日本人は、もっと近現代史を勉強しなければなりません。それは「歴史に学ぶ」ということを、現代の社会的課題や政治的問題解決のために活用しなければならないからです。かつてのドイツ帝国の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck:1815-1898)は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉を遺したと言われています。

 もし歴史を紐解かなければ、この言葉の通り、自分自身のただ一回だけの「経験」からしか学べません。しかし歴史には、それこそ五千年以上の人類の様々な「経験と失敗と成功」の集積が記録されているのです。この意味で、戦後日本は、そもそも先の大戦に至る過程やその前後を含む、戦前・戦後の日本の歩み自体を「近現代史」としてきちんと把握・整理し、そこから様々な教訓を汲み取り、それを現代日本社会にフィードバックして活用するということが、あまり上手くできていないのではないか、と危惧する次第です。

   純粋に学術的な歴史学としては、あまりに実証的な公文書史料主義や史料批判を重視するあまり、少なくとも半世紀以上を経ないと歴史学研究の対象となり得ない、ということも聞いています。しかし、学術的にはその姿勢が正しいとしても、生きている実社会に存在する我々一般国民にとっては、もっと実際的に役立つ近現代の知識・経験があるのではないだろうか、とも思うのです。

 例えば、1991年にソ連自体が崩壊して、今はもうない国だから、今更ソ連の歴史を調べて何になるのか、と言う人もいるかも知れません。しかし、プーチン大統領は2000年の就任直後に、二人の人物の墓参りをしたそうです。一人は、本シリーズで取り上げているリヒャルト・ゾルゲです。そしてもう一人はユーリ・アンドロポフ(1914-1984)だったそうです。〔『ミトロヒン文書 ソ連KGB・工作の近現代史』山内智恵子著・江崎道朗監修、2020年ワニブックス刊、4頁より〕

   アンドロポフ氏は、ブレジネフ氏の死後、ソ連共産党中央委書記長、最高会議幹部会議長として同国の最高指導者の地位にあり、軍人としてはソ連軍上級大将でもあったのですが、特に1967年から1982年までの15年に亙り、秘密警察・国家諜報機関のトップたるKGB(国家保安委員会)議長を務めた人物でした。

 プーチン大統領ご自身がKGBの出身であることは有名ですが、プーチン政権にも石を投げれば必ず当たるぐらい、大勢のKGB出身者がいるそうです。つまり現在のロシア政府の首脳陣は、「KGB的発想」で育ってきた人材が中心だとも言えるのです。とすれば、「KGBの歴史」を探索・分析することで、現在と未来のロシア政府の志向を読み取ることに資する可能性がある、ということにもなるのです。また、旧ソ連の国家運営システム、そしてソ連共産党のシステムをお手本にして、現在の中国や北朝鮮の党や国家のシステムが生まれたわけですから、もちろんその後独自の発展や変遷を経たことで、違っている部分があるとしても、その基本的な骨格構造はソ連から来ているのです。従って、ソ連共産党やソ連政府、ソ連軍、ソ連情報機関(KGB/GRU:軍情報部/党中央委員会国際部)などの、ものの見方・考え方を分析・検討・把握することは、中国や北朝鮮を理解することにも必ず役立つはずです。こうしたことが、ビスマルクのいう「賢者は歴史に学ぶ」ということの意味なのだと思います。

 「スパイ」というと、機密軍事情報の獲得をイメージすることが多いのですが、それ以外にも現代では、産業機密情報、特に先端技術情報の獲得が重要視されているのです。実際に1970年代の日本でなされていた、こうした経済・技術情報分野でのソ連KGBによる活動について、『レフチェンコは証言する**』(1983年文藝春秋刊、「週刊文春」編集部編)から、1983年5月に行われた独占インタヴューの一部を見てみましょう。もはや絶版の本ですから、少しこの重要な内容をぜひご紹介したいと思います。同書**「第Ⅳ章 先端技術を徹底して狙え」からの抜粋です。(*裕鴻註記、尚記者の質問部分は(記者)と追記するなど若干表記を修正。)

・・・(記者):今(*1983年当時)、ソ連が一番欲しがっているミルク(*獲物)はどんな種類のものですか?

   レフチェンコ:先端技術でしょう。これはソ連にとってきわめて大切です。

(記者):プラント輸出もですね。

   レフチェンコ:そうです。しかし、もう一度言いますが、私は、健全な日ソ間の経済関係には反対しません。いま、説明しているのはソ連が日本から欲しているものについてです。

(記者):コンピューターとか……。

   レフチェンコ:そうです。コンピュータ、セミコンダクターなど、すべて重要です。

(記者):他には、どうですか?

   レフチェンコ:光学機械、エレクトロニクスも入ります。

(記者):軍事技術については、どうなんですか。この分野でも、ソ連は何か狙っているものがありますか。

   レフチェンコ:ご存じの通り、ソビエトは、ある分野の技術については、公式に日本から買っています。しかし、軍事、あるいは先端技術となると、日本がそういった分野のものをすべて売るとは思えません。

 そういう場合、どうするのか? 日本人エージェントなどを使って盗むわけです。

(記者):盗むんですか。買えないとなると、盗むというのは、ばかに単純ですが、何か成功例でも知っていますか。

   レフチェンコ:確実に成功した例を知っています。私自身が、科学・技術方面の情報将校から直接聞いたことです。東京に駐在しているその方面の将校からです。彼自身が、化学プラントのある部分を、盗んだということです。

(記者):化学プラントのどの技術に関するものを盗んだんですか。

   レフチェンコ:プラントの化学処理に関する部分と聞いていますが、どういった名称の部分なのかは、正確には知りません。

(記者):どの化学プラントの、どういう機能をはたすところか、具体的にわかりませんか。

   レフチェンコ:私はエンジニアではありませんので、そこまではわからないんです。ただ、わかっているのは、ソビエトはそれを買うことができなかった。そこで、盗むという方法で、それをえようとしたのです。

〔最大の「窃盗事件」は莫大な利益を生んだ〕

(記者):日本人エージェントを使ってですか。

   レフチェンコ:いや、彼自身(*KGB技術将校)が盗んだのです。あなたは、信じないかもしれません。しかし、この事件の時は、彼は、ソビエトの貿易使節団の一員として日本を訪れたわけです。ソビエトは、あるプラントを買おうとしていたのです。日本の企業は、彼らにそのプラントについて説明しました。

 ご承知の通り、日本では、特に企業の場合などでは、万事念入りなところがあります。プラントのすべての部分について設計図がついており、それが全体のどの部分に位置するか、が自ずとわかるようになっています。

(記者):なるほど。

   レフチェンコ:すべてがこの調子で、日本では、どこへ行っても、この種の設計図を見ることができるのです。

(記者):そして、その設計図をもとに係員が説明するのですね。

   レフチェンコ:そうなんです。この事件の時は、係員がプラントのある部分を見せました。ところが、秘密にしておくべき部分までを公開してしまったのです。

(記者):しかし、外国人に対して、果たしてそこまで見せることなどするでしょうか。

   レフチェンコ:そうですね。ふつうなら外国人はそこまで立ち入らないものかもしれません。しかし、この時は、本当に間違いが起こってしまったのです。日本の係員が秘密であることをうっかり忘れて、ある部分を見せてしまったのです。そこに、全体の設計図とともに、秘密にしておくべき部分の設計図がおいてあったのです。そこで、この情報将校は、何をしたと思いますか。

(記者):さあ。

   レフチェンコ:使節団の他の団員たちを呼んだのです。この団員たちは情報将校ではありません。情報将校は、集まってきた他の団員たちに、日本人係員を質問攻めにするように頼んだのです。(*もちろんロシア語で頼んだと思われる) 

   団員たちは口々に質問し、係員の注意を散漫にさせたのです。その隙に、情報将校は手帖にマル秘部分を写しとっていく。

(記者):本当にそんなことがあったのですか。一体、何年のことですか。

   レフチェンコ:たぶん、一九七六年か、七七年のことだと思います。どうぞ、そんなに驚かないで下さい。この行動がソ連に大変な利益をもたらしたのです。莫大なお金を節約することができました。なにしろ、化学プラントのその部分についてはソ連に開発する力がなかったし、また、日本から買うこともできなかった、と聞いています。

 これだけのことをしただけで、KGB駐在部の約十二年分の全費用をまかなうのに相当する利益を得たのです。

(記者):ずいぶん、日本人というのは間抜けな人種のように聞こえますね。

   レフチェンコ:いやいや、そんなことはありません。しかし、この事件は本当にあったことだし、とても興味深いものがあります。なにしろ、テクノロジーを狙う工作というのは、世界で最も金になる商売なのです。ある技術のプロセスというのは、お金に換算すれば、一億ドルにも二億ドルにもなるのです。(*1983年当時)

 だからこそ、KGBの科学・技術担当の情報将校は、テクノロジーの秘密を盗んでくれる日本人エージェントがどうしても必要なんです。もちろん、よく言われるような、黒板に書かれている秘密をこっそり盗むなんていうのは、通常は起こりません。これは、たとえ話の世界ですよ。

(記者):では、どういったケースが一般的に起こりうるのですか。

   レフチェンコ:ふつうは、ある種の技術が全部わかってしまう、大量の書類の形をとるわけです。正確にはわかりませんが、その重さが時には何百キロにもなります。本当に巨大な量です。KGBが、そういった秘密を盗むエージェントをリクルートした場合には、設計図のすべてをコピーさせるんですよ。(*尤も、今ならUSB何個かですむでしょうが…。)

 もちろん、(*当該日本人エージェントに)謝礼は払います。たとえば、十万ドルぐらいは払うかもしれません。しかし、それでも安いものです。一億ドルにも相当する技術をそれで得られるのですから、これは、大変な利益です。

〔ハイテク関係の日本人エージェントは百人もいる〕

(記者):しかし、いわゆる“レフチェンコ・リスト”には、そういった科学・技術関係のエージェントというのは、見当たりませんね。

   レフチェンコ:私は、米議会における証言で、日本におけるKGBのネットワークについて述べています。約二百人の日本人エージェントがいると証言しました。その二百人の半分が、科学・技術関係のエージェントなのです。

(記者):そんなに数多くの技術関係のエージェントがいるのですか。

   レフチェンコ:そうです。全体の二百人のうち、百人のエージェントは、そういった先端技術をめぐる工作にまきこまれているのです。

(記者):言うまでもないことですが、ソ連は、そちらの方面にずいぶん力を注いできたことになりますね。

   レフチェンコ:日本人エージェントの半分がそうなんです。大雑把に言って百人。年によっては九十人のことも、八十人のことも、あるいは百十人のこともあるかもしれません。いずれにせよ、このエージェントたちは、先端技術の秘密を盗んでいるのです。

(記者):そのエージェントたちを操作するKGB将校の方の割合は、どうなるんですか。

   レフチェンコ:KGB将校の約半分が、科学・技術方面の担当なんです。

(記者):東京の場合は?

   レフチェンコ:東京には、約五十人のKGB将校がいます。

(記者):常時、それだけのKGB将校がいるわけですね。

   レフチェンコ:そうです。そのうち、約二十人が科学・技術関係の情報将校です。

(記者):その方面の情報将校をも、KGB将校と呼んで間違いないのですか。

 レフチェンコ:もちろんです。彼らもKGB将校です。彼らは、私たちと同様なプロフェッショナルな技倆を持っているんです。

(記者):単に、担当する分野が違うというだけで、KGB将校としての訓練は十分に受けているということですね。

   レフチェンコ:その通りです。KGB将校のある者は、政治諜報部分を担当し、別の者は、技術部門をもっぱらにするということです。テクノロジーを専門とするKGBは、エンジニアとしての教育を十分に受けています。ですから、技術のどの部分を盗んだらよいかということは正確に知っているんです。

(記者):日本人の誰が、そういった科学・技術方面のエージェントとして働いていたのですか。

 レフチェンコ:それはわかりません。

(記者):私どもが持ってきた、いわゆる“レフチェンコ・リスト”のなかに、そういった類いの人々はいましたか?

 レフチェンコ:私は、立場上、政治諜報ならばほとんどの分野にタッチしてきました。しかし、科学・技術部門に関しては知識を持ちあわせていないのです。東京のKGBでも、科学・技術部門は一種の別組織となっていて、モスクワと直結していました。そのため、私たち政治部門の人間はその詳しい活動を知ろうにも知ることができなかったのです。これが、私が、テクノロジー部門のエージェントに関しては、コード名(*暗号名)さえ知らない理由です。

(記者):となると、あなたがコード名にしろ、どんな日本人がKGBのエージェントとして活躍してきたか、を具体的に知っているのは、政治とかマスコミの分野に限るわけですね。

 レフチェンコ:そういうことになります。

(記者):さきほど、あなたは、ソ連は日本に対して大変功利的にふるまう、と言いました。しかし、日本の経済人のなかにも、本心から親ソ派であるというのではなくて、商売や国益の観点などをからめて、親ソ的にふるまうということもありうると思います。

 レフチェンコ:それはありうるでしょう。

(記者):そういった、一見親ソ派のフリをする経済人も、KGBなどのターゲットになりえますか。

 レフチェンコ:日本のすべての経済人がソ連に同情的だなどということはないと思います。少なからぬ人々が、商売上の利益を得ようとして、親ソ派をよそおうこともあると考えます。たしかに、この点については、疑いはないでしょう。

(記者):しかし、誰が本当の親ソ派か、あるいは、本心を隠して親ソ派のフリをしているか、などを詮索することは、ソ連にとって重要なことじゃない?

 レフチェンコ:そういった区別など、全然、重要なことじゃないと思います。・・・(**同上書159~167頁)

 このようにレフチェンコ氏は語っています。最後の部分は、要は本心が純粋な「親ソ派」であれ、そうでなかれ、そんなことは全く関係がなく、ソ連の役に立つかどうかが重要だ、ということです。リアリスト的な利害得失の問題なのです。日本人はナイーブというか、心情を重んじる傾向があります。つまり本心はどうなのか、本当にソ連のために働こうとしたのか、あるいはソ連を利用してやろうと目論んでいただけなのか、という動機を重視するわけです。しかし、そんなことはソ連にとってはどっちでもいい問題であって、「結果・効果」の観点で、ソ連に役立つ情報を持ってきたり、ソ連に有利な言論や政策や活動をしてくれるならば、動機などどうでもいいのです。その意味では、日本人はもっとリアリズムに目覚める必要があるように思います。

 ソ連・KGBのこうした考え方を、中国や北朝鮮が受け継いでいるとすれば、当然に似たような発想や活動を日本に対して行ってくるものと考えるのは、論理的には当然の推察といえます。なぜ両国が、短い期間でエレクトロニクスやI T、バイオなどの先端技術のみならず、重工業、製鉄、造船、自動車製造、鉄道車両製造、航空機製造、ミサイル製造、核兵器製造などのノウハウを獲得できたのでしょうか。それが上記のような産業スパイ活動にのみよるものではなく、民間企業の商業上の交易や有償技術提携・供与など、「通常の商取引」によるものも実際には多いでしょう。

   しかし、その商業活動が、その当事者となる企業体にとっては「利益を上げられる事業」であったとしても、国家単位の観点で見てみた場合に、日本の強みである技術やノウハウが、海外の安い人件費やその他の好条件に魅せられて、結果的に海外に流出している場合も少なくないのではないか、と懸念されます。その結果、資源もエネルギーもない日本が、その頼りとすべき自国開発の技術やノウハウを海外移転し、結局はライバル国を育てて、自国産業はコスト競争に負けて世界市場から駆逐されたり、少なくとも大幅にシェアを少なくしたりした“結果・効果”に結びついたのではなかろうか、そうした意味での国益を失ってきたのではないか、そのような観点も、また真摯に吟味・検討されるべきではないでしょうか。

 「経済安全保障」とは、一体如何なる内容が要請されるべきなのか。グローバリズムや新自由主義との連関も視座において「現代の国益」とは、先ずは根本に立ち帰り、日本と日本国民が、厳しい生存競争たる世界の荒波を乗り越えて、きちんと独立自尊を果たすことではなかろうか、そのように思うのです。

   そのためには、この21世紀の日本はいかにあるべきか、かつての高度経済成長時代の「加工貿易立国」をモディファイしつつも、一体何を加えて、何を新たなる日本の持ち味と強みとし、どうやってこの日本国民全体を、漏れなく食べさせ、少しでも豊かに生活させてゆける国をつくるのか、そのために守るべき技術やノウハウや人材とは何か。こうした将来のヴィジョンを基礎とした、現代的あるいは近未来的な「日本の宝」を再確認・再認識して、それを形成し支えるものは、決して外国政府や外国企業に奪われない仕組みを、官民ともにしっかり構築する気構えと覚悟が必要です。また大学や研究機関、そして研究者・技術者も同じです。

   さもないと、「ソ連」はもうなくとも、これに替わる国々が狙う、日本の独自技術やノウハウ、そしてそれを有する人材を、政府も民間企業も大学・研究機関も、しっかりと皆で守り、維持・育成して、決して安易に海外流出させない仕組みや制度を作らない限り、真の「経済安全保障」は達成できないのではないでしょうか。それは本質的には、単に防衛関連技術にとどまらないのです。そして、この意味での「現代的ナショナリズム」は、やはり再構築されるべきなのではないでしょうか。このことを、レフチェンコ証言は教えてくれているように思うのです。(次回につづく)