ゾルゲと「特高(特別高等警察)」という対象を捉えるとき、わたくしたちの立脚する価値基盤がどこにあるかで、いろんな見方が成立します。ゾルゲをソ連の英雄、すなわち共産主義者として讃える左翼的な立場に立てば、その英雄を逮捕し、投獄し、裁判によって死刑に処した官憲側、特にそれを担った「特高」という組織やその担当警察官・検事などは、「悪役」として捉えられてしまいます。

 しかし、ソ連政府(外務人民委員部等)・ソ連軍(赤軍)・コミンテルン(国際共産党)の三位一体による対日本謀略と諜報活動の一環であるゾルゲ諜報団の情報取集活動及び対日工作という観点で眺めるならば、特高(但し、外事課)が果たした「防諜」という任務は、当時の「国益を守る行為」として捉えることもできるのです。

 かつてのNHK大河ドラマ「篤姫」で流行った「一方聞いて沙汰するな」の格言の通り、歴史的事象を捉えようとする際に、わたくしたちが鋭意意識しなければならないのは、「客観性」の問題です。わたくしは、故・安藤英治先生が推進された、Max Weber博士の「Wertfreiheit」を「没価値」ではなく「価値自由」と翻訳する、客観性の担保方式を高く評価する者です。

 それはつまり、論者(研究者・著述者)は、先に自分自身の価値基盤を、読者に対して明示すべきである、という方法論的姿勢なのです。例えば、論者が、自ら「自分は共産主義者である」と立場を明示することによって、読者は、自らの独自な判断による「読解の仕方」をすることで、総体的に客観性を担保し得るという考え方です。この方は、共産主義者であるのだから、当然にマルクス・レーニン主義及び史的唯物論的観点で、この対象事象を研究・分析・批判・評価しているのだな、との前提的理解のもとに、読者は自分自身の価値観・価値基盤に立脚して、その立論や分析を読解することが可能となります。

 平たく言えば、この人の立論は左翼的立場からのものであることを理解した上で、当該する立論の内容を、相対的に検分しつつ読み取ることが可能なのです。画像で言えば、赤色フィルターをつけたレンズで撮影している動画の様なものと理解できるわけです。

 最も問題となるのは、実は「赤色フィルター」を付けた描写をしているにもかかわらず、「いやいや自分は無色透明である」と標榜することです。つまり自分の立論は、「(没価値的な)客観的かつ公正中立なものである」と主張することなのです。もちろんある程度、その論じられているテーマの内容について、十分な知見(知識・見解)の素養がある人がそれを読めば、うすうすその論者の思想傾向は読み取れるのですが、一般的な読者や、その分野についての知見があまり深くない人々にとっては、こういう「無色透明の偽装」に騙される結果をも招来します。これは学術界のみならず、新聞・雑誌・テレビなどのメディアで、より発生し易い性質を持っています。なぜなら新聞などのメディアは、建前として「公正中立・不偏不党」を掲げている場合が多いからです。

   むしろこの意味では、共産党が発行する「しんぶん赤旗」などは、立場が最初から明瞭であるという意味では、読者の側にさえその知的変換機能が備わっていれば、読解のし易い記事であるとも言えるのです。いちばん厄介なのは、「我々は公正中立である」と主張しつつ、実態的には「不偏不党」ではなく、ある特定の思想的立場に依拠した内容を、あたかも客観的な記事であるとの偽装をしつつ掲載する新聞や雑誌、あるいはテレビ番組ということになります。

 それは本質的には「報道」というよりは「煽動」であるからです。北朝鮮の最高指導者の妹君が就いている役職のうちの一つ、「朝鮮労働党中央委員会宣伝扇動部副部長」の肩書きからわかるのは、「宣伝扇動」ということが、極めて重要な役割を果たすと考えられていることの証左です。

 ゾルゲから少し離れましたが、わたくしたちは、このゾルゲ事件をどのように捉えるか、に当たって、下図の様に、なるべく客観的に捉える努力をする必要があるのです。この図の通り、人物󠄁Aが何をどのように捉えていたか、を捉えようとしていた人物Bの捉え方を、総体的かつ相対的に、わたくしたち人物Cは捉えなければなりません。

   (付図:裕鴻作画)

 例えば、Aにゾルゲや尾崎秀實を代入し、Bにゾルゲを取調べた大橋秀雄氏(元特高警察官)を代入して、それをさらにわたくしたち自身の視点・視角としての人物Cの、自己認識をもつことが大切なのです。もしも人物Bが共産党の方なら、当然異なった全肯定的な評価・見解が出るでしょうし、人物󠄁Aが元特高警察官、人物Bが共産党員なら、当然人物Bは人物Aを権力側の虐待・虐殺者として全否定的にしか見ないことでしょう。しかしわたくしたち人物Cの視点・視角としては、いずれの場合も、より客観的にこれらの相対的関係を総体的に眺め渡す様、努力しなければならないのです。

 さて、ここからは大橋秀雄氏と、戦後の後輩警察官である松橋忠光氏の共著『ゾルゲとの約束を果たす** ― 真相ゾルゲ事件』(1988年オリジン出版センター刊)を取り上げたいと存じます。同書**による大橋秀雄氏の略歴をまずは確認しておきます。(以下、*裕鴻註記)

・・・大橋秀雄

   明治36年(1903)3月横浜市生まれ、横浜商業学校・日本大学専門部法律学科第2本科卒業。大正13年(1924)「一年志願兵」として近衛野砲兵連隊入営、昭和3年(1928)3月陸軍砲兵少尉。

   昭和3年11月警視庁巡査、7年8月巡査部長(特高係)、10年10月警部補(特高主任)、11年7月本庁外事課(欧米係ロシア班副主任)、18年8月警部(警察署ほか)、23年3月警視(本庁係長、署長、隊長、本庁課長等)、31年6月警視正・退職。その後41年7月まで会社嘱託、以後自宅において著述に従事。

   著書:『ある警察官の記録』(昭和42年6月みすず書房刊、絶版)、『闘った幹部警察官の記録』(共著、1985年9月オリジン出版センター刊)。

・・・同上書**巻末より。

 当時の大橋警部補は、外事課所属であり、明治40年(1907)8月に、警視庁総監官房に、高等課(高等係・外事係)、特別高等課(特別高等係・検閲係)が設置されてから、昭和7年(1932)6月に「特別高等警察部」が設置されるまでは、いわゆる「特高」とは異なる課でした。この昭和7年の組織改編では、「特別高等警察部」に纏められてはいましたが、同部内では、外事課(亜細亜係・欧米係)、特別高等課(第一係(*左翼担当、のち特高一課に昇格)・第二係(*右翼担当、のち特高二課に昇格)))というふうに、思想警察である「特高」とは異なる課として外事課は存在していました。

   外事課の役割は、あくまで外国人の犯罪や防諜を対象としているもので、ゾルゲ(ドイツ人)も、一味のクラウゼン(ドイツ人)も、ブケリッチ(クロアチア人)も、外国人であることから外事課が担当したのです。一方で、一緒に捕まった尾崎秀實や宮城与徳は、日本人であることから、特別高等課(本家本元の「特高」)が担当しました。

 戦後G H Q(占領軍)の指示で内務省が解体され、特別高等警察(思想警察)は廃止されましたが、外事課は公安警察に引き継がれ、現在も存続しています。「特高」というと、過酷な拷問の様な尋問による死者が出る、残虐非道なイメージが流布されていますが、この大橋警部補のゾルゲに対する尋問は、そのようなことはなく、むしろ同上書**共著者の松橋忠光氏(*戦後奉職した後輩警察官で、一時期大橋氏が上司であった)によれば、次のように解説されています。ここから今回は主に、この松橋氏の著述部分を拾ってゆきます。松橋氏は、戦争末期に東京商科大学(現・一橋大学)を中退し、海軍短期現役主計士官を志願して海軍主計少尉に任官し、戦後復員して警察幹部に応募した方です。

・・・一般に「特高」(特別高等警察の略称)と呼ばれてきた警察分野には、次の二つの組織図(*省略)が示すように、沿革からくる広狭二義があり、治安維持法の執行で“悪名”高い特高は狭義のもの(主流であった特高第一・第二両課が中心)で、外事警察や労働争議調停など(外事課・調停課など)は、昭和七年警視庁に特別高等警察部ができたときに編入されたものの、広義の特高として別の組織のように扱われていたこと。・・・(**同上書27~28頁)

・・・大橋氏は、巡査部長昇任以来十一年間の特高勤務を通じ、治安維持法の悪法性を知っていたし、だから、自ら“拷問”をしなかっただけでなく、病人や長期留置者の健康に配慮もしたという。おそらく「悲惨な現実を生む法の改廃」を願っていたにちがいないが、明治憲法下で、それを声に出すことができない「陛下の警察官」であった。当時の大橋氏のような人を非難できる人はどれほどいるであろうか。・・・(**同上書30頁)

・・・大橋氏は(*中略)、ゾルゲについて「たしかによくいわれているように人物は偉大で、大物という感じがしました」と述べたあと、次のように語ったことにされている。

 「ゾルゲ事件も種々の方面より関心がもたれ……多くの書が出されるのは結構なことだと思います。でも最近(*昭和42年当時)筑摩書房より出た『ゾルゲ追跡』は多くの点で私は不満ですね。取調べ官の私(*大橋氏)を大分批判しているようですが、大分誤解というか事実誤認があるようです。……まず、あそこではゾルゲ・尾崎(*秀實)をつかまえたのが悪いとなっているが、私からいえば当時の法律にしたがってつかまえたのが何故悪いのかわからないです。またゾルゲ・尾崎がえらくって、私たちは悪いのだとなっているがどうして悪いのですかね。私は単純なことをいっているんです。国を売ったものがえらくて、国のためを思って法律にしたがって、つかまえたのが悪いというんじゃ私は救われませんよ。ここをはっきりさせたいですね。ソ連で評価されてもそれは思想の違いだからいいですよ。だが日本では日本の立場で評価せよといいたいです。」

 この大橋氏の主張は、法治国家の警察官であった者として一応当然のことを述べたもの、といってよいと思われるが、実際のインタビューで大橋氏は、「ゾルゲ・尾崎」を同列に「国を売ったもの」として扱うことの誤りを指摘し、思想的には「モスコー本部につらなる共産主義者」として同じであるとしても、「ドイツ人ゾルゲ」と「日本人尾崎(*秀實)」とでは法律的社会的に立場が相違することについて説明しておいたという。しかし、記事(*昭和42年8月7日付日本読書新聞記事)からは大橋氏のこうした配慮はうかがうことができない。

 さて問題は、質問⑤(*「ところで特高という言葉を聞くと思い浮かべるのは、左翼への拷問や、小林多喜二らの虐殺ということですけれども、これらの批判に対してはどう考えられますか。また責任ということなんですけれども…。」という日本読書新聞記者の質問)に対する(*大橋氏の)答えとして活字になった次の記事である。

 「御承知のように特高といってもいろいろあって、現行の密出入国取締官から中労委までの仕事をしていたんですよ、昔は。私は特高といっても、左翼係じゃなく外事課といって今でいう出入国管理事務所みたいなところに長くいたんです。そういうことからいっても私はそれらの事件について関係ないです。それから特高が殺したとか、拷問したとかいう事実についてですが、私は知りませんね。拷問・虐殺をしたというのは、もう思想の違いとしかいいようのない点もあります。法律によって留置場に入れること自体拷問というんでしょう。そうなると思想の相違としかいいようないですね。

   責任ということですが、自分のやったことでもなく、知りもしないことを謝る必要ないでしょう。謝る責任があるのは、当時の警視総監、特高部指揮官、検事総長がすべきであって、私のような警部補は、末端もいいところで全然謝る必要がないと思っています。(*後略)」

 一読して読者は、この部分には混乱があることに気付かれるであろう。

   『日本読書新聞』はすでに消滅した新聞であるが、(*中略) この質問⑤では、大橋氏によれば、特高非難の立場から攻撃的発言をくり返す記者と大橋氏の間でかなりきわどいやりとりがあり、記者は大橋氏の説明を納得しないままに帰ったばかりでなく、記事原稿の了解を求めることもなく、言葉尻をとらえての悪意に満ちたまとめ方をして発表された、という。大橋氏はこの記事を新聞発行後に知り、乱暴な記者の行為に立腹したが、あとの祭りであった。大橋氏は後述の「広狭二義の特高の区別」を記者に説明し、記事でも「左翼(*係)じゃなく外事課といって……」と一応はふれているが、インタビューで記者は、小林多喜二の死に象徴される戦前の共産党弾圧――治安維持法中心の狭義の特高にこだわって大橋氏に謝罪を執拗に迫り、応酬のあげく大橋氏は、「こういう責任追及のやり方は、何ら具体的結果を生まなかった“一億総さんげ”と同じではないだろうか」とまで反論せざるをえなかったという。

 私(*松橋氏)が大橋氏に確認したところは概略以上のとおりで、相互の立場への配慮を欠いた場合の意思交換のむつかしさ、また、いったんマスコミで報道されたならば、その影響を取り消すことの困難さを思わざるをえない。(*後略)・・・(**同上書22~25頁)

・・・ここで参考までに、大橋氏と私(*松橋忠光氏)との関係についてふれさせていただく。私は昭和二十三年採用の警察幹部見習生(警部補)として警視庁に勤務し、同二十六年十二月、警部に昇任して第二方面予備隊の中隊長を命ぜられた時、その予備隊長が大橋氏で、翌年四月に同氏が荒川警察署長に転勤するまでの三ヵ月余りを仕えたにすぎなかった。当時、警視庁が“鬼の予備隊”を誇るような雰囲気のなかで、大橋氏は「民主警察にふさわしい紳士たる隊員をつくれ」と指導した外柔内剛型の人であり、また、ゾルゲ事件で最高の栄誉(*検事総長表彰状・内務大臣賞状)を受けながら一言もこの事件にふれたことのない謙虚さに私は敬服していた。その後私が大橋氏を想起したのは前記の『ある警察官の記録』を購読したときで、その不遇な退職事情に胸を打たれたものである。

・・・(**同上書19~20頁)

・・・警視庁が創設されたのは明治七年(1874)七月十五日であった。昭和四十九年で満百年になり、警視庁は記念行事を行ない、その一環として『警視庁百年の歩み』という記念出版物を刊行したという。私(*松橋氏)は見ていないが、大橋秀雄氏は『特高警察官の手記』(昭和五十三年十月自費出版、以下『手記』と略称する)の冒頭で次のように『警視庁百年の歩み』を批判している。

 「戦前、戦中の特高警察のことは勿論、統制経済や防空活動についても殆ど触れていない。……結果的に敗戦という事態になったが、忠実にその活動を記録発表して、後世の批判をまつべきものであろう。」(一頁)

 歴史的経過を事実として明らかにし、是非の判断は後世にゆだねる――この姿勢は大橋氏の八十四年の生涯を一貫しているように思われる。そしてこの姿勢が、大橋氏の警視庁勤務を、とくに階級とポストの昇進に伴って、平坦でないものとしたのであろう。(*後略)・・・(**同上書43頁)

・・・本書は、大橋秀雄氏が昭和五十二年十一月七日、「ゾルゲ・尾崎刑死」から三十四回目の命日の日付で自費出版した『真相ゾルゲ事件』(以下『真相』という)に、字句・表現など所要の修正を加えたものであるが、内容に関しては原本のままである。この『真相』を公刊する理由として、私(*松橋氏)は次の二点を強調しておきたいと思う。

 第一に本書**は、大橋氏がゾルゲとかわした約束を果たす意味をもつこと、第二には“国家秘密法”をめぐる論議が高まっている情勢のもとで、本書**がゾルゲ事件の歴史的事実に徹した概説書としてふさわしいと思われることである。

 いまを去る四十六年前(*1987年時点)、警視庁外事課の警部補で欧米係ロシア班の副主任だった大橋氏は、その業績を認められてゾルゲ・スパイ団の検挙に参加し、首領リヒアルト・ゾルゲの取調主任を命ぜられた。昭和十六年十月十八日、東京刑事地方裁判所検事局思想部検事・吉河光貞氏の指揮のもとにゾルゲを東京拘置所に勾引したとき、ゾルゲは四十六歳、これと対決した吉河検事は三十四歳、大橋警部補は三十八歳であった(前掲『NHK歴史への招待23』による)。

 この日以降、大橋氏は毎日同拘置所でゾルゲを取調べた。前掲(*手塚治虫著)『アドルフに告ぐ』第四巻に描かれたゾルゲのスパイ告白と慟哭の場面は十月二十四日のことである(本書**111頁「劇的な告白」参照)。その後「本格的な取調べを開始した」のは十月二十八日からで、ゾルゲはすらすらと自供したのではなく、大橋氏が「ゾルゲの口述書」ともいえる膨大な被疑者訊問調書の作成に成功したのは、ゾルゲとの間に「他日機会がくれば、必ずこの事件の内容を公表して後世に残す」(本書**119頁)という約束が成立したからであった。この点について大橋氏は、『真相』でも『手記』でも『独語』(*『元警察官吏の独語―巡査から警察署長まで』)でもくり返し説明し、同氏がゾルゲに「(*新聞報道による)独ソ戦と世界情勢をゾルゲに教えることとのギブ・アンド・テイク」と言いきっている。これは一種の紳士協定であり、この協定を成立せしめた両者の人間的信頼関係に注目する必要があると思われるが、現実には、そのために大橋氏が次のように苦渋を味わうことになる。

 「堀江係長は……私(*大橋警部補)がゾルゲと昵懇となり、警察の威信を失墜していると非難し、私のゾルゲ取調主任を解任し、腹心の鈴木警部を取調主任に指名したが、ゾルゲが私を信頼して他の人の取調べに反対したため、再び私が取調主任になったことから、事ごとに鈴木警部とともに私の取調べを非難した。」(『手記』86頁)

 ここに出てくる鈴木警部は、ブケリッチの取調主任としてみすず書房の「ゾルゲ事件(4)」にその名が登場する。大橋氏に対する外事課内部における“疎外”工作は、ゾルゲ事件が警視庁の手を離れた翌(*昭和)十七年三月以降も続き、大橋氏は十八年八月ついに外事課を追われるが、十七年三月七日付のゾルゲの大橋氏に対する感謝の手紙は、前述の「両者の人間的信頼関係」を示す貴重なあかしというべきであろう。


 (大橋警部補とゾルゲ自筆の感謝の手紙)

   大橋氏は、ゾルゲとの約束を果たすために、「ゾルゲ事件(4)」の刊行(*1971年)に協力するかたわら、『真相』の原稿を書き進め、本書**七二頁の「はしがき」にあるように、でき上がった原稿の公刊を十数社の出版社と交渉したが不首尾におわり、やむなくいまから(*1987年時点)十年前に私家版を作った。しかし、私家版では「公表して後世に残す」約束からはほど遠く、年とともに大橋氏の焦慮は深まったという。

 「大橋という人」の紹介の中で述べたように、私(*松橋氏)が同氏(*大橋氏)と再会したのは、昭和五十九年(*1984)十一月であった。当初、大橋氏はまず『真相』の公刊実現への尽力を希望されたが、私(*松橋氏)はそれまで長年「陽の目を見ることができなかった」という事情がある以上、容易に公刊を決断することができなかった。そのうちに(*昭和)六十年(*1985)六月、原書房からゴードン・プランゲ著『ゾルゲ・東京を狙え』上下二巻が刊行され、いっそう大橋氏の著書について慎重にならざるをえなくなった。

 こうして本書**公刊の準備には二年以上の月日を要したが、『真相』の原稿が十数社の出版社からことわられた事情も判明し、また、プランゲの著書を含めた過去の刊行物も検討した上で、本書**が「ゾルゲとの約束を果たす」という大橋氏の苦衷にふさわしいという確信に達し、ここに公刊することになったのである。

・・・(**同上書44~46頁)

・・・本書は、大橋氏がゾルゲとの対決から得た体験を中心に、その後の調査研究の成果を加え、ゾルゲとの約束の実現という目標に限定して簡潔にまとめたものである。大橋氏は、巻末に揚げた公刊文献に目を通しているが、それらに関する個別的な批判や反論は避け、淡々と事実を叙述するにとどめている。大橋氏はその点にこだわりを持ち、今回の公刊にあたって、私家版につけた「真相」の文字を一時は遠慮しようとされた。しかし、本書**は、ゾルゲが取調主任たる大橋氏を信頼して、たとえば前述の「情報交換の取引」に応じて「モスコー本部への提供情報」を自供し、「お別れパーティー」で感謝の手紙を書いたように、大橋氏でなければ伝えることができないものが多数含まれており、やはり「真相」の一語を不可欠のものとして残すことになった。・・・(**同上書47頁)

 松橋忠光氏はこのように著述しています。こうした解説を参考海図としながら、次回は、大橋秀雄氏ご自身による同上書**の著述部分から、訊問当時の大橋警部補とゾルゲの約束による、ゾルゲが果たした活動と役割について、さらに検分をしてみたいと存じます。