前回ご紹介したレフチェンコ証言による日本社会党への裏金問題などは、当時の朝日新聞は、1983年5月4日付夕刊の「レフチェンコ証言を切る」という記事で「全否定」していましたが、このレフチェンコ証言の約20年後に解説書が出版された『ミトロヒン文書Ⅱ  KGBと世界(英国版未邦訳):THE MITROKHIN ARCHIVE II  THE KGB AND THE WORLD**』Penguin Allen Lane, 2005年刊により、その内容とほぼ合致していたことが確認されました。これは、ソ連のKGB第一総局文書庫に保管されていたKGB所蔵記録文書を12年間に亙り命懸けで筆写して持ち出し、退職後も密かにタイプや整理作業を続けたミトロヒン氏が1992年11月に家族と共に英国に亡命し、最終的にこの約10万ページ分にもなる膨大な文書も全て英国に移送されました。

   この「ミトロヒン文書」を調査研究した英国の情報史学の権威であるケンブリッジ大学のクリストファー・アンドルー教授がミトロヒン氏と共著で出版したのが、全二巻にわたる同文書の解説書であり、英米両国で刊行されました。まず1999年に同文書のうち欧米に関するものを扱った第一巻が出版され、続いて2005年にアジア・アフリカ・中近東・中南米などの地域に関する内容を扱った第二巻が出版されたのです。英国と米国では英文タイトルが異なりますが内容は同じとのことです。いずれも著者はChristopher Andrew (ケンブリッジ大学教授)/Vasili Mitrokhin (元KGB Archivist)の共著です。


第一巻:英国版『The Mitrokhin Archive: The KGB in Europe and the West, Allen Lane, 1999.』

第一巻:米国版『The Sword and the Shield: The Mitrokhin Archive and the Secret History of the KGB, Basic Books, 1999.』

第二巻:英国版『The Mitrokhin Archive II: The KGB and the World, Allen Lane, 2005.』(*上記書)

第二巻:米国版『The World Was Going Our Way: The KGB and the Battle for the Third World, Basic Books, 2005.』

 このうち第二巻の第16章が「Japan(日本)」の章です。そしてこの章の冒頭には、本シリーズで取り上げたゾルゲと尾崎秀實の活動も記録されており、1964に遅ればせながらソ連英雄として顕彰され、その活動はゾルゲがライバル組織のGRU(ソ連軍情報部)の所属であるにも拘らず、KGBの非合法活動の理想的なモデルであると記されていました。また戦後の日本共産党(The JCP: The Japanese Communist Party)や全学連、総評の活動についても触れられていますが、特に日本社会党(JSP: The Japanese Socialist Party)については、暗号名(codename)”KOOPERATIVA”と名付けられた作戦による日本社会党工作内容などが詳しく書かれているのです。この書の概要は、山内智恵子著/江崎道朗監修『ミトロヒン文書 ソ連KGB・工作の近現代史***』(2020年ワニブックス刊)の「第5章 ミトロヒン文書と日本――戦後の対日工作」で紹介されていますので、皆さんもぜひ同書を手に取ってご一読して戴き度存じます。

   さらに政・官・財界に限らず、ミトロヒン文書よれば、朝日新聞をはじめ読売新聞、東京新聞、共同通信、そして保守派で知られる産経新聞の、記者や編集部幹部とおぼしきメディア関係者も、どこまでwitting(意識的)かは別として、多数「KGB協力者の暗号名」を持っていることが記録されています。

 レフチェンコ氏も、上記書の著者山内智恵子先生も、良識的配慮から、なるべく直接的な「実名表記」は避けておられるのですが、1983年時点からでも既に40年以上が経過した今日、もはやかなりの方々がご存命でなくなっていますし、かつ肝心の「日本社会党」自体がもはや存在していません。ですから、今回は、上記の作戦名”KOOPERATIVA”に関する英書『THE MITROKHIN ARCHIVE II』の原文を、仮訳をつけて少しご紹介したいと存じます。尚、山内智恵子先生もご著書内で訴えておられる通り、上記のミトロヒン文書の解説書が日本でも然るべく翻訳出版されることを願うものです。

   尚、レフチェンコ氏はKGBの日本駐在部で「Line PR」に所属していましたし、この”KOOPERATIVA”作戦もこの「Line PR」が担当していました。山内智恵子先生は前掲書***で次のように解説されています。

・・・<KGB駐在所(「レジデンチュラ」)の概要>

駐在所長(「レジデント」。駐在官とも訳す)の下、作戦部門と支援部門によって構成される。作戦部門はさらに複数の「ライン」と呼ばれる下部組織で構成される。主なラインは以下の通り。

 P Rライン:政治情報

 K Rライン:防諜(Counter Intelligence)

 X ライン:科学技術情報収集

 N ライン:非合法工作員への支援。デッド・ドロップ等で間接的に行う。

 E Mライン:亡命者担当

 S Kライン:駐在国に滞在するソ連人の保安

・・・(***同上書296頁の表より)

 尚、この”KOOPERATIVA”作戦は、上記『THE MITROKHIN ARCHIVE II**』では、299頁の下段から300頁にかけて記述されていますので、まずはその英文原文をご紹介します。(*裕鴻註記・補足)

・・・Line PR’s main strategy after the breach with the JCP(*The Japanese Communist Party) was to recruit leading members from the left wing of the the main opposition party, The Japanese Socialist Party (JSP), which it codenamed KOOPERATIVA, and to use them as agents of influence. On 26 February 1970 the Politburo approved the payment by the KGB of a total of 100,000 convertible rubles (35,714,000 yen) to a number of leading figures in the JSP and to subsidize the party newspaper. Similar subsidies seem to have been paid each year. Probably by the time the Politburo approved secret subsidies to the JSP, five influential party members had already been recruited as KGB agents: Seiichi Katsumata (codenamed GAVR), runner-up in the 1966 election for the post of JSP General Secretary, who in 1974 was given 4 million yen to strengthen his position in the party; Tamotsu Sato (transparently codenamed ATOS), leader of a Marxist faction in the JSP, who was used to place active-measures material in four party periodicals; ALFONS, who was paid 2.5 million yen in 1972, and used to place articles in the JSP daily Shakai Shimpo; DUG, a JSP official close to the Party Chairman, who was given 390,000 yen in 1972 for his election campaign; and DIK, paid 200,000 yen in 1972 to publish election leaflets and posters. Other recruits in the 1970s included JACK, a JSP deputy and prominent trade unionist; Shigero Ito (codenamed GRACE), also a deputy and a member of the party’s Central Committee, and DENIS, who had been a close aide of the former JSP Chairman Saburo Eda. KGB confidential contacts included a former Communist codenamed KING, who had become one of the leading figures in the JSP, and KERK, a member of Katsumata’s JSP faction in the Diet. Mitrokhin’s notes on the files of DENIS and GRACE record that their motivation was both ideological and financial. The same was probably true of most of the KGB’s other agents in the JSP. The KGB’s influence operations in the Diet were also assisted by the academic YAMAMOTO (*codename), who was described in his file as being ‘ideologically’ close’ to Moscow. After being recruited as an agent in 1977, he successfully prompted at least two parliamentary questions in each session of the Diet, which, according to the residency’s possibly optimistic assessment, had a significant impact. 

・・・(**同上書299~300頁)

 では、これを以下に仮訳してみます。(*裕鴻註記・補足)

・・・JCP(日本共産党)との袂を分かった後、「ラインPR」の主戦略は、主要野党である日本社会党(JSP)の左派から主要メンバーを募り、KOOPERATIVAというコードネームの工作作戦で、彼らを影響力のあるソ連のエージェントとして利用することでした。1970年(*昭和45年) 2月26日、ソ連共産党政治局はKGBが日本社会党(JSP)の主要な指導者たちと同党の広報新聞への補助金支払いを承認し、合計100,000ルーブル(35,714,000円)を支払うことを承認しました。同様の補助金は毎年支払われたようです。おそらくソ連共産党政治局が日本社会党(JSP)への秘密補助金を承認した時点で、5人の影響力のある日本社会党(JSP)党員がすでにKGBのエージェントとして獲得されていました。1966年(*昭和41年)の日本社会党(JSP)執行部書記長選挙の次点者であり、1974年(*昭和49年)に党内の地位を強化するために400万円を受け取った勝間田清一(コードネームGAVR:*ギャバー); 日本社会党(JSP)内のマルクス主義派のリーダーで、4つの党機関紙に積極的な手段の素材を提供するために利用された佐藤保(コードネームATOS:*アトス、*社会主義協会事務局長); 1972年(*昭和47年)に25万円を受け取り、日本社会党(JSP)の日刊新聞『社会新報』に記事を掲載するために使われたALFONS(*アルフォンス); 党委員長に近い日本社会党(JSP)職員で、1972年(*昭和47年)に選挙活動のために39万円を受け取ったDUG(*ダグ); そして1972年(*昭和47年)に選挙ビラやポスターを出版するために20万円が支払われたDIK(*ディック)。1970年代の他の勧誘者には、日本社会党(JSP)の副委員長であり著名な労働組合員であるJACK(*ジャック); 日本社会党副委員長であり、党中央委員会のメンバーである伊藤茂(コードネームGRACE:*グレース); そして元日本社会党(JSP)執行部書記長の江田三郎に近い親しい助手であったDENIS(*デニス)が含まれていました。KGBの機密接触には、日本社会党(JSP)の主要な指導者の1人となった元日本共産党員(コードネームKING:*キング)と、日本社会党(JSP) 勝間田清一派の一員であったKERK(*カーク)が含まれていました。DENIS(*江田三郎氏側近)とGRACE(*伊藤茂氏)のファイルに関するミトロヒンのメモには、彼らの動機がイデオロギー的かつ金銭的であることが記録されています。おそらく日本社会党(JSP)のKGBの他のエージェントの大部分も同様の状況であったでしょう。国会でのKGBの影響力拡大作戦は、モスクワと「イデオロギー的に近い」と記載された学者YAMAMOTO(*ヤマモト:コードネーム)の協力によっても支援されました。1977年(*昭和52年)にエージェントとして獲得された後、彼は国会の各会期に少なくとも2つの議題を提起し、KGB日本駐在所長の多分に楽観的な評価によれば、それは重要な影響を持っていたとされています。

・・・(*上記英文の仮訳。尚各コード名のカタカナ名は、山内智恵子著の前掲書***240-241頁のリスト掲載名と整合させました。)

 このKGBによる資金提供(裏金)に関しては、第73回でも取り上げた加瀬英明監修/宮崎正弘訳『ソ連KGBの対日謀略 レフチェンコ証言の全貌****』(1983年3月山手書房刊)にも、次のような米国議会下院情報活動特別委員会秘密聴聞会(1982年7月14日)でのレフチェンコ氏の証言が掲載されています。これも少し見てみましょう。質問のヤング下院議員は同委員会メンバーです。

・・・<志賀義雄を直接支援した>

   ヤング議員:(*前略) ところでそれならあなたの専門地域、とくに日本国内にソ連は系列化もしくは「補助金」を与えた組織をどれだけもっていたのですか?

 レフチェンコ:まず日本共産党ですが、ソ連はこの組織に補助金を出していません。なぜなら日本共産党は、むしろ自らが潤沢な資金を持っている。(*機関紙『赤旗』の購読料収入など) 日共は大きいし、強力な党です。

 日本社会党についていえば(これは(*当時)日本での主要な反対党です)、ソ連は間接的に支援しています。

 ヤング議員:あなたのいう「間接的」なるものは、どのようなルート、どう間接的な支援をするのですか?

 レフチェンコ:私が「間接的」という用語を使いますのは、資金が政党本部に、現金で届けられることはありえない、という意味です。ソ連は、巷間いうところの「友好貿易機関」を通して、この種の支援を行なっています。友好貿易商社によって(これらは小規模もしくは中規模のビジネスをしてい(て)、ほとんどがソ連貿易です)、ソ連の貿易機構との協定条項のもとにやっています。この協定は秘密協定とも機密合意とも呼ばれているようです。

 しかしこれらの協定は成文化することもあれば、口頭だけの場合もあります。いずれにせよ、その条項はたとえばこんな風に表現されるでしょう。「該当会社は純利益のうちから15ないし20パーセントを日本社会党のある派閥またはあるグループに支払え」と。

 このことに文句を言ってくる商社はまずありません。こうして、私は「間接的」という表現を使うわけで、ソ連が直接お金を持ってくるようなやり方ではないわけです。とはいうものの、実はソ連が直接の支援をしている〔原文は進行形になっている〕グループが少なくとも一つ、日本にあります。これは小さな組織で、日共(*日本共産党)の副木(そえぎ)のようなもので、たいへん老いた男によって率いられています。そのリーダーは志賀義雄です。彼の党は、ざっと二千か三千のメンバーで、ソ連(*共産党中央委員会)国際部は、KGB要員を通じて、彼のもとに直接、現金を運びました。

 ヤング議員:それはルーブル通貨ですか、日本円で、ですか?

 レフチェンコ:円だろうと思います。ソ連は基本的に外国通貨を選ぶにあたって問題はありません。

 ヤング議員:するとこの志賀グループ(*「平和と社会主義(日本のこえ)」)は、ソ連によって直接的に資金援助を受けたということですか?

 レフチェンコ:そうです。

 ヤング議員:ソ連は、このグループの活動も、直接指導しているのですか?

 レフチェンコ:すみません、ヤング議員。(少し誤解があるようですが)志賀グループは、現在(*1982年当時)はソ連の直接支援ではありません。なぜかと申しますと、彼らの影響力は、実質的にゼロだからです。またソ連共産党と、多数派の宮本(*顕治)共産党との関係をめぐって大きな論争がありました。このために、(*ミハエル・)スースロフ(*ソ連共産党中央委員会第二書記)の時代から、この老人・志賀義雄に対し、ソ連は同義的な責任があったと思われます。彼を孤立させてはいけない。したがってソ連は彼にお金を払っています。〔ここでも原文ではふたたび現在進行形になっている〕

  <資金はこうやって運んだ>

 レフチェンコ:また日本地区にあっては、私も日本(*駐在)時代に個人的に目撃したのですが、ソ連は資金を届けていました。(*ソ連共産党中央委員会)国際部はKGB要員に命じ、フィリピンの非合法組織であるフィリピン共産党に、二重底のカバンにお金を入れて届けた。その行動のさまはスパイ映画のそれとそっくりですよ。

 ヤング議員:ちょっと確認させてください。誰が届けたのですか。KGBが配達の役をつとめたのですか?

 レフチェンコ:そうです。(*ソ連共産党中央委員会)国際部のオフィスは諜報要員がおりません。彼らはまた、プロのスパイではなく、その職業柄や訓練からいっても、この任務には適任ではない。このためKGBがかり出されます。

 しかし(*ソ連共産党中央委員会)国際部は(*ソ連共産党)政治局に握られていますし、KGBも同じ政治局の他の部署が統括しています。もし政治局が誰かに資金を届けろといえば彼らは専門家を使います。この役目は、私自身、目撃(*体験)したことがあります。

 私はモスクワの共産党本部に行かなければなりませんでした。ここで資金の入ったバッグを経理係が持参し、それを特殊なスーツケースにしまいこむ。私は経理係に受け取り(レシート)を与えなければならず、こうして資金は日本に運ばれるわけです。この「特別便(スペシャル・クーリエ)」が日本に着くと、KGB要員はスパイ技術を十分に発揮し、他の国の都市へ向かいます。志賀義雄に運ばれたお金もこうしたルートでした。

 ヤング議員:日本と同じようなことは他の国々でも起こっているのですか。〔このマネー作戦は〕それとも厳密に、日本だけのことですか?

 レフチェンコ:それは実例があまりないので正確なことを申しあげられません。ただ私は、この種の場合に彼らが典型的に用いている、かなり日常的な作業だろうと確信しています。

 ヤング議員:日本のケースでは、あなたは自分で目撃されたことがあるのですね?

 レフチェンコ:ええ、私自身が資金を受け取り、このお金を誰が大阪へ運んだかを知っています。〔この場合の大阪の意味は志賀グループをさしている:*原註〕

 ヤング議員:フィリピン共産党について知っていることがあれば何でも話して下さい。

 レフチェンコ:残念ながら私はフィリピン共産党についての知識はありません。ただし一つだけ知っていることがあります。フィリピン共産党のメッセンジャーが(資金を受け取りに)日本にやって来たことで、私の滞日中の出来事です。多かれ少なかれ、このルートは恒常的なものと思われます。KGBの手からKGBの手で運ばれるルートのことですが、私はこれも自分で目撃しました。というのも運搬役のKGB要員を私は手助けしなければなりませんでしたから。

 専門用語でいう諜報対抗(カウンター・インテリジェンス)を、我々は用いたかも知れませんが、日本がそれほど我々の行動を監視することはないことです。〔つまり日本のスパイ監視は何もない。諜報対抗などを日本はまるでやっていないからスパイ天国だとレフチェンコは意図している:*原註〕

 私はあるホテルまで車を運転しました。そしてKGBのケース・オフィサーは車から降りて、お金の入った重いバッグをかかえて消えました。帰ってきたとき彼の手には何もありませんでした。・・・(****同上書102~107頁)

 このようにレフチェンコ氏は、日本での具体的な資金の受け渡しについて証言しています。もはやソ連は存在しませんが、こうした過去の例から類推して、現代の日本を舞台にした周辺国や関係のある国々の諜報員たちが、引き続き様々な秘密情報活動を繰り広げているものと合理的に推察できます。各国とも、少しでも自国の利益になるように、懸命の水面化の努力を、合法的のみならず場合によっては非合法手段も用いて行なっている可能性は否定できないのです。旧ソ連の場合も、このレフチェンコ氏はKGB第5局について、次のように証言しています。

・・・ヤング議員:第五局とは何ですか? 今日の公聴会(*秘密聴聞会)でこのKGB第五局の名前は初めて聴きますね。

 レフチェンコ:この第五局はKGB第一総局の「非合法サービス」に属します。以前は独立した機関でした。その主任務は破壊工作や暗殺など非合法活動を展開するための海外代理人(*agent)をみつけだし国際状況がきわめて〔ソ連側に〕悪化した場合に活動していました。この部門は独自の非合法工作員も海外に派遣し、そこで坐って待ちながらギャング・タイプの人間を補充(*recruit)します。こうしたタイプの人間にはたとえば電話線切断なんて作業は簡単なことです。

・・・(****同上書111~112頁)

 平たく言えば、「殺しのライセンス」を持ったKGB要員ということですね。映画さながらのこうした要員が実際に存在していたことを示しています。因みに山内智恵子先生の前掲書***294頁によれば、この第5局は、1969年に当時のアンドロポフKGB議長により設置され、その後「憲法擁護局」と名称を変えて「反体制活動への対処 (宗教団体や少数民族など)」を任務としていたとのことです。このアンドロポフとゾルゲの墓参りを、プーチン大統領が初就任の直後行ったという話も以前、山内先生の同書***からご紹介しましたが、こうした「KGBの伝統」は、今のロシア連邦にも引き継がれているのではないかと懸念されます。(次回につづく)