まず詳しくは、『週刊金曜日』の次の記事を読んで戴きたいと存じます。

→ 卒業式「『君が代』歌いたくない」京都の親子が文科省へ申し入れ「強制やめて」 (2024/3/15(金) 9:10配信)

https://news.yahoo.co.jp/articles/8a0a0d44b28381e7fbbd5a9c31c8ad820f7ebefd


 同記事によれば、共産党の参議院議員が仲介・同席し、文部科学省に対してこの親子が、「日の丸・君が代」の強制をしないよう要請し、親子が①「日の丸・君が代」を強制され非常に嫌な思いをした、②国旗国歌法制定時に政府は「強制しない」と答弁していたのに不起立の教職員を処分するのは「思想・信条の自由」の侵害、③親子は外国にルーツがあり、これからのグローバル社会に「日の丸・君が代」強制は逆行している、という3点を挙げたとのことです。そしてこの中学生の母親は「歌うのが嫌な子がいることが先生に通じない。昭和天皇が戦争責任を取らなかったことなどから『日の丸・君が代』に根強く反対している人がいることを教えないので、娘は『何で嫌なん?』と聞かれる」と述べたとのことでした。

 今回はこの件に関して、分析と検討をしてみたいと存じます。まず、上記のご主張のなかで、〔③親子は外国にルーツがあり、これからのグローバル社会に「日の丸・君が代」強制は逆行している〕を考えてみます。

 もともと明治維新直後に、英国人ジョン・ウィリアム・フェントンの進言で、文明国の外交儀礼上必要という理由から「君が代」が作られ、それをドイツ人フランツ・エッケルトらの編曲で完成したものですから、国歌「君が代」もある意味で「外国にルーツ」があるのです。また詳しくはわかりませんが、この親子の方々は、自らルーツが外国にありとおっしゃっていますが、ルーツが外国であれ、現在日本国籍を有しておられる以上は、間違いなく日本国民です。むしろ「ルーツが外国である」ことを理由として、「ルーツが日本である」日本国民と、何らかの区別や差別をするようなことは、それこそ共産党が最も反対されるであろう「不平等」な結果をもたらす危惧があるのではないでしょうか。自ら「ルーツが外国である」ことをおっしゃること自体は、もとよりその方の自由でありますが、それを根拠として、他の「ルーツが外国である」日本国民や、「ルーツが外国でない」日本国民にも、何らかの強制をすることはできません。それは本質的に本件の根拠となることとは思えません。ルーツがどこの国であろうが、現時点で合法的に日本国籍を有しておられるのであれば、他の日本国民と全く同様に、立派な日本国民であり、それに伴う義務のみならず、権利も享受できるのです。例えば、この方々が、外国に旅行する場合には、「皇室制度の象徴たる菊の御紋章」が表紙に配された日本国旅券(パスポート)を日本政府により発給され、渡航する諸外国政府に対する日本国政府の保護要請のもと、およそ世界で最強とも言われるこの日本国のパスポートによって、外国に旅行することができます。勿論この権利を自ら放棄され、パスポートを取得せず、外国に旅行されないとしても、それはその方の自由です。併し、このパスポートが気に入らないから、デザインや文言を変えろと要求されても、それはそう簡単に変わることではないでしょう。恐らく、共産党が合法的な衆議院選挙の結果第一党となって、政権を担当する与党となり、政府としてまた国会としての合法的な手続きと決定をされれば、変更はできるでしょう。そもそもこの国歌自体も、同様にして共産党政権によって改定案が提出され、国会の議決により改訂されれば、歌詞も変更可能です。またその様な国となったならば、「君が代」の代わりに、「赤旗の歌」が国歌となるのかも知れませんね。そうすれば、北朝鮮軍の軍歌でもあるこの歌を、共産党や日教組の皆さんは、学校の入学式や卒業式で子供たちが歌うことを、果たして推進されることになるのでしょうか。

   因みに、共産党政権による、「君が代」に代わる新しい国歌は、一体どの様な歌と歌詞になるのでしょうか。戦後、昭和26年(1951年)に、当時の日教組により「君が代」に代わる「新国歌」として「緑の山河」なる歌が出来て、今でも日教組の定期大会などでは冒頭にこの歌がうたわれているそうですが、残念ながら広く国民一般には、この歌は当時「新国歌」としては受け入れられなかったそうです。日教組ではなく、共産党がもし、新国歌を制定するとすれば、どうなるでしょうか。想像するに、その際参考とされる労働歌・革命歌の一つが「赤旗の歌 (Red Flag)」でしょう。英国労働党の準党歌にして、北朝鮮軍の軍歌でもあるこの「赤旗の歌」の歌詞は、戦前に社会主義者の赤松克麿氏が邦訳されたとのことですが、その歌詞を見てみましょう。出典:

https://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/akahata.htm

1番)民衆の旗 赤旗は 戦士の かばね(*屍)をつつむ   しかばね固く 冷えぬ間に 血潮は 旗を染めぬ   高く立て 赤旗を その影に 死を誓う   卑怯者 去らば去れ われらは 赤旗守る

2番)フランス人は愛す旗の光 ドイツ人はその歌唄う   モスコー伽藍に歌響き シカゴに歌声高し   高く立て 赤旗を その影に 死を誓う   卑怯者 去らば去れ われらは 赤旗守る

3番)力なく道暗けれど 赤旗頭上になびく   いさおと誓いの旗を見よ われらは旗色かえじ   高く立て 赤旗を その影に 死を誓う   卑怯者 去らば去れ われらは 赤旗守る

4番)富者にこびて神聖の 旗を汚すは誰ぞ   金と地位に惑いたる 卑怯下劣の奴ぞ   高く立て 赤旗を その影に 死を誓う   卑怯者 去らば去れ われらは 赤旗守る

5番)われらは死すまで赤旗を 揚げて進むを誓う   来れ牢獄 絞首台 これ告別の歌ぞ   高く立て 赤旗を その影に 死を誓う   卑怯者 去らば去れ われらは 赤旗守る

 あるいは、現在の中国や北朝鮮でも格調高く歌われるという、かつてのソ連国歌、のちのソ連共産党党歌にして、現在もロシア共産党歌として歌い継がれているという革命歌「インターナショナル」が、共産党政権下の新国歌となるのでしょうか。その歌詞もついでに見てみましょう。(訳詞:佐々木孝丸/佐野碩) 出典:https://www.worldfolksong.com/sp/national-anthem/internationale.html

1) 起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し   醒めよ我が同胞(はらから) 暁(あかつき)は来ぬ   暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて   海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく   いざ闘わん いざ 奮い立て いざ   あぁ インターナショナル 我等がもの   いざ闘わん いざ 奮い立て いざ   あぁ インターナショナル 我等がもの

2) 聞け我等が雄たけび 天地轟(とどろ)きて   屍(かばね)越ゆる我が旗 行く手を守る   圧制の壁破りて 固き我が腕(かいな)   今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗   いざ闘わん いざ 奮い立て いざ   あぁ インターナショナル 我等がもの   いざ闘わん いざ 奮い立て いざ   あぁ インターナショナル 我等がもの 

 日本が共産党政権下となり、恐らく皇室制度も廃止して(ということは当然に日本国憲法第一条も改正するでしょう)から、共産主義国としての新憲法を制定し、成立した新しい日本人民共和国は、こうした新しい国歌と、真っ赤な色調の新しい国旗を制定し、そして新たな同盟国として中国・北朝鮮・ロシアと結び、欧米の自由民主主義圏との対立を深めてゆくことになるのでしょう。

 その場合は、果してこの親子の方々も抵抗なく、この新国歌を斉唱されるのでしょうか。それとも、歌詞の内容如何を問わず、そもそも国歌というものの斉唱を一切拒否されるのでしょうか。しかし、北朝鮮や中国の様な共産主義国においては、国歌を斉唱しないと、恐らく政治犯として強制収容所や監獄に収監されることになる危惧がありますが、それでも自己の信念・信条に従って、この新国歌も斉唱を拒否されるお覚悟なのでしょうか。素朴な疑問です。

 それとも、上記記事の中にある〔昭和天皇が戦争責任を取らなかったことなどから『日の丸・君が代』に根強く反対している人がいることを教えない〕というご発言から想像するに、「昭和天皇が戦争責任を取らなかった」という主張を根拠に、「君が代」の歌詞に反対されているということなのでしょうか。

   併し、わたくしは、そもそも「昭和天皇には戦争責任はない」と主張致します。詳しくは下記をご参考にして戴きたいのですが、開戦時の御前会議では、当時の政府と統帥部(軍部)から、正規の法的手続きを経て、開戦の裁可を昭和天皇が求められたため、「近代的立憲君主」として、当時の大日本帝國憲法に従ってご裁可されたものであるからです。もし昭和天皇が、正規の法的手続きを経た政府案を拒否したならば、それは「立憲君主」ではなく、昭和天皇の個人的な考えで政治を行う、独裁的な「専制君主」となり、明治天皇が欽定された当時の大日本帝國憲法にさえも逆らうこととなってしまいます。これには昭和天皇が皇太子時代の欧州訪問時に、当時の英国国王ジョージ5世から直接教えられた「近代的立憲君主のあり方」がもとにあり、昭和天皇は終生そのあり方を忠実に守ろうとされていたことが、ご発言からもわかります。

 そして、その「近代的立憲君主制」としての法的制度は、当時の大日本帝國憲法による、総理以下国務大臣の「輔弼 (ほひつ)」という制度であり、逆に昭和天皇が、いかに政府・統帥部とは異なる決定をしようとされても、総理以下の国務大臣が「輔弼」せず、すなわち署名(副署)しない限りは、天皇陛下は自ら裁可することが、制度上できない構造となっていたのです。つまり実態上、自らの意志で変更できない内容を裁可することが、明治憲法上は求められていたのですから、まさに戦前の美濃部達吉博士による「天皇機関説」通りの構造が、戦前日本の意思決定システムの実態であったわけです。

   併し、終戦時は、政府首脳も統帥部首脳も「御前会議」にて一致した結論を出せず、御前会議の議事を司る首相が、昭和天皇に「ご聖断」を求めたために、昭和天皇ははじめて合法的にご自身のお考えを述べることができ、さらにその御前会議に出席していた政府・統帥部の全員がそれに従って、その直後の閣議で、総理以下陸・海軍大臣を含む国務大臣全員が、「輔弼」に基づく副署をして、昭和天皇にご裁可をお願いしたため、結果的に、この昭和天皇の「終戦の御諚」を以って国家としての正式な決定がなされたというわけです。詳しくは、本ブログ「日本よ、士魂を取り戻せ!」シリーズの関係箇所をお読みください。

   ご参考:日本よ、士魂を取り戻せ!(23)連合国からの回答と「終戦の御諚」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12825475083.html

 日本よ、士魂を取り戻せ!(24)御前会議と御聖断の歴史を振り返る

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12826399098.html

 日教組には限りませんが、ぜひ中学・高校の先生方には、こうした歴史や、こうした「ものの見方」もあるということを、子供たちに教えて戴きたいと願っております。そうすれば、一方的に「昭和天皇が戦争責任を取らなかった」とだけ、教える様なことにはならないのです。勿論、共産主義国ではない自由民主主義国であるわが国では、思想・信条は自由ですから、様々な見解や意見があること、その多様性の中から、自身の深く広い研究・研鑽によって、自分が納得できる「ものの見方・考え方」を選び取ること、を教えて戴くことは大切な教員の使命であろうと存じますが、少なくとも、かつてのN H K大河「篤姫」で流行った「一方聞いて沙汰するな」という言葉の趣旨は、併せて必ず教えて戴きたいものです。

   因みに昭和天皇は戦後何度か退位をお考えになり、また実際にそのお気持ちを時の首相にも伝えられましたが、首相がそれに同意せず、戦後の日本国憲法においては政府と国会が決定しなければ、退位することはできないのですから、結果的に昭和天皇のご希望は果たされませんでした。現在の上皇陛下が退位された際は、時の首相以下政府も国会も、その御希望を実現する決議や法案の可決を行ったために、退位が実現したわけです。全ては、日本国憲法に従った、政府と国会の合法的な手続きを経て、決定されていることです。

 その意味では、現在の国歌『君が代』は、平成11年に国会の議決により制定された「国旗及び国歌に関する法律」に基づいているものです。因みに、同法案は衆議院では投票総数の82.4%である403票の賛成により可決され、参議院においても投票総数の70.0%である166票の賛成により可決されています。つまりは自由民主主義国であるわが国の、国民を代表する国会議員の多数によって、国会で制定された法律です。法律である以上は、国民は法治国家の原則からも、その法律に従う義務があります。勿論、いつの日か共産党が総選挙で大勝され、政権与党となって内閣を組閣し、政府・国会ともに合法的な正規の手続きにより、この法律を改正することは制度上可能です。ただそのためには、総選挙を通じて、国民の大多数が共産党に投票し支持する必要がある、という民主主義の根本的なルールに従わないとできないことです。そういう、わが国の民主主義的な政治制度・立法制度も、きちんと子供たちに教える義務や姿勢が、日教組を含む教員の皆さんにはあるのではないでしょうか。

 また、現行の日本国憲法の第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という条文からしても、上記法案制定時の政府説明による、「君が代」の「君」とは『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』のであり、『「代」は本来、時間的概念だが、転じて「国」を表す意味もある。「君が代」は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』ことから、「君が代」の歌詞は『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』とする見解は、日本国憲法第一条にも合致しています。

   共産党は「護憲派」と称していますが、少なくとも現行憲法の制定後「日本国と日本国民統合の象徴」であった昭和天皇を「侵略戦争の最高責任者だ」と考え、「戦争責任を取っていない」などと批難するということは、現行憲法上、天皇陛下を「象徴」としている「日本国と日本国民統合」をも、論理的に貶める批判である、と言わざるを得ません。

  しかも日本共産党によれば、2004年1月17日に第23回党大会で改定した「日本共産党綱領」の「四、民主主義革命と民主連合政府」の中の「(一二)」の〔憲法と民主主義の分野で〕に「1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。」と書かれています。「現行憲法の前文をふくむ全条項」は、当然上記の憲法第一条を含むわけですから、自党が「全条項をまもり」とその党綱領で定めていることからして、ある意味では自ら天に向かって唾を吐いているともいえるのです。

   少なくともご自分たちの意識はどうであれ、上述の通り日本共産党員の皆さんも外国に旅行する際には、日本国のパスポートを持って、つまりは日本国民として出かけているはずです。こうしたお考えの日本国民も存在しているという事実が示すのは、日本はいかなる思想・信条をも許す自由民主主義国であるからこそであり、これが北朝鮮や中国共産党政権下ならば、自国の国家主席なり最高指導者を「侵略戦争の最高責任者だ」という様な批判を公的にしようものなら、恐らくその生命さえも危険であることは容易に想像されることです。

 思想と言論の自由が認められている自由民主主義体制下のわが国では、上記のような発言をしても、それで政治犯として投獄されたり強制収容所に送られたりすることもなく安全に生活できるわけですが、一方で大多数の国民が敬愛し崇敬している天皇陛下や皇室の方々を貶めるような発言には、少なくとも私は同意することも共感することも全くできません。わが国では共産党がこのように自由に発言できるのですから、それと異なる立場の意見も自由に表明できるはずです。私の意見としては、昭和天皇は決して戦犯ではなく、従って戦争責任もありません。その理由や根拠の一部を以下に書き出してみましょう。

   まず昭和天皇のお言葉を、いくつかご紹介してゆきたいと思います。(*裕鴻註記)

・・・申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽くした。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。

   ところで、戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終わった。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問は一応筋は立っているように見える。如何にも尤もと聞こえる。しかし、それはそうは出来なかった。

   申すまでもないが、我国には厳として(*大日本帝国)憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任をおわされた国務大臣がある。この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙(*ようかい)し干渉し、これを制肘(*せいちゅう)することは許されない。

   だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議して、ある方策をたて、これを規定に遵(*したが)って提出し、裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満ちなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。

 だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分れて対立し、議論が果しもないので、鈴木(*貫太郎首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予ねて考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。――『(*藤田尚徳)侍従長の回想』205~207頁の引用・・・(高橋紘編「昭和天皇発言録** 大正9年~昭和64年の真実」〔以下「昭和天皇発言録」と略記〕、小学館1989年刊、135~137頁より)

 つまりは開戦時の決定は、政府と統帥部が一致して憲法以下の法体系に遵った上奏をしてきたために、自ら「立憲君主」を旨としておられた昭和天皇は心ならずも御裁可になったものなのです。終戦直後の昭和21(1946)年1月29日付で英国王室に宛てた親書の中でも「私は(*開戦)当時の首相の東條(*英機)大将に、英国での楽しかった日々の記憶を思い出しながら、強い遺憾と不本意の気持ちを抱きつつ、余儀なく〔署名を〕するのだと、繰り返し告げながら、胸のはりさける悲痛な思いで開戦の詔書に署名をしました。」と記されています。(「昭和天皇発言録**」134頁)

   同書**の編者、高橋紘氏は次のように解説されています。(*裕鴻註記)

・・・摂政就任から大正天皇の死去に伴い皇位を継承するまでの間、最大の体験は欧州を見聞したことである。若き(*昭和)天皇は、この旅行から余程強烈な印象を受けたのであろう。戦後の記者会見では、何度も繰り返してこの旅行の思い出に触れている。欧州巡遊は、(*大正)十(*1921)年三月三日、軍艦「香取」で横浜港を出港することから始まった。五月九日英国・ポーツマス港に到着、英王室の接待を受けた。(*中略)彼ら(*各国国王や元首)の中で最も大きな影響を与えたのは、英国王ジョージ五世だった。国王は若い天皇に、立憲君主とはどうあるべきかをていねいに説いた。(*昭和)天皇は、「(英王室は)実に私の第二の家庭」(昭和五十四年の会見)と述べている。教訓を天皇は終生守った。「立憲君主制の君主はどうなくちゃならないのかを始終考えていたのであります」(同)とも言っている。・・・(「昭和天皇発言録**」12頁)

 こうして「立憲君主」としての義務を忠実に果たされたことが、ご自身の考えとは異なる、大東亜戦争開戦の国家決定につながってしまったのです。もしも、憲法以下の国法体系に適った「開戦の上奏」を、陛下個人のお考えにより「veto:君主大権による拒否」をされると、それは前近代的な「専制君主」になってしまうのです。ここに実は「天皇親政」の法理的かつ本質的な問題点があるのです。このことは私たち日本国民こそがまず十分に理解し、昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹氏が「やはり我慢の一生だったと思います…いろいろの配慮から、じっと我慢しておられた時間が、非常に長かったと思います」(「昭和天皇発言録**」326頁)と述べた通りの、ご生涯であったことを忘れてはならないのです。従って、政府や統帥部が憲法の規定に従って上奏してきたものに対し、質問したり意見をいうことはあっても「ベトー(veto:君主が大権をもって拒否または拒絶すること)」は言わぬことにしたと、「昭和天皇独白録」(文藝春秋1991年版、25頁)にも述べられているのです。

   つまりは基本的に上奏されてきたものは、拒否せず裁可するというスタンスであり、これは天皇機関説による憲政上の立憲君主としての役割を、忠実に果たそうとされていたことに他なりません。従って美濃部達吉博士の「天皇機関説」を正しい明治憲法解釈とする立場からは、法理的にも昭和天皇ご自身に開戦責任はなく、明らかに正規の手続きを経て「開戦の上奏」をした、開戦当時の政府と統帥部の最高責任者、即ち総理大臣、陸・海軍大臣、参謀総長(陸軍統帥部)、軍令部総長(海軍統帥部)らに、開戦責任があるのです。

 最後に、外航船舶の乗組員の立場から言わせて戴きますと、船は「国旗」即ち「日の丸」を掲揚していないと、それが貨物船であれクルーズ客船であれ、国際法上の「国籍不明船舶」として、各国海軍や沿岸警備隊などに臨検・拿捕されることになります。それは欧米だけではなく、中国、北朝鮮、ロシアの海軍や警備艇であっても同じ対処をするのです。ですから、必ず日本国籍船は日本国旗である「日の丸」を掲揚しなくてはならないのです。もしも冒頭の親子のお二人や共産党議員の先生が、将来日本国籍の外航客船に乗船された場合は、「日の丸」掲揚によって、外国海軍等の拿捕から守られることになるのです。また、「日の丸」は江戸時代以前から「船の印」等で用いられていたものです。古くは源氏の旗印でもあり、九鬼水軍でも使われ、幕府海軍の咸臨丸が太平洋を横断して訪米した時も掲揚しています。それが明治維新以降も引き継がれました。国際法上、外航船舶には「国旗」が必要なのです。

 最初が、ある中学校の卒業式の話から始まりましたが、最後はある高等学校の卒業式の話をご紹介したいと思います。詳しくは末尾の記事をお読み戴きたいのですが、この学校の卒業生代表の素晴らしい答辞の中に、「最後にこんな話を紹介させてください。ある日、生徒会の意見箱に右翼や左翼といった言葉を使って特定の政治思想を中傷するものが投書されていたことがありました。

 どう返信しようかと悩み、そのまま机に置いて帰った次の日、誰の字とは分かりませんが、しかしはっきりと次のようなことが書かれていました。

「片方の翼だけでは、鳥は空を飛べません」

   僕達が大鵬ならば、両方の翼を自在に使いこなせる大鵬でありたい。(*後略)」・・・

   篤姫の「一方聞いて沙汰するな」の格言と同様、どうか共産党や日教組の「片方の翼」にのみ身を預けるのではなく、様々な「ものの見方、考え方」をよく聞いて、最終的な自分自身の判断を下せるように、豊かな未来を持っている日本の子供たちの、知性と可能性を拓いてあげてほしいと願っています。