日本の史学会では「陰謀論」とか「謀略」については忌避する傾向が強く、端から「非学術的対象」とされてしまうことが殆どです。もちろん横行する怪しげな、かつ明らかに政治的なプロパガンダの目的を以って流されるような「陰謀論」には、わたくしたちは警戒と、きちんとした学術的裏付けを要求しつつ、その間違いや不正確を指摘し批判することは、学問的良心を持つ者としては当然の態度であると心得ます。しかし一方で、むしろ真摯かつ正当な研究や探索、分析によって、ある時代のある集団(国家も含む)による、意図的な謀略活動が実際になされていたことを突き止めた場合には、これは当然に学術的な意味での歴史研究の対象になり得ます。問題は、その研究姿勢にあり、怪しげな非学術的な方法態度で、その謀略を取り上げるならば、結局は上記で忌避されるような「非学術的主張」に堕してしまいます。

 然らば、より一層慎重かつ謙虚な姿勢と、学術的スタンスを守りながら、真摯にこうした対象を取り上げ、研究・分析・思考することが要求されているわけです。なかなか真っ当な大学で研究者を目指し日々刻苦勉励されている学生の皆さんに、こうした怪しげな境界と接する研究対象をお薦めすること自体も、躊躇われるものがあるのですが、しかしながら、もしその「歴史的謀略」が非常に大きな実際的影響を史実として与えているものであれば、学問的良心からも、これらを研究対象から敢えて外したり、近寄ろうとしなかったり、避けて通ろうとするばかりでは、このダークな真実には迫ることができなくなるのです。

 尾崎秀實の謀略活動について取り上げるとき、ひとつには上記のような学術的志向から、こうした「陰謀論」であるとして切って捨てられてしまう可能性があるのですが、もう一方で、実は共産主義信奉者乃至はシンパからすると、ご自分たちの立場にとって「不都合な真実」であることを予感し予想するが故に、わざと「陰謀論」だと声高に主張して「強制終了」させてしまおうとするドライブが働くであろうことは、「高度な平凡性」の観点からは、充分に想定し得ることでもあります。

 そのような情況に立ち入った際には、尾崎秀實という対象だけで思考・判断するのではなく、同時代の他の国での類似の対象や事件がないか、という観点も大切です。それは、より巨視的なレベルで眺める視界を広げると共に、特に日本では研究があまり進んでいない、旧ソ連や東欧諸国の「崩壊した共産圏諸国」の実態研究こそが、前々回の第(65)回で見た「レーニンの政治謀略教程」に忠実に従った「真正の共産主義者」たちの行動の軌跡を浮かび上がらせてくれるもの、と期待できるのです。

 今回は、以上のような観点をもとに、「アメリカ版尾崎秀實」と言われるアルジャー・ヒス(Alger Hiss:1904-1996)に関する記述を、前回に引き続き、三田村武夫著「戦争と共産主義**(改題:大東亜戦争とスターリンの謀略)」(昭和25年初版、昭和62年自由社自由選書再版)より、まずは読んでみたいと思います。(*裕鴻註記、尚送り仮名等を現代文に補正)

・・・アメリカに於ける秘密活動

 最近(*1950年当時)アメリカで大きなセンセイションを捲き起こした所謂「ヒス事件」は、有罪か無罪か、いまだ最終の結論を見ていないからここに持ち出すことは早計であるが、日本の新聞が「尾崎秀實アメリカ版」の標題を付して解説を試みていることは注目に値する。(夕刊中外二月十一日)

 筆者(*三田村武夫氏)は、アメリカ連邦政府の名誉のために、ヒス氏の無罪であることを希って止まないが、若し有罪の最終決定を見るようなことになったならば、彼もまた尾崎秀實と同様単なるスパイではあるまいと考えられる。と言うのは次の如きアメリカ国内に現れた注目すべき記事と、日本に於ける尾崎事件の性格内容を検討した上で到達した筆者の見解である。

 一九四八年(*昭和23年)二月号の『カソリック・ダイジェスト』(日本版)に「アメリカを蝕むもの」「モスクワの指令下に米国上層部に喰い入るソ連秘密警察」と題する注目すべき記事がある。この記事の筆者はエドナ・ロニガンと言う女の人で一九三三年(*昭和8年)から三五年(*昭和10年)まで農業金融局に、三五年から四〇年(*昭和15年)まで財務省に勤務し、また彼女は大学の教授であったと註釈がついているが、此の記事の内容は、アメリカ連邦政府内に於ける共産主義者の活動を極めて大胆に述べたもので、ロニガンは先づアメリカの国会委員会が此の問題を取り上げた意義を述べ、

 「国会は今、ソ連秘密警察のアメリカに於ける目的と活動は何か? という実際問題を検討している――事実はこうである。ソ連秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ」

 「ソ連秘密警察は一九三三年(*昭和8年)以来、連邦政府に滲透しようと努力して来た。その最初の細胞(*共産党の基礎組織の旧称)は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、一九二九年(*昭和4年)という遥か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼(*スターリン)は(*共産)党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告書に証明されている。各々の細胞*は分裂して、他の細胞*を生み出した。ソ連秘密警察の指導者達は、連邦政府内部の『機構図表』を持って居り、(*共産)党員を次から次と重要な地位に移したのである」「網状組織(*ネットワーク)によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織(*ネットワーク)に好意を持たるれば速やかに昇進出来ることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった」

 「有能なソヴィエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼等の仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、友交的(*ママ)に、魅力的に、敏捷に理智的に、同情的になることであり、昼夜にわたって、一層大きな責任を引きうける用意をすることであったのだ。そして、やがて、そのような責任ある地位が彼等に与えられたのである。

 かくの如くして、網状組織(*ネットワーク)は毎年仲間たちをだんだん高い地位に移して行った。戦争が始まったとき、八年間陰謀で鍛えた古強者達は、最高政策をあやつる地位に到達していたのである」

 「この網状組織(*ネットワーク)によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、彼等は重要産業地方の投票を得る仕事を引継ぎ、その報酬として戦争の政治的指導権をにぎったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。――彼等は満洲と北朝鮮を共産党に与えた――」と言っている。

 ヒス事件は、このロニガンの言う網状組織(*ネットワーク)の一部であるように想像されるが、新聞解説によると、

 「アルジャー・ヒスはハーヴァード大学の法科を首席で卒業したカミソリのように鋭い頭脳の持主、大学を卒業後、一時弁護士の仕事を手伝っていたこともあったが、ルーズヴェルトが大統領になって思い切ったニュー・ディール政策を開始すると直ぐ、政府の仕事に関係し、一九三六年(*昭和11年)には連邦検察局から国務省に移り、敏腕を買われ、三七、八年(*昭和12、13年)頃にはセイヤー国務次官の右腕として活躍、その後幾多の国際会議に出席し、一九四五年(*昭和20年)ヤルタで開かれたルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの三巨頭会議には顧問として参加した」

 「ニュー・ディールに惹かれて政府の仕事に参加していっただけに“ヒスは赤の同伴者だ”という声も出たことはある。しかしニュー・ディールが始まった当時は、米ソの関係も好転していて、マルクス主義を一くさり談じなければ、はばがきかぬ、といった世の中であった。だからヒスは同伴者だといったところでこれを気にとめるものは一人もなかった」

 「ところが、一九四八年(*昭和23年)の春、(*米)下院の非米活動調査委員会で、当時タイム誌の編緝幹部をしていたホイッテーヤー・チャンバースが、自分はかつて共産党の情報伝達係をしていたことを告白すると同時に、米国政府上層部にも共産分子が喰い込んでいると指摘してヒスの名を挙げた。チャンバースの言うところによると、一九三四年(*昭和9年)の初夏、ワシントンのあるレストランで、ピータースと呼ばれている人物と会った。ピータースというのはソ連のスパイの総責任者でバイコフ大佐の別名である。大佐のそばに背の高い男が立っていた。それがヒスであった。チャンバースはそれ以来ヒスと直接連絡してヒスの手から政府の機密書類を手に入れて居った」というのである。(以上サンデー毎日二月十二日号及び夕刊中外二月十一日、東京新聞一月三十一日による:*日付は恐らく昭和25 (1950) 年と思われる)

 右の事実がもし真実であったとするならば日本の尾崎・ゾルゲ事件とそっくりそのままだ。そしてロニガンの言うごとく、また尾崎秀實のごとく単なるスパイではなく、世界共産主義革命完成の線に沿って何等かの役割を演じたとしたならば、筆者(*三田村武夫氏)の言う巧妙にして精緻なる世界革命のための国際的謀略活動が米国の中心部にも浮かび上がってくるのである。

 尾崎秀實が、その手記の中でゾルゲ機関の本質及び目的任務を説明して「此の一団はコミンテルンの特殊部門たる諜報部門とも称すべきものの日本に於ける組織である」と言っていること、ゾルゲがコミンテルンの命により日本に渡って尾崎と連絡をつけたのが一九三四年(*昭和9年)であったことなど考え合わせてみる必要がある。

・・・(**前掲書52~55頁)

 このアルジャー・ヒス(Alger Hiss)は、結局スパイ容疑については訴追はされず、偽証の有罪判決で5年の懲役となりましたが、1992年には無罪とされました。しかし、近年公開された「ヴェノナ文書(VENONA)」で、長年GRU(ソ連赤軍参謀本部情報局)のスパイであったことが判明したといいます。

 ソ連共産党・コミンテルン・ソ連政府(含むソ連秘密警察:NKVD内務人民委員部)・ソ連赤軍参謀本部(第四本部情報局:GRU)というモスクワ中央部は、英・米・日など当時の資本主義陣営各国の最優秀大学に、その思想的影響力を広め、また優秀な人材を共産主義者にして取り込むための真剣な努力をしていた形跡が濃厚です。このアルジャー・ヒスは、米国最高峰の一つであるハーヴァード大学の出身ですから、同大学内にもそういう教員や秘密結社的組織(*細胞)があったものと思われますし、英国のオックス・ブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)にも、同様の工作拠点と組織(*細胞)が密かに設営されていたことは、今日すでに明らかになっています。有名な「ケンブリッジ・ファイブ:Cambridge Five」もその一環であり、キム・フィルビー(“Kim” Philby)などこの五人は、いずれも1930年代に同大学で学んだ学生でした。また同時代に共産主義者となり、その後ソ連に英国の原爆開発計画「チューブ・アロイズ:Tube Alloys」の内容を渡していたメリタ・ノーウッド(Melita Norwood)女史などの存在も、今日では判明しているのです。一般向けには、2018年のイギリス映画「ジョーンの秘密」で、長年007のM役だったジュディ・デンチが演じた、ジョーン・スタンリーという共産主義者の女性スパイは、このメリタ・ノーウッド女史をモデルとしたものです。日本人でも、西園寺公望公の孫であった西園寺公一は英国オックスフォード大学に留学し、1930年(昭和5年)に卒業していますが、同大学在学中にマルクス主義者になったといいます。彼は後に外務省嘱託となり、米国で開催された太平洋問題調査会第6回大会で知り合った尾崎秀實と意気投合して、ゾルゲ・尾崎事件にも主要なメンバーの一人として参画・協力し、尾崎らとともに逮捕されて有罪判決を受けますが、禁錮一年半、執行猶予二年で生き延び、戦後は中華人民共和国に移住し文革を礼賛、後に実質的に中国を追放されて帰国しましたが、その後も文革を擁護していました。しかし江青など四人組が逮捕されると態度を豹変し、最後は左派からも右派からも批判される存在となりましたが、86歳で天寿を全うしたといいます。このように、1930年代の米英両国の最優秀大学をはじめとするエリート学生を共産主義者として獲得し、生涯を通じて共産主義とソ連のために忠誠を尽くして活動させる謀略が、遂行されていたものと推測できます。

 それでは、尾崎秀實が卒業した一高・東大や京大など、日本の旧制大学の情況はどうだったのでしょうか。三田村氏の前掲書**から、次の記述を読んでみましょう。(*裕鴻註記、尚送り仮名等を現代文に補正)

・・・学内に喰い込んだマルクス主義――東京、京都両帝大を初め、主として官立大学を中心とした学内のマルクス主義研究は、日本の共産主義運動に先駆的役割を果たし、その大衆化、普遍化のために、重要な指導的役割を演じたことを注意する必要がある。

 マルクス主義も共産主義も、周知のごとく精緻にして高度なる理論体系と科学性(*但し、19世紀的決定論哲学のニュートン物理学的世界像での科学性)を持つものなる故に、プロレタリア階級――労働者、農民の解放闘争の武器たらしめるには、どうしても理論の把握が必要になってくる。そこに、この運動の初期に於けるインテリ、マルクス主義者の歴史的な役割があったのだ。これはいづれの国の共産主義運動にも見られる例であるが、日本に於いては、この学内のマルクス主義研究が極めて大きな役割を果たしていることを見のがしてはならない。

 日本の学内社会主義運動は、大正七年(*1918)東京帝大の新人会(*細胞)組織を先駆として急激に進展し逐次全国の官私立大学、高等専門学校内に社会科学研究会(*細胞)が組織され、(*大正)十三年(*1924)九月には全国的指導機関として「学生社会科学連合会」(*細胞) が結成された。この「学連」(*細胞) は(*大正)十五年(*1926)一月所謂「京大事件」又は「学連事件」として最初の治安維持法違反者三十七名を出して社会に大きな衝撃を与えた。筆者(*三田村氏)は、先に述べたごとく昭和四年(*1929)六月から七年(*1932)一月まで内務省保安課に在職中主としてこの学生社会主義運動の調査を担当し、あらゆる方面から研究してみたが、その頃の学生社会主義運動の特色はマルクス・レーニン主義の理論と実践の合一を目標としたものであって、共産主義運動の有力な一翼として認識され、他の所謂無産階級運動に見らるる如き右翼、中間、乃至左翼社会民主主義に属する傾向のものが全く存在しないことであった。いま手許にある資料を一見してみると、昭和三年(*1928)三月十五日の三・一五大検挙以来日本共産党関係者として起訴された者が同四年(*1929)十一月現在の統計で八百三十六名となって居り、その中で学生関係者二百四十一名(*28.8%)の多きを数えている。(*当時の大学など高等教育を受けた学生は、同世代の1%~6%程度といわれるので、その比率を考慮すれば、この三割程度という比率は極めて高いことを意味する。)

 別な資料によると、昭和五年(*1930)十二月及び同六年(*1931)一月の二ヶ月間に警視庁で検挙した共産党関係者百七十二名、同六年(*1931)五月及び六月の二ヶ月間に同様警視庁で検挙した二百八十六名の殆んど大部分が十八、九歳から二十四、五歳までの学生である。

 この学生の大量赤化に対して当時の学校当局は果してどんな態度をとっていたであろうか。たしか昭和五年(*1930)の新学期開始直後のことと記憶しているが、文部省で開催された全国大学、専門学校長会議に(*内務省)保安課長と二人で出席したことであった。そのとき保安課長から学生運動取締に関する内務省の方針について説明したところ、某大学総長から、

 「いま内務省の説明を聞いていると、どうもその方針が生ぬるいような気がする。色の着いた学生は学校当局でも始末に困る。赤も桃色も灰色も区別する必要はない。全部警察に渡すから厳重に取締って欲しい!」という意見が出て、筆者(*三田村氏)はその不見識と無責任に驚いたことがある。地方から集まって来る「特高情報」を見ていると、

 「捕らえられて始めて警察の門をくぐったときは純真な一学徒であったが、三ヶ月、五ヶ月留置場で鍛えられ警察の門を出るときには燃えるが如き革命の闘士になっていた!」と言うような告白の文字をしばしば見る。学校当局は色の着いた学生は全部警察に渡すから厳重に取締れと言う。警察署に留置して無慈悲な教育をやれば、燃えるが如き革命の闘士となる。これが当時の偽りのない実情だったのだ。

 また、こんな例もある。共産党が資金カンパを指令し学生グループが無慈悲な醵金闘争をやったとき、兄弟三人で勉学のため上京していた学生(上二人は大学下の一人は(*旧制)高校在学)が三人共学内R Sに参加しこの資金カンパに加わって検挙された。調べてみると郷里の実家から学費として毎月一人七十円見当三人で二百円乃至二百五十円宛送金していた。ところがこの三人の兄弟は一室に同居生活し一ヶ月の経費を三人で三十円から五十円に切りつめ後の百五十円位を毎月(*共産)党に醵金していたのである。服を脱いで醵金する者、書籍を売って醵金するものなどはざらで一つの学校で一ヶ月に五千円位い集めたこともあった。(*およそ昭和初期の1円は現在の600円位と換算すれば、この三人兄弟は、三人で毎月12万円から15万円を実家から送金してもらい、そのうち9万円を共産党に醵金し、三人で月1万8千円から3万円で生活していたことになる。こうしてシンパの学生たちから金を捲き上げ、一つの学校から月に三百万円もの醵金を共産党にさせていた。)

 京都帝大に在学中「学連事件」で検挙起訴された男爵石田英一郎は、治安維持法違反の外に不敬罪と言う罪名がついていた。この不敬罪に問われたのは石田一人であった。彼の義兄は当時内務省の某高官、しかも本人は当時皇室の藩屏として特別の待遇を受けていた華族の当主である。親戚一同心痛して本人に改悔転向を懇請したが彼は頑として聴かなかった。

 「僕は丁度関東大震災の年学習院にいた。毎日自動車で送り迎えされ学校に通っていたが、あの夏の暑い炎天で、泥まみれになり、裸で汗を流して道路復興工事をやっている労働者を自動車の中から毎日見て通っているうちに、汗だくで働いている労働者に自動車のほこりをぶっかけて通る自分にふと懐疑の念を抱き初めた。この大きな人間的な差別が何処から生まれたかに悩んだ、そしてその悩みの結果発見したのがマルクス主義だ、だからこの自分の信念は他人の入れ智恵や道楽からではない。誰が何といっても曲げられぬ」と言っていた。こんな話は他にもまだ沢山あったが当時何処へも誰にも発表されていない。したがって、世間一般の者は勿論知らないし、政治家も政府の大官(*高官)も知らない。赤い学生なんか警察にでも放り込んで打ったたけば性根が直る位にしか考えていなかったのだ。思想には思想を以て対抗することを知らず、政治は常に改めることを怠り、官僚は一切を秘密の中に閉じ込めて来たことが日本の悲劇を生み出した一つの大きな原因となったと言えるであろう。

 当時の思想傾向についてもう一つ重要な問題がある。大正十二、三年(*1923, 24)頃から昭和四、五年(*1929, 30)頃までの学生就中、官立大学学生の思想傾向乃至社会観を分析してみると大体三つの型があった。

 その一つは情熱を傾けて真理探求に没入する連中でこの部類に属する学生は概ね頭の良いひたむきな傾向を持って居り全学生の約三分の一を占めるが、マルクス主義に共鳴し実践運動にまで突入して行く学生は大体この部類に属して居った。

 第二は、所謂秀才型で頭もいいが、しかし冷静で利口で立身出世を人生の目標にしている連中だ。官立大学の学生は三分の一以上この部類に属する。その大部分が役人になること又は大会社の社員になることを目的として大学に入ったのだから自分の出世の妨げになるようなことはしない。マルクス主義が思想界を風靡した時代にあったから、その書物も読み一応の理論的把握もやるが情熱を傾けて実践運動に飛び込むようなことはしない。しかし理論的には一応の理解を持っているから思想的な立場に於いては同伴者的態度を取る連中である。

 第三は、別にはっきりとした社会観も人生観も持たず、ただ学校を卒業するために学生になっている連中でこの部類に属する者がやはり大体三分の一あった。

 右(*上記)の三つの部類の内、第一の部類に属する者で共産主義に共鳴する者は直ちに実践運動に飛び込んで行くからはっきりしているが、問題は第二の部類に属する連中である。この連中は頭も良く利口で打算的で処世術も心得ているから学校を出て実社会に活躍するようになり役人にでもなっていると、時の流れに順応して共産主義の同伴者ともなり得るのである。この点に関しては第三篇で詳しく触れるが非常に重要な問題である。

 以上述べて来たごとく、三・一五事件をスタートとして共産主義運動にも弾圧政策を取り、大量の学生、青年及び無産階級の指導者を所謂「鉄格子の中」で鍛えて来たのだ。いま正確な数字は手許にないが昭和十年(*1935)頃現在で転向者六万と称していたから共産党関係の疑いで警察の門を潜っただけの者も加えるならば凡らく十万にも達しているであろう。しかしてここに問題となるのはこれらの所謂思想前歴者に対して歴史的考察を加えねばならないことだ。即ち大正十二、三年(*1923, 24)頃から昭和四、五年(*1929, 30)頃迄に二十歳から二十四、五歳位の年齢でマルクス主義の洗礼を受け実社会に出たインテリ・マルクス主義者が、昭和十二、三年(*1937, 38)即ち日華事変勃発の前後から三十四、五歳乃至四十歳前後の年齢に達し、政府官庁の中堅層を占め、民間諸機関の第一線に活躍していたとしたならば、後に述べる如く、現状打破、革新、資本主義打倒、進歩的政策などのスローガンに呼応して大きな流れをなし、左翼革命謀略の同伴者的役割を果すことも当然だったのである。

・・・(**前掲書82~86頁)

 このように当時内務省保安課の担当者をしていた三田村武夫氏は分析しています。1917年(大正6年)のロシア革命を契機としてソ連邦が正式に誕生したのが1922年(大正11年)ですから、その思想的インパクトを受けた世代が、その約十五年後に中堅層となった頃に、日本は日華事変から果ては大東亜戦争に向かって進んでゆく構図となるわけです。日本は中堅層からのボトムアップ方式による起案・合議・決裁で機関決定してゆく組織の意思決定システムですから、最初に起案するエリート中堅層にこそ、実は全体を動かしてゆく大きな力があるのです。こうしたことを基盤・背景として日本は泥沼の戦争へと向かっていったのです。(次回につづく)