前回は「天皇・嵐の中の五十年**」と題された「矢次一夫対談集Ⅰ」(1981年原書房刊)から、明治31,32年生まれのお二人、矢次一夫氏(1899-1983)と安岡正篤氏(1898-1983)との対談と、矢次氏による麻生久(*1891-1940、社会大衆党党首、旧制第三高等学校から東京帝國大学仏法科卒業、東京日日新聞記者出身の政治家)に関する人物評論を読みました。そして、左翼の共産主義的な理論と、右翼の統制主義的な理論の、意外な共通性についての矢次氏の見解を読んだわけです。

 このようなものの見方・考え方からすれば、経済体制として、「自由主義である資本主義体制」と、「統制主義である、共産主義体制あるいはファシズム的な国家社会主義体制」との対峙、という括り方に着目すれば、「自由主義」対「全体主義(共産主義も国家社会主義も含む)」という捉え方が可能であることを示唆しているのです。

 つまり、経済体制や社会体制を、統制して計画的に国家・政府(党)が運営するようなシステムという面で捉えれば、まさに左翼社会主義と右翼社会主義は、共通する社会主義的国家構造を有しているのです。

   但し、その統制上の頂点に位置する存在が、共産党指導者(スターリン・毛沢東等々)なのか、それとも天皇陛下(但し実体的指導層は帝國陸軍を主体とする軍事政権の中枢事務局)であるのか、という根本的な相違はあります。しかしながら頭首に誰を戴くか、ということを別にすれば、そのあとの国家構造や統治形態、特にその経済体制は、統制的な社会主義的国家体制であることには、大きな違いはないのです。

 ここで、その右翼的な国家社会主義体制とは、一体どのようなものであったかを探るため、まずは二・二六事件の軍法会議で思想的首魁とされ、帝國陸軍により銃殺刑に処せられた北一輝(本名:北輝次郎)氏の著書「日本改造法案大綱(國家改造案原理大綱)」(大正12 (1923) 年刊)の内容について、中野雅夫著「昭和史の原点(1)***」講談社昭和47年刊から、その骨子を読みたいと思います。(以下、*裕鴻註記・補正)

・・・『日本改造法案大綱』は八巻と結語からできている。巻一 国民の天皇/巻二 私有財産限度/巻三 土地処分三則/巻四 大資本の国家統一/巻五 労働者の権利/巻六 国民の生活権利/巻七 朝鮮其他現在及び将来の領土の改造方針/巻八 国家の権利

 この法案の眼目は、天皇を奉じてクーデターを決行し、戒厳令を布いて憲法を停止し、その間に国家改造を自由自在に断行することである。北はクーデターを保守政治家の権力濫用とみる一派に反対する。ロシア革命においてレーニンが、機関銃を議会に向けて反対派を一掃したのは明確なクーデターで、クーデターは社会意志の直接発動であるとする。

 天皇は国民の代表とし、国民と天皇の中間に存在する特権階級を廃止する。天皇は範を示していっさいの皇室財産、土地、山林、株券等を国家に下付し、国家は皇室費を国庫より支出する。私有財産は、国民一家族(個人ではない)の限度を百万円*とし、超過額は無償で国家に納付する。違反者は死刑にする。

<*但し当時の初任給は、巡査が月給35円、師範学校卒教師は高給取りと言われて月給50円だったとのことですから、仮に現在は数千倍の価値として見ると、当時の*百万円は数十億円規模になるので、そんなに厳しい私有財産制限でもないということになります。>

 土地は国有にし、一家族の私有地は時価十万円とする。限度を超過せる土地は国有とし、国有地の開墾植林の経営は国家が当たる。

 私企業は資本金一千万円を限度とし、それ以上の大企業は国営とする。生産国有によって生ずる莫大な収入は、国民生活の充実にあて、基本税のほかいっさい無税とする。

 労働者の権利を保証する。労働は八時間制とし、日曜祭日は休業して賃金を払う。私企業の利益の半分は労働者に分配し、国家企業もそれに相当する給付をする。

 国民の権利を尊重する。自由平等の人権を保証する。官公吏が国民の人権を侵害すれば、ただちに三年以下の刑に処す。父母なき児童、六十歳以上の貧困なる男女は国家が扶養する。十年制の義務教育とし、いっさいの制服を廃し、英語教育を中止して世界共通語のエスペラントを第二国語とする。

 国家は徴兵と開戦の権利を有す。兵士には給料を払い、階級章のほかは食事、住居、衣服等は将校と兵士の区別を廃しまったくの平等とする。戦争は中国がロシアの侵略を受けたとき、インドが独立を回復するとき、これを援助して開戦する。日本が中国に領土的野心をもつのは絶対反対である。日本が将来、領土を必要とするときには、ロシアがアジアから奪ったシベリアと白人が奪取したオーストラリアを奪回する。とくにシベリアをアジアに回復することは、ロシアが社会主義になっても、ツァー(*帝政)・ロシアの帝国主義侵略政策はいささかも変化するものではない。

 国は興り国は亡ぶ。アングロサクソン民族の地球上の横行闊歩もそう長くない将来に没落する。国際的戦国時代は迫りつつある。日本国民はこの「日本改造法案大綱」によって、国家の政治的、経済的組織を改革し、来たるべき未曾有の国難に対処すべきである。以上が骨子をなす内容であった。・・・(***同上書96~97頁)

 これが、右翼的な国家社会主義体制の姿であったわけです。この北一輝が処刑された、二・二六事件の軍法会議では無罪となりながらも、戦後もその関連を疑われ続けた眞崎甚三郎陸軍大将には、実弟に眞崎勝次海軍少将がいました。その眞崎提督は、戦後昭和25年に「亡国の回想****」(国華社刊)を出版していますが、この書によれば、その北一輝の綱領の大体は次の通りです。

・・・一、革新日本の建設。二、日本国家の合理的組織。三、日本国民の思想的充実。四、民族解放。五、改造運動の連結。六、近世資本主義の打倒。七、国家主義的経済組織の樹立。八、道義的対外政策の樹立。・・・

   このように、多分に社会主義的ないしは民主主義的要素を含んだものであった、と眞崎提督は指摘しています。

   また、北一輝とは袂を分かった後に、主に陸軍統制派に影響を与えたとされる戦前右翼の巨頭、大川周明が作った行地社の綱領は次の通りです。

・・・一、維新日本の建設。二、国民的理想の確立。三、精神生活に於ける自由の実現。四、政治生活に於ける平等の実現。五、経済生活に於ける友愛の実現。六、有色民族の解放。七、世界の道義的統一。・・・

   そしてこの北一輝と大川周明の、両右翼勢力の主張について、眞崎提督は次のように述べています。

・・・全く右翼か左翼か見当がつかぬが、軍部「ファッショ」の思想が大体此の通りであった。之は彼等の実践で明らかであるが、何れも当時の日本の現情を打破せんとする思想の点に於いては、右も左も軍人も皆一致して居る。即ち当時の政党、財閥、重臣等に対する反感も亦一致して居った。」・・・(同上書**** 95~96 頁)

   これに対して、同時代の日本で共産主義者たちが目指した国家体制は、一体どのようなものだったのかを、同じく前掲の中野雅夫著「昭和史の原点(1)***」から見てみたいと思います。

・・・共産党は田中清玄指導下で、武器を持たねば革命は不可能であるとし「武装共産党」と呼ばれた。幹部は拳銃を持ち、メーデーには労働者は竹槍で武装した。共産党はロシアのブハーリンが作成した二七(*昭和2)年テーゼと呼ばれる綱領をはじめてもち、革命目標を定めた。綱領は、「国家権力は資本家と地主の特権階級にある。したがってブルジョワ民主主義革命によってこの半封建的勢力を打倒し、ただちに社会主義革命に移行する」として、次の十三項目の政策を掲げていた。

   一、天皇制の打倒 二、皇室、寺院、地主の土地無償没収 三、戦争の危機に対する闘争 四、中国革命の不干渉 五、ソヴェット・ロシアの防衛 六、朝鮮、台湾の植民地独立 七、議会解散 八、十八歳以上の男女の普通選挙 九、言論、出版、集会、結社の自由 一〇、反労働者法の撤廃 一一、失業保険の実施 一二、八時間労働制 一三、高度の累進所得税

・・・(**同上書26~27頁)

 こうして左・右両翼が追求していた各政策目標を比較検討してみると、天皇制やソ連や中国共産党に関連する項目を除いた、国内政策に関しては、意外に共通点が多いことに気付かされます。

 このこととは別に、戦後の日本を実質的に占領統治した、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、行われた一連の「民主化」の措置があります。それもある意味では皮肉なことに、北一輝による「日本改造法案大綱」に示されている内容に、近似した内容だと捉えることができるのです。

   具体的には、「華族制度の廃止、財閥解体、農地解放、普通選挙、男女平等、基本的人権(*国民の権利)」などはその実例です。しかも、「象徴天皇制」そのものも、北一輝の言う「国民の天皇」と「明治維新の本義は民主主義にある」という主張に重なるもの、と見ることすらできるのです。戦後日本のこうした「民主化」改革は、まさに戦前の右翼的国家改造に、近似したものでもあったのです。

   さらに言えば、上記の戦前共産党が掲げていた、「二、皇室、寺院、地主の土地無償没収 三、戦争の危機に対する闘争 六、朝鮮、台湾の植民地独立 八、十八歳以上の男女の普通選挙 九、言論、出版、集会、結社の自由 一〇、反労働者法の撤廃 一一、失業保険の実施 一二、八時間労働制 一三、高度の累進所得税」についても、日本国憲法の内容その他の、占領軍統治方針によって、かなりの近似的内容が実現された、と見ることができるのです。

   まさに終戦まで投獄されていた徳田球一などの共産党指導者たちが、G H Qの指令で出獄した直後に声明した通り、アメリカ軍などの占領軍を「解放軍」として捉えられていたことにも付合する内容だったのです。彼ら共産党指導者は当時、G H Q (つまりマッカーサー将軍) への「感謝デモ」まで計画していたといいます。

 このように「鳥の眼」で大局的に俯瞰すれば、戦後のG H Qの「民主化政策」も、戦前右翼の「国家改造政策」も、戦前左翼の「国家革命政策」の一部も、大筋では共通性があったことがわかるのです。しかし、決定的な違いは、まさに、皇室制度(天皇制)に関するスタンスです。G H Qは「象徴天皇」をもたらしましたが、戦前右翼は「天皇親政」を理念的に希求し、戦前左翼は「天皇制廃止」を思想的に希求したというわけです。

   一方で、なぜ戦前の右翼運動が「天皇親政」を求めていたかを、よくよく考えてみれば、実は戦前日本の実態は「天皇親政」ではなく、「天皇機関説」であったことがわかります。そして、「天皇機関説」が意味する「近代的立憲君主制」(英国王室流)は、現在の日本国憲法の「象徴天皇」の姿に近いものであることから、むしろ、皇室制度の本質(つまり国体)は、変わらずに維持されたと捉えることも可能なのです。

   そしてこれは明治維新以前の江戸時代、戦国時代、室町時代、鎌倉時代に遡って、幕府政治が開闢して以降は、連綿として続いてきた、わが国特有の国家的統治制度の実態と本質であったと捉えることもできるのです。まさにイギリス王室流の「君臨すれども統治せず」のスタイルが、少なくとも鎌倉幕府(12乃至13世紀)以降は、連綿として続いてきていたのです。それでも天皇と皇室を「革命的」に廃し、その時々の武家の頭領が皇帝に成り代わろうとは決してしませんでした。つまりその時々の幕府による統治という「政体」は変わっても、天皇陛下と皇室の権威と君臨という「国体」は決して変わらなかったのです。

 このように見てくれば、やはり日本にとって、時代を超えていかに天皇陛下の存在意味が大きいか、そしてわが国の歴史と文化と伝統を基盤として支えてきた皇室制度を維持することの肝要性が、あらためて感じられるのです。

 日本という国と日本人という国民にとっては、皇室制度に基づく天皇陛下のご存在こそが、日本の礎(いしずえ)であり、共産主義者のような「天皇制廃止」などという考え方は、全く日本の歴史と伝統と文化を、根底から破壊するものであると、私は考えています。それは多くの国民も同様であると存じます。ましてや戦前の日本においては、明治以降の近代的法制によらずとも、国民の総意として、天皇陛下を頭首として戴くことが自然であり、また当然のことであったのです。

 だいたい日本で共産革命を起こして、ロシア皇帝ご一家を惨殺したような残虐非道を皇室になそうというような邪悪な思想とは、全く相容れない土壌があるのです。それを結成当時の共産党指導者たちさえも自覚していたため、天皇制に関しては、彼らも戦々恐々としていたことが窺えるのです。立花隆著「日本共産党の研究 第一巻*****」1983年刊、講談社文庫版の記述内容から、その模様を少し見てみましょう。

   コミンテルン(内実はソ連共産党)の誘いにより、大正11(1922) 年1月から2月にかけてモスクワで開催された「極東民族大会」に、徳田球一らの日本代表団が出席、日本共産党創設の指導と活動資金を受け、さらに当時のスターリンが、日本における共産主義運動の指示をしたといいます。この徳田らの代表団が帰国し、山川均、堺利彦などの、既成の社会主義者や無政府主義者の指導者に働きかけることで、ようやく共産党結成のはこびとなったのは、1922 (*大正11) 年7月15日のことでした。この第一回党(*準備)大会で委員長には、堺利彦が選ばれ、中央委員会は次のメンバーからなっていました。

   堺利彦(51歳)、山川均(41歳)、荒畑勝三(寒村=34歳)、近藤栄蔵(39歳)、高津正道(29歳)、橋浦時雄(30歳)、徳田球一(27歳)〔年齢は当時、但し徳田球一に関しては中央委員でなかったという説もあります。〕

   さらに同1922年11月にモスクワで開かれたコミンテルン第四回大会に、党代表が二人派遣されました。ここではじめて、日本共産党は「コミンテルン日本支部」と認められ、正式に発足したのです。つまり日本共産党は、誕生時から「ソ連製」だったのです。そしてそのコミンテルンが日本共産党のために党規約と綱領を作ってくれたのであり、これらは現在の日本共産党にもその骨子が受け継がれているのですが、これらも「ソ連製」というわけです。

   翌1923(*大正12) 年2月、千葉県市川市の料亭で、第二回党大会を開きますが、ここでは綱領の審議まではいたらなかったので、翌3月、石神井の料亭であらためて臨時党大会を開きました。この大会では、綱領をめぐって論議が紛糾し、結局、審議未了のまま終ってしまいます。その紛糾した問題点が、まさに「天皇制」に関するものであったのです。前掲の立花隆著「日本共産党の研究 第一巻*****」(1983年刊、講談社文庫版)から、この模様を少し読んでみましょう。(*裕鴻註記・補説など)

・・・この大会は、綱領をめぐって論議が紛糾し、結局、審議未了のまま終った。(*ソ連製の)綱領草案は、日本を“封建制度の残存物が今なお優位を占めている”国家とみなし、権力は天皇を頂点とする大地主と一部のブルジョワの連携の上にのっているとみる。そこで、日本革命の第一段階は、プロレタリアート(*労働者階級)が農民や(権力につながっていない)ブルジョワ(*資本家・中産階級)と協力して起こすブルジョア革命だという二段階革命説にたっていた。そして、ブルジョア革命はプロレタリア革命の“直接の序曲となりうる”と判断していた。つまり、ロシア革命で起きた二月革命の構図がそっくり日本にもあてはまるだろうと見ていたのである。

 この分析の上に、君主制(*天皇制)の廃止、普通選挙権、出版・集会の自由、労働組合・デモ・ストの自由、八時間労働制、天皇・大地主などの土地没収・国有化などからなる二十二項目の民主主義的スローガンを当面の要求として示した。党の当面の任務としては、労働者と農民の間に勢力を伸ばし、影響力を確保することをあげていた。

   〔天皇制に関する審議〕

 この綱領(*コミンテルンから与えられたもの)で問題となった点が二つある。一つは二段階革命説で、もう一つは天皇制廃止の問題だった。

 二段階革命説をめぐって、ブルジョア革命がなぜ必要なのか、最初からプロレタリア革命をめざさないのはなぜか、という点が論議の中心になった。共産党は、以来ほぼ一貫して二段階革命戦略(時期によって内容の相違はあるが)をとっている。そして、共産党の革命戦略の話になると、いつも、二段階革命か一段階革命かというのが論議の集中するところである。この論議が、すでにこの時点ではじまっていたわけだ。ともかく、この綱領草案審議の段階で、すでにプロレタリア革命に主眼を置くべきだとする意見のほうが強かったということを述べておく。

 大問題だったのは、天皇制の問題である。このころは治安維持法がまだできていなかったので、単に共産党を結成したり、それに加入しても、治安警察法の秘密結社禁止の項にふれるだけで、たかだか六カ月から一年の禁錮系を覚悟すればよいだけだった。しかし、公然と天皇制打倒を口にすることは、第二の大逆事件(つまり死刑)を覚悟しなければならないことだった。

 だから、天皇制に関する審議は重大問題だったのである。まず、はじめに参会者に配られた草案では、“君主制廃止”の部分だけハサミで切り抜かれてあった。委員長の堺が議長をつとめていたが、堺はこの問題を討議しないつもりだったのである。参会者の一人から、それを審議すべきだという声が出ると、堺は、どうしても審議するなら退席するとまでいいだした。

 とにもかくにも話が出てしまったので、用心のために近くの部屋を見て歩いたら、一つおいた隣の部屋で三人の男が酒を飲んでいた。そこで、あわてて、天皇をオヤジといいかえて論議をすすめることにした。そして、結局、基本的にはそれを認め、コミンテルンには原案のまま採択したと報告するが、政治的スローガンとしてはかかげず、党内の文書でもこのことはいっさいふれないということにした。(*中略)「(*前略) それくらい天皇制は共産主義者を悩ましたのである」(松本清張『昭和史発掘』)前述の、党建設を指示されてモスクワ帰りの途中、恐怖のあまり与えられた資金を海中に投じた男の恐怖とは、これと同質の恐怖だったのだろう。・・・(*****前掲書65~67頁)

 このように、第一次共産党結成当時のメンバーも、日本において君主制(天皇制)を共産革命によって廃止するというのが、いかに重大なことであるかを充分にわかっていたのです。少し時代は降りますが、三田村武夫著「戦争と共産主義」(平成28年改訂版呉PASS出版再刊)より、「ゾルゲ事件」で死刑となった尾崎秀實氏が、昭和17 (1942) 年 2~3月頃に獄中で纏めた手記から、「真正の共産主義者」としての彼が、日本の「国体」(つまり天皇制) をどう捉えていたかを見てゆきたいと思います。

・・・「我が国体に対する認識について」

 多くの人々は国家の内に生活しながらも常にその国体を意識しつつあるものではないと思います。問題となるのは我々の具体的な政治行動が国家の政治体制と現実に交錯するに到った時であります。私(*尾崎秀實)が忠実なる共産主義者として行動する限りに於ても日本の国体と矛盾することは当然の結果であります。(*中略、「ゾルゲ事件」のように)国家の機密を探ぐることを主たる活動とした行動自体が問題なく国家体制の否定であることは申すまでもありません。しかしながら私の行動は(*中略)共産主義者としての超国家的行動から、自然に反国体的行動に出たと云うことになるのだと考えます。

   (*昭和17年)現在の我が国体の本質を我々(*共産主義者)の立場から見て如何に考えるかと云うことは相当難かしい問題であると考えます。日本が資本主義的に高度な段階、所謂帝国主義の段階に達した国家たることは問題の無いところでありますが、日本の国家体制は多分に日本的特殊性を含んでいると見られます。一般には封建的諸勢力の力強い残存が指摘せられるところであります。

   資本家、地主階級による日本の現実の政治支配体制はコミンテルン的には天皇制の名によって呼ばれて居ります。日本の政治支配体制の中、最も特徴的な(*大日本帝国)憲法制度に着目してかく規定したのでありましょう、日本の政治支配体制という意味からすれば勿論「天皇制」は我々(*共産主義者)と相容れるべきものではなく、これが打倒を目標としなければならないのであります。

 但し私一個の私見を申しますならば、現在の日本の政治体制の本質を規定する言葉として「天皇制」なる言葉が正しいかどうかについて疑(*い)を持って居ります。日本の資本主義の現段階の特徴は発達の後進性よりも寧ろ内部の均衡性にあろうかと思います。(*中略) 現段階に於ける日本の政治支配体制の上で天皇の憲法上に於ける地位の持つ意義は実は擬制的なものに過ぎなくなりつつあるように見受けられるのであります。以上のような理由で、日本の現支配体制を「天皇制」と規定することは実際と合わないのではないかと考えて居るのであります、更に一歩を進めて共産主義者としての戦術的考慮から見ても「天皇制」打倒を、スローガンとすることは適当ではないと考えます。

   その理由は日本に於ける「天皇制」が歴史的に見て直接民衆の抑圧者でもなかったし、現在(*昭和17年当時)に於て、如何に皇室自身が財産家であるとしても直接搾取者であるとの感じを民衆に与えては居ないと云う事実によって明瞭であろうと考えます。私一個人としては別に皇室とは何等の関係もなく恩もなく亦恨みもありません。妙な云い方でありますが、これは少なくとも、天皇を宗教的に信奉する可成りの日本人以外の普通の日本人の感じ方であろうと思います。

 革命的スローガンとしては民衆の直接の熱情に働き掛け得らるる如きものでなくてはならないのでありますから、その意味では「天皇制」を直接打倒の対象とすることは適当でないと思われます。問題は日本の真実なる支配階級たる軍部資本家的勢力が天皇の名に於て行動する如き仕組に対してこれにどう対処するかの問題であります。しかしながら此の場合に於ても真実の支配者の役割とその大衆に及ぼす意味とを明(*らか)にしてこれを直接攻撃に対象とすべきものであろうと考えます。

 猶ここに一言付け加えて置きたいと思いますのは(*中略)社会主義は一国だけで完全なものとして成立するものではありません。世界革命を待って始めて完成するのであります。全世界に亘る完全な計画経済が成立って始めて完全な世界平和が成り立つものと思われます。この意味から云えば現在世界の再分割を目指す日本のファシスト達が大地域ブロック化、例えば、「東亜共栄圏(*ママ)」までの範囲しか考えていないことは不徹底であると考えます。必ずその次にインター・ブロックの激しい抗争をひき起こすことは当然だからであります。世界的共産主義大同社会が出来た時に於ては国家、及び民族は一つの地域的、或(*い)は政治的結合の一単位として存続することとなるのでありましょう、かくの如く私は将来の国家を考えているのであります。

 この場合所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうち最も古き家としての天皇家が何等かの形を持って残ることを否定せんとするものではありません。・・・(呉PASS出版刊「戦争と共産主義」215~219頁より部分抜粋)

 このように死刑になる前に、「真正の共産主義者」尾崎秀實氏は書き遺しているのです。つまり戦前日本では共産主義者から見ても、「日本の政治支配体制の上で天皇の憲法上に於ける地位の持つ意義は実は擬制的なもの」に過ぎない、すなわち天皇機関説的な「立憲君主」として天皇陛下は存在しておられたということ、また実質的な国家支配層は「軍部資本家的勢力」であると捉え、かつ天皇陛下は「直接民衆の抑圧者」でもないし、「直接搾取者であるとの感じを民衆に与えては居ないと云う事実」は「明瞭」だと言っているのです。

 そして推測するに、彼の言う「日本的特殊性」とは、一般の日本民衆による「天皇陛下への厚い敬愛と尊崇の念」を意味しているのではないかと思います。であるがゆえに、「革命的スローガンとしては民衆の直接の熱情に働き掛け得らるる如きものでなくてはならないのでありますから、その意味では『天皇制』を直接打倒の対象とすることは適当でないと思われます。」と述べ、「更に一歩を進めて共産主義者としての戦術的考慮から見ても『天皇制』打倒を、スローガンとすることは適当ではないと考えます。」としているのです。

 現在のわが国の共産主義者も共産党員も、北朝鮮や中国や最近のロシアのように、政治犯として強制収容所に入れられたり、処刑されたりすることは一切なく、その思想信条と合法的な政治活動は保障されています。しかし尾崎秀實氏の時代は違います。ましてやゾルゲと共にソ連軍のためのスパイ活動をし、さらには昭和研究会や近衛文麿首相のブレインとして、日華事変を終息させないように戦意を煽り、蔣介石との和平を妨害するため、汪兆銘(汪精衛)政権の樹立を推進し、陸軍をソ連に向かわせないよう、北進よりも南進をさせるため、東亜新秩序や大東亜共栄圏につながる方向性を後押しする言論を展開し、しかも「聖戦完遂」を訴えて、日本をさらに泥沼に追い込み、最終的に大日本帝國を敗戦させる方向性たる、対米英蘭開戦へと向かわせようとしました。その結果、日本敗戦時にロシア革命のような共産革命を起こそうとしたのです。

 命懸けのこうした共産主義活動に身を挺した、この尾崎秀實氏でさえも、上記のように、戦前日本の天皇陛下の存在を、「実は擬制的なもの」、つまりは実態は「天皇機関説的な立憲君主」、と看破していたという事実を、わたくしたちは軽視するべきではありません。

   もっとも、戦前右翼の目指した「天皇親政」というのも、本当に陛下ご自身のお考えによる施政を求めたというよりも、右翼人士の「心の中の天皇」に従う諸政策を、帝國陸軍の中央中枢の幕僚団が「事務局」として「御前会議」に上程し、手続上そのままご裁可戴く、ということなのであれば、実質的な権力層はこの帝國陸軍中央中堅幕僚層であることになるのです。このあたりの構造的分析や理解をしっかりしておかないと、この「天皇制国家社会主義」の実像は、なかなか見えてこないのです。(次回へ続く)