前回に引き続き、大橋秀雄氏と、戦後の後輩警察官である松橋忠光氏の共著『ゾルゲとの約束を果たす** ― 真相ゾルゲ事件』(1988年オリジン出版センター刊)を取り上げたいと存じます。共著者の松橋氏の記述は、前回かなりご紹介しましたが、次のようなことも述べています。

・・・「悪法もまた法なり」は法令関係実務家としての通説であるが、治安維持法の場合、その“悪法性”がいわれるのみで、これを制定し、その執行を指揮命令し、これにより裁いた立法・行政(とくに内務省)・司法など各界指導層に属した人々の責任が戦後あいまいに黙過されたこと。(大橋氏が警視庁外事課に勤務した七年間に五人の課長が交代したが、戦後、責任を問われたものはなかったという。)・・・(**同上書30頁)

 かつてわたくしが、アメリカ・ワシントンD.C.のラジオ局の取材で、山本五十六提督に関するインタビューを受けた際、連合艦隊司令長官は、その職責上、開戦を決定する権限はなく、国家として日本政府と統帥部(大本営陸海軍部)が開戦を機関決定して、国家が山本長官に戦闘開始を命じた場合には、それに従って戦うのが軍人の義務であるため、当の山本長官自身が対米英蘭開戦に反対していても、戦わざると得なかったのですと、説明しました。しかし、取材に来たアメリカ人記者は、それはナチスでも何でも、皆「自分は命令でやった」というのだと言い、山本長官が置かれた苦衷を理解してくれませんでした。限られた時間のなか、当時の日本の国家意志決定システムや、連合艦隊司令長官の職責、そして「列外の者は言挙げせず」(担当責任者以外の者は、その任務に容喙・口出しをすることを厳禁する)帝國海軍の厳然たる不文律などを説明する余裕は与えられませんでした。大変悔しい思いをしたのです。

   因みに、2014年に私自身が取材で訪問した、アメリカ海軍の第七艦隊司令官や太平洋艦隊司令官と、ポーツマスの米海軍大学校の教授の皆さんは、口を揃えて、山本長官の真珠湾攻撃などの海軍作戦は、当時の海軍提督として、大変優れた作戦立案と総指揮であったと高く評価していました。もしも自分がその立場であったら、同じことをやったであろう、と米海軍提督たちもおっしゃっていたのです。しかも当時の日米海軍ともに、まだまだ戦艦主力主義の状況の中で、軍事的には革命的である空母機動部隊を活用した航空主力攻撃を、実戦で行うまでにもっていった山本長官の総合指揮と実行力は敬服に値する、と評価しておられました。

 一方で、上述のアメリカ人記者のみならず、戦後の現代日本人も、やはり当時の帝國軍隊の厳しい規律や軍人精神は、もはや殆ど理解不能のレベルになっています。何しろ戦後八十年近く、日本に軍隊は存在せず、軍法(陸軍刑法と海軍刑法)もなく、従って軍法会議も存在しないで過ごしてきたからです。軍人が戦えと正式に国家から命令されて、それを拒否したら、当然「抗命」や最悪は「敵前逃亡」の罪で、銃殺刑に処せられるのです。そうした軍律の厳しさとは無縁の時代を、戦後の日本は長年歩んできたのです。そのことが国として幸せなのか、それとも不幸なのかは、一概には言えないものもありますが、少なくとも事実として、そうやって戦後を過ごしてきたのは、紛れもなく歴史的事実です。

 近隣の自由民主主義国である韓国や台湾にも、軍隊は存在し、厳しい軍法によりその軍律を保ち、また軍隊経験者が社会に多く存在しています。むしろ、そういう国の方が多いのが世界の現状です。この日本の状況は、基本的には「軍隊ではない(軍法が存在しない)」自衛隊の存在と、日米安全保障条約に基づく米軍の存在により、維持されてきたのであり、よく安易に、日米安保反対とか自衛隊反対とかいう人々は、では、米国との同盟を解消し、自衛隊も解散させたなら、憲法第9条の条文が、具体的に日本と国民の安全をどうやって守るのでしょうか。北朝鮮や中国やロシアが核ミサイルを打ち込んできたり、我が国の領海・領空・領土に外国軍隊が侵攻してきたりした場合に、これらを主張されている方々は、拡声器で憲法九条の精神を敵国軍隊に伝えれば、それで侵略国の軍隊は、さっさと引き上げてゆくと信じておられるのでしょうか。

   それとも、こうした主張をされている方々は、こうした侵攻をしてくる国々はより望ましい国家体制の「友好国」だから、これらの国々に日本が占領されたり属国になったりする方が良い、と心底では思っておられるのでしょうか。ウクライナで実際に起こっている隣国の軍事侵攻も、もしウクライナ憲法に日本の九条と同じ条文があれば、それをゼレンスキー大統領が唱えさえすれば、プーチン大統領は直ちにロシア軍を引き上げた、とでも主張されるのでしょうか。こうしたことが、如何に国際社会の現実からかけ離れた「空想的」あるいは「夢想的」ないしは「幻想的」主張であることに、いい加減に気づいて戴きたいと念願しています。

 それはさて置き、本題に戻りますが、ゾルゲと尾崎秀實を死刑にしたのは「悪法」であったのかどうか、という批判・評価の過程の前に、当時ゾルゲたちは如何なる法的根拠で検挙されたのか、ということを確認しておく必要があります。当時は、大日本帝國憲法下の法体系によって、日本は律せられていました。江戸時代は徳川幕府の制定した各種の御法度によって、拷問を伴う過酷な取調べと、斬首、獄門や磔などの残虐な刑罰が科されていましたが、明治以降は、それよりは近代的な法制が整備され、同じ時代の西洋諸国でも、似たような国法体系や軍法体系が存在していた「時代」です。現代の価値判断で、いくら江戸時代やそれ以前の刑罰の非人道性を訴えたとしても、それはその時代のことであると、受け止められるのであれば、論理的には、今から八十年以上前の戦前日本の法体系や罪刑も同様なのです。

 それでは前掲書**から、大橋氏の著述による「2 検挙の法的根拠」の項を読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・「ゾルゲ事件」は、フィクション物語でも単純なスパイ事件でもない。戦時中に日本で施行されていた法律により、警視庁が東京刑事地方裁判所検事局の指揮命令をうけて捜査検挙し、取調べを行って訊問調書を作成し、事件を東京刑事地方裁判所検事局に送致した国際的な諜報活動事件で、その諜報団の組織と活動、とくにその諜報内容は、世界的にも他に類例をみないほどの成果をあげたスパイ事件である。

 東京地方検事局は、警視庁の検挙取調べを指揮命令するとともに事件の送致をうけ、さらに事件を取調べて起訴し、予審を請求した。予審判事は、取調べを行って予審を終結し、裁判所に公判を求める決定を行い、東京刑事地方裁判所は、審理の結果有罪の判決を言渡したのである。ゾルゲは上告手続を誤って上告を却下されたが、尾崎秀実は大審院で上告棄却の判決を受けた。

         適用した法律

 戦時中の刑事特例手続による二審制で裁判は促進されたが、とにかく法律によって裁判所で裁かれたものである。しかし、現行の刑事裁判手続とは大分相違しているので、当時の適用法律や刑事訴訟手続を簡単に説明して事件に対する理解の参考としたい。

 一、治安維持法

 大正十二年勅令第四〇三号で公布され、後に帝国議会の協賛を得て大正十四年四月二十二日法律第四六号で公布された。これは我国の国体を変革し私有財産制度を否認する行為を処罰する法律である。さらに昭和十六年三月十日法律第五四号で改正され、特に第二章で刑事手続、第三章で予防拘禁手続が加えられた。

 二、国防安全法

 昭和十六年三月七日法律第四九号で公布された。諜報活動並びに諜報団の結成を取締り、国家機密の保護と特に外国への漏泄を禁止した法律で、第二章に刑事手続の特例が規定された。

 三、軍機保護法

 明治三十二年七月十五日法律第一〇四号で公布され、昭和十二年八月十四日法律第七二号で改正施行された。これは軍事上の機密である作戦、用兵、動員、出師その他軍事上の機密を要する事項又は図書物件の保護を規定した法律である。

 四、軍用資源秘密保護法

 昭和十四年三月二十四日法律第二五号で公布された。国防目的達成のため軍用に供する人的及び物的資源に関し、外国に秘匿する事項の漏泄を防止する法律である。

         訴訟手続

 訴訟手続は、通常は刑事訴訟法の規定によるのであるが、戦時中なので、特別な事犯には特別な刑事手続が規定された。国防保安法第二章の手続が適用されたのは、次の法律の該当条文の事犯である。

 一、国防保安法 第三条乃至第十三条

 二、軍機保護法 第二条乃至第七条、第十五条乃至第十七条

 三、軍用資源秘密保護法 第十一条乃至第十五条、第十九条

 四、刑法 第二編第三章各条

 五、陸軍刑法 第二七条乃至第二九条、第三一条、第三二条、第三四条

 六、海軍刑法 第二二条乃至第二四条、第二六条、第二七条、第二九条

 七、国家総動員法 第四四条

 八、外国に通牒し、外国に利益を与える目的で犯したときは、前記以外に軍機保護法、軍用資源秘密保護法、要塞地帯法その他の法律が適用される。

 九、治安維持法については、すべて同法第二章の手続が適用された。

・・・(**同上書80~83頁)

 「悪法」かどうかは別として、当時の大日本帝國憲法下の国法体系に基づいて、ゾルゲの諜報団は合法的に検挙・起訴され、裁判により判決が下り、それに基づいて刑が執行されました。ゾルゲと尾崎秀実(*實)はその結果、死刑となったわけです。では、大橋氏による「ゾルゲの死刑」の項を読みましょう。

・・・ゾルゲは取調べ中に、どういう罪名で取調べを受けているのか、また、刑の言渡しはいつごろでどうなるのだろうかと聞いたので、私(*大橋警部補)は、「国防保安法と治安維持法の違反であるが、国防保安法はこの年(*昭和16年)の六月に公布施行された法律でまだ適用された者が少なく、治安維持法は主として共産主義活動をした者とその同情者等に適用されているが、諜報活動に対してはどんな刑が言渡されるか分らない。また、両法律とも最高は死刑の規定があるが、治安維持法違反で死刑の判決があった者はいない」と説明した。

 ゾルゲは「もし私が死刑になるとばけて出ますよ」と冗談をいうので、私も「ゾルゲさんは唯物論者だから、霊魂の不滅と幽霊の存在を信じているとは思わなかった」と答え、二人で大笑いしたことがあった。

 後にゾルゲは裁判官に対して、「赤軍(*ソ連陸軍)のスパイだというと(*帝國陸軍の)憲兵に引渡されて銃殺されると考えて、初めは赤軍(*第四本部(情報部)所属)のことをかくしていた」と申し立てているが、私(*大橋警部補)が捜査手続を説明しておいたのであるから、「警察から憲兵隊に引渡されて軍法会議で裁判されると思った」とゾルゲが言ったのは、法廷における答弁作戦に過ぎない。また裁判中に国防保安法に死刑の規定があるときいて驚いてみせたというのも、ゾルゲのゼスチュアと見る外はないのである。

 私は、ゾルゲに死刑の判決がおりるとは予想していなかったし、後に送致意見書を作成したときにも、情状の項に「相当の刑を科せられたく」と書いた。

 (注)情状の意見は、(イ)厳重な処分、(ロ)相当の処分、(ハ)寛大な処分、等の意見を書くのであるが、極刑を科す意見はまれな例であった。

 (*大橋警部補の)上司は、私の意見を「その罪極めて重く極刑を科するの要あり」と全面的に訂正して送致した。私の意見は、私として相当に勇気のいる意見であったが、認められなかったばかりでなく、きついお叱りを受けたのである。

 最近のことで、某大学法律学教授が私に対して「自分が死刑を望まないのなら上司に反対して自分の意見を通すべきだった」と非難したが、法律家なら検事同一体の原則や階級制度下の命令関係は承知のはずである。当時、司法警察官として検事の部下であり、しかも刑事事件は所属長の名で検事局に送致するのであるから、所属長が訂正決裁したものを部下が再変更することなど出来るものでないことは法律関係者の常識で、私に対する故意の非難としか受け取れなかった。

 ゾルゲは、昭和十九年(*1944)十一月七日のロシア革命記念日に東京拘置所内で、尾崎秀実(*實)とともに死刑を執行された。私(*大橋氏)はそのとき巣鴨警察署次長で、翌日この報をきいて東京拘置所に問い合わせると、染井墓地の無縁墓地に葬ったというので、花束を持ってゆき、墓標に供えて供養した。

 終戦後、上野警察署内の米軍軍事法廷で旧知の坂本看守長に会ったとき、その話をすると、墓地は雑司ヶ谷であったというので、間違っていたが、私の気持はゾルゲに通じていたと思っている。

 なお、昭和五十一年七月二十六日に日本政府は、占領当時の外交文書について第二回目の発表をしたが、そのなかで、「G H Qが、思想犯の釈放と、治安維持法の廃止及び特高警察官の罷免を命令したのは、当時の山崎内相と岩田法相が共産主義の取締りを主張したのと、三人の共産党員が死刑に処せられたためである」という説明をしていた。しかし、ゾルゲ及び尾崎(*秀實)はスパイとして国防保安法により死刑になったのであり、他には死刑になった共産主義者はいなかったのである。・・・(**同上書132~134頁)

 罪刑法定主義という法治国家の基本理念に基づき、当時の大日本帝國は国法(国防保安法)によって、ゾルゲたちの罪刑を確定し、裁判の判決に従って処刑を執行しました。戦前日本の国法体系が悪かった、これらは全て悪法であったと、仮に主張したとしても、それは江戸時代の法体系が悪かったというのと、論理的には同じことであり、それぞれ、前者は明治維新により、後者は大東亜戦争敗戦による占領軍(GHQ)の指令により、憲法をはじめ関連する国法体系が変革されたのです。従って、当時の帝國議会により制定され、昭和十六年三月七日法律第四九号で公布された国防保安法に基づき、ゾルゲたちは裁かれたわけですから、当時の合法的な対処に基づくものであったわけです。次に、国防保安法自体が「悪法」であったかについては、まず米国と英国の法律を検討してみたいと思います。

 米国には、1917年制定の「スパイ活動法(英語:Espionage Act of 1917)」と、1980年制定の「機密保護法(Classified Information Procedures Act)」があり、前者は米国の国家安全保障を脅かす活動を禁止し、スパイ行為や国防機密の漏洩に対する罰則を定めています。この法律は、軍事機密や国家安全保障に関する情報を収集し、外国に提供すること、または米国の敵対国に、米国にとって有害な情報を提供することを禁止しています。違反者には、懲役や罰金、または死刑が科せられることがあるといいます。また後者は、国家機密情報の保護と管理に関する規定を定めており、これに違反する行為は、懲役や罰金などの刑罰が科せられ、また、この法律は軍事機密や情報の機密保護に関する司法手続きに関する規定も含まれているといいます。

 英国では、1911年に制定の「公式秘密法(Official Secrets Act)」と「テロリズム法(Terrorism Act)」があり、前者は、国家の安全や国家機密を保護するための規定を含んでおり、軍事機密や政府の機密情報を漏洩した者に対して厳しい罰則を科すことがあり、違反者には懲役や罰金が科せられるといいます。後者は、テロリズムに関わる活動やテロリスト行為を取り締まるために制定され、テロリストの活動や組織に関する情報を漏洩した者に対しても厳しい罰則を科すことがあるといいます。

   米英両国とも、これらの法律は、国家の安全保障を維持し、軍事機密や国家機密情報の保護を目的としており、違反者に対しては、懲役や罰金などの刑罰が科せられることがあるのです。

 それでは、翻って前述の戦前日本の「国防保安法」(昭和16年3月7日法律第49号)の内容を見てみると、その対象は、御前会議、枢密院会議、閣議並びにそのために準備した事項を含む国家機密の漏洩、その他通敵を目的とする諜報活動、治安を害する事項の流布、国民経済の運行の妨害および妨害未遂、教唆、扇動、予備または陰謀などであり、最高刑は死刑が適用されました。(『昭和史事典』(別冊1億人の昭和史)、昭和55年毎日新聞社刊より)

 根本的には、現代においても、軍事的あるいは国家機密を探る外国のスパイに、最高刑が死刑となる法律を制定している国は、以下のような国が挙げられます。

   中国: 中国では、国家安全保障や軍事機密に関わるスパイ行為に対して死刑が適用されることがあります。中国は厳格な法執行を行い、国家の安全を守るために厳しい刑罰を科す傾向があります。

   イラン: イランでも、国家安全保障や軍事機密に関わるスパイ行為に対して死刑が適用されることがあります。イランは外国のスパイ行為や国家の安全を脅かす活動に対して厳しい姿勢を示しています。

   北朝鮮: 北朝鮮では、国家の安全保障や軍事機密に関わるスパイ行為に対して死刑が適用されることがあります。北朝鮮は極端に厳しい法執行を行い、国家の安全を確保するために厳しい措置を取っています。

   これらの国々は、国家の安全保障や軍事機密を守るために極めて厳格な法律や刑罰を持っており、スパイ行為に対しては極めて厳しい姿勢を示しているのです。従って、戦前の日本の「国防治安法」が、これらの諸外国のスパイに対する法律と比べて、取り立てて「悪法」であるとは言えないのです。

 因みに、この「国防保安法」は終戦後、占領軍(GHQ)の指令により、昭和20年(1945)10月13日、ポツダム命令である国防保安法廃止等ニ関スル件(昭和20年勅令第568号)で廃止されました。この結果、現代の日本政府では、外国のスパイに対して死刑を科すことはありません。日本の刑法では、外国のスパイ行為に対しても通常の刑法違反と同様に懲役刑が科せられます。具体的には、秘密保護法違反や国家公務員法違反など、関連する法律に基づいて懲役刑が科せられる可能性はあります。しかし、上記の諸外国に比べれば、決して厳しいとは言えない内容です。これが日本という国にとって、果たしてよいことなのかどうなのかは、国民各個人の価値観によっても異なるでしょうが、少なくとも日本の防衛機密や国家機密が外国に流出することは、国益を害することであるのは間違いありません。読者の皆さんは、どのようにお考えになりますか?

 それでは、ゾルゲに対する大橋秀雄警部補による第三回被疑者尋問調書(昭和16年10月28日、於東京拘置所)から、次の箇所を読んでみましょう。前掲『ゾルゲとの約束を果たす** ― 真相ゾルゲ事件』からの引用ですが、原文のカタカナ等を、平仮名と現代仮名遣いに直しています。(*裕鴻註記)

・・・三問 被疑者の今次諜報活動の概要如何。

 (*ゾルゲの)答:私(ゾルゲ)が探知収集して、コミンテルンに送った情報活動の主なるものの一般概要は、軍事上、政治上及経済上であります。

 第一に、日本と英米蘇聯(*以下「ソ連」)間に戦争があるか、支那(*中国)に於ける戦争(*日華事変)はどうなって居るか

 第二に、英米独蘇(*ソ連)と日本の政治関係は如何であるか

 第三には、前述の一*、二*に関連して、日本に於ける経済上内政上の進展は如何であるか(*一問:日本に於ける今次諜報団体に対する認識概要如何。*二問:次に、日本に於ける今次諜報団体の組織内容の概要如何。回答は省略)

 が自分(*ゾルゲ)が探知収集した一般状況である。

 例えば、軍事上では、今年(1941年)中には、日本とソ連邦*とは戦争がない。又、最近日本に於ける(*日本陸軍将兵の)動員は、北方即ちソ連邦*に対するもののみでなく、南方及支那(*中国)に対する為にも動員されて居る。

 政治上、外交上に於いては、日本の上層部は米国との諒解を得る事を強く希望して居るが、私(*ゾルゲ)は、日本の現在の情勢から見ると、其の可能性が少なく、諒解を得るとしても、非常に永くかかるであろう。内政上では、米国と友好関係を結びたいと云う希望が盛り上がって来て居る。

 経済上では、米国が在米日本資金を凍結して以来、日本の経済状態は、それに応じた手段、即ちそれは、西南太平洋(蘭印方面)の方から日本が必要とする物資(*石油等)の供給を得る為に必要なる手段をとらなければならぬ様余儀なくされた。

 と云う様な事でありまして、前に申上げた者の中、主なる者の諜報活動の役割や分担を簡単に申上げれば次の通りであります。

 私(ゾルゲ):今度の諜報団体の指導者責任者として、此の団体を指導し、而して此の小さな諜報団体及広汎なサークル、即ち独乙(*ドイツ)大使館其他より探知収集された、軍事を初め外交政治経済等に関する総ての事件の資料情報及文書を基礎として、一定の情報を取纏め、これをコミンテルンに報告することであります。

 ヴーケリッチ:現在の日本の情勢、或は其の将来に於ける発展性、又は日本と外国との関係の進展、欧洲に於ける戦争の状態、日米関係の推移等に対する外国人の意見、等の情報を探知収集して、之を私(ゾルゲ)に提供して居りました。併し、この外国人は、主として仏蘭西(*フランス)人で、仏蘭西大使を初め、同館員又はアバス通信員でありました。又、時には、私(ゾルゲ)自身が探知収集した情報に、尾崎(*秀實)、宮城(*与徳)等から私(ゾルゲ)に提供した情報、主として文書を私(ゾルゲ)より預けて、之を写真に撮影させて居りました。

 クラウゼン:私から渡した情報を保管させたり、之を無電或は他の方法で発信させて居りました。別に、帳簿係として資金の取扱をさせて居りました。同人は無電の技術者であったと思います。

 宮城(*与徳):日本及満洲に於ける軍事、外交、政治、経済等に関する情報を探知し、収集した情報や資料文書を英語に翻訳して居りました。然も之等の資料は、農林省等から得たるもので、外国人としては入手困難なものでありました。

 尾崎(*秀實):私(ゾルゲ)の特別な友人であり、私(ゾルゲ)が日本の諸問題に就て検討せねばならぬ問題は、必ず尾崎と相談して居り、同人と相談せぬ以上は、自分で重要な結論はしない事にして居り、其の問題とは、例えば、日本に於ける政界の危機、戦争勃発の危険性、経済的困難、支那事変(*日華事変)の進展性及蔣介石との和平提携の可能性等に関する問題であります。

 而して尾崎は、之等の問題に付、知識や情勢判断の意見を私(ゾルゲ)に提供して呉れたり、自ら情報を探知取集して私(ゾルゲ)に提供して呉れ、私(ゾルゲ)を力付けて呉れておりました。(*後略)・・・(**同上書193~196頁)

 このようにゾルゲは大橋警部補に供述しています。こうした内容は、上述の「国防保安法」に照らして有罪となる内容であると、時の検察及び裁判所に判定され、その結果、ゾルゲと尾崎秀實の両名には死刑判決が下されたのです。(次回につづく)