今回は、米国議会下院で1982年7月14日に開催された、情報活動特別委員会Closed hearing (秘密聴聞会)での「レフチェンコ証言」の貴重な記録を、前回に引き続き、絶版の書である加瀬英明監修/宮崎正弘訳『ソ連KGBの対日謀略 レフチェンコ証言の全貌**』(1983年3月山手書房刊)から見てみたいと思います。ご興味のある方は古本で探して、ぜひ本書の全内容を読んでみて戴きたいと存じます。ここでは、同聴聞会の冒頭に行われたレフチェンコ氏が自ら説明した来歴を少し読んでみましょう。(*裕鴻註記、尚漢数字はアラビア数字に修正)

・・・さて、いよいよレフチェンコ氏が登場。

   レフチェンコ:私は、この日のためにタイプで打ったテキストを用意してきた。しかしそのほかにも、言及したい点が多々あり、記録にとどめてほしいのでテキストにもとづかないで発言させていただきたい。

――彼はそう発言すると、まず用意してきたペーパーを基に発言をはじめた。

   レフチェンコ:私の名はスタニスラフ・レフチェンコ。1941年(*昭和16年)7月28日生まれで、モスクワに育った。父は軍の研究所の部門の主任で少将だった。その部門はケミカル・エンジニアリングだった。母は私が三歳のときに死んだ。父は後年、再婚したが、継母は小児科医だった。

 1958年(*昭和33年)、モスクワではトップの特別高校を卒業したが、学科のいくつかの授業は英語だった。それからモスクワ大学のアジア・アフリカ研究所の学生となり、6年間にわたって日本語と日本史、日本経済、日本文学について習った。卒業後「海洋漁業研究所」の下級研究員に任命され、1965年(*昭和40年)に(*ソ連共産)党中央の国際部に呼びだされた。

 日本の『赤旗』(*日本共産党機関紙)記者のモスクワ特派員通訳兼秘書として働かないか、と提案された。私の仕事は何だったか。それはこの赤旗記者の動向を同時にスパイし、(*ソ連共産党)国際部の日本部門に毎日、報告することだったのである。私はこの仕事がイヤだったので断り、たまたま大学院入学資格をとっていたので、ソ連科学アカデミイの「アジア・アフリカ人民機関」に入った。私の卒論のテーマは、「日本の平和運動の歴史」についてだった。

 1965年(*昭和40年) 11月、私は大学院への入学が許された。65年から67年(*昭和42年)の大学院生時代に、私はパートタイムで、「世界平和協議会」(WPC) の仕事をした。私の任務は、日本から次々とやってくる代表団の通訳で、彼らを通じて情報取集するのも私の任務だった。

 1966年(*昭和41年)、私はソ連の貿易ミッションの通訳としてはじめて日本を訪れる機会をもった。しかしながら党国際部の命により、何人かの日本人指導者に面会し、最新情報を仕入れ、報告しなければならない義務があった。かくして、KGB要員として日本に赴任する前ですら私は12回近く、日本を訪れている。それはともかく、1966年(*昭和41年) 私はフルタイムの職についた。それは「ソビエト・アフロ・アジア(*AA)連帯委員会」で、カイロに本部のある機構だった。ちなみに、このAA(*Afro-Asia)組織は、ソ連共産党国際部の指導で、アジア、アフリカ各地の民族解放運動を助け、ときには秘密の軍事援助や、多くの資金援助をする機関。中東やアジア・アフリカなど多くの第三世界のソ連派リーダーたちと接触し、米国の影響力を弱めるキャンペーンをはった。

 (*19)60年代に、この機関が反ヴェトナム戦争(*ベトナム反戦)キャンペーンを展開したときの例をあげてみよう。ソ連のヴェトナム支援委員会はこの「アフロ・アジア連帯委員会」の一部門で、KGBと密接な連携をとっていた。もちろん政治局の指導にもとづいたものだ。日本からソ連へ逃れた米兵たちの逃亡を助け、彼らはソ連のジャーナリズムに反米的な言辞を吐いてくれたので、以後このパターンは世界中に拡がった。(*逃亡)米兵たちは最終的にスウェーデンに落ちついた。

 KGBおよびソ連陸軍は、テロリストのソ連内での養成を受け入れるが、その人選も、この人民連帯委(*委員会)が作成したリストにもとづいて行なわれる。たとえばPLO(*パレスチナ解放機構)のテロリスト養成は、PLO幹部から連帯委が入手したリストによって選ばれるのである。PLOがモスクワに代表部を設置するはるか以前から、ソ連の連帯委員会はPLOのリーダーであるヤセル・アラファト議長と個人的な接触を絶やさなかった。

 私は1966年から翌年(*67年)にかけて、(*ソ連)陸軍の予備将校*として非合法活動の情報工作の訓練を受けた。戦争が近いという想定のもとに、イギリスで核戦力の保管場所などを調査し、GRUに報告するという任務の訓練だった。その場所は、イギリスの主要港の一つの領域が設定されていた。〔GRU(*ソ連軍参謀本部情報総局:軍情報部)は軍隊に属する情報工作部で、レフチェンコ氏は陸軍が原籍である(*原註)〕

    〔*裕鴻補註:予備将校と予備役は異なります。陸軍士官学校を卒業したプロの陸軍将校とは別に、一般大学等を卒業した者を予備将校として現役勤務に就かせる場合があり、陸軍に所属して軍人としての勤務を「現役の予備将校」が担っています。そしてその軍務を解かれた場合に、「現役の予備将校」から「予備役の予備将校」になるのです。レフチェンコ氏ものちに予備役となってから、いわば国家公務員としてのKGB(国家保安委員会)の職員たるKGB情報将校に転属しました。しかしKGBにおいても軍の階級制度は共有されており、同氏は少佐に昇進して、日本での政治諜報(PR)工作班の主任になったというわけです。〕

   (*19)70年に、私はこのAA(*Afro-Asia)組織のスポークスマン(*広報担当官)になった。カイロで開かれた国際会議にも出席した。同じ年(*昭和45年)にKGB第一総局の幹部から、ケース・オフィサー〔ケース・オフィサーの訳語は暗殺工作員、工作要員や、部下、駐在員などまちまち(*原註)〕として参加するようアプローチがあった。

   〔*裕鴻補註:KGB第一総局は、「対外情報活動を担当。海外の合法および非合法駐在所を統括」していました。(山内智恵子著/江崎道朗監修『ミトロヒン文書 ソ連KGB・工作の近現代史』(2020年ワニブックス刊)294頁より〕

   私は(*19)72年(*昭和47年)に、一年コースのKGB研修所を卒業した。ここには実に洗練された訓練設備が整っており、将来の諜報工作員の幹部になるであろう学生たちが、スパイが必要とするあらゆることを学ぶ。海外諜報工作のやり方や、スパイ対抗手段はいうに及ばず、専門情報をいかにして収集したり、或いはエレクトロニクス機器の操作方法についても学ぶ。かくて私は(*19)72年秋に、KGB第一総局七部の日本デスクに所属する「ケース・オフィサー (*case officer)」となった。軍隊の階級も中尉に昇進した。

   私は日本のあらゆる階層に属する代理人(*agent)に関して、20ほどのファイル(*案件)を常時、統括しなければならなかった。そのファイルには日本の社会主義者政党についても含まれ、日本の情報社会での作戦方法についても書かれていた。

   訓練を終えた私は(*19)74年(*昭和49年)に、日本の政治情報を収集するために、KGB第一総局から日本へ派遣されることになった。私の最後の訓練段階の一年間は、『ニュータイムス (*ノーボエ・ブレーミャ)』(*ノーボスチ通信社刊)のジャーナリスト(という仮面(*カバー))としての資格にふさわしく、私自身の才能をみがくことだった。(*Afro-Asia)連帯委(*広報担当官)時代に、モスクワ放送のためにいくつか長文の原稿を書いたこともあったので、編集上のメカニズムについては承知していた。このときの私はたぶん東京で、『ニュータイムス (*ノーボエ・ブレーミャ)』のジャーナリストという肩書きのもとで働くのだろうと予想することができた。しかし東京のような、世界中から本物のジャーナリストが集まっている場所で、本当の意図を隠しながら仕事をつづけるにはジャーナリストとしての体験をよほどつかんでおかねばならなかった。

   『ニュータイムス (*ノーボエ・ブレーミャ)』は、ロシア語、英語、スペイン語、アラブ語、チェコ語、ポーランド語そしてドイツ語によって刊行されている。前はソ連の貿易公団に属していたが、今(*1983年当時)ではKGBと(*ソ連共産)党の宣伝機関となった。海外工作員は、この駐在員として仮面をかぶることとなった。このとき『ニュータイムス (*ノーボエ・ブレーミャ)』の海外特派員は12人居り、うち10人がKGBだった。

   (*19)75年(*昭和50年)2月、家族とともに東京に着いた私は、「PR(政治諜報)ライン」とKGBが呼んでいる活動を、東京KGB支部のケース・オフィサーとして開始した。

   最初は月に一度か二度の割合で記事を送り、到着して二週間後に前任者の引き継ぎによって日本社会党の有力な人間と会った。数カ月後、日本にはりめぐらされたKGBのネットワークのなかから、私は数人の代理人(*agent)を統括するようになり、さらに次の4年間(*1976-79年)で、4人の代理人(*agent)を補充(*リクルート)した。1979年(*昭和54年)までには、私は10人の代理人(*agent)を受け持ち、毎月20回から25回ほどの秘密会合をもっていた。

   うち4人は、日本のすぐれたジャーナリストである。また自民党の高い地位にある議員や政府高官(そのなかには複数の閣僚も含まれる)との接触を通じて、私は日本の政府が内外政策にどのようなプランを立てているかを、彼らがもたらした会話や、提供してくれた書面から知りえた。これらの代理人(*agent)ののうちの一人は、ある日本の日刊紙のオーナーと親しく(300万部以上の発行部数)、この新聞を通して、ソ連の多彩な工作を遂行するために、彼(*agent)は用いられた。ソ連はこうして積極工作のバリエーションを、この新聞を通してほのめかすことが出来た。彼は、私が前任者から引き継ぐほんの少し前に〔提示資料のような〕“周恩来が遺書を残した”という記事を書いた。これこそまさしく、(*19)70年代を通してソ連KGBねつ造品のもっとも成功した文書の一つである。これはKGBの行動的手段の一環作業として、専門家たちが作成したもので、中国のリーダーシップは毛沢東の死を前にした期間に、主要な論点で分断していることを報じようとした記事だった。このニセ文書はそのまま世界中のマスコミ媒体を通して再生産され、多くの国々で再演されたわけである。〔《CIAの付属資料原文》88ページには、明らかにサンケイの山根卓二氏が書いた記事がコピイされ、そのうえにFORGERY(偽造)のスタンプがある(*原註)〕さらにもう一人のジャーナリストである日本人代理人(*agent)は、日本の情報機関(*内閣調査室)発行の多くの機密文書を手にできる地位にあり、KGBに提供してくれた。

   もう一人の日本人代理人(*agent)は、社会党の幹部(*勝間田清一氏と思われる)で、彼は党内で積極的に、ソ連の有利になるような役割を担ってくれた。つまり右傾化を阻止し、中国との関係親密化をはばんだ。(*当時すでに共産党は中国寄りであった由)

   私の日本時代、全体で200人以上の日本人代理人(*agent)を補充(*recruit)し、KGBネットワークは大きくなった。彼らは、KGB第一総局の政治情報、幅広い諜報対抗(*counter intelligence)活動、科学技術情報などの分野で用いられた。数ある日本人工作員のなかでも、ソ連にとって有益だったのはある閣僚経験者だった。彼は国会の公的な機関の議長でもあった。

   また日本社会党の数人の幹部も効果的だったし、有力な中国学者のうちの一人は、日本の政府高官たちとも親密なコンタクトを持っていたが、効率的だった。〔「週刊新潮」は、この“中国学者”を中嶋嶺雄氏に擬した(*原註)〕また国会議員の数人も〔工作員代理として(*原註)〕、実に効率よくやってくれた。私は生活の半分以上の時間を、日本に於けるソ連の「積極工作」遂行のために費やした。

   さて日本に於ける我々(*ソ連KGB)の活動目標は何だったのか。それは次の通りである。

   ①日米間のさらなる政治的、軍事的緊密化を阻むこと

   ②日米の政治的、経済的あるいは軍事的な人的結びつきの間に不信感を増大させる

   ③日中関係のさらなる発展(とくに政治・経済の分野で)を阻む〔*同じ共産圏ながら、当時は既にソ連と中国の関係は険悪化していたため〕

   ④北京―東京―ワシントンの「反ソ枢軸」の政治・経済上の発展の可能性を消去すること〔*1972(昭和47)年に、既にニクソン訪中による米中関係改善と日中国交正常化がなされ、ソ連は対米・対日関係で、中国に比して孤立化していたため〕

   ⑤まず自民党内に、優秀なソ連寄りロビイストをつくりだし、社会党にも拡げる。この継続は日ソ間の経済・政治関係を深めることに役立つ

   ⑥高官の代理人(*agent)たちを通じ、日本政府のリーダーたちに日ソ関係の重要性を確信させ、また経済面での日ソ協力はますます必要になろうことをふきこむ。このためには、高い影響力をもつ財界の代理人(*agent)や、ジャーナリストたちを通じても行なう

   ⑦日本に政治サークルを組織化させ、日ソ善隣友好条約締結へのムードを作り出させる〔*日ソ平和条約は北方領土返還問題がネックとなっていたため、北方領土問題を棚上げ(実質的な形骸化)しての善隣友好条約締結により、ソ連は日本から政治・経済的利益を得ようとしていた〕

   ⑧自民党の議会独占をさらに助長させないため野党の政治姿勢〔この場合、綱領、規約、大会宣言、活動方針などのこと(*原註)〕に影響力を与える。このためなによりも日本社会党に深く食いいる。

   ⑨連立政権を志向する野党のリーダーたちを幻滅させる。ソ連はなによりも日本の政治的安定を必要とする〔*つまりは自民党安定政権の方が、野党連立政権などによる政権交代で政治が不安定化するより、ソ連は対処しやすい〕

   ⑩さらに「KORYAK作戦」という極めて高度な作戦を維持する。このKORYAK作戦は、ソ連が千島列島に軍を分遣して、ここに住居を建設している事実を示し、日本がふたたび領土問題でソ連に論争をいどむようなことは無意味であり、これらはソ連領なのだと日本人が認識するように影響を与える。〔*原註省略〕・・・(**前掲書38~48頁)

 

   如何でしょうか。もちろん今から40年以上前の証言内容ですが、ソ連という共産党一党独裁国家やその中での「KGB的発想」ともいうべきものの見方・考え方がわかり、大変参考となります。ここからは、もう一つの絶版の書である『レフチェンコは証言する***』(1983年文藝春秋刊、「週刊文春」編集部編)の第Ⅴ章から、当時の日本の政治・政党に対する諜報・謀略活動に関するレフチェンコ氏の説明を聞いてみたいと存じます。

・・・第Ⅴ章 なぜ、社会党にエージェントが多いのか

〔KGBは他国の共産党には浸透しない〕

(記者):なぜ、あなたは社会党を主なるターゲットにしてきたんですか。

   レフチェンコ:誰がそんなことを言ったのですか。

(記者):だって、あなたは多くの社会党員を知っている。

   レフチェンコ:もう一度繰り返します。この点は書きとめておいて下さい。そういった議論はわざと作り出したものです。それこそ、日本で、“レフチェンコ事件”をエゴイスチックな政治目的のために使う一つの例です。

(記者):その点については、すでに、聞きました。

   レフチェンコ:あなたの質問に対して、こう答えさせていただきます。ソビエトは、社会党だけでなく、自民党にもそしてすべての党に浸透しようと非常な努力を重ねているんですよ。できれば、公明党にも浸透したいと思っているでしょう。

(記者):民社党もですか?

   レフチェンコ:ターゲットとして狙っています。しかし、浸透には成功していません。KGBは、すべての政党をターゲットにしているのです。

(記者):民社党なども含めてということですね。

   レフチェンコ:それは、成功の程度において違いがあることも事実です。たまたま、社会党で、自民党よりエージェントが多くなったということです。日本のマスメディアの一部は、私が党派について差別していると言います。

   しかし、私は、自分が政治的に使われるのが一番イヤなのです。それは、党における重要性からいえば、自民党の石田(*博英)氏は社会党のグレース(伊藤茂氏:*原註)より重要かもしれません。しかし、本質的には何ら変わるところはないのです。

(記者):そうですか。

   レフチェンコ:私はなにも社会党だけをピックアップしているのではないのです。ただ、事実として、KGBは、自民党より社会党の人々をリクルートすることが多かったということです。

(記者):じゃ、二番目にリクルートすることに成功した党はどこなんですか。

   レフチェンコ:自民党です。

(記者):共産党はどうなんですか?

   レフチェンコ:共産党には浸透していません。私が日本で取り扱っていた報告文書を読んだ限りでは、公明党にも浸透していません。民社党も同様です。

(記者):共産党には浸透していないのですか? なぜです?

   レフチェンコ:KGBは、他国の共産党員はリクルートしないというルールがあるんです。

(記者):それは、上からの命令?

   レフチェンコ:外国の共産党を扱うのは、(*ソ連共産)党中央委員会国際部なのです。

(記者):そうなんですか。

   レフチェンコ:しかし、日本共産党というのは、多かれ少なかれ、ユニークな党です。ソビエトから独立した存在であろうと欲し、同時に、国際部と密着した関係を持つことを好みません。これが、ソビエトが日本共産党に好感を抱いていない理由です。

   国際部は、日本共産党を担当することになっています。一方、KGBは、共産党員をリクルートしてはいけないきまりとなっている。しかし、現実には、国際部は日本共産党に手出しができず、もちろん、KGBも指令を守り続けています。これは、パラドックスと呼ぶべきものではありませんか。

   これが、基本的に言って、共産党が(*KGBによる)浸透からまぬがれている理由なんです。しかし、だからといって、ソビエトが日本共産党についての情報を集めていないというわけではありません。

(記者):どこから情報を集めているのですか。

   レフチェンコ:共産党員を直接リクルートするのではなく、共産党を担当するジャーナリストなどを雇い入れるわけです。この人たちは、共産党の指導者とも接触できる人たちです。あるいは、共産党を専門とする学者をリクルートするのです。ですから、KGBは、共産党の内部で起こっていることは、細大漏らさず知っています。ただ、情報源が党の内部というのではなく、周辺にあるわけです。

(記者):そうですか。

   レフチェンコ:ここでひとつ強調しておきたいことがあります。KGBは、日本の政界、財界などすべての分野に浸透したがっていますが、全部に浸透しているといっては間違いになります。ある所で成功すれば、別の所では、浸透に失敗しているわけです。

(記者):どういうところに、失敗の原因があるんですか。

   レフチェンコ:日本には、KGB将校がたくさんいます。たとえば、東京には、約50人のKGB将校と約20人のGRU(ソ連赤軍参謀本部情報部、KGBとならぶ情報機関――編集部注)がいます。私は、たったこれだけ、というつもりはありません。これは、大変な数です。

   日本は地理的には小さい国ですが、重要度からいえば、大国です。KGBにしろ、GRUにしろ、全部には手が回らないのです。必要とされるすべての部分に浸透しようとすれば、現在の数の二倍か三倍の要員がいることでしょう。

(記者):人的余裕の不足という問題ですね。

   レフチェンコ:そうなるでしょう。・・・(***同上書168~172頁)

 

   このあと、さらにレフチェンコ氏は、当時の社会党の弱点や、社会主義と日本の経済について、興味深い発言をしています。これは次回、取り上げたいと思います。巷では相変わらず憲法記念日の改憲派、護憲派の集会のニュースが流れていますが、両派の主張に関係なく、日本人はこの旧ソ連やKGBからも、もう少し「リアリズム」を学ぶべきなのではないかと、痛感する次第です。共産主義国家でさえ、国のために、こうした活動をしている現実を、一体どのようにわたくしたちは考えるべきでしょうか。

   そしてこのこと自体は、わが国の近隣国である、韓国も北朝鮮も中国もロシアも台湾も、いずれもそれぞれの体制や主義の違いに関係なく、今現在も懸命に努力していることなのです。日本の機密であれなんであれ、思想のためかお金のためか知りませんが、平気で外国に売り渡すような国民を、少なからず生んでしまった戦後日本の問題点は、一体どこにあるのでしょうか。それこそ憲法記念日にあらためて考えてみるべき課題ではないか、と思った次第です。(次回につづく)