前回の末尾で触れたMax Weber (1864-1920)による社会学的概念である「形式合理性」と「実質合理性」から、今回はスタートしたいと存じます。最初にこの二つの概念について、例によって有斐閣「社会学小辞典」」(編者:濱島朗・竹内郁郎・石川晃弘、有斐閣1982年増補版)により、その内容と意味を確認しておきましょう。(*裕鴻註記)

  まずは「形式合理性」からです。

…M. ウェーバーが設定した重要な合理性概念の一つで、実質合理性と対をなす。特定の価値的な理想や目的を前提として、それとの一致の程度で測られるのが実質合理性であり、そういう理想や目的とかかわりなく、事象の経過が推論ないし計画にしたがって無駄なく行われるのが形式合理性である。計算可能性がその本質をなす。M. ウェーバーが歴史を普遍的合理化と捉える場合、それは形式合理性を指し、実質合理性との矛盾が問題となる。…

 次は「実質合理性」の説明です。

…形式合理性の対概念。技術的にできるかぎり的確な手段を目的合理的に見積もるといった、純粋に形式的な一義的に確定できる事実の考察に満足しないで、一定の権利要求を掲げ、これに即して行為の結果を価値合理的に測定すること。抽象的類概念である。…

  加えて、ここに出てくる「目的合理性」と「価値合理性」の説明も見ます。

「目的合理性 (Zweckrationalität)」

…一定の目的設定が行われた場合に、その達成のための手段選択、操作可能でない事物や他者がつくり出す「条件」への配慮、さらには行為の付随的結果の予測と統制などが合目的的に行われることをいう。…

 「価値合理性 (Wertrationalität)」

…M. ウェーバーが設定した行為の合理性の一つ。価値合理的行為*の基盤となる合理性で、目的合理性に対照される。固有の価値への信仰に方向づけられた行為の合理性であるから、目的合理性からみれば非合理的とみなされうる。…

 「*価値合理的行為 (Wertrationales Handeln)」

…M. ウェーバーが設定した社会的行為の4類型(目的合理的・価値合理的・感情的・伝統的)の一つ。倫理的であれ美的であれ宗教的であれ、固有の価値**を無条件かつ意識的に確信し、その実現のために行為者が自らに課した命令に従って、結果を顧慮することなく、その行為が方向づけられている場合、その行為をいう。プロテスタンティズムの救済信仰に基づく禁欲的生活態度の合理的組織化はその好例。…

 「**価値 (value / Wert)」のクライド・クラックホーン博士(Clyde Kluckhohn, 1905-1960、ハーバード大学人類学部教授)による定義

…「利用可能な行為の様式、手段および目的を選択する際に影響を与えるところの……望ましいもの(the desirable)に関する……観念」…

 というような厳密な定義が、それぞれの概念に与えられています。社会学を含む近代的社会科学なるものは、19世紀に隆盛を極めたニュートン物理学(古典力学的計算など)を基礎とする科学技術の発展に、大きく影響を受け、あたかも自然科学のような厳密な科学的法則体系を解明することを目指し、その対象を自然ではなく、人間と人間集団たる社会や国家にまで拡大して、如何にこれらを「科学的」かつ「厳密に」観察、記録、分類、整理、分析することを通じて、何らかの法則的傾向の発見を希求したのです。然し、問題はその研究対象たる人間の行動をもたらす思考や感情、心理や精神といったものが、一筋縄では解明できない複雑性と、何より「非論理的」「非合理的」な側面を常に併せ持つという圧倒的な現実が、整然とした近代合理性による自然科学的アプローチを阻む結果に直面し続けたのです。これは21世紀の今日になってもなお、まだまだ現実問題として尾を引いています。このことは、特に経済学の領域や心理学の領域では、顕著に現れているように筆者には感じられます。

 それが、例えばhomo economicus(経済学的人間像)という「人間モデル」を基にして築かれた経済理論と、現実の人間たちとの乖離から生じる、理論適応の限界や不合致を生じさせているとも言えましょう。平たく言えば、人間はそんなに単純でも簡単でもない、複雑怪奇な実存を持つ存在なのです。

 ロミオとジュリエットではありませんが、論理的に考えれば、「そんなことで…」と言われるような理由で、人は利害得失ではない感情によって左右され、また生きたり死んだりする存在なのです。ゆえに詩も唄も文学も、音楽も絵も彫刻も、そして演劇も映画も、存在するのだと思います。人を愛し、憎み、恨み、妬み、怒り、悲しみ、愁い、好み、恋焦がれ、憧れる、というような、人間に特有の複雑な感情や欲望、心や意志は、必ずしも論理的な計算のみでは、数値化も把握も推測もできない非法則的要素なのです。

   これから益々A Iが発達進化し、今話題となっている映像の生成・作成ももっと発展し、いずれは映画や小説もA Iが生み出すことになるかもしれませんが、それでも尚、人間との本質的な違いがあるとすれば、例えば「恋愛感情」を、A Iがどのように取扱い表現しうるのか、または本質的な善悪や美醜を、どのようにA Iが処理するのか、というような領域かもしれません。A Iが進化すればするほど、人間側は、より人間的な感性や倫理性、あるいは反面において獣性や悪徳性に走るものも増加するかもしれません。「あまりにも人間的な…」というフレーズが、善悪を問わずより一層の重みと意味を持って、人間社会にのしかかってくるような気がします。そこで最も必要とされるものは、一体何であるのか。

 閑話休題、話が前回の「海軍人事政策」から少し寄り道しましたが、私が言いたかったのは、海軍は機械技術を駆使する組織体であることから、万事が合理的な精神で問題を処理する組織文化を有していたと思うのです。そこで、人事についても、非常に優れた考課制度などで、ガラス張りの公正公平度の高いやり方をしていたものと評価できますが、問題は単に「学校成績重視」というようなことのみではなく、その人物を鑑定するにあたり、知的能力や体力・伎倆に加え、一体その人がどのような思想を抱き、一体どちらの方向に海軍や国家を進めようとしていたか、というような、非自然科学的要素、すなわち価値観や志向性のベクトルという面を捨象していたのではなかろうか、という点に、私は着目しているのです。

   親独派でも職務熱心で極めて勤勉努力を重ねている真面目な人材は多く、その人々が開戦前にいろんな理由から、海軍中央中枢の海軍政策を左右するようなポスト(具体的には海軍省軍務局軍務第二課や軍令部第一部第一課(作戦部作戦課)など)に就いていたことが、今までに見た「海軍国防政策第一委員会」を生み育てたとも言えるのです。つまりは、こうした価値観や志向性は、人事考課の対象とはなりにくい要素であり、勿論組織のタガを外れることが多いというような一面での捉え方はできるにせよ、学校成績や勤務成績に優れていた人物であれば、当然に中央中枢の重要配置に就けることができるわけです。

   それは、上記のマックス・ヴェーバーの概念で言えば、「形式合理性」に則った人事政策ではあったでしょうが、その人物の価値観と志向性、即ち独伊と結んで米英との戦争に向かう方向性を許容するか、あるいはあくまでも米英とは国際協調による不戦の方向性を志向するか、といった「実質合理性」の観点が加味され反映されていない「人事政策上の結果・効果」をもたらしたとも捉えられるのです。

   そして、こうしたことを生む根源となったのは、本シリーズ第(36)回や(40)回でも見てきた、江戸時代までの「四書五経」などを柱とする漢籍の素養を基礎として、道義や徳義を養う武士の価値観教育と、明治維新以降の学校制度に基づく、科学技術や近代法制に偏した知識・技能教育の、根本的な差異・相違に、やはり問題の基盤があるように思うのです。

 このあたりを今回は、「天皇・嵐の中の五十年**」と題された「矢次一夫対談集Ⅰ」(1981年原書房刊)の中から、矢次一夫氏(1899-1983)と安岡正篤氏(1898-1983)との「新春放談」(昭和47 (1972) 年1月5日付『新国策』記事)より、読んでみたいと存じます。(*裕鴻註記)

・・・〔明治教育が見落としたもの〕

 安岡:日本の明治維新というのは、非常な長足の進歩をしたわけですが、私はいつも思うんだけれども、フルシチョフが「追いつき追い越せ」というスローガンでやり、毛沢東は「大躍進」というスローガンでやった。ところが彼らは成績不良だ。この「追いつき追い越せ」も「大躍進」も、ともに見事にやってのけたのが、私は明治維新だと思うんだ。その意味において、この明治維新というものは、現在(*1972年当時)のソ連(*現・ロシア)や中共(*中華人民共和国)に比べたら大したものだ。中共*はいまになって「大躍進」どころではない「大後退」をしたり、ソ連はいくらか落着いてきたというぐらいなところで、こうなると明治はほんとうに偉いと思う。

 そのうちでも、とくに教育に大変な業績を示したのだけれども、ただ大事なことを明治は一つ抜かったと思うのです。これが明治の教育政策の大きな失敗の一事実だと思うのですが、それは何かというと、とにかく幕末にペルリ(*マシュー・ペリー米提督)を始めとした外国船の渡来にびっくりして、つまり彼らの物質文明、科学技術の文明にたまげて、そしてそれが日本に大変なインフェリオティ・コンプレックス(*inferiority complex)を生んだわけだ。一方においては、非常に驚いてこれを畏敬し、その反面に恐怖感をもち、そのまた一面に「なあに」というような負け惜しみをもち、負けてなるかというような気概も生じて、明治維新としてはああいう躍進をしたわけだね。そこで、西洋に負けないような科学技術を修得させ、ああいう近代文明を作り上げることに熱をあげる。それには、何はさておき学校を興さなければならない。とくに大学の立派なものを作って、人材を養成しなければならない。しかし、一ぺんに(*旧制)大学は作れないから、その予備校として(*旧制)高等学校を作り、そのまた予備校に(*旧制)中学、そのまた予備校に小学校、こういうように、小学校から大学へではなくて、まず大学が主なんで、その予備校組織で明治の学校教育体系ができたんですよ。そして、下は小学校から上は大学に至るまで、西洋に負けない、あるいは西洋に「追いつき追い越す」科学技術教育というものが主眼になったわけです。だから、人間を作るということは、これは当たりまえということで――当たりまえということは「つまらない」「どうでもいい」ということだ、というふうに錯覚して、下は小学校から上は大学まで、もっぱら英語、数学、理化学云々ということで国語とか漢文のようなものは時勢遅れ、修身なんというものはもっとも面白くないもの、校長先生が月曜かなんかに一時間ばかり眠たい話をするぐらいのことで終ってしまう、ということになって、人間を作るという一番大事なことは忘れられてしまったのです。初めのうちは「そんなことは言わんでも当たりまえのこと」というやつが、「そんなことはつまらないこと」というふうになってしまって、人間教育というものがなくなって、人材教育だ、科学技術だ、要するに、近代文明に早く追いつき追い越す「大躍進」ということになったわけですね。

 そこで「人間とは何ぞや」という問題になるのだが、人間の人間たるゆえんの一番大事なもの、人間の本質的要素というものは何かというと、これは徳性ということです。それに対して知識とか技術、知能とか技能というものは、どんな人間だって馬鹿か何かでない限り、多少は持っている。それは程度の差です。しかし、いくら知能や技能があっても、徳性がなければどうにもならない。どうかすると(その技術や技能が)悪用されてしまうことがある。そういう意味で、徳性というものが人間の本質で、いくら役に立ったところで知能や技能というものは、あくまで補足的なものに過ぎません。これに対して、よいしつけ(*躾)というもの、いわゆる習いというもの、これがまた非常に、徳性に準ずるぐらい大事なものなんです。

 ところが、その知能や技能のほうにばかり走って、徳性だとかしつけというものを閑却してしまったところに、明治維新の教育における大失敗があると思うのです。だから、間もなく明治末期から大正ぐらいになると、そうして出てきた連中を、みんなも技術屋として軽蔑した。

 そうかと思うと、理屈ばかり言うのが法学部だとか文学部だとかいうのに集まった。とくに法学部に集まったのは理屈ばかり言う。こういう知識偏重、技術偏重、理屈屋、技術屋というようなものがたくさん出てきた。こいつが官僚になり、教師になり、事業人になりして、日本人を妙な近代教育の片輪に仕上げたと思うんだ。

 その祟りが――明治時代はまだ前代からの名残りがあったから、遺産があったから、まだたいして目立たなかったが、その遺産を食い潰した大正ぐらいから、ボツボツと日本人の弱点が出てきたんだね。

 〔少なくなった“正統日本派”〕

 矢次:そういう意味では、大学教育を受けなかった連中が明治を作っているんだな。幕藩体制の中で育てられ、吉田松陰であるとか、そういった人が各地にいたと思うんだけれども、塾的教育だな、その塾に人物がおって、非常な影響を与えたんだね。剣道にしても、剣道のみではなく、それに伴ういろいろな学問が付随しているわけだ。そういう中で教え込まれた連中が明治維新をやり、それで明治の日本を作った。その連中が作った大学に、その肝心なものが欠けておったというのは、妙なものだね。

 安岡:そういう徳川時代や明治初期の教育、学問で叩き上げた人物は、だいたい大正が最後で、その最後が、政治家でいうと尾崎(*行雄)とか犬養(*毅)とか原敬。

 矢次:尾崎も犬養も、あれは早くいえば慶應義塾の塾的教育を受けたんだね。

 安岡:そういう教育を受けたけれども、とにかくまだ封建時代からの何物かを残しておったね。

 矢次:伝統的な教育方針というものが、まだ福澤諭吉なんかに強く残っていたからね。

 安岡:矢野龍渓の『経国美談』、それから翻訳といえば翻訳ものだけれど、中村正直の『西国立志伝』とか、彼らの人間や頭脳は多分に古典的だ。

 矢次:少なくとも、今日の言葉でいうと“日本派”だよ。正統日本派だね。この頃は、ソ連派とか中共派とかアメリカ派があって、だんだん日本派がいないんだけれども、あの頃は日本派が非常に多くてね。それで、いつも思うんだけれども、明治時代の官僚といっても、明治維新の豪傑が死んだあと生き残って明治の建設に参加したのは、伊藤(*博文)とか山縣(*有朋)とか、ああいうグループでしょう。この人々は別に、ナントカ大学を出たわけではない。“人生大学”で、むしろ学んだほうだろうが……。しかも、その亜流というか、周辺にいた人材というものが、そういう人たちの感化の下に働いたのであろうが、しかし、明治官僚というものは一つの意欲というか、国家目的というようなものをはっきり持っておった。それがあったから、近頃の官僚という言葉の概念でその連中を見るのは間違いで、一つの志士的気概を持った連中が役人に入っておったね。そういうことが感じられる。

 安岡:現代の官僚とは全然違う。今日の奴は似て非なるものだ。

 〔軍事ぬきの政治学、政治ぬきの軍事学〕

 矢次:それで、いつもぼくは思うんだけれども、薩長土肥(*薩摩・長州・土佐・肥前の雄藩)が連合して幕府を倒し、征韓論で内部分裂を起こして、西郷(*隆盛)の武力的反政府運動(*西南戦争)が弾圧せられて、その後に板垣(*退助)の自由党、佐賀の大隈(*重信)の改進党が出てくる。これは藩閥的な利害とか立場があったと思うけれども、同時に、やはり近代的な民主主義――ルソーの『民約論』などがあの時代に大いに読まれたらしいし、フランス革命の影響というものも、ずっと明治初期から日本に入ってきていたと思われるが、その連中が藩閥的な政権闘争をやるというのにも、単なる藩閥的な立場だけではなくて、そういう新しい民主主義的な立場というものを看板にしたというか、形だけでもなかったろうけれども、ある程度本気であったかもわからんが、それが国会開設運動という形で出てくる。しかし、その両者に共通するものは、やはり日本精神であり、武士的精神であったという点で、昔の朝野両党の立場は、やはりいまとは違う、そういう感じが非常に過去を顧みて思われることだな。

 もう一つ、ぼくには教育論を語る資格がないが、昔、といっても戦争中のことだが、陸軍の諸君や海軍の諸君と付き合った印象で、当時から非常に痛感しておったことだけれども、いわゆる昔の帝国大学というものは戦争を教えないのですね、軍事学を教えていない。戦争という巨大なる政治現象を学問的に教えることは、陸・海軍大学(*校)に任せきりであった。ところが、この陸・海軍大学(*校)の教育というものは、これはぼくも教科書を見たことがあるのだが、非常に軍事学一本槍で、社会科学を教えない。自然科学をいくらか教える。海軍のほうは、自然科学についてはいくらか熱心だな。あと精神科学においては共通している。山鹿素行(*1622-1685、儒学者・軍学者)を教えたり、葉隠精神を教えたりして、精神科学には非常に力を入れておる。これは(*陸軍)士官学校、あるいは(*海軍)兵学校からそうなんだがね。

 しかし、こういう精神科学とか自然科学というようなものを総合するのは、社会科学だと思うのだけれども、これはさっぱり教えていない。だから明治時代は、幕末の武士が「お前は軍人になれ、オレは政治家になろう」ということで、文武相協力する可能性があったが、しかし大正期に入ると、まったく軍事を知らざる政治学と、政治をまったく知らざる軍事学とが相併立するとか、あるいは相対立するという状況が起こるんだね。それがもっと顕著に現われたのが、大正の末期から昭和にかけてだが、この時代はだから、文武の協力ということが成立しなくなった。これなんかは、大きな教育上の失敗だといっていいのじゃないかね。

 〔単なる政治学でなく政治家学だ〕

 安岡:それは、たとえば西洋の軍事学、兵学、クラウゼウィッツだとかイタリーの何とかいうものをむしろ新しがって、孫子とか呉子とか、六韜三略とかいうものをいい加減視した。ところが、孫呉の兵法であるとか六韜三略というのは、政治学だものね。東洋的兵学であると同時に政治学だ。

 矢次:あれは東洋的政治学だ。と同時に、人間学でもあるんだがね。単なる政治学ではないんだね、政治家学だと言いたいね。

 安岡:だから、新しく海軍大学(*校)、陸軍大学(*校)を出た連中は、とくに陸軍大学(*校)を出た奴は、もうすでに一つの機械化していたね。そういう昔の経世済民の学問に接しなかったわけだ。(*経世済民:世の中を治め、人民の苦しみを救うこと。広辞苑より)

 矢次:それはね、昔、ぼくは陸軍の嘱託を頼まれて、週一回、陸軍省に集まって話をする会があったのを思い出すのだが、非常にものを知らない。クラウゼウィッツをどの程度に読んだかということだな。石原莞爾の如き人物ですら、あれを日本では非常に珍重がるけれども、世界的な兵学のレベルからみると、とてもはるかに低い。当時、ずいぶんああいう兵書をいろいろ読んでみたが、非常に石原的戦術学でも戦略学でも、フランスあたりで第一次世界大戦以後に書かれたもの、その以後に発達した世界兵学の水準から見てみると、一番勉強したと思う石原莞爾ですら、その水準にははるかに遠いという印象を、ぼくは持ったね。

 それで、ぼくの前の女房の墓が青山墓地にあるんだが、すぐそのそばに、昔の海軍大将で、名前をちょっとド忘れしたけれども、やはり墓があるのだね。この人は、日清戦争の時に黄海海戦で清国の大艦隊を撃破した将軍(*提督)だが、これがアメリカのマハンの戦略を勉強にアメリカに行った。アメリカでは、マハン大佐が考案したこの戦略は、さっぱり実戦に供されていないのに、むしろ日本でこの人が――そうだ、島村速雄*大将だ……。

   <裕鴻註記:*元帥海軍大将、海兵7期首席、矢次氏の記憶違いで、明治22年から3年間、島村大尉が留学したのは英国。帰国後連合艦隊参謀として黄海海戦に臨んだ。また、日露戦争前半の連合艦隊参謀長を務め、その後第二艦隊第二戦隊司令官として日本海海戦に臨んだ。のち海大校長、軍令部長。尚、後年米国でマハン海大校長に学んだのは、日露戦争で活躍した秋山真之中佐(のち中将)。>

 安岡:この人はなかなか俊傑だ。

 矢次:俊傑であるが、遺族*がなくて、いま無縁仏になっているんだけれども……。<*裕鴻註記:長男は島村初太郎氏、次男は立花和雄氏(入婿)>

 安岡:あれは土佐の人間だ。

 矢次:非常に偉い人で、おそらく海軍の歴史を通じて何人もいない逸材だ。おそらく最高峰の一人だね。あの段階においては、世界的な水準における兵学家であったと思う。それがずっとあと、日露戦争のときになると秋山兄弟(*秋山好古陸軍大将、秋山真之海軍中将)、これも世界的なレベルに達した人物であったな。おそらく鋼鉄艦による海戦を経験したのは、日本が世界戦史上最初でね、それだけに全世界の注目を浴び、一躍して日本の陸海軍が非常に刮目せられたということになるのだが、これの大部分は、大体において明治維新の下級武士の成り上がりで、別に陸海軍大学(*校)を経験したわけでも何でもない。入ったところでほんの一部である、ということを考えると、ぼくは、だから若いときに、「大学なんか入らないほうがいいなあ」と考えたのは、ほかにもいろいろ事情はあるんだけれども、そういうことも一つの理由なんだ。

   <*裕鴻註記:確かに矢次一夫氏は、大学は出ていないが、幼少時に毎日祖父から四書五経の素読を教えられて育ったという意味では、幕末の武家教育を受けた人物だといえます。因みに、安岡正篤氏は、旧制一高首席入学、東京帝國大学法学部政治学科卒業です。>

 〔レーニンが「神兵来たる」と……〕

 それがどうだろう、戦後になって反省せられて、新しい教育方針にそれが取り入れられたかというと、そうでもないんだな。依然として、むしろ明治時代の着想よりも悪いのじゃないかとも考えられるんだね。だから、戦後世代の若い諸君となると、これは、どうなるのだろうかと思うんだ。

 明治以来の陸海軍の関係でみても、東郷平八郎(*英国商船学校留学)が海軍の最高峰に立っておって、あの頃、別に海軍大学(*校)を出たわけでもないんだな。しかもこれは島津の武士であって、そして、乃木大将(*ドイツ陸軍留学)がやはり同じく長州の武士の子であって、というところに、文武というか、陸海の協力が日露戦争まではできていたことがわかる。喧嘩もしたけれども、協力もしておった。ところが、昭和の大戦争となると、全くこれがチグハグで、協力どころではないんだ。こういうところに、日本がしなくてもいい戦争をし、戦争したにも拘らず陸海軍の協力が行なわれず、ついに敗れた根本がそこにあると思う。ずいぶん残念なことだと思うんだ。政治家というものは、そういうところにも努力をしなければいけない。

 もう一つ、教育について思い起こすことは、亡くなった岡村(寧次)大将が支那から帰って間もない頃、ぼくのところへ来て言ったことに、第二次世界大戦で支那(*中国)に出征した日本人の暴状無頼なこと、実にこれが日本人かと。かつて日露戦争のときに出征した日本人の軍紀の正しかったこと、いわゆる軍紀粛然とするものがあったことは、あの「奉天三十年」も書いているくらいだからね。それと同じ日本人かと思われる、支那(*中国)大陸各地における暴状無頼さについて、彼(*岡村将軍)は嘆いておったね。

   <*裕鴻註記:岡村寧次陸軍大将、陸士16期、陸大25期、大正10年10月ドイツにて「バーデン・バーデンの密約」のメンバー(他は永田鉄山、小畑敏四郎、東條英機)、のち陸軍省人事局補任課長、以降主に中国大陸での部隊勤務。昭和16年4月、陸軍大将に進級し、北支那方面軍司令官着任時「滅共愛民(共産党は滅ぼし中国民衆を愛せよ)」の理念から、「四悪」絶対禁止(焼くな・犯すな・殺すな・奪うな)を訓示し、規律崩壊の兆候があった麾下帝國陸軍部隊の綱紀を粛正した。昭和19年11月、中国全土に総勢100万の兵力を有する支那派遣軍総司令官に就任、そのまま終戦を迎えたが、戦犯を裁く南京軍事法廷では無罪となり、蔣介石総統は最高顧問格として岡村大将を礼遇し、現地での終戦処理に従事、昭和24年1月に復員した。>

 安岡:日清戦争から団匪事件(義和団事件)ぐらいまでの日本の軍人というものは、向こうの人(*中国の民衆)も「天兵」と言ったものだ。それは非常に軍紀・軍律が厳しくて、そもそもの根本において、人間味豊かなしつけ(*躾)、教養があったんだね。それが日露戦争になると、もう少し落ちてきているね。

 矢次:しかし、それでもレーニンは「神兵来たる」と言っている。あれはロシア革命の最中だろう。彼はそのときは革命に成功しなかった。けれども、ロマノフ王朝を倒すために日本と協力した。何も明石(*元二郎)大佐(*のち大将、陸士旧6期、陸大5期、対露工作に従事)の謀略だけではなしに、レーニン自身がやはり日本軍と協力することによって、ロシア革命にこれを大いに利用した。だから彼は、「ロシア解放の神兵(*日本軍)来たる」という檄文を書いて配っている。近頃のマルクス主義者はこのことを知っておるのか知らんのか、知っておって黙っておるのかわからんが……。

 安岡:われわれのような年代(*明治31,32年生まれ)の人間には、有名な話だけれどもね。いまの奴はこんなことは知るまいな。

 矢次:知らんのだろうか。安岡:知るまい。・・・(**前掲書165~175頁)

 このように明治生まれのお二人は、昭和47年1月の新春対談で語り合っておられ、本シリーズ第(36)(40)(51)回でも見てきた明治以降の学校教育体制の問題が、ここでも真摯に指摘されています。まだまだ興味深いお話が続きますが、今回はここまでと致します。