旧ソ連の国家体制を支配していた「三頭の怪物」とは、ミトロヒン氏によれば、共産党、「ノーメンクラツーラ」と呼ばれる特権階級、およびKGB(秘密警察・諜報機関)という三頭だったのですが、この中で最も恐れられていたのは秘密警察でした。山内智恵子著/江崎道朗監修『ミトロヒン文書 ソ連KGB・工作の近現代史**』(2020年ワニブックス刊)の79頁には、山内智恵子先生が整理して纏められた「 KGBの発展」という表が掲載されています。この表によれば、ソビエトの秘密警察は、「十月革命」直後の1917年 (大正6年) 12月20日にレーニンによって創設された「反革命・サボタージュおよび投機取締全ロシア非常委員会〔通称:Cheka(チェカー)〕」が始まりです。

   その後、1922年(大正11年) 2月にこれが改組され「GPU(国家政治保安部:ゲーぺーウー)」として「NKVD(内務人民委員部:内務省に相当)」に編入され、翌1923年7月には「OGPU(合同国家政治保安部)」として独立しました。さらに1934年 (昭和9年) 7月にはまた「GUGB(国家保安管理部)」としてNKVDに再編入され、1941年 (昭和16年) 2月には「NKGB(国家保安人民委員部)」となり、また同年7月に「GUGB(国家保安管理部)」としてNKVDに再編入され、1943年 (昭和18年) 4月に「NKGB(国家保安人民委員部)」に戻って、戦後の1946年 (昭和21年) 3月には「MGB(国家保安省)」となります。1947年 (昭和22年) 10月から1951年 (昭和26年) 11月の間は、対外情報部門が「KI(情報委員会)」に移動し、1953年 (昭和28年) 3月には「MVD(内務省)」と統合して拡大MVDを構成しました。

   そしてスターリンの死後、再独立していよいよ1954年 (昭和28年) 3月に「KGB(国家保安委員会)」となったのです。このように複雑な組織改変が繰り返されたのも、その都度の政変や幹部失脚・粛清なども恐らく影響していると思われ、それだけ「権力中枢の懐刀」としての「ソ連秘密警察の力」が「権力闘争の鍵」となってきたことを示しています。

   KGB要員たちは誇りを込めて自らを「チェキスト(非常委員の意)」と呼び、他の省庁と異なりKGBだけが「チェカー(Cheka) 」創設日に因んで毎月20日を給料日としていたといいます。それだけ「Chekaの遺伝子」をKGBに至るソ連秘密警察機関は受け継いできたのです。その「遺伝子」の根源は、レーニンにより裁判所の決定や判決なくして容疑者を逮捕・投獄・処刑できる権限が、Chekaに与えられたことに始まります。そしてChekaによる「即決裁判による処刑が合法化」されてしまいます。前掲書**で山内智恵子先生は、次のように解説されています。(*裕鴻註記、尚漢数字はアラビア数字に適宜修正)

・・・レーニンは「革命にはテロが必要だ」と力説し、1918年9月にはチェカーに全国的な赤色テロル(「反革命」派の虐殺)を命じていますから、「拷問はほどほどでいいから殺しまくれ」ということでしょう。秘密警察を使った虐殺と暴力ではスターリンが群を抜いて悪名高いですが、レーニン時代のチェカーの暴力と残虐性も相当なものです。レーニンは革命直後の1918年の夏にはすでに「信頼できない分子」を大都市から離れた強制収容所に収容するよう命じていました。「革命の敵」を虱潰しに殺戮・弾圧する手段が赤色テロルと強制収容所であり、チェカーはその尖兵でした。

   「疑わしきは殺せ」なので、殺戮・弾圧された人々が本当に革命の敵だったかどうかはわかりません。秘密警察による弾圧、強制収容所への大量収容、「反革命」勢力の「陰謀」に対する警戒心と猜疑心といった、いわゆるスターリニズムの特徴とされるものは、レーニンの後を継いだスターリン時代に出現したのではありません。実際にはレーニン時代にすべて出揃っていました。よく「スターリンが悪人だったからいけないのであって、レーニン時代の『本当の共産主義』が守られていたらソ連はいい国になったはずだ」みたいな議論があるのですが、アンドルー(*ケンブリッジ大学教授)は、レーニンもスターリンと五十歩百歩だったと指摘しています。

・・・(**前掲書88~89頁)

   Chekaはこうして共産党一党独裁を支える「暴力装置」となったのです。革命後の反革命勢力(左翼社会革命党SRを含む)との内戦や、旧皇帝ご一家と皇帝一族郎党の全員処刑などを含む、ロシア全土に跨がる「赤色テロル」の実行部隊として、Chekaの活動はどんどん拡大してゆきます。初代Cheka長官F・ジェルジンスキーは、部下たちに見るに堪えない残虐行為(*下記)をやらせて、内戦でボルシェヴィキ(後のソ連共産党)の支配下に入った地域を、徹底的に粛清(チーストカ)していきました。その残虐性は次の通りです。

・・・ロシア南西部の都市ヴォロネジでは釘を打った樽に裸の囚人を入れて転がし、ウクライナのハリコフでは手の皮を剝いで手袋を作り、ポルタヴァでは司祭を串刺しにし、オデッサでは捕虜になった白衛軍の将校を板に縛りつけてじわじわと火炉で焼き、キエフ(*現キーウ)ではネズミを入れた檻を囚人の体に固定して熱した、などなど。最後の例は何かと言うと、逃げようとするネズミが囚人の体を食い破りながら内臓に潜り込んでいくという、「世界で最も残虐な拷問十選」みたいなリストの上位によくランクインしている恐ろしいものです。チェカーでは敵に対する残虐さが美徳とされていたというのです(後略)。アンドルー(*ケンブリッジ大学教授)によれば、チェカーが内戦中に処刑した人数は25万人で、戦死者よりはるかに多いそうです。

・・・(**前掲書87頁より)

   さらに時代はくだって、1930年代前半にはマルクス主義理論を無理にそのまま適用しようとしたことで、農村での飢饉や暴動が頻発し、これを抑え込むための秘密警察(チェカーからNKVD・GPU時代)の弾圧がさらに激化することになるのです。この模様も、山内先生のご説明を少し拝読しましょう。

・・・1930年代のソ連の海外諜報はソ連の対外工作史上、空前絶後の大成功を収めていましたが、実はこの時期、ソ連国内は大変な状況になっていました。(*日本の)中学・高校の世界史の参考書には、ソ連だけが世界恐慌の影響を受けず、計画経済で重工業化と農業集団化を進めて経済発展したと書かれていることが多いですが、実際は地獄絵図でした。

 1920年代末から1930年代初期にかけて、大変な混乱が広がっていました。独裁者であったスターリンは、農業の集団化を強引に進めて農民から土地や家畜を取り上げ、翌年の種まきの分さえ残さずに食糧を徴発しました。従わないと処刑したり、刑務所や強制収容所に入れたり、資産没収の上で(しばしば村ごと)強制移住させたりしたので、農村地帯各地で暴動が頻発しています。逃亡する農民も激増しました。「NKVDの暴力」対「農民一揆、逃散、打ちこわし」という構図です。

 食糧を取り上げられた農村では飢饉が始まり、種を奪われたことでさらに飢えが深まりました。種がない、耕す人がいない、いても食糧がないから衰弱して働けない――これで深刻な飢饉が起きないわけがありません。1932年(昭和7年)から1933年(昭和8年)にかけて(*ソ連)国内では大飢饉が起こり、無秩序状態に拍車をかけました。1934年(昭和9年)にOGPUがNKVDに改組され、それに伴って、地方で普通の犯罪の取締りを行う刑事警察が、秘密警察であるNKVDの傘下に入ったことを前章で述べました。そうでもしなければ秩序が守れないほど混乱が激化したことが大きな要因です。

 秘密警察が暴力的に農村を弾圧したから飢饉が起きて、ものすごい社会的混乱になったのに、その混乱を収めるために秘密警察の権限が「焼け太り」するという皮肉な成り行きです。強引に農業集団化を進めて、国民の抵抗を武力で徹底的に弾圧したのは、スターリンが推進した政策です。それが大きな危機を引き起こしたのですから、古参の共産党幹部たちの間でスターリンの指導力を疑問視する声が出てくるようになりました。

 するとスターリンは、秘密警察の最優先任務を、社会秩序の維持から自分の政敵の殲滅に切り替えます。1934年12月に起きたソ連共産党幹部 S・キーロフの暗殺事件をきっかけに、まずは共産党の中で、自分(*スターリン)のライバルになりそうな者、自分に楯突く者、自分に味方しなかった者を血祭りに上げていきます。スターリンは、政治テロに対する死刑判決の即時執行などの非常措置を導入して反スターリン派の主だった古参幹部を逮捕し、次々に見世物裁判にかけて罪を「自白」させ、「人民の敵」(*実はスターリンの敵)として処刑していきます。こうして「大テロル」(「大粛清」とも呼ばれる)が始まりました。農村が実質、(*共産)党対農民の戦争のようになっていたのですから、そんなことをやっている場合ではないはずですが、スターリンにとっては、「俺の敵=人民の敵」です。

・・・(**前掲書118~120頁)

 スターリンは、フランス革命後の恐怖政治を行ったとされるロベスピエールが、結局は反対派に捕らえられて断頭台に送られたように、反対派を生かしておけばいつか自分が殺されるという恐怖を抱き、その猜疑心から次々と自分の政敵や部下さえも粛清(処刑)していったと言われています。それが「大テロル(大粛清)」です。その凄まじい実態を、ミトロヒン文書を基にした前掲書**第三章の「吹き荒れる大テロル」の項から、いくつか拾い読みしてみましょう。

・・・(*前略)本国のソ連では大テロルが拡大の一途を辿っていました。NKVD長官G・ヤゴーダは共産党や軍の粛清を指揮し、スターリンの政敵の摘発にあたっていましたが、トロッキスト(*トロッキー派)の陰謀摘発への熱意が足りないという理由でスターリンの不興を買って更迭され、1936年9月にN・エジョフが後任の長官として就任します。エジョフの下で1937年から1938年にかけて大テロルが恐怖の代名詞になりました。

 大テロルによって、スターリン派以外の共産党幹部クラスが消滅、つまり大半が処刑されました。スターリン派であっても忠誠心が足りないとみなされた者は殺され、赤軍(*ソ連軍)幹部も大量に逮捕・処刑されます。共産党地方組織も壊滅します。

 大テロルの実行機関であるNKVDもテロルの対象となり、情報将校たちが次々と、反革命の陰謀に加担した罪で逮捕されていきました。元長官ヤゴーダも逮捕されます。特に多くの逮捕者・処刑者が出たのが、対外情報部です。

   NKVDが海外でトロッキストに次いで標的にしたのが傘下の対外情報部でした。ソ連の情報機関が、自分たちの傘下の機関員を片っ端から殺したのです。歴代の対外情報局長も、1922年就任のトリリッセルから1938年就任のパッソフまでの6人全員が非業の死を遂げています。1人は執務中に青酸化合物で毒殺され、5人は反ソ陰謀加担などの冤罪で処刑されました。

 1930年代前半にソ連の対外諜報の黄金時代を築いた「グレート・イリーガル(*great illegal):ソ連対外情報部の非合法駐在員」たちは次々にモスクワに召喚され、裁判にかけられていきました。ドイチュがケンブリッジ5人組(*Cambridge Five)を管理していた4年半の間にドイチュの上司のポストにいた歴代3人のNKVD機関員が、全員、大テロルの標的になっています。2人は銃殺刑、残る1人は特殊作戦部隊のベテランでもあるA・オルロフで、危ういところでアメリカに亡命しています。オルロフは、「もしNKVDの暗殺部隊が追跡してくるならソ連の諜報活動について知っていることをすべてバラす」と言って取り引きし、暗殺を免れましたが、この時期に亡命した海外駐在諜報員の多くが暗殺されました。その1人が I・ポレツキー(別名ライス)で、逃亡から6週間後の1937年9月に機関銃で蜂の巣になった遺体がスイスで発見されています。ちなみにドイチュは、たまたまNKVDの筋書きの中で「離反者ポレツキーに裏切られた被害者」という位置付けだったおかげで生き延びましたが、ユダヤ系だったので、まかり間違えば危ないところでした。

 大テロル中、海外に配置されていた機関員たちは、同僚が見世物裁判で「帝国主義のスパイ」であることを暴かれたと知らされたとき、それがでっちあげであることを知っていたにもかかわらず、言葉だけでなく表情と身振りでも、同僚に対する心からの怒りを表現しなければなりませんでした。怒りの表し方が足りなければ、本部に報告されて命に関わる事態になりかねなかったからです。あるNKVD将校は、逮捕された同僚に対する怒りの表現が不十分だったことと、その同僚が処刑された記事を読んだときにため息をついたことを理由に裁判にかけられ、本人だけでなく他の同僚13人も巻き添えになっています。つまり、陰謀に加担したと拷問で自白させられ、さらに、陰謀の一味として彼ら(*13人)の名前を挙げさせられたのです。

 いち早く架空の罪で同僚を非難することが生き延びる最大のチャンスだったので、不道徳な者ほど生き残る状況になりました。しかし、多少生き延びたとしても結局時間の問題でした。1937年から1938年の間に、NKVDのほとんどの海外駐在所からほぼすべての駐在員が召喚され、処刑されて、駐在所は機能停止に陥りました。ロンドン、ベルリン、ウィーン、東京は閉鎖を免れましたが、それぞれ、駐在員は1人か2人までに減っています。こうして、世界史上最強のソ連対外諜報組織は自壊しました。1938年には、スターリンに海外インテリジェンス報告が一通も上がらない日が127日間続きました。

 1938年11月、ついにNKVD長官エジョフが失脚して大テロルは下火に向かいます。結局、因果応報と言うべきか、エジョフもその後「陰謀」を自白させられて処刑されることになります。しかし、エジョフ時代の終わりまでに共産党の古参幹部はいなくなり、地方組織は壊滅し、赤軍(*ソ連軍)は指揮官たちが軒並みやられました。(*中略)

   大テロル前から農業がボロボロだったところへ、工業部門の運営責任者たちも大テロルに遭ったので、経済もボロボロです。よくこれで国が滅びなかったものです。大テロルについての史料や論文や書籍は山のように出ていますが、正式の逮捕手続きなしで殺害された人も多く、まだ全貌は解明されていません。ここまで大テロルの破壊の規模が広がった重要な要因のひとつが、スターリンの病的猜疑心にあったことは明らかです。しかし、アンドルー(*ケンブリッジ大学教授)は、スターリンの偏執性が本人の異常な資質によるものだけでなく、レーニン主義の論理も中核にあったと指摘しています。スターリンはレーニン主義に基づいて、ソ連と帝国主義国が並び立って共存することはあり得ず、衝突は不可避であると考えていました。外部の敵が内部の裏切り者と手を組んで陰謀を企むのも不可避であり、このことに同意しないものは自動的に裏切り者の烙印を押された、とアンドルー(*教授)は述べています。猜疑心と陰謀論がいかにソ連の対外工作をおかしくしていったかということがアンドルー(*教授)の研究テーマのひとつなので、ミトロヒンとの解説書でもこの問題を度々取り上げています。

・・・(**前掲書123~127頁)

 この山内智恵子先生のご著書『ミトロヒン文書 ソ連KGB・工作の近現代史**』(2020年ワニブックス刊)は、ここで少しご紹介したような興味深い内容が他にもたくさん出てきます。ぜひ皆さんも入手してご一読ください。共産主義者とそのシンパの間で、長年讃えられてきたソ連という国や、レーニン、スターリンなどの指導者の真の姿が、ミトロヒン氏が持ち出した1918年のチェカー時代から1980年代前半のKGB時代まで、連綿として続いた秘密警察の記録によって浮かび上がるのです。

 因みに、このスターリンによる「大テロル」の時期に、ちょうどモスクワにいた日本人共産主義者たちも、この影響で、10名から20名くらいが粛清対象となって銃殺されたといいますが、その中の山本懸蔵氏(通称:山懸)は自身も日本人数名を密告して粛清させたものの、同じくモスクワにいた野坂参三氏にスパイとして密告されて、逮捕され銃殺されました。そして戦後帰国して日本共産党の議長、名誉議長に昇り詰めていた野坂氏は、ソ連崩壊後にこのことが明らかとなったために、日本共産党から最晩年に除名されました。もっとも、山懸側もほぼ同時進行で野坂氏をスパイとして密告しようとしていたといわれ、上記のような「大テロル」の状況の中では、それこそ仲間を売らないと生き延びることができなかったものとも推察されます。上記にもあるように、当時のソ連の実態は「不道徳な者ほど生き残る状況」であったのですから。

 さて、本シリーズ第(67)回でも取り上げた有名な「ケンブリッジ・ファイブ:Cambridge Five」がここでも出てきますが、本国のソ連にこうした「大テロル(大粛清)」の嵐が吹き荒れていたにも関わらず、上記にも登場したオーストリア人のアルノルド・ドイチュ博士(化学・ウィーン大学)が、英国ケンブリッジ大学でリクルートしたのが、この「ケンブリッジ五人組」と呼ばれる人々でした。彼らは「大テロル」のことなど知らずに、それぞれが英国内で出世していました。5人のうち3人が情報機関勤務、1人が外務省、残る1人が情報機関の監督責任者である閣僚の秘書となっていたのです。NKVDの正規のcase officer:機関員だったドイチュのやり方は、自らが1932年に大学院の心理学課程に入学したロンドン大学を拠点として人脈を広げ、オックスフォード大学やケンブリッジ大学という卒業生が英国政府などに進むエリート学生を勧誘するという方法でした。左翼思想を抱く学生たちを、社会に出る前に勧誘して、NKVD対外情報部のエージェント(工作員)にするのです。これが後に成功して、大きな成果を生みました。

   同様にアメリカのハーバードなどアイビーリーグの名門大学にも、その方式を持ち込んだため、アルジャー・ヒスなどのエリートを取り込むことに成功したものと思われます。日本でも、ご紹介した東大の新人会や、他の帝大の学連などの組織が、その役割を果たしていたものと考えられ、事実、尾崎秀實氏は東大新人会に入って共産主義者の道へと進んで行ったわけです。このことが前々回の第(79)回で取り上げたように、秀才が集まる朝日新聞社内に、ソ連に対しての“盲目の愛”派の人々を、多数生じさせた遠因になっているとも考えられます。山内先生の前掲書**にも次の記述があります。

・・・そういえば日本でも、全国で一、二を争う中高一貫の進学校で教えているバリバリの共産党員の先生が、脈のありそうな生徒を民青高校生班に誘ってオルグした結果、日本共産党幹部・議員・左翼教授が多数輩出されたという話を聞いたことがあります。もし最初からそういう目的で党員をその学校に就職させていたのだとしたら、日本共産党もなかなかたいしたものだと思います。

 ミトロヒン文書によると、「大学生はどんどん入っては出ていくし、大学内で左翼思想に染まる学生は多いので、世間はいちいち覚えていない。仮に覚えていたとしても、よくある若気の至りで済む。スカウトした工作員に新しい政治的人格を与えるのは我々の仕事だ」とドイチュは述べていました。

・・・(前掲書**108~109頁)

 こうした英・米・日などのエリート学生たちが、なぜ共産主義者となったのかについて、山内先生は同上書**にて次のように指摘しています。

・・・西側で政府高官になるようなエリートたちがなぜ共産主義に魅了され、工作員(*agent)になってまでソ連に尽くそうとしたのか――アンドルー(*ケンブリッジ大学教授)はあまり書いていませんが、大恐慌(*1929年)による経済崩壊とナチス・ドイツに代表されるファシズムの台頭という二つの背景を指摘しておくべきでしょう。資本主義諸国で多くのエリート・知識人たちが共産主義に魅了されていった背景には、大恐慌による経済の混乱があります。イギリスでも、ヨーロッパでも、アメリカでも、日本でも、大恐慌を目の当たりにして「資本主義はもうだめだ」という不信と絶望に陥ったエリートたちは、救いは共産主義しかない、自分たちが歴史を作るのだ、世界を資本主義のもたらした不幸から救うためには、反革命派を叩き潰してでも共産主義を守るべきなのだと信じました。また、知識人の間には自由を圧殺するナチス・ドイツのファシズムに対する反発が強くありました。ソ連はこれを最大限に利用します。

 革命以来、ソ連は自由主義者や社会民主主義者(議会政治などを通じて労働者の生活を改善し、社会を改良しようとする人びと)を「革命の敵」として激しく攻撃していたのですが、1935年、方針を大転換します。コミンテルン第7回大会で、ブルジョワ資本主義者だろうと、自由主義者だろうと、社会民主主義者だろうと、反ファシズムで手を組める勢力すべてと手を組もうという、「人民戦線」戦術を採択したのです。同時に、「ファシズム反対」「平和と民主主義を守れ」と訴えるフロント組織を作り、共産党の関与を表に出さずにプロパガンダ工作を激しく仕掛けていきました。過酷な戦時賠償に大恐慌がさらに追い打ちをかけたことによる経済的疲弊がナチス台頭の大きな要因であり、大恐慌に対して素早く適切なマクロ経済政策を打てなかったことが、資本主義国のエリートたちを共産主義に走らせた原因のひとつです。経済失政は国運を狂わせるのです。

・・・(前掲書**105~106頁)

 この山内智恵子先生のご指摘はまことに正しいと思います。実は五・一五事件や二・二六事件を引き起こした陸海軍の青年将校たちも、その動機はファシズム思想というよりは、当時の昭和恐慌で、娘の身売りなどが頻発していた東北の農村や都市の貧困層の苦境を見るに堪えず、今日的にいえば、天皇制国家社会主義のような政体にすることで、日本社会を糺して建て直そうとした、というのが真意であろうと思われます。もとよりこうしたクーデターや暴力革命は、それが左翼であれ、右翼であれ、決して許されませんが、そのよってきたる淵源は、山内先生のおっしゃるように「経済恐慌や経済失政」にあったといえるでしょう。とにかく庶民が食うに困るような経済・社会情況としないことが、いかに大切であるか、ということを示しているものと思います。それとともに、「人民の理想郷」を謳っていた共産主義国の実態は、こうした人民大量殺戮の秘密警察国家であったということも、しっかりと胸に刻み込むべきではないでしょうか。(次回につづく)