第(53)回、(54)回で取り上げた「天皇・嵐の中の五十年」と題された「矢次一夫対談集Ⅰ」(1981年原書房刊)には、続編があります。「昭和政界秘話**」と題された「矢次一夫対談集Ⅱ」(1981年原書房刊)です。今回はその中から、1973 (昭和48) 年4月15日付『新国策』に掲載された鼎談「日本共産主義運動秘話 ― かつてのリーダーが語る創生期日共の内幕 ―」を読んでみたいと存じます。鼎談のメンバーは矢次一夫氏(1899-1983)と、日本共産党の戦前創生期からの指導者であった、門屋博氏(1901-1995)と鍋山貞親氏(1901-1979)の三名です。1900年が明治33年ですから、矢次氏が明治32年生まれ、門屋氏と鍋山氏は明治34年生まれです。いずれも当時で70歳を越えておられますが、記憶は明晰であり、また元共産党幹部リーダーのお二人は、何れも当時の共産党(つまりソ連)の方針に抗して、離党・除名された方々です。

   門屋博氏は大正13年東大卒で、在学中は「新人会」に所属し、初期の共産党で幹部として活躍しましたが、小学校卒で旋盤工出身の鍋山貞親氏らと共に、昭和4年の「四・一六事件」で検挙・投獄され、のちに、「君主制・天皇制打倒」という日本の国情に合わないコミンテルン(ソ連)の指令に盲従する共産党の方針に根本的な疑問を持ち、共産党を解党、あるいは独自の「一国社会主義」など、日本の実情に合った社会主義運動への方向に進んだ方々です。

 日本共産党では、最近も松竹伸幸氏を除名処分にしたことから、様々な党員の抗議活動が行われているようですが、かつて宮本顕治中央委員会議長(No.1)の片腕で、戦前から獄中でも盟友であった当時共産党副委員長(No.2)の袴田里見氏さえもが除名処分されるぐらいですから、とにかくNo.1にならなければ、あるいは少しでもNo.1に逆らえば除名され追放されるという「超独裁制」(これを「民主集中制」と呼称)の党なのです。

   ご参考:目覚めよ!左派知識人(15)元党員たちによる共産党の内情

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12779033754.html?frm=theme

   目覚めよ!左派知識人(27)「どうした共産?」党首公選より民主集中制か

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12788041824.html

 さて、それでは冒頭の「昭和政界秘話**」から、1973年の鼎談義を読みましょう。

・・・〔タブーだった“天皇制”〕

 門屋:ここに来るまでに考えてきたことは、共産党が、天皇が国会の開院式に出てくるならば出席しない、などということ、ぼくに言わせれば、これは日本共産党は伝統的に天皇制アレルギーから脱し切れていないということだ。天皇制というものが、それほど日本国民にとって邪魔になったこともないし、その後もそう邪魔ではなかった。それと、ソ連から「天皇制を倒さなければ、日本の革命は一歩も進まないのだ」というふうに教えられて、これが第二次的体質になってしまっているが、これはアレルギー体質なんだ。だから、天皇制といわれると、それだけで肌にブツブツが出てきて、むずがゆくなるような、そういうものがあると思うが、そう思わないか。

 鍋山:それはあるね。天皇制の問題は、明治末期の大逆事件(1910=明治43年。幸徳秋水ら逮捕、翌年1月死刑)で、日本の社会主義運動全体にとっての大きなつまずきの一つになって、つまり大逆罪に問われるということが非常なショックで、しばらく萎靡沈滞して、そうしていよいよ十数年後に共産党の発足する時に、二二(*1922)年テーゼにもあるわな、君主制―あの時分は天皇制といわずに「モナーキー」といったが、君主制の廃止、このスローガンが(*ニコライ・)ブハーリン(*ソ連共産党理論家、後年スターリンによって銃殺)の原案にあるのを、一番恐れたというか、「それはいかん」という気になったのが、堺利彦(1871~1933年。明治時代からの社会主義者で、早く共産党を離れ、戦後は社会党が“父”として扱っている)だ。

 門屋:荒畑(寒村)、山川(均)、猪俣(津南雄)も同じじゃないか。

 鍋山:荒畑、山川は、それほど口には出さなかったけれども、やはり堺利彦老は大逆事件で非常に悲惨な目に直接遭うてきておるから、だから非常に注意したね。それから佐野学(*元共産党中央委員長)だよ。「これ(君主制の廃止)を掲げると、他の労働綱領のどれについても労働者は賛成するが、これだけで反対する」ということを、これは公式の会議というよりも、そういうことをぼくらと直接話し合ったことがあるな。だから、天皇制を口にしちゃいかんということは、初期の共産党の運動に参加した諸君の間にも、言わず語らずにあったな。しかし、党としては結局これを掲げるわけだが、それがもっとも端的な形で日本共産党のテーゼにされたのは、昭和7年=1932年のいわゆる「三二年テーゼ」だよ。

 門屋:これは激しいな、これが日本共産党のテーゼの中で一番勇ましいテーゼだな。

 鍋山:闘争目標の一切を、天皇制打倒に集中しようというんだな。

 門屋:「二七年テーゼ」にその原型ははっきりと出ているよな。

 鍋山:原型はあるけれども、三二年の時には非常に激しいんだ。「二七年テーゼ」で日本の社会構造の分析をしているときには、「遅れたがしかし急速に発達した資本主義」というふうに規定していた。

 〔“解党”をめぐって〕

 矢次:ちょっとその前に遡ろうよ。というのは、赤松克麿が解党論を出したのが大正12年 (*1923年) の(*関東)大震災後だろう。そうすると、一番最初の前史というべきものに、暁民共産党事件がある。赤松などは引っ張られ(*逮捕され)損なったけれども……。

 門屋:大正12年の事件(第一次共産党事件)に赤松は引っ張られているわけだ。

 矢次:いや、引っ張られていなくて、大震災後に、赤松君が解党論を出したんだよ。その辺の事情から入っていかないと、いまの人たちにはわかるまい。赤松君が解党論を出したのは天皇制をめぐってだからね。

 門屋:そうでしょうね。

 矢次:要するに、君主制廃止ということでは駄目だというのが、赤松君が解党論を出したそもそものきっかけなんだ。

 鍋山:野坂参三も、それはのちのちまでも、ぼくが出席した細胞会議、ぼくがモスクワで報告したときにも、「天皇制・君主制廃止はいかん」ということを、やっぱり言うておったがね。赤松がやはり、あなたが言われた通り前史だが、大正13年に解党に至ったその場では、やはりその問題を、露骨に会議で提案したわけではないけれども、それが一ばん頭にあったんだな。

 門屋:そのときには、ブハーリンが書いた1922年 (大正11年) のテーゼ草案というやつは、すでにできているわけだな。

 鍋山:できているんだ。それによってやって、震災で打撃を受けて、そして山本権兵衛内閣が、普通選挙をやるとか、I L Oの代表には労働組合の推薦をやるとか、いろいろな政策をやったものだから、これに乗ずべきだというようなことから非合法的、秘密結社的な共産党では駄目だという考えが強くなったんだね。

・・・(**前掲書2~4頁)

 このように語られています。やはりソ連共産党製の「天皇制・君主制の廃止」という活動方針は、日本の土壌には合わないという日本人特有の精神が、共産主義者の間でさえも、濃厚に影響してきたことが窺えるのです。さて、ここからは別の箇所の鼎談をもう少し読みましょう。

・・・〔権力秩序あるのみ〕

 門屋:共産党もそうだけれども、ああいう全体主義の政党というのは、要するに権力組織なんだよ。いかに正論であっても、オッポジッション(*反対者)に立ったら、これは絶対に勝てない。それは必ず粛清される。日本においてもソ連においてもね。それは、権力を握っている奴がいかなる時点においてもオールマイティ(*全権者)だから……。

 鍋山:いかに小さい場合でもね。

 門屋:いかに正論であっても、オッポジッションに立ったら、これは絶対に斬られる。これが全体主義組織の本質なんじゃないかな。

 鍋山:それはそうだね。

 矢次:やはり共産党というものは、革命エンジニアの組織なんだよ。

 鍋山:レーニンの規定した、職業革命家の結集だからね、革命を職業とする者の結集なんだ。

 門屋:本来はね。

 矢次:本質的にはそうなんだよ。

 鍋山:だから、言論の自由とか結社の自由とか、そんなものは共産党の性格の中にあるはずがないんだ。権力を握ったら許さないのが当たり前でね。共産党の内部においても、党内デモクラシーというようなことをみんなが言うけれども、そういうことはオポチュニスト(*日和見主義者)の言うことであって、党の主流は絶対に党内民主主義は認めない。

 矢次:要するに、人を信用せずに組織を固めていく。「お前は組織の中においては絶対忠実であるべし」というだけのことだろう。人間的にあいつはいい奴だとかどうとかいうことは、論外だよな。

 門屋:それは兄貴でも弟でも、意見が違ったら斬る、という建前だからね。

 鍋山:ヒューマニズム(*人道主義)がないんだ。

 矢次:組織に反したら斬る、行動に違反したら斬る、それだけのことだな。われわれの社会においては、親子兄弟夫婦というものは、一つの愛情とかいろいろなもので結ばれて、そこに一つの秩序を保っているだろう。ところが向こう(*共産党)は、そんなものはないんだ。そこにあるものは権力秩序のみだ、これが違いだね。

・・・(**前掲書22~23頁)

 さて、第(54)回に登場した渡辺政之輔(1899-1928、通称:渡政)共産党中央委員長の最期についても、この鼎談義で取り上げられています。未だに警察官との銃撃戦で銃弾を受けたのか、それとも自殺したのか、両方の説があります。歴史とは、一体どのように形成されてゆくのか、その一つの実例でもありますので、少し丁寧に読んでみたいと存じます。

・・・〔渡政はなぜキールン(*基隆)に向かったか〕

 鍋山:その渡政が 上海からキールンに渡って、自殺(昭和3年10月6日・当時29歳)するんだが……。

 門屋:そこのところをはっきり聞いておきたいな。

 鍋山:その頃、渡政の淋病がひどくなってね、ヤンソン(*コミンテルンの日本担当者)の妻君が、多少医学に心得があるんだ。それで、その妻君が盛んに手当てをするんだけれども、さすがにアソコまではできない。渡政は尿毒症だというんだが、ヤンソンの妻君にはすぐわかるわけだ。ところが、われわれは秘密裡に上海のヤンソンのアパートに潜んでいるんだから…。

 門屋:どこら辺だったの、共同租界か?

 鍋山:アベニュー・ジョッフル……。

 門屋:フランス租界だな。あすこらはいいところだからな。

 鍋山:高級マンションの一室だよ。日本の医者にはみせられないし、渡政は英語も支那語もできない。片言もできない。どうにもこうにもならんから、ヤンソンが早く日本へ帰して医者にかけようとしたわけだ。上海で日本人の医者にかけようと思ったんだけれども、どうしてもそれはいかんというんだ。

 門屋:蔵原惟人(現日本共産党中央委員・文化教育委員会責任者)の伯父さんというのが、ずっと上海で医者をしておったな。

 鍋山:ところが、当時ぼくはそれを知らなかったんだ。普通の日本人の医者では、指名手配を受けているから危ないということで、急いで日本に帰そうということになったんだが、近いところで一番最初に日本語が通ずるのが台湾なんだな。ところが、ちょうど御大典(*昭和天皇即位の大礼)の前だから、(日本本土では)外から入ってくる日本人を厳重に調べているんだ。“不逞外人”取調べということもあってね、だからいまは(本土上陸というのは)まずいということで、渡政としては、神戸とか門司というのではすぐバレるから、台湾にあげようということでやったのが、あそこ(キールン)で自殺するに至った経緯なんだな。 (*中略)

 〔ぼくの渡した名刺をうっかり出して〕

 門屋:その入れ墨が、東京では渡政であるということの証拠になったわけだね。

 鍋山:警視庁ではね、第一次(1923年=大正12年6月の“第一次共産党事件”)で捕まっておるから、全身の特徴がわかっておるからね。けれど、初め(キールン上陸時)はわからなかったんだ。初めは拐帯(*かいたい=持ち逃げ)犯人ぐらいに思われたんだ、ドルをもっていたし。

 門屋:名刺が違っておったということだが…。

 鍋山:それが、ぼくの与えた名刺を、彼は確かめもしないで持っていたんだ。キールンにあがったときに、(*船で入港到着したら)どこでもやることだが、まず検疫(*手続き)をするだろう。ところが、彼は検疫に出ないんだ、水上警察もおるから。「おかしいなあ」と思って水上警察のある警官が、船室へたずねて行ったんだな。彼は「身体が悪い」というんだ。それで警官が、一等船室だから敬意を表して、「ではお名刺を頂戴します」というと、それ(鍋山氏が与えた名刺)をうかつに出したんだな。自分では、船客名簿と名刺の名前の違いに気がつかなかったんだが、まったくうかつだったんだな。

 門屋:それと、ドルと元と円とを持っておったというじゃないか。

 鍋山:ヤンソンから貰ったんだから…。

 矢次:それはいいんだよ。それは、上海あたりにおればみんな持っているんで、構わないが…。

 鍋山:それで不審に思われて、「ちょっと来い」ということになって、渡政としては「もう駄目だ」と思ったんだ。

 門屋:引っ張る(*逮捕する)ほうは、そこで渡政と思ったわけでも何でもないんだろう?

 鍋山:ああ。だから、警官を背中から射っているよ。(*同警官は翌日死亡) そして、「おれは日本共産党の渡辺だ!」と埠頭で叫んだんだ。群衆に助けを求めるつもりだったんだ。そしたら群衆が「なにを、この野郎!」ということで、追いつめられたため、その場で彼は自殺したんだ。

 矢次:そりゃそうだ。市川正一(*1892-1945、早大卒、第二次共産党中央常任委員、獄死) が上野かどこかで(警官に)見つかって追われたときに、道路工事をしておる労働者の穴の中に飛び込んで、「おれは共産党の市川だ、助けてくれ!」と叫んだら、「なにをっ!」ということで労働者に殴られたそうだ。労働者はみんな自分たちを助けてくれるものだと思っていたところなど、おめでたいね。(*中略)

 〔日共もついに「自殺」を認める〕

 門屋:それで、日本共産党は渡政が自殺したということを、最後まで認めないで、「あれは官憲に虐殺されたんだ」ということにしておったわけだ。それで戦後、難波英夫が赤色救援会をやっておって、「渡政はどうして死んだか知っていますか?」というから、「自殺したんじゃないのか」といったら、憤然として怒りやがって、「マルクス主義者、共産主義者に自殺はないのだ。いかなる状況になっても、共産主義者は自殺しない。それを、渡政が自殺したなんて、あんた、デマを飛ばしちゃいかん!」というわけだよ。だけどぼくは、渡政が頭を射って死んだということは、監獄の中でわかっていたからね。ところが、この前ある奴に会ったら、「いや、上海(*コミンテルン支部)からの指令で、あれは虐殺だということを、われわれは東京の検事局や警視庁が知る前に、当時の共産党の連中には……」

 鍋山:ぼくが(上海から)電報を打ったんだ。ぼくが上海で日本の新聞を読んで、おれが作った名刺をもった男が警官を殺して自殺した、という記事をみたんだ。「あ、渡政がやられた」と思ったが、さすがにヤンソン夫人はそのとき泣いたよ。それでぼくは、新聞の記事通りに書いたんだ。「渡政、キールンにて警官を殺し自殺」という電報を東京に打とうとしたんだ。そしたら、ヤンソンが怒ったんだ。まあ怒ったわけでもないけれども、「こんな馬鹿な電文があるか。共産主義者というものは、最後の死まで新聞を利用しなければいけない。自殺したとは何ごとだ。『渡辺、キールンにて官憲に虐殺さる』と書け!」というんだ。そこまで苛酷に考えなければならないものかと思ったが、ヤンソンはやはりオルグ(*組織拡大担当)だからね。イギリス共産党、フランス共産党をつくった男だ。ラトビア人で厳しい男だ。非常に厳しい男だ。「なるほど」と思って、それでぼくは電文を変えて、「渡辺、キールンにて官憲に殺さる」という電報を打ったんだ。それで、ぼくの名前で打とうかと思ったが、ヤマケン(*山本懸蔵1895-1939、野坂参三の密告によりスパイとしてモスクワで処刑)がおったので、ヤマケンの名前で東京へ電報を打ったんだ。

 門屋:宛名は東京の誰?

 鍋山:当時、労農党再建準備会だったから、そこへ打ったんだ。それで、ちょうど労農党再建の大会で、その電文を発表したんだ。それでワーッとなって「渡政はやられた!」ということになったんだ。(上海で)新聞をみたら、大会が開かれていたものだから、その大会へ(電報を)打ったんだ。

 門屋:なるほど、それで東京の検事局や警察が渡政と確認する前に、日共は“殺された”ということを知っていたわけだ。

 鍋山:それがぼくの電報なんだ。“渡政虐殺”のもとをつくった原因もこっちにあるんだ。

 門屋:これは非常に面白い話だな。

 鍋山:左翼の諸君の書いたものはもちろん、戦後の学問的な著書までが虐殺説をとっているんだよ。今度の『日本共産党の五十年』で日共も初めて、自殺ということを公式に認めたんだ。

 門屋:そうだね。・・・(**前掲書63~68頁)

 このヤンソンの指示による「渡政虐殺」の宣伝謀略は、前回ご紹介した三田村武夫著「戦争と共産主義***」(平成28年改訂版呉PASS出版再刊) 27頁記載の「レーニンによる戦略戦術と政治謀略教程」に基づくものです。

・・・要するに「革命」という目的のためには、ブルジョア社会に存在する一切の道徳的規範を無視して、逃(*げ)口上も、嘘も、あらゆる種類の詐術(*サギ)も、手練手管も、策略も用いよ、また真実をごまかすことも、隠蔽することも、悪魔とその祖母と妥協することも必要だ―と言うのである。・・・(***同上書27頁)

 今日の北朝鮮の国営テレビ放送や新聞発表、中国政府広報担当官の記者会見、そしてソ連時代に戻りつつあるような印象を与えるロシア大統領府の公式発表や国営テレビ放送などの内容を見ていると、こうした「レーニンの遺伝子」がしっかりと受け継がれていることを感じさせます。そして日本共産党が万一にも日本の政権をとった場合には、このレーニンの遺伝子が再び活躍するのではなかろうか、との疑念は晴れないのです。何しろ党最高指導者に楯突く党員は、どんなに古参で功績があった人でも、一切許さずに除名してゆく「民主集中制」という名の「独裁的システム」が未だに生き生きと機能している「地球上で最後のスターリン主義の党」(フランス共産党の評) なのですから…。(次回に続く)