前回取り上げた「君が代」と「日の丸」の問題ですが、わたくしも過去40年ほど諸外国の人々と一緒に仕事したりお付き合いしたりする機会がありましたので、その経験も踏まえて申し上げますと、グローバル社会というのは、決してみんなが無国籍とか地球市民とかになるということではないと存じます。

 むしろ「国際的(international)」とは、文字通り、お互いのnationalなもののinter(間で、相互に)交流を深めるものであり、例えば、外国人とお付き合いするとして、その相手の国の文化や歴史を学ぶと同時に、自分の国の文化や歴史も伝えられなければなりません。むしろ相手が知りたいのは、日本について、その歴史や文化や伝統がどのようなものなのか、なのです。

 以前、「日本よ、士魂を取り戻せ!第(39)回」でも取り上げた、国境なき医師団 日本の事務局長である村田慎二郎氏の、次の二本の記事を、まだお読みでない方はぜひご一読下さい。

   ご参考:(1)〔ハーバード大学の有名教授から言われた「衝撃の一言」…国境なき医師団の「僕」が国籍よりも大事だと思っているもの〕

https://gendai.media/articles/-/117903

(2)〔国境なき医師団がイラクで驚愕…「シーア派最高権威」が日本人に言った「衝撃の言葉」 『武士道』の本に助けられる〕

https://gendai.media/articles/-/117895?page=5

 アメリカでも、アラブでも、そして私の経験では、それ以外のヨーロッパ・アジア・アフリカ・中南米・大洋州などの国々の人々に対しても、英語やその他の外国語を用いて、日本の文化や歴史や伝統について「語ること」は、国際交流の場において、極めて大切ですし、またそれを求められる機会が実際上とても多いのです。

   前回の記事に出てきた方は、「これからのグローバル社会に『日の丸・君が代』強制は逆行している」と主張されたそうですが、わたくしは、全くその逆であるという実感を長年抱いてきました。まさに、上記の国境なき医師団の村田慎二郎氏と同じであり、似たような経験を重ねてきているからです。船乗りとしても約四十カ国を訪問し、別の航空関係の仕事ではドイツ、アメリカ、カナダ、イギリスなどの人々と仕事や航空宇宙学会などでお会いしましたが、まさにグローバルな仕事をする際、常に日本の文化や歴史や伝統について語ることを求められることが多々あったのです。そして、もし自国のことをよく知らないとなれば、むしろお相手の国の人々から、敬意ある扱いを受けられないことも実感しました。

 また、W B Cであれワールドカップであれオリンピックであれ、それぞれのスポーツ大会参加国の国旗や国歌が、試合やその栄誉を讃える表彰式などで用いられていることを想起すれば、日本選手や選手団が優勝した時に、日の丸が掲揚されず、君が代の演奏や斉唱がなされない、あるいはそれらを意図的に拒否するなどという行為は、世界的に見て、まさにグローバルに見て、異常な対処・対応であることがわかると思います。自由民主主義国であれ、社会主義・共産主義国であれ、必ず国旗と国歌は制定され、かつ尊重されています。そもそも国家というもの自体を全否定する「無政府主義者(アナーキスト: anarchist)」や、空想的な「世界主義者(コスモポリタン: cosmopolitan)」といった思想の持ち主であれば、当然国旗や国歌は否定するのでしょうが、それは世界中の大多数の諸国民から見ても少数派に過ぎないのが実態です。

   後者の場合は、将来的に全人類の合意に基づく世界連邦政府なり地球連邦政府という様なものが成立したら、現在の各国家は消滅して、世界政府の一地域政府となるのかも知れませんが、それでも、逆にその世界政府の連邦旗や連邦歌は制定されるでしょうし、各地域政府の伝統的な旗や歌は存在し続けるかも知れません。あたかも明治維新後の廃藩置県によって生まれた、中央政府と地方自治体の関係や、その都道府県ごとに各々「県民」「府民」「道民」「都民」ないしは「市民」「町民」「村民」のシンボルとしての「旗」や「歌」があるのと同様です。

 このように考えてみると、わたくしたち日本人が、国旗「日の丸」を掲揚し、国歌「君が代」を斉唱するのは、格別に右翼思想であるとか、軍国主義者であるとか、という様なレッテルを貼るべき事柄ではそもそもないのです。

 例えば、この春の甲子園大会で独唱された女子高校生による素晴らしい「君が代」をぜひ聴いてみて下さい。これが右翼だの軍国主義者だのと言えるでしょうか。松江北高校の門脇早紀さんの独唱とインタビューです。

https://youtu.be/o8WMpbl0n_o?si=q90fO-xKij88rMMQ

https://youtu.be/qtEQyQ83eiQ?si=Pg--EemrpjfSThLi

https://youtu.be/1sZi7uId7e4?si=c4Nz8A5oJG-wj5kK

 わが国で、「日の丸」や「君が代」に反対されている方々は、(A)そもそもいかなる国旗も国歌も拒否している、のか、それとも(B)自己の思想・信条に適う国旗のデザインや、国歌の歌詞内容であれば、許容するのか、によっても、その意図するところは異なります。

   前者(A)は、上述した通り、いわば無政府主義者か、それとも地球市民という様なコスモポリタン的スタンスなのではないかと考えられますし、後者の(B)ならば、例えば共産主義者であれば、国旗は「赤旗的なもの」、国歌は前回取り上げた「『赤旗の歌』的な革命歌や労働歌の様なもの」であれば、満足して喜んで掲揚し、斉唱されるということになると思われます。しかし、少数の共産主義者を除き、現状大多数の日本国民は、心からこうした赤旗的な国旗や国歌に、ぜひとも改変すべきだとは、全く考えていないのです。

 前回は、「日の丸」と「君が代」が、平成11年に国会の議決により制定された「国旗及び国歌に関する法律」に基づいていることを説明しましたが、そもそもこうした国会での多数決による法律制定だけが、わが国の基盤である伝統や歴史や文化を権威づけているわけではありません。現行の日本国憲法が制定される遥か以前の時代から、連綿として培われてきたわが国特有の価値体系こそが、その基盤を形成してきたのであり、それは、当今の「民主主義」により生み出されたものでは決してないのです。

   日本という国が厳密に今から2684年前から始まったかどうかはさて置いたとしても、少なくとも「漢󠄁委奴國王印」という金印が出土し、それは「後漢書」東夷伝の光武帝が西暦57年に与えたという記述に合致するといいます。つまりその頃から、外国と交渉する政体が日本に存在していたと言えるのです。それから少なくとも約二千年は経過しているのですから、日本の伝統や文化はこうした長い年月のあいだに、徐々に形成されてきているのです。従ってこれは国会で議決したから、価値があるという様なことではなく、日本人の歴史と文化と伝統が生み育んだものです。それこそ日本人のアイデンティティ(identity)のひとつだと言えましょう。

 最近のニュースで、英国のリシ・スナク首相も言及した、サッカーのイングランド代表用ユニフォームの、新しいナイキのデザインが、伝統的なイングランド国旗(St. George’s)を改変したとして物議を醸しています。スナク首相は、イングランドのユニホームは「オリジナルの方が良い」とコメントし、次のように述べたと言います。「自分の全般的な見解としては、国旗に関しては手を加えるべきではない。なぜなら、国旗は誇りやアイデンティティ、そして自分たちが何者であるかを示す源であり、そのままで完璧だからだ」と。この議会制民主主義国の本家本元とも言える英国の首相の言葉は、それこそ右翼でも軍国主義でもなく、自然体としての国旗の意味を語っています。

   また、英国国歌もぜひ聴いてみて下さい。特にその歌詞の和訳を読まれると、我らが「君が代」との共通点がかなりあることに気づかされます。

 一方で、当今世の中では、「民主主義」と言えば、「多数決」が基準の様に思われていますが、実は多数決というのは、「最悪の議決手段」だとされていたのです。もともと18世紀の欧州で、「中世的なキリスト教の神への信仰」に代わる「人間の理性への信仰」が法哲学や政治哲学の基軸に置き換わり、人間を「理性的存在」と捉えたからこそ、「普通選挙制度」を確立して、広く国民大衆に投票権や立候補権を授けて、公正平等な総選挙で選出された、国民の代表たる国会議員による国民議会を形成し、そこで「理性的な議論」を行えば、どの様な政策課題や問題も、必ず「理性的な一つの最良の結論」に到達するはずである、という考え方が前提であったのです。

   ところが、実際に普通選挙を実現して実施してみると、腐敗選挙・金権選挙が横行します。要は金で投票を売買し、それで選ばれた議員は、自分自身やその周辺の人間たちの利益追求にのみ汲汲とする腐敗政治を行ったのです。そして議会では、いくら討論を重ねても、「理性的な一つの最良の結論」に到達するどころか、国家・国民全体のための真の政策ではなく、どの様な政策課題も、次期政権を自分たちの政党が奪い取るための、党利党略による政争の具とされてしまったのです。そこでは当然、議論も議事も纏まらないため、やむを得ず「多数決」により、議決をすることで、政治決着をつけるようになってしまったわけです。

 であるからこそ、イギリスのチャーチル首相は、1947年(昭和22年)11月11日英国議会庶民院にて、次のように演説したといいます。

‘Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed it has been said that democracy is the worst form of Government except for all those other forms that have been tried from time to time.…’ ― Winston S Churchill, 11 November 1947

出典:International Churchill Society

https://winstonchurchill.org/resources/quotes/the-worst-form-of-government/

   これをわたくしなりに訳してみると、次の様な意味ではなかろうかと存じます。

「この人間たちの罪悪と悲しみに満ちた世界で、今まで様々な統治形態が試されてきたし、今後もまた試されていくことだろう。民主主義は完璧であるとか、賢明であるとか、そう言い張る者は誰もいない。実際、民主主義は最悪の統治形態だと言われているのだ。但し、今まで人類が時折試みてきた、他の統治形態を除いては…」

 つまりは、民主主義は最悪の統治形態ではあるけれども、今まで人類がやってきた全体主義的な独裁制や専制的な絶対王政など、他の統治形態よりはマシだという意味なのです。

 利害関係は、普通は一方が得をすれば、他方は損をするのです。ごく稀には両方が得をする解決法もあるかもしれませんが、それよりは落語の「三方一両損」の様に、全員が少しずつ等分に損をすることで、丸く収めるなどのケースの方がまだあると思われます。この話は大岡政談の一つですが、こうした智慧が出なければ、結局は対立が丸く収まる解決策は、なかなか見出せないことが殆どであるとも言えるのです。

 従って、全員の意見が一致しない場合、(むしろ実態的には殆どが全員一致とはならないのですが、)「最悪の議決手段」である多数決で、議決することになるわけです。因みに、イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」(1970年、山本書店)によれば、ユダヤ人の議決方法は、全員一致の場合は議論をやり直し、少なくとも一人以上の反対者がいなければ議決とはされないといいます。それは、全員一致というのは逆に「怪しい」と考えられ、必ず少数者の反対があるのが正しい議論・検討結果の姿だという共通認識があるというのです。これも智慧のひとつかも知れません。

 しかし、膨大な数にのぼる「政治的決定」を、いちいち全て国民議会にかけて、都度議論を重ねて結局は多数決で議決するというプロセスにより、全ての案件を取り扱い、処理することは現実的にはできません。であるが故に、似た様なケースを処理・判断・決定するための法律を制定し、その法律が取り扱うべき内容の案件は、当該する法律に従って行政が処理することになるのです。

   またわが国では、総選挙(普通選挙)で選出された国会議員による投票で、首相が選出され、その首相が組閣することで各担当大臣が任命され、当該内閣が指揮する、各中央省庁により構成される日本政府が、こうした行政を担っているわけです。もちろんその行政に疑問や問題があった場合は、国会で各党や各国会議員による質問や批判、あるいは提言がなされ、常に監視とチェックを受けているわけです。また国会議員のみならず、所謂マスメディアや言論界の皆さんが、様々な問題の指摘や批判、意見の提示を、各々の媒体を通じて行います。マスメディアが「第三の権力」とも言われる所以です。

 こうして近代的な政治システムは、議会制民主主義という制度を根幹にして成立したのですが、それはかつての専制的な絶対王政という、王家一族の独裁的な上意下達の統治形態を逆転し、今に残る君主も「専制君主」ではなく「立憲君主」として、国民議会が制定した憲法に従って、むしろその民主主義的統治システムに、正統性と権威を与える存在となっていったわけです。あるいはフランスのように、革命で王家一族を処刑・廃絶し、共和政体という国民の代表たる大統領を選出し、行政面での最高権力者として国家の政治を委ねることとなったのです。

   大統領と国民議会の関係は、国によって異なりますが、大体の形態は、大統領が行政府を率い、国民議会は立法府として機能し、これ以外に法律の専門家集団による司法府(裁判所・検察庁・弁護士集団)が設定されています。これでいわゆる三権分立(立法・行政・司法)が確立され、その三権の相互監視・牽制により、行政による独裁を防ぐシステムとなっているのです。むしろ最近の北朝鮮や中国やロシアの最高権力者の方が、「専制君主」のように見えてしまうのは、果たしてわたくしだけでしょうか。

 一方で、昨今のわが国の政府・内閣・与党の派閥裏金問題や、これに伴う国会での与野党の質疑応答などを見聞していると、こうした民主主義的制度が十全に本来の機能と意味を発揮しているのか、という疑念をも生じさせます。また、民主主義的共和政体としての代表的国家であるアメリカ合衆国も、昨今のトランプ旋風(共和党強硬派)による混乱や、バイデン政権(民主党)の捩れ議会(共和党が下院多数派)との連携難などを見ていると、こうした民主主義的制度自体が、上手く機能しなくなってきているのではとの懸念さえ、抱かざるを得ない状況です。極端な対立抗争が激化すれば、かつての南北戦争ではありませんが、米国内での内戦状態さえ起きかねない不安定性を感じさせます。

 上述のチャーチル元首相の演説ではありませんが、本当に理想的な統治形態は、むしろ神のような、絶対に間違いを犯さずに、常に最良・最適の決断や解決策を提起できる「行政管理者(Administrator)」が、行政を担うことなのかも知れません。しかしこの統治者は、常に独裁者になり得るからこそ、七面倒くさい議会制民主主義や三権分立による相互牽制と、マスメディア等による権力監視・批判が必要とされているのです。

 むしろ21世紀を生きるわたくしたち人類が、これから気をつけて行かねばならぬのは、それこそ昨今様々な活用策や、その逆に規制が検討されている『A I』による裁断に、人間たちが頼り過ぎることです。それこそ日進月歩で進化し、学習を続けている『A I』に、政治的解決法や統治方法、そして司法上の裁判の判決などを委ねる様になってゆくと、その終末点には、全地球規模の問題を取り扱うことのできる『超A I』による独裁的統治が現出するかも知れないのです。

   これは決してS F的問題ではなく、実際に昨今の日本の地方自治体では、市長の答弁案などを『A I』に作成させたりしているのです。こうしたことが嵩じて行けば、いずれ『A I 市長』が誕生するかも知れません。そうすれば『A I知事』、『A I 議員』、『A I 議長』、『A I 大臣』、『A I 首相』、『A I 大統領』への道が開かれます。厄介なのは、普通の人間より、遥かに迅速かつ的確な問題解決法を提示してくれる存在として、むしろ人間に統治を委ねるよりも、『A I 首相』に任せた方が、よっぽど良い政治をしてくれる、という風になりかねないのです。それだけ生身の人間の政治家のレベルが低いということにもなりますが…。

   空恐ろしい冗談の様な「空想」としては、例えば、プーチン大統領が、自らの価値観や知識や過去の決断の例、発言の例などを、徹底的にロシア製のスーパーA I「(名称):プーチン」に学習させ、自分の後継者として、大統領令を改正させて、「A I プーチン」に大統領職を引き継いだとすれば、「A I プーチン大統領」は、今後何世紀にも亘って、ロシア国民を「プーチン式」に統治し続けるかも知れません。もちろん反抗したり抗議したりする「反プーチン」の国民は、逮捕され弾圧され、あるいは処刑されてしまうかも知れません。

 同様に、例えばトランプ元大統領の思考、嗜好、決断などの実例の全てを学習させた「A Iトランプ」を出現させれば、ありとあらゆる米国の政治的決定を永遠に「トランプ流」に処理する「A Iトランプ大統領」が出現するかも知れません。トランプの熱烈な支持者たちは、冗談抜きで、これを支持するかも知れないのです。

   この延長線上には、歴史上の人物、「A I スターリン」、「A I 毛沢東」、「A I レーニン」、「A I ヒトラー」さえもが、出現しうることになってしまうのです。もちろん「A I ケネディー大統領」を出現させたり、「A I チャーチル首相」や「A I 安倍晋三首相」を出現させることもできるでしょう。

 尤も、これらの「A I 指導者」たちは、決して本物とは言えず、限りなくデータに基づく限りでの、近似的な思考・決断を行うシュミレーターに過ぎないということが本質ではあるのですが、いずれにせよ、こうしたことを促進するのも阻むのも、現在は一般国民に委ねられている投票行動や政治活動によって決められてゆくのです。

   そして何より、心してもらわなければならないのは、現役の政治家の皆さんです。皆さんが本当にしっかりしないと、国民は失望のあまり、少なくとも低レベルの人間の政治家よりは、「A I 政治家」の方がマシと考える様になったならば、あながちこれは「空想」ではなくなるかも知れないのです。

   わたくし個人としては、多少の欠点はあったとしても、やはりどこか底知れない恐怖を感じさせる完全無欠な「A I 政治家」に、わたくしたちの国や国民、家族、子孫の将来を託すことはできません。やはり「苦悩し苦闘する人間」にこそ、わたくしたちの政治を委ねたいと思うのですが、皆さんは如何でしょうか。

   Es irrt der Mensch, solang er strebt.

                                          Goethe

   努力する間、人間とは迷うものである。

                                           ゲーテ


ご参考:AI と政治を扱ったスピルバーグ製作総指揮の秀作映画です。皆さんもぜひご覧下さい。私はNetflixで視聴しました。



Appendix : 午前中はどしゃ降りだった雨が、愛子さまの伊勢神宮ご参拝時には、からりと晴れ上がった際の雨雲レーダー図。

https://x.com/zenkankai/status/1772462408000217395?s=20