かつてのアメリカでは、NSA(国家安全保障局)という組織について質問すると、“No Such Agency”(そんな機関はない:NSAを文字ったジョーク)という答えが返ってきたといいます。同じくジョークでも、やや怖いのは“Never Say Anything”(何も言うな)というバージョンもあった様です。正式の機関名は“National Security Agency”ですが、現在でもいろいろと謎に包まれた機関であり、その存在自体は公式には1999年になって、ようやく明らかにされたといいます。因みに007シリーズで有名なMI6 (SIS: Secret Intelligence Service:英国秘密情報部)も、1994年になってようやく英国政府は公式にその存在を認めました。それまでは、やはり「存在しない機関」だったのです。

 映画「スノーデン」(2016年米オリバー・ストーン監督)にもNSAが主要な機関として登場しますが、主人公のEdward Joseph Snowden氏自身がNSAで働いていました。読者の皆さんもまだの方は、ぜひこの映画をご覧ください。インターネットやスマートフォンなどI Tが全盛の現代では、NSAの活動領域の重要性は益々増大しているのですが、前回ご紹介した通り、この機関の元は、アメリカ陸軍情報部に設けられた特別局監督下の「通信諜報部」でした。『ヴェノナ** 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』(2010年PHP研究所刊、中西輝政 監訳・山添博史/佐々木太郎/金自成 共訳)より、このNSAに関する部分を少し読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・NSAの秘密主義

 そもそもアメリカの暗号解読機関NSAは、自らの活動についてはきわめて厳重に秘匿する機関として知られており、その秘密主義は、CIAやFBIと比較してもはるかに徹底していた。冷戦の時代、ワシントンの政府関係者は皆、NSAのことを“No Such Agency”(「そんな機関は存在しない」)という意の略語だ、と冗談でよくいっていたものだ。我々も政府の多くの官僚に繰り返し「ヴェノナ」について尋ねてみたが、そのたびにとてつもない沈黙の壁にぶつかるだけだった。しかしその中で一人だけ、「その通りだ。『ヴェノナ』と名づけられた暗号解読の作戦がアメリカによって行われていた」「その作戦によって、多くの価値ある情報がもたらされたが、その点については一切明らかにされていない」「この作戦は随分昔からあって、第二次大戦中の時期のソ連通信の解読文書がたくさん残っているのだ」と打ち明けてくれた人物がいた。しかし彼は、そういったあとに、次のように付け加えるのであった。「しかし、君たちにも、そして他の誰に対しても、『ヴェノナ』の記録は今後少なくとも何十年もの間、公開されることはありえないだろう」。そして、その人物は我々に対して、さらに次のように結論めかしていった。「『ヴェノナ』のような暗号解読によって得られた重要情報の内容は、あまりにもセンシティブなものだから、まず絶対に公開されることはないだろう」。

・・・(**前掲書23頁)

 ところが、その後ニューヨーク州選出の上院議員ダニエル・パトリック・モイニハン氏などの尽力で、ビル・クリントン大統領の政権下に於いて、米国議会に「政府機密の保全と公開に関する特別調査委員会」が新設され、同委員会活動の結果、1995年7月に「ヴェノナ作戦」に関する文書を順次公開するとの公式発表がなされました。それからの二年間にNSAが公開した「ヴェノナ文書」は、2900以上の文書数で、頁数は5000頁以上に上りました。この文書類はメリーランド州にあるアメリカ陸軍「フォート・ミード」の文書庫でほぼ半世紀に亘って秘匿されてきたものでした。前回ご紹介した通り、この「ヴェノナ作戦」は、第二次大戦中に米陸軍通信諜報部が傍受蓄積していたソ連の暗号通信記録を、苦労して解読したもので、その内容は、在米のソ連KGB諜報官と本国モスクワのKGB対外諜報局長官との通信であることが判明し、そこからアメリカ国内におけるソ連の諜報・謀略活動と、数百人規模の米政府内ソ連スパイの存在と活動が明らかになったのです。

 このソ連の暗号通信の原本は、当然モスクワの諜報本部に所蔵されていたのですが、1991年12月にソ連が崩壊し、エリツィン政権下となったロシア連邦政府は、旧ソ連共産党の文書館を接収して、「ロシア現代史史料保存・研究センター」(略号:RTsKhIDNI、俗称「リッツキドニー」)と改名しました。その後1999年に「ロシア国立社会・政治史文書館」(略号:RGASPI、便宜上「ルガスピ」と呼称される)に統合されます。このエリツィン政権下の時代の「リッツキドニー」は西側の研究者にも文書を公開していましたが、プーチン大統領政権下になって、またその門戸は固く閉じられてしまったのです。まさにその「間隙の時代」に、前掲書**の著者たちジョン・アール・ヘインズ博士とハーヴェイ・クレア博士は、この「リッツキドニー」文書館に所蔵されていた、「アメリカ共産党(CPUSA)」の文書類を閲覧しコピーをとることができたのです。そしてこの文書類の調査の過程で、彼らはNSAによる「ヴェノナ作戦」に辿り着いたというわけです。

 旧ソ連時代ではあり得なかった、「ソ連共産党機密文書」が僅かな期間だけ「門戸を開いた」その隙に、熱心な西側研究者がモスクワを訪れて、調査研究する僥倖を得たのでした。このようにして、ソ連崩壊直後に様々な形態や経緯で公開されたソ連時代の機密文書には、下記の六種類があるそうです。

   ここから先は、今回ご紹介する『ミトロヒン文書*** ソ連KGB・工作の近現代史』(2020年ワニブックス刊)によるものです。同書***の著者は山内智恵子氏で、監修は江崎道朗先生です。山内氏のご略歴は、1957年生まれで、国際基督教大学卒業、津田塾大学大学院博士後期課程満期退学、日本IBM東京基礎研究所勤務を経て、情報史学研究や日米近現代史の調査・研究・翻訳などをされている方です。また監修の江崎先生のご略歴は、1962年生まれで、九州大学文学部哲学科卒業、日本戦略研究フォーラム政策提言委員、産経新聞「正論」執筆メンバーを務めておられ、近現代史・外交・安全保障・インテリジェンスの研究・著述をされている方です。


 では、同上書***の18頁から、著者の山内智恵子氏が纏められた「ソ連崩壊後の主な文書公開」という表の内容を拝見したいと存じます。

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 (1)リッツキドニー文書(1991年)ソ連共産党作成、1919年以降の膨大な文書類で、アメリカ共産党関係文書のみでも、43000冊以上ある。

 (2)ヴェノナ文書(1995年)米陸軍情報部(のちのNSA)・英政府通信本部(GCHQ)作成、ソ連の在米諜報員と本国との通信記録(1940~48年)で約3000通。

 (3)マスク文書(1990年代後半)英政府通信学校作成、ソ連コミンテルン本部と各国共産党との暗号通信解読記録(1930~39年)で約1万4000通。

 (4)イスコット文書(1990年代後半)英政府通信学校作成、ソ連コミンテルン本部とドイツ占領地域及び中国のコミンテルン支部との暗号通信解読記録(1943~45年)で1484通。

 (5)ヴァシリエフ・ノート(2009年)A・ヴァシリエフ作成、旧KGB文書(1924~51年)で、手書きノート1115頁。

 (6)ミトロヒン文書(2014年)〔但し、解説書刊行は1999年と2005年〕V・ミトロヒン作成、KGB第一総局文書庫所蔵文書(1918年~80年代前半)で、手書きで約10万頁、現在、キリル文字でタイプした約7000頁をケンブリッジ大学チャーチル・カレッジ図書館で公開。

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 同上の山内智恵子著『ミトロヒン文書*** ソ連KGB・工作の近現代史』は、ぜひ皆さんにご一読して戴きたい必読書です。同書***は長年、本領域の調査・翻訳をして来られた山内氏が、極めて重要なポイントを整理しつつ、わかりやすく解説してくれている良著です。固い研究専門書では、読み取るまでに相当の苦労を重ねなければならない要点が、見事に簡潔に描出されています。

 ミトロヒン氏が、長年密かに手書きして写した旧ソ連国家保安委員会(KGB)の極秘保管文書には、「ソ連の国家的謀略」の数々が記録されているのです。同氏が生命を賭してまで、こうした国家機密記録を書き写したのは、ソ連の共産主義体制に対する絶望と批判がその根底となっています。しかもKGBの運営方法に「穏健な批判的意見」を口にしたため、彼が最前線の現場工作から左遷的に配置されたのが、KGB第一総局の文書管理担当だったのです。そして1972年6月に、同第一総局がモスクワ・ルビヤンカから、郊外のヤセネヴォに移転することになり、ミトロヒン氏は約30万冊ある文書ファイルをチェックして梱包し、送り出して、また移転先で受け取り、開封・収蔵する作業に携わることになったのです。そして文書ファイルの整理と索引作成作業の監督をしながら、誰憚ることなく、ミトロヒンは読みたいファイルを読むことができたのです。もとより通常は、ごく限られた権限の者しか、同文書ファイルのしかも職務上関係する部分だけを、閲覧することしかできないのですが、彼は全てのファイルを移送し、かつ中身を確認して索引を作成し、分類整理して、収納する、という任務を実行する必要上、全文書の中身を点検・確認することが職務となったのです。

 そこで、ミトロヒン氏はたった一人の「反体制運動」を心密かに開始します。彼は職場で機密文書の内容を手書きで写した紙片をポケットに入れて持ち帰り、退職する1984年までの12年間に亘って、家族にも秘密裡にその紙片を週末にダーチャ(ロシア式別荘)に運んで、可能な限りタイプし、できないものは手書きのままで、錫のトランクやアルミケースに入れて別荘の床下に隠したといいます。そして退職後も同資料のタイプや整理作業を続け、ついに1992年3月にラトヴィアの首都リガに旅行して米英両国の大使館を訪問します。最初に訪問した米国大使館では相手にされませんでしたが、英国大使館ではロシア語に堪能な女性職員がイングリッシュ・ティーでもてなしながら、話を聞いてくれました。そして何度かの訪問の末、同年11月に家族と共に英国に亡命します。持ち出せなかった資料は、英国秘密情報部SISが、要員を彼のダーチャに派遣し、無事回収に成功しました。ミトロヒンがモスクワで整理していた文書が10巻、英国回収後にロンドンで整理したのが26巻で、合計10万頁にもなる膨大なKGB秘密文書が、こうして現在ケンブリッジ大学のチャーチル・カレッジ図書館に収蔵されているのです。

 山内智恵子氏の前掲書***は、この膨大なミトロヒン文書の英文解説書2冊(米欧を対象とした工作記録と、それ以外のアジア・アフリカ・中南米を対象とした記録の二冊に分かれて出版)を基にして、その概要を取り纏めて紹介してくれているのです。しかも第二冊目には、「日本の章」があり、主に戦後日本におけるソ連の政治・言論界に対する謀略工作が記録されているのです。山内氏の著作では、良識的なスタンスから実名は敢えて避けていますが、原著には、ソ連の「工作員」だったり、無意識も含むでしょうが「協力者」であった、日本人政治家やジャーナリストの実名が記録されているのです。このミトロヒン文書に登場する日本人協力者は特殊作戦要員1名を除く30名の与野党政治家、官僚、ジャーナリストなのですが、実はこれ以外に同時期の別のソ連協力者リストが存在します。

 それは、当時KGB少佐のスタニスラフ・アレクサンドロヴィチ・レフチェンコ氏が、1979年10月に勤務先の日本からアメリカに亡命し、1982年12月に米国議会下院の情報特別委員会秘密聴聞会でKGBの対日謀略について証言し、約200名もの日本人協力者の存在と、その一部の暗号(コード)名や実名を供述したのです。その中には、上記のミトロヒン文書に登場するKGB協力者と一致するか、乃至は違うコード名ながら同一人物と思しき人物が含まれているのです。1983年8月には「文春砲」でお馴染みの週刊文春編集部編『レフチェンコは証言する』が出版され、その中には計31名のKGB協力者の暗号名(うち9名は実名も)が掲載されているとのことです。(前掲書***219頁及び240、241頁の表より)

 この日本人協力者の中には、日本社会党の勝間田清一委員長が含まれています。そして、この勝間田氏は、実は第(66)回でも取り上げた、三田村武夫著『戦争と共産主義(改題:大東亜戦争とスターリンの謀略)』(昭和25年初版、昭和62年自由社自由選書再版)の中で言及されている「企画院事件」に、連座して逮捕された人物でもあるのです。つまり、戦前日本から戦後日本にかけて、一貫して共産主義者として、ソ連の意向に協力して活動してきた、と捉えることが可能な人物なのです。これは氷山の一角にしか過ぎませんが、この三田村武夫氏の調査研究と分析は、こうして現代になってようやく上記のような旧ソ連の国家機密文書が流出したことで、史料的にも裏付けられる圏内に入ってきていることを示唆しているのです。

 ソ連自体は、戦前も戦後も、少なくともスターリンが実権を握っていた時代は何ら変わることなく、一貫した政略・戦略に基づいて、様々な政治謀略活動を展開してきていたのですから、今という時点から振り返って眺めてみれば、ある意味では当然の動きであったと理解することができるのです。今回は、写真資料を添付する関係で、本文はここまでとしますが、戦前日本を理解するためのみならず、戦後日本の理解を深めるためにも、この「ソ連の国家的謀略」の観点からの分析は、欠かせない調査・研究領域であることを、特に強調しておきたいと存じます。(次回につづく)