前回は、中澤佑海軍少将の資料をご紹介しつつ、陸軍大学校と海軍大学校の教育を検分しましたが、それぞれの陸海軍最高学府を優秀な成績で卒業した人々が、それぞれの中央中枢の部・課で勤務する人事配置が行われたことも見てきました。特に帝國海軍では、軍政系統の海軍省勤務の人材と、軍令系統の軍令部勤務の人材に、大きく分けられていたことが禍根となったものと思われます。これは、ある程度の年齢になり職務経験を積んだ人材が、それぞれの専門分野に分かれてゆくことの系統的合理性を持つ反面、軍政的観点と軍令的観点の違いから、その情報や施策の取捨選択の志向性や、役職者としての判断視野と判断基準に、その色合いが反映することで、軍令畑では優秀とされた人物が、必ずしも軍政畑では適切な判断ができない場合があることを示唆しているのです。

 ここで前々回の(50)の末尾で取り上げた、伝記刊行会「井上成美」の<資料四の3>から、海上幕僚長を勤めた中山定義提督(海兵54期三席、海大36期)と、当時の海自幹部学校長、石塚榮提督(海兵63期)が、昭和45 (1970) 年10月20日に「最後の海軍大将」井上成美提督(海兵37期次席、海大22期)を訪問して、座談した記録の一部を読みたいと存じます。(*裕鴻註記)

・・・〔軍令部は血族結婚〕

 石塚:先ほどのお話で海軍の伝統は、言いたいことがどんどん言えて、どんな議論をふっかけてもよく聞いてくれた、というように感ずるんでございますが、いまのお話を承って、非常に大事な、国の命運に関するようなときに、そういう方々がどうして大将になったのか、というようなことがよくわからないんです。

 井上:そういうところはね、私にもよくわからない。だけれども軍令部というところは、力が強過ぎたんですね。だから(*海軍)大臣でも、軍令部さえ「うん」といえばいいんだ、というふうになったんじゃないかと思います。軍令部に椅子(*ポスト)を持っている人はみんな血族結婚みたいだ。頭がみんな硬化しちゃっている。私(*井上提督)はそういう批評をしておりました。人にいったことはないんですがね。なぜかというと、一ぺん軍令部にいくと、二度も三度も軍令部にいくんです。そして、ごく狭い範囲の年度の作戦計画かなんか、ちょっと手直しをすれば、それで済んで、そして艦政本部へいこうが、航空本部へいこうが、軍令部の要求だといって出すと、みんなは、はあっと頭を下げるんですね。いい気になっちゃう。だから結局、近親結婚の結果、みんな頭が硬化しちゃっているんです。(*軍令部畑でばかり繰り返し勤務することで、その考え方や兵術思想が凝り固まることの比喩)

 (*中略) 海軍省はそうはいかない。どんどん新しい問題が来るから、一日休んだらそれだけで非常に困る。軍令部がやっていることは(*平時は)演習ぐらいなものですね。

 中山:海上自衛隊になったときに、昔の海軍の人事がいいということでしたが、私はやはり井上さんと同じ結論を持ちました。昔の海軍の人事の一つの欠点は、統帥系統にいったものはずっと軍令部へばかりいって、軍務(*軍政)の苦労を知らない。自分だけがエリートで、作文してしまうと、それでもう、できたものと思っている。

 それで私が海上自衛隊のときの人事の方針として、なるべく同じ人を軍務(*軍政)にも軍令にもいろいろ回すようにしました。これは有事に備えての準備です。そして重大局面になったときに、その人その人の長所を発揮できるようなポストにつけて、ベストメンバーで事に当れる体制にもっていく。そういう内規を総務部長のときにつくったことがあるんです。

 井上:そのとおり。私の考えていた要求を、あんたは医者として診断してくれたようなものだ。・・・(前掲「井上成美」資―309頁)

 このように井上成美海軍大将は語っています。以前、本ブログ記事でも書きましたが、吉田善吾海軍大臣が過労で倒れたとき、吉田さんはもともと軍務局長など海軍省で軍政の要職を経験してきた方だったのですが、その後に二代続いた海軍大臣の及川古志郎大将と嶋田繁太郎大将は、まさに軍令部作戦畑育ちで、海軍省の職務経験はない方々だったのです。しかもそれを指名したのは、当時の伏見軍令部総長宮であり、伏見宮博恭王殿下ご自身もまた海軍中佐以降は、艦隊勤務と軍令部勤務のご経験が殆どであったご経歴なのです。そこで、戦前日本が、まさに対米英蘭開戦に向かってゆく、政治・外交上の重要な時期に、「海軍で唯一政治を行う海軍大臣」に就任したお二人が、軍政(政治的)経験のない人物となってしまったのです。本件については、次の二本の記事をご参照下さい。

→ 大東亜戦争と日本(96)伏見軍令部総長宮を巡る問題

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12687540090.html?frm=theme

大東亜戦争と日本(97)歴史の「偶有性」がもたらした海軍首脳人事

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12687787065.html?frm=theme

 本シリーズ第(47)回に登場した、稲田正純陸軍中将(陸士29期、陸大37期恩賜)は、次のように語っていました。

・・・原因は、すべてのことは人事に問題があったと思います。統帥も人事、戦争も人事です。人事をまちがえたら、いくらりっぱな作文をしたところで、どうにもならない。当時の陸・海軍や政府には、東京裁判でいわれたような共同謀議だとか、統一された国策だとかいうものはあるどころじゃなかった。むしろ、そんなものがあったなら、あのようなへまな戦争はやりません。支那(*日華)事変でも、国策がないものだから、ズルズルゆき、大東亜戦争にいってしまったのです。・・・(中村菊男法学博士著「昭和陸軍秘史」昭和43年番町書房刊、215~216頁)

 重要なポスト(適所) に、如何にして「ふさわしい人物(適材) 」を配置するか、そして、そのような人材を如何にして養成し、しかもちゃんと発掘できるか、それが「適材適所」を実現するためにも、そしてその結果として、その組織体がより良い方向に進むためにも、極めて肝要なのです。作戦畑のみならず、人事局長をも勤めた中澤佑海軍中将は、前回、次のように書き遺していました。

・・・海軍の人事は学校成績に偏重し、若干の例外を除き各学校恩賜組(優等生)を重要配置に用いた。これらのものはエリート意識が強く自己反省が足りなかった。明治維新以来の海軍の歴史を調べてみるとエリート組必ずしも海軍や国家に貢献しておらない。学校の成績に捉われず、エリート意識を持たず、自ら勉強努力させるようにし、人事当局、上級者は人材の発掘、登用に努力すべきである。わが海軍が物的軍備に重点を置き 人的軍備を軽視したことは遺憾である。・・・(中澤佑刊行会編「**海軍中将中澤佑 海軍作戦部長・人事局長回想録」昭和54年原書房刊、242頁)

   確かに学校で最優秀の卒業成績を修めた人物は、優秀ではあるのですが、その能力は、事務能力につながる可能性は大きいとしても、必ずしも真に重要な仕事を、大局的に正しい方向性を持って判断し、しかも組織の中で、他のセクションや他の省庁などとも折衝しながら、推進してゆくという、大きな意味での実務能力と、そのまま重なっているとは限らないのです。所謂「秀才バカ」ということもあり得ます。そして何よりも、組織体のトップないしはラインの要職者としては、「高い視点と、幅広い視野と、遠くまで見通す視程」が必要であり、その上に「適切な判断」を下せる「奥深い思考と教養」によるしっかりとした「良き価値基準」を身につけた人物が望ましいのです。こうした資質や能力を身につけた人材にして、はじめて「先見の明」を持つことができると考えられます。中澤佑提督は、この意味での人物として、前回挙げていたのが次の例でした。

・・・先見の明を養い、これが実現に努めることが肝要である。昭和十二年、山本五十六航空本部長は航空軍備の重要性を強調、同十五年小沢治三郎第一航空戦隊司令官は航空艦隊編成の急務を海軍大臣に具申した。昭和十六年一月、井上成美航空本部長は当面の軍備について適切なる意見具申(*新軍備計画論)をした。これらの先輩は、私利私欲に捉われず、読みが深く先見の明があった。・・・(**前掲書243頁)

 中澤佑提督は、戦時中の昭和17 (1942) 年12月10日から昭和18 (1943) 年6月15日まで、海軍省人事局長を勤めていました。そこで、前掲書**から、海軍の人事に関する回想を読んでみたいと存じます。(*裕鴻註記・補正)

・・・〔第四 海軍の人事取扱に対する反省〕

 一、海軍人事全般については海軍草創時代の如き、出身地閥、その他の派閥はなく、概ね公正、無私に行われたと認めらるるも、なお人情の常として「性格閥」ともいうべき性情(*気質・気立て)相類するものが枢要の地位を占めて、後世に指弾せらるべき事績を残したものが絶無とはいい難い。或は時勢に棹さすことに巧みなものが重用せられて、祖国を重大な危局に導いたものもある。

 二、人材の抜擢が充分とはいい難い。

 海兵(*海軍兵学校)卒業時の成績が終生の進級または配員を支配し、これがために海兵を中以下の席次にて卒業したものは遂に埋没して、終生、その能力を発揮し得ずして終ったものが多いと思う。

 右に反して上位卒業者は、不知不識の間に安易な気分となり、自ら積極的努力性を失い平凡無為な勤務となり、顕著なる功績を残したものが少ない。

 次に私(*中澤佑提督)の調査した一端を参考のために記述する。

 一例として海兵卒業席次と海軍大将との関係を見ると、海軍大将に親任せられたもの総計七七名、この内皇族及び非海兵卒業者(*海外留学等)一七名を除くと、海兵卒業の普通人、六〇名が大将になられたことになる。これを海兵卒業席次別にすると

 海兵首席卒業者 九名/海兵次席卒業者 七名/海兵三席卒業者 三名/海兵四席卒業者 一名/海兵五席卒業者 三名/合計 二三名

 即ち三分の一以上(*38%)を五席以上の成績で卒業したものが占めたことになる。この中には、

 斉藤 実 海兵六期 一七名中三番(*上位18%)/島村速雄 海兵七期 三〇名中首席(*上位 3%)/加藤友三郎 海兵七期 三〇名中次席(*上位 7%)/山下源太郎 海兵一〇期 二七名中四席(*上位15%)/井上成美 海兵三七期 一七九名中次席(*上位 1%)

   の如く顕著な功績を残されたものもあるが、爾余の(*これ以外の上位五席以内卒業の)大将には、特筆大書するような事績は寡聞にして私は存知しない。換言すれば平凡といわざるを得ない。然るに

 山本権兵衛 海兵二期 三八名中一五番(*上位39%)/上村彦之丞 海兵二期 三八名中三六番(*上位95%)/伊集院五郎 海兵五期 四四名中四四番(*上位100%)/八代六郎 海兵八期 三五名中一九番(*上位 54%)/有馬良橘 海兵一二期 一九名中一六番(*上位 84%)/鈴木貫太郎 海兵一四期 四四名中一三番(*上位 30%)/岡田啓介 海兵一五期 八〇名中七番(*上位  9%)/末次信正 海兵二七期 一一三名中五〇番(*上位 44%)/米内光政 海兵二九期 一二五名中六八番(*上位 54%)/山本五十六 海兵三二期 一九二名中一一番(*上位  6%)

   右(*上記)提督は海兵の成績抜群とはいい難いが、わが海軍史上、特記せらるべき事績を残されている。これは本人の天分と努力、それに具眼の上司を得て、両両相俟った結果であると認めるのである。

 私は人事行政に当っては、先入感に捉われず、人物の特長を捉えて、適材を適所に抜擢して、人材の活用、発掘に努むべきであったと思う。

 三、中央官庁の枢要配置に対し、軍政、軍令共に同一人物を反覆配員して、自ら軍政、軍令色を附けすぎたため、相互所掌事項の理解を欠くようにした傾向があったと思う。省部(*海軍省と軍令部)共に重要配置に就かしめる者に対しては、軍令、軍政に偏せず各種多様の配置に就かしめて、なるべく多くの体験をさせることが肝要であると思う。

 四、大東亜戦争中、第一線で苦戦を重ね戦死後功一級金鵄勲章を拝受せられた司令官は、

 山口多聞少将 第二航空戦隊司令官/有馬正文少将 第二十六航空戦隊司令官/岩淵三次少将 第三十一特別根拠地隊司令官/市丸利之助少将 第二十七航空戦隊司令官/大田実少将 沖縄(*方面)根拠地隊司令官

 右(*上記)五名の提督であるが山口少将、有馬少将の外は海大を出でず中央官庁の勤務もせられず、実戦部隊のみで苦労を重ねられた人々である。

   <裕鴻註記:その他、米国公刊戦史に「世界第一の猛闘」と記されたブナ玉砕の安田義達中将(横須賀鎮守府第五特別陸戦隊司令)、レイテ沖海戦のスリガオ海峡突入戦死の西村祥治中将(第二戦隊司令官)や、ビスマルク海海戦で重傷を負いつつも、復職後キスカ島撤退作戦を成功させ、末期の多号作戦・礼号作戦も成功させて、最前線で大活躍された木村昌福中将などは、いずれも海大出ではない名提督であったと思います。>

 私(*中澤佑提督)は戦時の配員は全員互に労苦を分ち、戦線に在るもの銃後に在るもの互に理解するよう人員の配分に深き考慮が必要であったと思う。私の知る範囲において、今次戦争中、開戦から終戦、または戦死するに至るまで、終始、第一線に在って日夜苦闘を続け遂に戦死された方が余りにも多く同情に堪えない。これに反し終始中央または内地にあって一度も第一線に配員せられず髀肉の嘆をかこっておったものもある。

 五、戦時要員の養成、確保に対する研究、施策の検討が不充分であった。

 1、海軍創設当時から明治三十七年(日露戦争開戦)まで/わが海軍の幹部は適切に補充せられて、日清、日露戦争においては赫々たる戦果を収めて戦争の目的を達成することができた。その主なる原因は上に英邁なる明治天皇を戴き、その下の政府、統帥、渾然一体となって戦争目的達成に挙国一致して邁進した結果であるが、直接には第一線にて戦う部隊が精鋭無比であったことは内外万人の認めるところである。特に物的軍備の不足を人的軍備で補足した結果と称しても過言ではないと思う。

 2、明治三十八年(日露戦争終結)から大正三年(第一次世界大戦勃発)まで/海兵採用員数は逐次減少して大正元年には一〇〇名となり大正三年即ち海兵四十五期まで三か年連続一〇〇名 大正四年に至り漸次増加するに至った。日露戦争により露国の極東進出は一時これを抑止することができたとはいえ、その国民性を考慮して深謀遠慮して決して安心してはならなかったのである。日露戦争後世界の五大国(*国際連盟常任理事国)の一に数えられ東洋平和維持の盟主たる日本の海軍でありながら幹部養成を縮減したことは人事行政上、過誤の第一歩であったと思う。

 3、大正四年(第一次世界大戦二年目)から大正十年(華府会議*開催)まで(*ワシントン海軍軍縮会議)/この間は列国海軍軍備競争時代で、わが海軍が逐年海兵採用員数を増加したことは、当然の処置であったと思う。然しながら大正六年に八・四艦隊案、大正七年に八・六艦隊案、大正九年に八・八艦隊案が成立し、昭和二年には、その完成を予定していた情勢下において、海兵採用員数は予期保有兵力に対比して著しく過少といわざるを得ない。加うるに第一次世界大戦以来、その威力を発揮した航空兵力の将来に対する判断が適正を欠いたことも、その一因と認められる。「軍備の中核は人的軍備に在り」との考え方が欠除しておったのである。

   <裕鴻註記:当時の帝國海軍では保有艦艇の数を基にして、所要乗組員数の計算見積もりにより、将兵の必要人数を割り出し、それを充足できる要員数から海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)の採用生徒数や、徴兵制による水兵の割り当て人数、志願制による新規水兵の採用数などを決めていました。その際原則的に、例えば海兵出身の海軍兵科将校は、全員が事件・事故などがなければ、海軍大佐までは昇進できるように考慮されて、要員数が設定されていました。海軍大佐は、艦長、司令、課長などの、基本的な所轄長のポストに見合う階級です。つまりはそのポスト数に見合う在籍人数に調整されていました。それは合理的ではありますが、軍拡や軍縮などで、その基幹となる艦艇数が変動すると、それに追随して要員数を増減することは容易ではなく、また逆の過不足をも生じさせることになります。帝國海軍では軍縮期に海兵などの採用員数を極端に減らしたため、後の太平洋戦争中には、中堅の柱となるべき海軍中佐級の要員が不足し、下のクラスから繰り上げて進級させたため、平時の進級所要勤務経験に満たない者がいわば「インフレ昇進」する形になってしまいました。然し、そのために生じた若手士官数の不足を、学徒動員を含む大量の旧制大学卒または大学生出身の予備士官で補い、結果的には、これが成功しました。反面で、彼らは戦争末期の特攻隊指揮官などにも多数が充当されたために、大きな悲劇をもたらした面もあります。

   因みに、日本の老舗大企業でも、昔は大学卒で入社した社員は、最低限でも定年まで在籍すれば副部長クラスには昇進できるように、組織の制度設計がなされていた会社が多かったものと思われます。少なくとも私がかつて所属した船会社はそうでした。これが、まさに終身雇用制を支える人事政策・雇用方針の柱石であったのです。また業績や四囲の社会・経済環境の変動に左右されずに幹部社員数を一定に保つため、即ち年代によって在籍社員数が波打ったり、各世代別に見たとき人員構成がピラミッド型や逆ピラミッド型になったりせず、いわば安定した垂直の柱状の定数を確保する、新入社員定数採用制を確立していました。直近の会計年度の業績が良くても悪くても、変わらず必ず一定数の新入社員を採用するという方針です。海運業界のように経済環境や世界情勢によって当該年度の業績が大きく変動するような業界では、そのような考え方をしないと、跛行的にある年代は同期が多過ぎたり、逆に少な過ぎたりすることを避けて、長期的に安定した人的資源を確保することができなかったのです。これはこれで、すこぶる合理的な採用方針でした。>

 4、大正十一年(華府条約成立)から昭和七年(満洲事変勃発の翌年)まで/『山梨勝之進先生遺芳録』による山梨大将の回想によれば、華府軍備制限条約(*ワシントン海軍軍縮条約)成立に伴う事後処理の中で海軍大臣が最も苦慮したことは人員整理特に士官の整理であったと述べられている。士官は一身を海軍に投じ終生ご奉公せんとするものであり、誰を残し誰を整理するかは極めて重大なことであることは勿論である。

 然しながら将来の人事行政の方針、計画なくして、単に予算上、或は軍備縮少の掛声に踊らされて必要以上に縮少されたのではないかと思うのである。伝聞するところによると、当時在校中の海兵生徒を縮減するとか、採用を一年間休止することも提唱されたという。八・八艦隊要員のため海兵五十期、五十一期、五十二期は三〇〇人を採用したが大正十一年採用の五十三期は五十名採用に決せられたのである。爾後昭和七年まで概ね一三〇名程度で昭和八年から漸増されるようになった。

 私(*中澤佑提督)は前述の如く華府条約による軍備縮少に当り、軍備上最も重要なる人的軍備を必要以上に縮減したのではないかと思う。この時機こそ法定定員制を採用して人員の確保に工夫すべきであったと考えるものである。大正十一年以来海兵生徒採用員数の縮少の欠陥は今次大戦において如実に暴露せられた。

 5、昭和八年から終戦(*昭和二十年)まで

 満洲事変以来、わが国は国際的に孤立化し、国際情勢は日に悪化の一途をたどる反面、国内情勢は、軍備制限条約により不利なる比率(*主力艦対米6割)におかれているので、軍備制限会議においては兵力の比率の均等(*parity)を要求し、もし、これが容認せられなければ華府条約破棄を通告すると共に軍備制限会議より脱退すべしとの議論が圧倒的に強かったため、わが海軍はこの方針にて時局に対処したのである。

 昭和九年の②(*マル2)補充計画(*軍備拡充)において私は物的軍備と共に人的軍備を重視して海兵生徒採用員数の増加を要求した。日清戦争当時は第一線艦艇 一、〇〇〇屯に対し兵科士官二九名、日露戦争当時は一九名であったが今や(*昭和9年当時は) 一〇名内外となっている。加うるに、日清、日露戦争当時は皆無であった航空兵力の出現により年々これが要員は急激に増加せんとしているので、海兵採用員数が二〇〇名程度では到底需要を充足すること不可能であるので四〇〇名程度に増加して欲しい旨、軍令部より海軍省に強く申し入れたのである。然るに、当時海軍省人事当局は頑として応ぜず要求の半分の二〇〇名程度に圧縮せられた。爾来私は一貫して毎年海軍省に対して、生徒採用員数の増加を要求してきたが、概ね半数か六、七割程度しか認められずして大東亜戦争に至ったのである。

 これを要するにわが海軍は少数精鋭主義と艦隊決戦により一挙に勝敗を決することを方針とし、且つ、個人の福祉を重視してきた結果、平時保有の物的軍備に相応する人員を確保する程度の人的軍備であったのである。従って日露戦争当時までの軍備としては適当であったが第一次世界大戦以後の総力戦、持久戦には対処し得なかったのである。即ちわが海軍の人事行政は時代・時勢に応ずる先見を欠いたのである。私は現在及び将来、日本が自衛力を整備するに当っては人的軍備を重視して再び過去の失敗を重ねることなきよう望む次第である。なお本件は海兵生徒採用人員について述べたが海機(*海軍機関学校)、海経(*海軍経理学校)、技術者(*技術科士官)採用員数についても同様である。

   〔第五 むすび〕

 以上の外、海軍考課表規則とその適用、海軍技術者の尊重と養成、海軍人材の開発、適材適所配員と人材の組合せ等についても所見を持つものであるが、これは他日に譲り、今までに記述したことを結論的に要約すれば

 一、わが海軍の人的軍備は、物的軍備に比し、消極的で保守的であった。従って大規模な総力戦には克く対応することは困難であった。人的軍備は物的軍備に比し、更に遠き将来を見透して実施しておかなくてはならない。戦争に関する研究が不充分であったことを痛感する。

 二、人材の養成は勿論大切であるが、また他面、人材を発掘し適所に配員することが大切である。

 三、学校の成績は、必ずしもその人の全能力を表すものではない。わが海軍は、余りにもこれ(*学校成績)に捉われた憾みなしとしない。

 四、個人の配員上、軍政、軍令等一系統に偏倚して他系統に配員せず、為めに相互理解の機会を与えず、時に省部(*海軍省・軍令部)融合上円滑を欠くことがあったことは遺憾である。スペシャリストは別としてジェネラリストたる重要職に配するものは、成るべく多くの体験を得させることが肝要であると思う。

 五、わが海軍は戦時要員の見透しが不充分であった。国家総力戦の見地からも、予備員の養成、更に国民に対する軍事普及に一層努力すべきであった。特に(*旧制)中学校以上の学校には現役軍人の教官を配員して青年層の中核たるものに海国日本の防衛、国策を普及徹底さすべきであった。

 六、これを要するにわが海軍は戦に敗れたりとはいえ、幾多先輩から残された立派な伝統を守り、一人の不平をいうものもなく、上下一致して最後まで奮戦力闘し、遂に国力足らずして敗れたので、悔ゆるところはない。

 今ここに改めて祖国の必勝を確信して戦場に散華せられた英霊に対し感謝のまことを捧げご冥福を祈ると共に生き残った私共は往時を回想し、英霊の残された戦訓を探求し、祖国将来の発展に資せんとするものである。・・・(**前掲書238頁)

 このように元海軍省人事局長の中澤佑提督は回想されています。海軍は艦艇や航空機など高度機械技術を駆使する任務の性質上、自然科学(理科系)を基礎としており、詳しくは次回に譲りますが、Max Weberのいう実質合理性と形式合理性からすれば、人事という人文科学(文科系)的な人間集団を扱うに際しても、学校成績(数値化可能)や配員の系統性など、形式合理的な観点で対処したものと思われます。然し本来、中身の人間性や人格、志向性などは形式合理性では捕捉しきれない実質合理性の対象であったことが、特に海軍要職者人事の「適材適所」問題をもたらしたのではなかろうか、と考えられるのです。(次回に続く)