改革が必要とされるのである。勿論国家総動員法の全面的発動の如きは必然である。――(九七頁乃至一〇二頁) ・・・(**前掲三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略**―戦争と共産主義―』243~244頁)

 このように、当時陸軍の新聞班長兼大本営報道部長になっていた佐藤賢了大佐は寄稿し、尾崎秀實が中心となって展開していた「東亜協同体構想」「東亜新秩序」に、陸軍中央中枢が取り込まれていたことを実証しているのです。