前回に引き続き、加瀬英明監修/宮崎正弘訳『ソ連KGBの対日謀略 レフチェンコ証言の全貌**』(1983年3月山手書房刊)から、1982年7月14日に開催された米国議会下院情報活動特別委員会秘密聴聞会での、レフチェンコ氏の証言記録を読んでみたいと思います。(*裕鴻註記・補足。尚漢数字は表記修正)

・・・<KGBはテロリストを訓練している>

 ミネタ議員:レフチェンコさん、あなたは証言のなかでPLO(*パレスチナ民族解放機構)のテロリストをKGBが訓練していると述べられましたね。ところで、KGBもしくは他のソ連機関が、PLO以外のテロリストを養成していることについて何か知っていることはありませんか?

 レフチェンコ:私が知っている限りでは、このとき私はアフロ・アジア人民連帯委員会で働いていた頃のことですけれども、アンゴラ解放戦線*(MPLA)のネト*一派の将校を訓練したと聞いております。彼らMPLAが、アンゴラの政権を掌握する以前の段階です。

〔*裕鴻註記:MPLAは現在「アンゴラ解放人民運動」と訳されている。極左政党でソ連の支援を受け、「アンゴラ内戦」の後に初代大統領となったのが、アントニオ・アゴスティニョ・ネト。尚これに対立する、米国や中国が支援していたFNLAが「アンゴラ民族解放戦線」と訳される。〕

 同時に「民族解放」と名のつくいくつかのグループも訓練していた。それらは確実にKGB(*ソ連国家保安委員会)とGRU(*ソ連軍参謀本部情報総局)とによってなされたと思います。というのも訓練センターはモスクワから20マイルほど離れた所にあり、KGBに属し、KGBによって運営されています。

 クリミアにある他の施設は、モスクワの南へ1000マイルもありますから(しかもこれはソ連陸軍のスタッフ訓練所です)、ゲリラ用の訓練をしているところです。

 ミネタ議員:とくにクリミアの訓練所は、では誰が教え、どの機関が管理しているのですか?

 レフチェンコ:一般的には将校が(*訓練の)対象です。そして下士官やPLOの友好組織の兵員、いくらかの解放戦線の人間が含まれます。

 ミネタ議員:具体的にはどの国の解放戦線ですか。

 レフチェンコ:アンゴラとPLOに関してでしたら私は若干のことを知っています。

 ミネタ議員:それでは、単にGRU将校ばかりではなく(もちろん彼らが訓練先の国のエージェントになるのでしょうが)、モスクワから遠く離れた訓練所では、そうした国々からの人間も養成していたということですね?

 レフチェンコ:これらの施設は外人のための訓練所なのです。

 ミネタ議員:そういうことですか。

 レフチェンコ:いま申しあげた二つの訓練所はGRUあるいはKGB要員のためのものではありません。あくまで外国人を訓練するための特別の目的を持ったところです。

 <ベ平連(?)を操って何をしていたか>

 ミネタ議員:ところでヴェトナム戦争のとき、(*米軍の)逃亡兵がスウェーデンに亡命したのも、そうだといわれたが、詳しく話してほしい。

 レフチェンコ:私が最初に述べたヴェトナム支援委員会は一見独立した組織にみえて、実はこれが、上部団体のアフロ・アジア連帯委員会所属であったことは申しあげました。まさにこの組織が逃亡兵たちを支援しました。但し最初に飛行機で逃げた四人をのぞいて。この四人の逃亡についてはソ連平和委員会の手でなしとげ、あとはみんな我々KGBの手で行ないました。KGBが連帯委員会に提供した手段は、日本からソ連へ逃げるルートの確立でした。KGBは二隻の日本漁船をやとい、しかも日本の組織を通じて船長を入れ替えました。

 その組織はいまは存在しませんが、その頃「ベトナム平和委員会」〔ベ平連?:*原註〕と呼ばれていました。たいへん行動的な集団で、主として日本の知識人が参加しており、彼らはリベラル派もしくは過激な思想の持ち主でした。KGBは、この組織のキイ(*鍵)となるリーダーのうちの一人を補充(*recruit:工作員に採用)し、以降この男を通じて漁船をチャーターしたりした。漁船で日本とソ連の国境付近まで行き、ソ連海軍のパトロール・ボート(*哨戒艇)が拾うというやり方でした。(*米軍)逃亡兵はそれからソ連へ移送され、KGBとGRUから派遣された将校が月並みな質問をしました。しかしG I (*下級兵)の戦闘員では持っている情報も知れたもので、誰が隊長で、どんな銃を使っていたかなど、その程度の情報でした。でもKGBもGRUもこの活動を大事にした。G Iからの情報収集は本来の目的でないにもかかわらずにです。

 ソ連(*共産党)政治局(*権力の中枢機関)としてはこれこそまたとない政治的プロパガンダのショー・ケースでしたからね。

 逃げ出したのは18歳か19歳のG Iが主でした。彼らはソ連がなしていた反ヴェトナム戦争のキャンペーンにのって、まさにヴェトナムの危機の事態から脱走してきたわけで、正確にいえばKGBとGRUが直接関与したことではありません。

 ミネタ議員:あなたは1966年(*昭和41年)の4月に、ソ連の貿易ユニオン団の通訳として最初に日本を訪れたと言われましたね。

 レフチェンコ:そうです。

 ミネタ議員:そのとき既に、あなたはアフロ・アジア連帯委員会の職員だったのですか?

 レフチェンコ:いいえ、私はまだ大学院卒業生としてであり、ソ連の平和委員会に所属しておりました。

 ミネタ議員:すると、あなたが非合法の情報作戦の訓練を受けたあとのことですか?

 レフチェンコ:その通りであります。

 ミネタ議員:時間的なことでいうと1966年から67年(*昭和42年)のころですね。

 レフチェンコ:そうです。

 ミネタ議員:それからカイロへ行かれた?

 レフチェンコ:そうです。1971年(*昭和46年)の1月のことでした。

 ミネタ議員:さて、それでは彼らはどうしてヴェトナム戦争で、(*米国)陸軍の逃亡兵たちをソ連を通過させるために「密輸」(*密入国・密出国)したのでしょうかね?

 レフチェンコ:(*米軍)脱走兵のすべてについておっしゃっておられるのですか?

 ミネタ議員:ほかに、直接的にソ連に逃げたのもいるということですか。

 レフチェンコ:いえ、そうではありません。

彼らは第一に、生命を助かりたいと考えていましたし、まったく総合的な見地からのコンサルティングが日本でなされておりましたからね。

 もし日本以外の第三国でしたら軍事法廷もありますし、逃亡兵もきっとオジケ(*怖気)づいたことでしょう。彼らは捕まり、牢獄に送られたでしょう。

 しかし日本には、ラジカル(*急進左翼)でスマートな法律家(*弁護士)たちがいました。彼ら逃亡兵はヴェトナムで寝返ったのではないのです。彼らはみんな日本で、逃亡を決意したのです。なぜなら当時の日本は、精神的に病んだG Iにとって巨大な病院のようなものでした。しかも日本人弁護士たちが巧みにアドバイスと称してG Iに逃亡をすすめました。

 G Iはヴェトナム戦争から逃げたのは明らかです。しかしヴェトナムから逃げたのではなく、戦争をやっていなかった日本から(*の脱走)だったのです。

・・・(**同上書67~72頁より)

 このようにレフチェンコ氏は証言しています。「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)は、当時のベトナム反戦運動を牽引し、ここにあるように1967年(昭和42年) 10月、横須賀に入港したアメリカ海軍の空母イントレピッドの乗組員4名が脱走し、ベ平連の支援と手引きによりソ連に密航させてモスクワ経由でスウェーデンに亡命させました。ベトナムの戦場から脱走したのではなく、日本にいた米軍兵を使嗾して脱走させたものです。ベトナム戦争は、いわば米ソの代理戦争的意味合いもあり、ソ連はベトナム反戦運動を支援してアメリカ側にダメージを与える意図があったわけです。

   日本では「戦争反対」という軸と、アジア人であるベトナム人対白人のアメリカ軍という構図の捉え方から、一部右翼勢力の反米派まで、一時期はこのベ平連の活動を支援していました。著名な知識人や映画関係者などの文人も支援して大変盛り上がったのですが、別の面で見ると、西側陣営の南ベトナム(自由主義)対東側陣営の北ベトナム(共産主義)の戦い、という構図の捉え方をすれば、アメリカ対ソ連の覇権争いでもあったわけです。

   ちょうど1970年の日米安保条約自動延長反対の「70年安保闘争」に向けて、1960年の「60年安保闘争」の反米運動からつながる形でこの「ベトナム反戦運動(つまりは反米運動でもある)」が展開されていたと捉えることもできるわけです。従って、ソ連の立場からすれば、KGBを使ってこうした反米運動を盛り上げ、少しでも日本をアメリカの影響から離れさせようという政略的意図に基づいて、密航支援や秘密資金を提供したということになります。

   また、上記レフチェンコ証言にもある通り、ソ連の世界戦略としても、アメリカの脱走兵がメディアに登場することで、全世界的にソ連寄りのプロパガンダとして利用することができたわけです。「リアリズム」で眺めれば、「何が米ソのどちら側にとって有利となるのか」という観点での分析と整理によって、このソ連の世界政略を読み解くことができるのです。ところが、「感情や情感(エモーション)」で大衆運動は煽動されてゆくのですから、狂乱的な渦中ではこうした冷静な論理的分析をするのは困難です。しかし真の知識人たるものは「情動よりは冷静な知性による論理的思考」が大切なのではないでしょうか。

 さて、もう少し前掲書**によるレフチェンコ証言を見てみたいと思います。近年も安全保障法制や特定秘密保護法などの制定反対運動が左翼勢力によって推進されましたが、「スパイ天国」と言われる日本の情況を、当時のKGB将校であったレフチェンコ氏がどのように語っているか、読んでみましょう。

・・・<日本ほど秘密工作にやりやすい国はない>

 レフチェンコ:KGBにとって日本ほど御しやすい国はない、秘密工作のやりやすい国はないと考えている。というのも法律〔スパイ防止法:*原註〕がないという状況がそうだし、〔ソ連に〕友好的なジャーナリストたちと接触するのもひどく簡単ですから。

 日本人はまじめで、開けっぴろげの人間だから、ちょっとしたKGBのトリックで、相手は誰のためにやっているのか考えもしないで〔KGBに〕協力してくれることになる。国会での(*KGBによる謀略)活動も同じことが言えますね。

 あんまり簡単に日本でコトが運ぶものですから、日本はおそらく世界中で一番KGB工作のさかんなところと思います。日本国内はどこをどう旅行しようと何らの制限もない。(*中略)

 ミネタ議員:では東京の大使館以外に、どのような領事館もしくはオフィスをソ連は持っていますか。

 レフチェンコ:ソ連は大使館を東京に設けています。それから大規模な貿易ミッションを置いています。アエロフロート(*国営航空会社)やその他のソ連機関につきましても陳述した通り*です。

〔*これより前の陳述で、「(*前略)ただし(*駐日ソ連)大使館はそれほど広くない。50人ほどの外務官僚が居るくらいです。貿易ミッションも50人くらい、アエロフロートが20人くらい。ノーボスチ通信と、タス通信がそれぞれ数人くらい。それにたまたま滞在中のソ連人が、20人から50人ぐらい。日本でソ連人の存在はけっこう多いのですが、そのうちのほぼ半数が、KGBかGRU(*軍情報部)の要員と考えておけば間違いないはずです。」と証言しています。〕

 それから領事館についてもいうべきでしょう。北海道の札幌と、最近(*1982年当時)できた大阪の領事館はかなり広いものです。

 ミネタ議員:日本では彼らの国内旅行の制限はないのですか?

 レフチェンコ:外交官は制限を受けています。ただしジャーナリストについて言うなら、日本のどこを旅行するにも許可をもらう必要はありません。私は沖縄に行ったことがあります。東京から相当の距離のところですが二回行きました。北へも行きましたが、誰も私を尋問したりすることはありませんでした。

 KGBが(*要員のカバーとして)ジャーナリストを好むのはこのためで、とくに日本だけについての話ではありません。世界のあらゆる地域でそうです。

 ところがソ連の外交官が、日本の議員会館に足を運ぶのはなかなか無理があります。なぜならそれは公式ルートの面談でありますし、なんといっても外交官と国会議員の会合ですからね。それは時として悪いハプニングを起こしかねない。

 しかし日本の議員さんたちはとってもジャーナリストが好きなんです。面談するのは極めて容易です。電話をかけて、そうですね、二~三日中にアポがとれるでしょう。或いは翌日であったり、その日のうちにだって会えることがあります。彼らは、さっきもいいましたが開放的で、外人記者に対しては誠実に答えてくれます。大使館を公的に代表する人たち(*外交官)との面談より好みますし、ストレスも感じていないでしょう。ですから話題も自由ですし、(*情報獲得は)簡単にいきますよ。ジャーナリストは基本的に無法者(*どんな質問方法も厭わない)ですから。

 もしそのジャーナリストが、仮面だけで、たとえば何か(*心理戦術など)の専門家であるとしたら、会話を通して相手に影響力を与えられます。ときとして自分勝手な方向に会話を進めたり、相手をほめそやしたり、政府の政策への不満に同調したり、それはいろんなことが可能です。

 日中(*平和友好)条約締結後のときに、日本の保守派議員たちはイキリたちました。我々は彼らに接する機会に恵まれ、ソ連で準備されたサービスAという情報をたっぷりとバラまきました。その情報は友人の代議士に伝わり、党幹部に伝わり、やがて国会全体に拡大します。プロセスを単純化すると、こんな図式です。(*当時ソ連と中国の関係は険悪化していたため)

 東京では、たとえばノーボスチ通信に6人、タス通信に6人が働いていました。これらの人たちは「独立したジャーナリスト」と呼ばれております。ラジオ、T V (*テレビ)、ニュータイムス(*ノーボエ・プレーミャ)、プラウダ、イズベスチアそして「トルド」(労働機関紙) などが東京に駐在しています。たぶん合計で18人の「ジャーナリスト」が動いていることになります。

 ミネタ議員:しかし1975年(*昭和50年)には、そのうちの2人だけはKGBではないと言った……。

 レフチェンコ:私は話を短絡しただけです。ミネタ議員。

『ニュータイムス(ノーボエ・プレーミャ)』は日本だけではなく世界中に通信員(*特派員)がいるのです。その年(*1978年)は、たしかに12人でした。もし間違っていなければ現在(*1982年)は14人でしょう。その年の12人のうち、10人がKGB要員で世界中に散っていました。残りの2人は所謂「クリーン(純粋なジャーナリスト)」という人たちでした。とはいっても、少なくともクリーンと呼ばれたうちの一人も相当に積極的で、ソ連共産党中央委員会国際部のために、さまざまなことをやっていました。

 ミネタ議員:いや、どうもありがとう。レフチェンコさん。

・・・(**同上書72~78頁より部分抜粋)

 日本では当時、この「スパイ天国」ということがセンセーショナルに取り上げられたようです。一方で「週刊文春」のインタビューでは、「日本人だからKGBのエージェントになりやすい」のではないと、レフチェンコ氏は語っているのです。それでは何故、少なからぬ日本人は「ソ連のエージェント」になったのでしょうか。

   私は、金銭目的でない人は、本シリーズで見てきたように、やはり戦前から戦後にかけての、日本の大学や学術界、教育界、言論界そしてマスメディアの人々に「蔓延」してきた「マルクス主義・共産主義思想」というものが、大きな背景となっていたように思います。何か「知識人」であることは、イコール「左翼的」、つまりは共産党や社会党などの共産主義・社会主義のシンパでなければならないような、そういう「思潮」が大きく作用していたように思うのです。

   それは、あらためて戦前からの日本社会の流れを俯瞰して見ると、結局レーニン、スターリン、毛沢東などの、ソ連や中国の共産党指導者が鋭意拡散してきた、政治的謀略の結果、特に日本の知識人の多くがその影響を受けて育ってしまったことにあるのではないか、と考えられます。そういったものの見方・考え方で、今一度、日本の平和運動や核兵器廃絶運動が、どうして常に反米的色彩を帯びるのか、という現象を、眺め直してゆかねばならないのではなかろうか、そう思うのです。(次回につづく)