ゾルゲ事件で、Richard Sorge(リヒャルト・ゾルゲ)と共に死刑となった尾崎秀實(おざきほつみ)が遺した証言は、三田村武夫著『戦争と共産主義:昭和政治秘録』(民主制度普及会1950年刊)にも収録されていますが、三田村武夫氏自身は、当初内務省特別高等警察(思想犯を取り締まる)に所属したのち拓務省に転じ、更に戦前立候補して衆議院議員となり、戦争中は東條内閣を打倒しようとして警視庁特高部に逮捕され、自身が巣鴨に政治犯として収監されたという特異な経歴を持っています。

 この三田村武夫著『戦争と共産主義』の初版である昭和25(1950)年民主制度普及會刊行の本は、昭和62(1987)年に自由社より『大東亜戦争とスターリンの謀略**―戦争と共産主義―』と改題されて再刊され、更に平成27年に復刻され平成28年に改訂版が呉PASS出版より再刊されています。後者の呉PASS出版の書は、現代に再刊された意義は大きいのですが、残念ながらワープロ化する際のタイプミスと思われる誤字(誤変換)が散見され、またオリジナルの各著名人による書評や著者による「まえがき」と「あとがき」が掲載されていないため、学生・研究者の皆さんには、古書ながら昭和62(1987)年自由社刊の自由選書版がお薦めです。

 この本が出版された昭和25年(1950年)という時点では、終戦後僅かに5年しか経っておらず、スターリンの人民大粛清(虐殺)は巷間にはまだ知られていない時期であり、毛沢東の文化大革命による人民大虐殺もまだ発生する前で、日本ではむしろ共産党をはじめとする左翼勢力が、その影響力を大きく伸展させていた時代でもあり、戦前から活動してきた一部の自由主義的知識人(所謂Old Liberalist)はこの書を評価したものの、世上一般には学術的評価も含め「陰謀論」のように誤解され、論壇からは貶められ無視されてきたようです。

   しかしながら、その貴重な内容の全貌と詳細は同著に譲るとしても、日本を泥沼の日華事変に引きずり込み、更には勝算のない対米英戦争に向かわせて、来るべき敗戦時に、かつての第一次大戦末期のロシア帝国と同様の共産主義革命を蜂起させ、日本を共産化しようというモスクワからの戦略指示に従い、新聞・雑誌を通じての言論活動や、昭和研究会を介して近衛文麿内閣への政治工作を、尾崎秀實本人をはじめ、言論人や陸軍統制派の高級・中堅将校たちをも利用して行ったとする証言・史料が、この本には採録されているのです。

   こうした国際的な政治謀略の戦略・戦術は、共産主義勢力にとっては重要な手段であり、北朝鮮のみならず現代中国の外交戦略や思想戦、歴史戦にも引き継がれていると見てよいでしょう。もちろん全てを「謀略史観」で解釈するのも間違っているでしょうが、その一方でこうした「国際的謀略を全否定」することもまた間違いだと思います。第(56)回でもご紹介したように、平成22年(2010年)1月に当時のベールイ駐日大使が毎日新聞記者に語っている通り、少なくとも旧ソビエト連邦政府は、リヒャルト・ゾルゲとともに、尾崎秀實と宮城与徳にも勲章と表彰状を出したという事実が、何よりもその証拠なのです。

   ご参考:https://lupdf2.exblog.jp/9665277/

 さて、今回は前掲書**(自由選書版)の「分析」を、まずは部分的に拾い読みしてみたいと存じます。(*裕鴻註記、旧仮名遣いや漢数字等表記も一部補正)

・・・筆者(*三田村武夫氏)はコムミニスト(*communist:共産主義者)としての尾崎秀實、革命家としての尾崎秀實の信念とその高き政治感覚には最高の敬意を表するものであるが、然し、問題は一人の思想家の独断で、八千万(*当時の日本人口)の同胞が八年間戦争の惨苦に泣き、数百万の人命を失うことが許されるか否かの点にある。同じ優れた革命家であってもレーニンは、公然と敗戦革命を説き、暴力革命を宣言して闘っている。尾崎はその思想と信念によし高く強烈なものをもっていたとしても、十幾年間その妻にすら語らず、これを深くその胸中に秘めて、何も知らぬ善良なる大衆を狩り立て(*ママ)、その善意にして自覚なき大衆の血と涙の中で、革命への謀略を推進して来たのだ。正義と人道の名に於て許し難き憤りと悲しみを感ぜざるを得ない。

   素晴らしい戦略配置

 陸軍政治幕僚との握手――然らばこの革命家尾崎秀實が、その企画する敗戦革命の為に如何なる戦略配置をなしたであろうか。先づ戦争の推進力たる軍部、就中(*なかんずく)、陸軍との関係であるが、既に述べた如く、満洲事変以来陸軍の指導権を握って来た所謂政治幕僚と、尾崎秀實との連繋握手が何時頃から出来ていたかは正確な資料を持たないから断言し得ないが、第一次近衛内閣成立直後、即ち日華事変発生の前後から、(*陸軍省)軍務局の中心部と直接の関係を持っていたことは確かである。それは後で述べる如く、第一次近衛内閣成立にあたり、風見章を書記官長(*現在に内閣官房長官に相当)に推したのは、当時の(*陸軍)次官梅津(*美治郎)の意を体した柴山(*兼四郎)軍務課長であり、その風見と尾崎とは、昭和研究会設立当時より親しい間柄であり、又、軍部と特別な関係を持っていた犬養健、更に犬養と影佐貞昭の関係、又其の後の尾崎、影佐、武藤章の関係に徴しても明らかである。

 政府最上層部へ――日華事変より太平洋戦争への最高政治指導部を構成して来た近衛内閣は、その成立と同時に彼のブレーントラストによって、政治幕僚会議とも称すべき「朝飯会」をつくり、この会で政治情勢の分析判断、政策の討議などをやって来たが、この幕僚会議のメンバーは、蠟山政道、平貞藏、佐々弘雄、笠信太郎、渡邊佐平、西園寺公一、尾崎秀實であり、後に松本重治、犬養健を加えて構成されていた。しかしてこの顔ぶれは尾崎が牛場、岸両秘書官と協議して選定したものだと尾崎自身が言って居り、その思想的なヘゲモニーは尾崎秀實の手に握られていたものと見られる。右の他に第二次近衛内閣になってから富田(*健治)書記官長を中心とし、尾崎秀實、帆足計、和田耕作、犬養健、笠信太郎、松本重治などにより別の「朝飯会」を持ち、この二つの会合は並行して太平洋戦争開始直前迄続けられて居る。

 官庁フラクション――官庁フラクション(*fraction:細胞)として最も注目すべきものは企画院グループであるが、この企画院グループは昭和10年(*1935年)5月、内閣調査局時代から始まっており、そのメンバーは和田博雄、奥山貞二郎、正木千冬、八木澤善次、勝間田清一、井口東輔、更に(*昭和)12年5月から和田耕作、稲葉秀三、佐多忠隆、小澤正元、柴寛、大原豊、澤井武保、玉城肇、岡倉古志郎、川崎巳三郎、直井武夫等であり、殆んど共産党関係事件の思想前歴者で、尾崎と密接な関係を以ていたと見られる。和田耕作、小澤正元は尾崎の推薦によって採用されたものであり、このグループ・メンバーが尾崎を招聘して、その講演を聞く等一連の関係を持っていたことは事実である。

 昭和研究会――この昭和研究会には、蠟山政道、佐々弘雄、平貞藏、風見章とともに、創立直後から関係しており、その主要なメンバーは右(*上)の四名の他、尾崎秀實、和田耕作、大西齋、堀江邑一、橘樸、大山岩雄、溝口岩夫、増田豊彦、牛場友彦などのほか別に、企画院グループから勝間田清一、正木千冬、稲葉秀三、奥山貞二郎、佐多忠隆、和田耕作、小澤正元等が参加していた。

 言論界――別に述べる如く、日華事変より太平洋戦争への理論的指導をなして来た言論陣営の力は、頗る注目すべきものがあるが、その中心メンバーは尾崎秀實、細川嘉六、蠟山政道、堀江邑一、平貞藏、三木清、中西功、堀眞琴、八木澤善次、西園寺公一など尾崎を中心としたメンバーである。此等の人々が日華事変以来『中央公論』『改造』など言論機関の権威を中心として殆んど毎号執筆し、同一方向に同一傾向の思想と理論を展開して来た影響力は、日本のジャーナリズムの方向を決定したものと断じても過言ではない。

 協力者、同伴者、ロボット――ここで筆者(*三田村武夫氏)は、以上の如きメンバーが、尾崎の意図する敗戦謀略活動に如何なる役割を演じたかに就き一言しなければならない。尾崎が真実のコムミニスト(*communist:共産主義者)であり、彼の意図する敗戦革命への謀略活動を知っていたものは所謂同志であり、協力者であるが、ただかれの優れた政治見識と、その進歩的理論に共鳴し、彼の真実の正体を知らずして同調した所謂、同伴者的存在(*無意識の協力者:unwitting agent)も多数あったであろう。更に亦、全くのロボットとして利用された者もあったであろう。

 所謂転向者の役割――ここでもう一つ問題とすべきものに転向者の果した役割がある。昭和6年(*1931年)頃から一度検挙された共産党関係者で、所謂、その思想の転向者と見られる人物については、司法省に於ても、或は警視庁の特高部(*思想取締)に於ても熱心に就職の斡旋をしたものである。そして、それらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職していた筈である。更に又、軍部にも同様にその調査事務には相当数の転向者が入っていた。そこで問題となるのは、この転向者の思想傾向であるが、司法省、内務省で転向者として扱ったその所謂「転向」の判定は天皇制の問題に重点がおかれており、天皇制否定の主張を訂正したものは転向者とみたのである。従って転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、亦彼等は、所謂秀才型が多く、進歩的分子を以て自認し、此等の人々が戦時国策の名に於てなした役割は軽視すべからざるものがある。

 何故成功したか――謀略配置の問題に関連して、斯くの如き謀略が何故成功したかに付き一言しなければならない。その第一は、思想犯事件の内容を総て秘密にして来たことである。前編で述べた三月事件、十月事件を始め、共産党関係の事件にしても政府、軍部又は官憲の立場から発表することを好まない事件内容は、一切これを極秘扱いとして来たのである。そこに認識に対する無智と、空白があり、意識せずして謀略に乗ぜられた条件があった。第二は、政治家の無智であり、事件内容を秘密にして来たことと関連して、政治家は殆んど思想事件に無智であった。というよりもむしろ、無関心であった。従って自分の身辺間近まで、或は自分の腹中にその謀略の手が延びて来ても気付かなかったのである。第三は役人の政治認識欠除であり、長い特高警察の経験を持った者でも、政治経験を持たないが故に、取締りの立場からのみ見て、政治的な角度から指向される謀略活動に気が付かなかった。又、事件として検挙された場合でも、その事件が共産党関係のものならば治安維持法のケースにあてはめ、罪になるかならぬかにのみ捜査の重点を置き、又、尾崎・ゾルゲ事件の如くスパイ関係の事犯に対しては、国防保安法という法律の適用面からのみ、これを見る習慣があったのである。なお尾崎(*秀實)事件の場合は、東條(*英機)と近衛(*文麿)との特殊関係から、司法部の検察活動にも特別の考慮が払われたことを一言しておく必要がある。別に添付した資料に就て見ても、その謀略活動の面は極めて僅かしか出てこないが、これには特別な事情がある。

   即ち、尾崎が検挙されたのは第三次近衛内閣末期の10月15日(昭和*16年)であったが、尾崎と特別の関係にあった陸軍(*省)軍務局関係(軍務局長武藤章中将)は、尾崎のこの事件の検挙に反対であり、とくに独逸(*ドイツ)大使館員であったゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打切りを要求したが、越えて16日近衛内閣が総辞職し、東條内閣の出現となり、尾崎の取調べによって近衛との密接なる関係が捜査線上に浮び出て来たことを知った東條は、この事件によって一挙に近衛を(*政治的に)抹殺することを考え、逆に徹底的な捜査を命じたのである。然し乍ら時は太平洋戦争開始直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛及びその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることの如何に影響の大なるかを考えた検察当局は、その捜査の限界を、国防保安法の線のみに限定し、その謀略活動の面は、出来る限り避けるべく苦心した事実を筆者(*三田村武夫氏)は承知している。

・・・(**前掲書133~138頁)

 三田村氏ご自身がかつて内務省警保局と拓務省管理局の官吏(昭和3年6月~昭和10年6月まで)として勤務し、しかも特高警察出身であったわけですから、一般の民間人としての知識・人脈・経験での「分析」ではないことに留意が必要です。しかも昭和11年(1936年)2月の衆議院選挙に立候補して当選してから約十年間は衆議院議員という公職の立場で活動してきた人物ですから、国政調査権による司法省刑事局資料なども調査・研究しての分析と記述であるのです。

 わたくしたちは、今こそもう一度、この三田村武夫氏の貴重な書**を、よく検分・研究しなければなりません。前々回のマクマホンCIA副長官提出の米国議会議事録資料にもあった通り、こうした「政治的謀略」の痕跡を丹念に収集して検討・分析することは、極めて困難な作業なわけですが、三田村氏はたった一人でコツコツとこうした調査・研究をされ、この貴重な書籍**を後世の日本のために遺されたのです。

 以前第(70)(74)(76)回でも取り上げた通り、ソ連KGBの資金提供を受けていた勝間田清一氏(戦後、日本社会党委員長)の名前が、上記の通り、この尾崎秀實の政治謀略の一環をなしているという「企画院グループ」の中にも登場しています。この意味でも前回述べた通り、戦前から戦後にかけて、こうした共産主義的政治謀略活動は連綿として継続されてきていると捉えることも可能なのです。さて、その企画院グループに関連する「企画院事件」について、三田村武夫氏による調査・分析をもう少し拝聴したいと思います。

・・・敗戦経済と企画院事件――敗戦革命のプログラムに関連して更に一言触れておきたいことは、戦争経済と企画院事件の思想的背景である。

 この問題についても、既にしばしば触れたから多くの説明を要しないが、企画院事件の記録を調べてみると、昭和10年(*1935年)5月内閣調査局(*企画院の前身)設立当時「民間有能な人材」として採用された高等官職員(今の二級官)の中に既に共産主義思想の前歴者があり、昭和12年企画庁、企画院に改組された際、更に多数の共産主義分子が流入して「高等官グループ」「判任官グループ」などの組織をつくり、満洲事変以来朝野に昂(*あが)って来た「国家の革新」「現状打破」「戦時体制の確立」などの時代的風潮に乗じ、コミンテルン第七回大会の決議「人民戦線戦術」に戦術的基礎を置き、

   「官吏たる身分を利用し重要なる国家事務を通じて共産主義の実現を図るべく相協力して活動し、従来極左的非合法運動に終始せる我国共産主義運動を現実の情勢に即した合法場面の運動に戦術的転換をなしたもの」で、その特質は、

   「日本共産党を中軸とする下からの革命運動との関連において、当面の国家的要請を利用する『上からの変革』即ち国家の要請する革新に名を藉りて、共産主義社会の実現に必要なる社会主義的社会体制の基礎を確立すべき諸方策を先づ国策の上に実現せしめ、もって国家の自己崩壊を促進すべく企図したもの」

 となっている。(資料篇 企画院事件記録参照)

 そして、このグループの中心人物は和田博雄、正木千冬、勝間田清一、稲葉秀三、小澤正元等であったが、ここに注目すべきことは、立派な学歴を持ち、優れた才能を有する人物が、判任官又は判任官待遇の地位に甘んじて企画院に入っていたことである。

 尚、企画院には、このグループの外に、もう一つの所謂「革新官僚グループ」があった。これは陸軍の武藤章、池田純久、秋永月三、沼田他稼藏に直結するもので、先に述べた「戦争五十年計画」をその年度割に従って時の政府の政策として実施せしめた一派で、迫水久常(大蔵系)、美濃部洋二(商工系)、奧村喜和男(逓信系)、柏原兵太郎(鉄道系)を中心とし、商工(*省)、大蔵(*省)、逓信(*省)、内務(*省)などの官僚と密接に繋っていたものである。

 昭和15年(*1940年)7月第二次近衛内閣の出現により所謂政治新体制、経済新体制問題が政府の重要政策として取上げられた頃、筆者(*三田村氏)は、これらの革新官僚としばしば席を同じうし所謂経済新体制問題を論議したことがある。その際筆者は重要なことを発見した。

 「このような官僚独善の統制経済を強行すれば、経済機構の根本がくずれて生産力は逆に減退する。生産拡充の目的と反対の結果を生ずるのではないか!」

 「現在のような資本主義経済組織では絶対に駄目だ、長期戦に備えるためには、資本主義的な営利経済機構を根本的に改めて、本格的な戦時計画経済体制をつくる必要がある!」

 「経済機構の根本的改変によって、時間的に空間的に「生産力減退」と言う空白が出来るじゃないか!」

 「それはやむを得ん……戦争は長期戦だ、百年戦争になるかも知れない!」

 「戦争はいまやっているのだ、現在の生産力が減退することは、現在の戦争に敗ける結果となるじゃないか……」

 「戦争の将来は長い……一年や二年の時間的空白は止むを得ない犠牲だ!」

 およそ、このような問答を幾度もしたことがある。そこで筆者は昭和16年(*1941年) 2月15日衆議院の治安維持法改正委員会で「結果の認識と目的罪の成立」と言う刑法学上のテーマを取上げ、戦時経済の実権を握っている所謂革新官僚が、この統制経済(計画経済)を実施すれば、少くとも一時的には経済機構の混乱を来し戦時生産力の面に時間的に空間的に空白の生ずることを認識し、而してこれを強行することは、その生産力減退による敗戦の結果をも認識するものであり、治安維持法に所謂「国体変革」の目的罪が成立することとなると言う論理を持ち出し司法省政府委員と論議したことがある。

 企画院事件の記録が、官憲の手でデッチ上げられたものか、或は本人の自由意志によって述べられたものか、これを確認する途がない。ただ客観的事実は、この記録にあるが如き結果を招来したことだけは歴史が実証している。

 また別の「革新官僚グループ」が主観的にどんな思想を持っていたかをたしかめる途がないが、資料に加えた「国防国家の綱領」から見ても、ナチ的なファッシズム的表現形式は取っているが、理念的な裏づけにはマルキシズム経済理論の思想体系が流れ込んでいることは否定し得ない。

 更にもう一点つけ加えたいことは、戦時中これらの所謂「進歩的革新官僚」によって頻りに唱えられた「営利主義、自由主義の否定」である。

 「この戦時下に、自由主義的な営利主義を考えたり、個人主義的な自由経済を考えるものは国賊だ。一切を挙げて国家に奉仕せよ、戦場の将兵を思え……」

 と言った調子のお説教である。そして遂に「産業奉還論」まで飛び出した。我が忠勇なる将兵は、戦場で国家に生命を捧げている。資本家財閥はその生産権を国家に奉還せよと言うのだ。

 軍閥政治軍人の先駆的役割を果した橋本欣五郎が日華事変勃発以来「大日本青年党」を率いて大いに活躍したことは周知の通りであるが、彼は昭和14年(*1939年)10月の機関紙『太陽大日本』に署名入りの運動方針を載せ、

 「戦場における将兵は、全く一体となり、生死を共にして、高貴なる国策の遂行に生命を奉還している。国内において一部資本家が厖大なる戦時利潤を独占するが如きは、戦場の将兵や英霊の前に断じて許さるべきではない……」「……戦時下、殷賑を誇る大軍需工業は、精根を枯らしつつある勤労者の血と汗があることを忘れ厖大な利潤を私するが如き資本家は正に国賊である……」と論じ(一)軍需工業の国営、(二)電力事業の総国営、(三)金融事業の国営などを主張し、「経済奉還は金融奉還に初まる。即ち営利主義的金利の廃止であり、国策的金利となる。そして金融国営の実現と共に、金融に対する営利主義的支配力はなくなり、国家の金融に対する支配力は強化し国家生産に動員される……」

 と言っている。陸軍大臣の訓示と社会党の綱領をチャンポンにしたようなこの変てこな論理が何処から出て来たのであろうか。その原流が「戦争五十年計画」にあることは推測するに難くないが、筆者が冒頭に述べた革命謀略の巧妙なる「ロジックのマジック」が、この戦時経済政策の中にも奥深く浸透したものと見ることができるであろう。

・・・(**前掲書196~200頁)

 このように「企画院グループ」や、三月事件と十月事件及び満洲事変の首謀者でもあった橋本欣五郎(予備役陸軍大佐)の「統制経済」論理が描出されています。これは巧みにファシズムの統制を装ってはいますが、その金融・産業・経済機構の国営化という社会主義的経済体制の本質は、マルキシズム経済体制そのものなのです。

 つまりは、どう考えても勝ち目のない米英相手の戦争に疲弊するのみならず、現に戦っている最中にも拘わらず、金融・産業の奉還国営化という大きな経済機構の社会主義的変革を強要し、更に生産力の減退を招いて、明らかに継戦能力を削ぎ、敗戦やむなき戦勢に、むしろ持ち込む謀略的意図さえも感じられる、という事態であったわけです。尤もこの橋本欣五郎氏はまんまと乗せられて利用されただけで、彼が共産主義者であったわけではないと考えられます。この辺りについては、次回に回したいと存じますが、尾崎秀實という脚本家が制作した共産革命に持ってゆくシナリオが、随所に配置された転向者たちの活動と相俟って、陸軍主導の国家総動員体制という「統制経済」の実現化によって動きつつあったことが、伺われるのです。こうした「ものの見方」も、分析するためにはとても大切な視点ではなかろうか、そのように思えてならないのです。(次回につづく)