わたくしたち日本人は、よく無宗教だの特に特定の宗派はないと言われ、確かにお正月には神社に初詣をし、人が亡くなればお寺でお葬式をし、結婚式は教会で牧師さんに司式してもらい、ハロウィンには仮装したりして、クリスマスは教会には行かなくとも讃美歌も含めたクリスマスソングが流れる中で、クリスマス・プレゼントやクリスマス・ディナーを楽しんだりしています。

 これでは、神道なのか、仏教なのか、キリスト教なのか、ケルト人の古代宗教(ハロウィンの源)なのか、外国の一神教を信仰する人々からは、理解できないと言われてしまうこともあるのです。しかし、もともと、日本の古代から伝わる神道は、「八百万(やおよろず)の神さま」を拝んできたのであり、そのご神体は、古木や奇岩から山、海、川などの自然、そして顕著な功績を成した人の魂まで、ありとあらゆる神様たちに対する信仰の気持ちが、おおもとになっているように思われます。私も伝聞ですが、イスラエルの宗教学者か哲学者が、この日本の神道の研究をしているそうです。ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も一神教(神さまは一人しかいない)のですが、八百万もの神様がいるとは、一体どういうことなのかを、真剣に研究しているそうです。

 平たく言えば、日本人の古代からの感性には、唯一絶対の神さまよりは、いろんな神さまがおられる、という多神教的感覚がその基底に流れているように思われます。ですから他の人や他の国の宗教にも、比較的寛容に接したり、部分的に受容したりできるわけです。この意味と文脈(context)においては、いわゆるガチガチの原理主義的なものは、本来の日本人の感性には馴染みにくいのではないか、とも考えられます。

   その意味では戦前から戦争中にかけての「天皇陛下を現人神とする思想」は、必ずしも日本古来のものとは言えないのです。聖徳太子が仏教をわが国に広められたように、天皇陛下と皇室への崇敬と、仏教などの外来宗教の受容には、何らの矛盾なくわが国の国体なるものを構成してきたとも考えられるのです。更に言えば、あまりに原理主義的な軍国主義的理解に基づく「国体明徴運動」は、陸軍将官の中にも疑問視する人もいたのです。例えば、二・二六事件で陸軍青年将校たちに銃撃され、惨殺された陸軍大将渡邉錠太郎教育総監は、丸善から定期的に洋書を大量に取り寄せて、普段から読書に励んでいた合理性思考の教養人であり、そもそも神懸かり的かつ狂信的なところのある国粋主義的皇国思想と、それを元にした「国体明徴運動」や「天皇機関説排撃」に批判的でした。大谷敬二郎著『憲兵-自伝的回想-**』には次の記述があります。(*裕鴻註記、尚渡辺は本来の渡邉に修正)

・・・おりもおり、渡邉新総監は(*昭和10 (1935)年)十月の初め、名古屋偕行社で衛戍地将校を集め、その席上、「天皇機関説問題はやかましく、今やこれがよくないということは、天下の定説になってしまったが、わたしは機関説でもよいと思っている。(*明治天皇の)ご勅諭の中に、朕が頭首と仰ぎと仰せられている。頭首とは有機体としての一機関である。天皇を機関と仰ぎ奉ると思えば、なんの不都合もないではないか」といった。これから渡邉攻撃に火がついた。渡邉総監は機関説信者である。天皇機関説を排撃する軍は、機関説信者を軍教育の中枢におくことはできない。速やかにこれを追っぱらえ、と青年将校はいきり立った。・・・(**39頁) 

   しかしこの渡邉総監の解釈は、いみじくも昭和天皇ご自身の解釈に通じています。『昭和天皇独白録***』(1991年文藝春秋刊、寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー編著)の中で、陛下は

・・・斎藤(實)内閣当時、天皇機関説が世間の問題となつた。私(*昭和天皇)は国家を人体に譬え、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支えないではないかと本庄(繁)武官長に話して真崎(甚三郎・教育総監)に伝へさした事がある。真崎はそれで判つたと云つたそうである。又現神(現人神と同意味。あきつかみ)の問題であるが、本庄だつたか、宇佐美(興屋)だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。

・・・(***30~31頁)と仰っておられます。生物学者でもいらっしゃった昭和天皇らしく、生物学に基づいた科学的知見を感じさせるご見解です。そのご解釈は上記の渡邉総監と同様です。

 また、国体明徴運動当時の侍従武官長、本庄繁陸軍大将の日記『本庄日記****』(昭和42年原書房刊)の、昭和10(1935)年3月11日には次の記述があります。

・・・三月九日朝天機奉伺の際、林(*銑十郎)陸相が議会に於て答弁せる天皇機関説に付御下問あり、越えて十一日議会の速記録等に付、奉答する所ありしが後刻更に御召あり、「自分の位は勿論別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変る所なき筈なり、従て機関説を排撃せんが為め自分をして動きの取れないもの(*つまり現人神)とする事は精神的にも身体的にも迷惑の次第なり」*と仰せられ、決して左様の次第にあらずと奉答す、誠に恐懼に耐へざる仰せなり(*後略) ・・・(****203頁) (*裕鴻による補修・註記)

   また同じく4月9日の記述には、

・・・四月八日午後二時御召あり、此日上聞に達したる真崎教育総監の機関説に関する訓示なるものは、朕の同意を得たしとの意味なりやとの御下問ありしゆへ断じて左ることなく、全く総監の職責上出したるものなるが事重要なりと認め、報告の意味にて上聞に達したるものなりと奉答す、同九日午後三時半御召しあり、

   1 (*真崎甚三郎)教育総監の訓示を見るに、天皇は、国家統治の主体なりと説けり、国家統治の主体と云へば、即ち国家を法人と認めて其国家を組成せる或部分と云ふことに帰着す。然らば所謂天皇機関説と用語こそ異なれ、論解の根本に至りては何等異なる所なし、只機関の文字適当ならず、寧ろ器官の文字近からん乎。又右教育総監の訓示中「国家を以て統治の主体となし、天皇を以て国家の機関と為す云々」の説を反駁せるも、之も根本に於ては「天皇を国家統治の主体」と云ふと大同小異なり、而るに之を排撃するの一方に於て 天皇を以て国家統治の主体と云ふは自家撞着(*自己矛盾)なり。要するに天皇を国家の生命を司る首脳と見、爾他のものを首脳の命ずる処によつて行動する手足と看ば、美濃部等の云ふ詔勅を論評し云々とか、議会は天皇の命と雖、之に従ふを要せずとか云ふが如き、又機関なる文字そのものが穏当ならざるのみ、仏国(*フランス)では用語を統一せる由なるが、日本も此用語を統一せば便並ん云々と仰せらる。即ち 天皇を国家の生命を司る首脳とせば、天皇に事故あらば国家も同時に其生命を失ふことゝなる、斯く推論せば機関説の意義の下に国家なるものを説き得ざるにあらず、而して必ずしも国体の尊厳を汚すものにあらざるべし。

   2 之に反し、統治の主権は君主にありや(*天皇主権説) 又国家にありや(*国家主権説) と論究せんとするに於ては、両者全く異なるものとなるべし。若し主権は国家にあらずして君主にありとせば、専制政治の譏(*そし)りを招くに至るべく、又国際的条約、国際債権等の場合には困難なる立場に陥るべし。露国をして日露北京交渉に於て(芳沢、カラハン会商)「ポーツマス」条約を認容したる我日本の論法は、国家主権説に基くものと謂ふべし。

   3 朕も亦、君主々権説に於て専制の弊に陥らず、外国よりも首肯せらるゝが如き、而も夫れが我国体歴史に合致するものならば、喜んで之を受け入るべきも、遺憾ながら未だ敬服すべき学説を聴かず。往年穂積、上杉など美濃部其他其一派の学者など憲法論を是非論難せしが、結局根本に於て同一に帰すと云ふ(*後略)・・・(****205~206頁)

   因みに昨今では「日本主義者」というと、こうした原理主義的な狂信的で過激な国粋主義者のようにのみ捉える傾向がありますが、「日本主義」にも合理的かつ穏健な考え方もあるのです。私も一度お会いしてお話を伺った森山康平先生の『山本五十六は何を見たか*****』2006年PHP研究所刊の中に、この戦前日本の「良識的な日本主義」に関する見事な素晴らしい説明がありますので、ご紹介したいのですが、ぜひ皆さんも同書をお読み戴きたいと存じます。

・・・さらに陸軍は、日中戦争(*日華事変)を進めながら国家総力戦という立場をとった。それが法律として結実したのが国家総動員法(*昭和13 (1938)年4月)であるが、それは生産も流通も消費もすべて国家統制のもとに置こうとした法律だった。国家総動員法と、強化された治安維持法は個人の思想も統制下に置こうとした。陸軍は日中戦争とリンクさせながら、全体主義を推し進めようとしたわけである。その全体主義は超国家主義とも呼ばれる。それをファシズムと呼んでもそう大きな異論はないだろう。(*中略) 全体主義といっても、それまでの日本が自由主義国家であったわけでもなく、米内(*光政提督)も山本(*五十六提督)もさらには井上(*成美提督)も決して英米流の自由主義者ではなかった。ごくふつうの日本主義者である。ふつうの日本主義者というのは、天皇陛下を敬いつつ、天皇を中心にして国民が力を合わせて国をもりたてていこうとすることである。しかし天皇の威光を笠に着て他を威圧するとか威張るという生き方をするものではない。自分の立場が悪くなると、天皇を引き合いに出して正当化を試みるような生き方はしない。いわんや、天皇の名を借りて好んで戦いの音頭をとるものでもない。軍人としての日本主義者とは、天皇の命令なく部隊を動かしてはならず、天皇の命令とあらば、水火も辞せず戦い抜くことである。それ以外は軍事にしても、経済にしても、個人生活にしても常識的な欧米風の合理主義にのっとった考え方をとる立場である。(*中略) 明治維新は欧米風の合理主義・理性主義・科学的精神・進歩主義を模範にして近代的国家への脱皮を図ろうとした一大啓蒙主義の運動だった。だから、そこには必ず自由と民主という政治経済思想が大幅に許容されるのが当然という暗黙の前提があった。ふつうの日本主義者は、ことさらには自由と民主という政治思想を鼓吹はしないけれども、言っていることや、やっていることは、自由主義的であり、民主主義的だった。天皇を敬うということとそれは少しも矛盾しないのである。なぜなら、天皇自身が国民の自由と民主の考え方を、直接命令して抑圧することはなかったからである。

 なるほど、大日本帝国憲法はあらゆる権威と権限を天皇に集中させてはいたが、中国の歴代王朝の皇帝のように独裁はできなかった。また、十七~十八世紀のフランス絶対主義時代における「朕は国家なり」の独裁はできない仕組みとなっていた。その仕組みを天皇自ら壊そうと試みたことはない。

 国民の自由と民主の思想や行動を抑圧したのは、天皇の名を持ちだして自分の都合の良い方向に国家を引っ張っていこうとした日本陸軍を中心とした勢力だった。その傾向が顕著にかつ露骨に示されたのは満州事変(*昭和6 (1931)年)以後のことである。満州事変以後、天皇や国家に関する寛容の精神が著しく狭められていった。そしてその仕上げが二・二六事件(*昭和11 (1936)年)だったのだ。・・・(*****同上書122~125頁より)

   わたくしたちが注意しなければならないのは、例えば数直線の原点(ゼロの点)をどこに置くかで、その原点から見て右側が右翼、左側が左翼となることです。この昭和十年当時の天皇機関説排撃の嵐の中では、その思想的な原点は、今日に比べて相当に右側に置かれてしまっていたため、現在でいう自由民主主義者でさえも「アカ」と呼ばれる左翼扱いであったことです。ところが、戦前は「アカ」「左翼」と呼ばれた自由民主主義者でさえ、現在では「右翼」だと言われる、という構造があることに、充分なる注意が必要です。

   こうした綜合的かつ鳥瞰図的な視座は、昭和天皇も仰せられていたし、また宰相ビスマルクも言ったように、歴史をよく学ぶことにより、はじめて中正広範な視野を得て、より公平な判断ができるようになります。これは当時の観念右翼的な青年将校にも、現代の観念左翼的な人々にも、同様に必要であることと存じます。

 この意味と文脈(context)に於いて、論理的には当然のことながら、マルクス・レーニン主義、あるいは共産主義の立場からすれば、例えば、現代日本も含めた、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダというG7(主要国首脳会議)の各国は、すべて「右翼」側の「帝国主義国」であるという「色分け」がなされることになります。確かに第一次大戦または第二次大戦以前に於いては、これらの国々の中には、植民地あるいはそれに準ずる海外領土を持ち、帝国主義的行動をしていた時代もありました。しかし、一方で旧ソ連も、独ソ不可侵条約の時代にはナチス・ドイツと組んでポーランドを分割しましたし、大戦末期に占領した東欧諸国はそのまま衛星国として東側共産圏に組み入れ、ポーランドの「ポズナン暴動」を皮切りに東欧圏で発生した、「ハンガリー動乱」やチェコスロバキアの「プラハの春」と呼ばれた民主化運動に対しては、ソ連軍を派遣して武力弾圧し、さらには1978年にはアフガニスタンに軍事侵攻して、1989年に撤退するまで武力制圧していました。これらは、外形的には「帝国主義的行動」そのものです。また中華人民共和国による1948年から1951年にかけてのチベット軍事侵攻とその併合を行った事実も、同様に解釈できます。加えて、現代のロシアによるウクライナへの軍事侵攻も、西側G7諸国から見れば、全く同様に映るわけです。尤もプーチン大統領が率いるロシア側からすれば、ウクライナの「ファシスト(ウクライナ政府)からの解放のための特別軍事作戦」だということになります。

 これらの事象を相対的かつ総体的に眺めることが、綜合的把握と理解のための「理解過程」には先ず必要であり、その上で、各自が立脚する価値観・価値基盤・価値体系に基づく、評価・判断・批判をなす「評価過程」に進むべきなのです。ところが戦後日本では、言論界・思想界・学術界・マスメディア界などで、マルクス・レーニン主義あるいは共産主義思想への親近感を抱く思想的シンパが、witting(意図的)かunwitting(非意識的)かを問わず多数活躍し、どちらかと言えば「左翼的価値観」からの論説や論評、批判が主流となってきたように思われます。つまり上述した通り、数学的な数直線に例えれば、原点の「0」(ゼロ)の位置が、戦前の右側から、大きく左側に移動(シフト)したわけです。ですから、戦前は左側に位置した自由主義者も、戦後は右側に位置するような「位置付け」がなされてしまったわけです。

   具体的には戦後の保守政治家として有名な吉田茂元首相は、戦前は帝國陸軍中枢から敬遠され、広田弘毅内閣での外務大臣就任を阻まれ、また戦時中は「ヨハンセン(吉田反戦)・グループ」として陸軍憲兵隊(三国機関ともいわれる)の監視下に置かれ、昭和20年(1945年)にはついに憲兵隊に拘束されて留置場に40日ほど入れられたのです。ところが、戦後は一貫して「右側」の超保守的政治家として、左翼勢力のみならず言論界・マスメディア界からは叩かれる存在となりました。まあ当たり前と言えば当たり前なのですが、右端から見れば左側であっても、今度は左端から見れば右側に見えたわけです。こと程左様に、常に「どこに原点(価値の基準点)を置くか」によって、その相対的な位置関係は変わるのだということを、みんなが前提として認識することが肝要です。さもなければ、その時自分の立脚している位置から見た左右上下の風景が、「絶対的な座標」と化してしまいます。まさに中世ヨーロッパに遡れば、「天動説」か「地動説」か、というコペルニクス的転換が意味する「視点・視座の客体化・相対化」に通じるものなのです。

 この意味では、日本古来の「八百万の神さま」という感性は、意外に最新の量子物理学的宇宙観である「多世界解釈」に通じるものなのかも知れません。つまり世界や宇宙を唯一絶対のもの(一神教的)として捉えるのではなく、それこそ同時に無数に存在する世界の折り重なりのような多次元的宇宙観(多神教的)に対応しているかも知れないのです。(和田純夫著「量子力学の多世界解釈」2022年講談社BLUE BACKS刊ご参照。)

 西欧近代の決定論的宇宙観は、この意味で、現代に於いては相対化され多元化され、超克されつつあるのです。そしてその西欧近代の思潮の中で生まれたマルクス主義・共産主義思想の論理構成基盤もまた然りであり、この決定論的な「歴史の必然的発展段階説」をもたらした「史的唯物論」自体も、「唯一絶対の科学的歴史法則」を謳っていたという意味で、あくまで「近代的理性主義」の枠組み内からは脱却できない論理構成で成り立っていたわけです。

 しかしわたくしはむしろ、このマルクス主義なるものは、一種の宗教に近い性質があるのではないかと考えています。レーニン、スターリン、毛沢東、北の金一族など、党指導者個人の巨大な肖像画を掲げ、銅像を建立し、その指導者を褒め称えて礼賛する教育を国民に施し、それに逆らうと思われた者には容赦なく強制収容所での「教化・再教育」が課せられるか、乃至は厳しい環境下での強制労働に従事させられ、最悪の場合は粛清(処刑)されてしまうという「一党独裁的」構造は、「原理主義的一神教」の狂信的カルトに通じる構造特性があると思うのです。

 さて、些か抽象的な内容が続きましたが、ここからは、1982年7月14日に米国議会下院の情報活動特別委員会主催のClosed hearing (秘密聴聞会)でなされた「レフチェンコ証言」に於いて、彼が語った内容を少し見てみたいと存じます。この米国議会での秘密証言内容については、加瀬英明監修/宮崎正弘訳『ソ連KGBの対日謀略 レフチェンコ証言の全貌******』(1983年3月山手書房刊)という本で、主要な部分が紹介されています。尚、同書******によりますと、監修者の加瀬英明氏のご略歴は、1936年(*昭和11年)東京生まれ、慶應義塾大学卒業後、米国コロンビア大学・エール大学に留学し、TBSブリタニカ国際大百科事典初代編集長を経て、外交評論家となっています。また、訳者の宮崎正弘氏のご略歴は、1946年(*昭和21年)金沢市生まれ、早稲田大学英文科中退、雑誌『浪漫』企画室長を経て、貿易会社を経営しつつ、国際政治に関する評論著作活動を展開とのことです。それではやはり現在は絶版となっているこの本から、「レフチェンコ証言」の一部を読んでみましょう。(*裕鴻註記/補記)

・・・〔マルクス・レーニン主義は邪道宗教だ〕

 (*一九)七九年初頭に、私の軍隊(*ソ連陸軍及びKGB)での序列(*階級)はさらに向上し活動の積極的手段による工作班の主任となった。五人のケース・オフィサー(*case officer:情報将校)をしたがえ、二十五人ほどの代理人(*agent)を統括するようになった。KGB(*GRU)に於ける私の経歴(*career)は成功裡に進行し、輝ける未来が保証されていた。しかしKGB(*GRU)の幹部たちは、私が永年に亘って不満を持っていることを気付くよしもなかった。社会主義制度そのものに私はずっと失望していたのである。

 大学(*モスクワ大学東洋学部アジア・アフリカ研究所日本専攻)在学中(*1958-64年)、私はスターリンの悪政と、その恐怖支配が二千万人の同胞を処刑したことを教えられた。大学を出るころに、私は現在の社会主義体制が、市民のためには機能していない数々の諸問題を目撃した。

 クレムリン(*ソ連政府・共産党)から出てくるスローガンとは、人々(と世界と)をあざむくためのものであると私は理解している。マルクス・レーニン主義なんて、本当のところは邪道宗教、人々をだまくらかしているものだと、私はハッキリと了解するに至った。私は神(*ロシア正教)に回帰した。ひそかに教会に行くようにもなった。もし教会へ通っていることが〔KGB(*GRU)に〕バレたらたいへんなことになるから、私は秘密裡に行動した。やはりKGB(*GRU)での私のキャリア(*個人履歴)は良いものだったし、その体制を信じているわけではなかったが、クレムリンのききわけの良いロボットとして働いていればよかった。

   (*大学卒業後の)長時間の業務のなかで、いつしか不満は沈み、私は仕方なく予備役となり(*ソ連陸軍現役将校としての兵役を離れ)、やがてKGB情報工作の要員となった。なぜなら、この仕事は、挑戦的であり危険をともなうものだったからだ。このタイプの仕事(*政治諜報活動)は私たち国民の利益に結びつくと、私は当時考えてもいた。しかし活動を開始してからかなり早い時期に、ソ連の情報畑社会も、単に(*ソ連共産党)政治局(*権力の中枢機関)の一つの道具にしかすぎないのだと私は理解した。ソ連の他の社会主義のメカニズムよりも、この仕事は嫌悪すべきものだった。しかし私は、クレムリン内部の上部構造に対して歯向かいもせず(そんなことをしたら今ごろはシベリアか精神病棟だ)、けっきょく祖国を裏切ろうと決意した。私は米国への亡命を決意した。

・・・(******同上書51~53頁)

〔*裕鴻補註:ソ連の諜報機関には、前回ご説明した通り、三系統(党と軍と政府)があり、レフチェンコ氏は兵役の原籍は陸軍にあり、一時期は現役陸軍予備将校としてGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)にも所属し、軍情報部の軍事諜報活動にも従事していたようですが、途中で陸軍現役を辞めて予備役陸軍予備将校となってから、今度はソ連政府に属するKGB(国家保安委員会)に転属したのです。KGBは主に政治諜報・謀略活動や経済・産業技術諜報活動を担当しています。ややこしいのは、KGBも軍隊同様の階級制度を共有していることです。彼はソ連陸軍所属から、KGB所属の少佐に転じたのです。しかし当時はまだこうした組織構造がよくわかっておらず、翻訳上、GRUもKGBと同一としてしまったために、念のため補記(*GRU)を挿入しました。尚、もう一つの情報機関系統はソ連共産党中央委員会国際部です。彼はこの党国際部の仕事も主に若い頃に何度か従事しています。つまり党・軍・政府の三者の情報機関が交差しながら、諜報要員を利用しているのです。これはゾルゲの履歴にも見られます。〕

 クレムリンに歯向かう者は「シベリアか精神病棟だ」というこの言葉は、アレクセイ・ナワリヌイ氏が今年(2024年)2月16日に北極圏にある刑務所で亡くなったことを想起させます。「KGB流」が今も昔も変わらないことを示しているのかも知れません。次回も引き続き、この証言内容をご紹介したいと存じます。