本シリーズ第(47)回の稲田正純陸軍中将による証言にあった「大本営の設置が(*海軍首脳の反対で)できなかった」という発言内容は、稲田構想による総理・外相・蔵相・陸海軍大臣などの政府側要職者を正規構成メンバーとする「大本営」ができなかったという意味だと解釈されます。それは稲田氏の「私の構想では軍事独走ではなく、政治が軍事に容喙できるような組織をつくりたかった」という言葉からすれば、日露戦争時の大本営のような、政府と統帥部が一体化した大本営のイメージであり、かつ前回の第(48)回でもご紹介した、石原莞爾戦争指導課長の時代に、この稲田中佐も課員として参画したであろう「戦争指導機関」たる「御前会議」の構想であり、そのメンバーは「参謀総長、軍令部総長、内閣総理大臣、枢密院議長、特命に依る皇族、元帥等を以て、戦争指導に関する最高御諮詢府を作り、大元帥陛下の諮詢に応ず」というものであったと考えられます。因みに日露戦争当時の第一回大本営(明治37年2月13日)のメンバーは、参謀総長(大山巌)、海軍軍令部長(伊東祐亨)、内閣総理大臣(桂太郎)、外務大臣(小村寿太郎)、枢密院議長(伊藤博文)、(陸軍)元帥(山縣有朋)、陸軍大臣(寺内正毅)、海軍大臣(山本権兵衛)でした。まさに統帥部・政府・元老の一体型構成になっていました。つまりは明治維新を一緒にやった元勲・元老が主導したものであり、全員幕末武士の出身であって、文武両道の国家的指導者の集まりであったわけです。

   ところが、その後明治憲法の解釈・運用などもあって「統帥権独立」が強調され、昭和期の大本営は、統帥部のみで政府は含まれないという原則のもと、メンバーは参謀総長と軍令部総長、各々の次長、各々の作戦部長と作戦課長で構成され、陸海軍大臣でさえも、列席はできるが発言権はないとされました。つまり純粋な統帥部のみの構成です。当然、総理大臣も外務大臣も大蔵大臣も出席できません。

   石原莞爾・稲田正純の戦争指導課路線では、上記の通り、「政治と軍事に跨る最高戦争指導機関」が必要との考えだったわけです。しかしこれには、当時の陸軍首脳(梅津美治郎陸軍次官)は、恐らく「統帥権独立」の観点から反対したものと思われます。また海軍首脳(米内光政海相・山本五十六海軍次官)は、異なる観点で反対したと考えられます。それは、こうした「戦争指導機関」ができることにより、稲田将軍が言う「政治が軍事に容喙できる組織」ということにはならず、「軍事が政治に容喙できる組織」となることへの懸念と危惧であったと思われます。なぜなら、この「戦争指導機関」においても、「統帥権の独立不羈」により、統帥部(参謀本部と軍令部)は軍事に関する起案や決定ができますが、反対に政府(首相・外相・蔵相など)は軍事に関する容喙は許されないのですから、結局は、軍事に関係する外交も戦争も内政も、全てをコントロールするのは統帥部であることになってしまいます。

   すなわち「国策」という国家レベルの決定事項となれば、純粋な軍事・統帥案件ということはあり得ず、国の平和・戦争を扱う以上は、必ず外交や財政、内政も含めた政治全般と関係するわけです。にもかかわらず、統帥部は軍事案件ということで「国策」を主導できる反面、政府(内閣)は、軍事に関わる統帥案件には口出しできないとすれば、論理構造的に、統帥部が国策を左右することとなってしまうのです。つまり統帥(軍事)が政府(政治)を主導する軍国主義(軍事政権)体制となるということです。

   そして、一体誰が「国策」の主導権を握るのか、と言えば、まず統帥部の事務局として、最初に「国策案の起案」をするのは、陸軍省軍務局と参謀本部作戦部の担当部課の担当者ということになります。その起案を、カウンターパートである海軍省軍務局と軍令部作戦部の担当部課に諮って調整したものを、大本営・統帥部(参謀本部と軍令部)の方針として、政府(内閣)との「連絡会議」に上程するわけですから、この「大本営政府連絡会議」の運営や方針そのものの方向性を決める元締めは、帝國陸軍の中央中枢部門であるということになるのです。実際に、このあと対米英蘭戦争開戦に至るまでの「国策」は、この国家意志決定システムが機能して決定されてゆくのです。ですから、この「戦争指導機関」たる大本営の設置に、米内光政海相と山本五十六海軍次官は、反対したというわけです。しかし結局、日華事変下での大本営自体は、昭和12年11月18日付で、近衛文麿首相の提案により設置され、同時に「大本営政府連絡会議」が設置されました。大本営(統帥部)と政府(内閣)の連絡と意思疎通を図る目的でしたが、上記の通り、「統帥権の独立」の壁に阻まれ、首相といえども、軍事面(統帥事項)への政治指導や容喙などは全くできない構造のままでした。これを近衛首相はかなり不満に思っていたようです。一応議長は内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣と企画院総裁、統帥部からは参謀総長・軍令部総長(場合により各々次長も)がメンバーでした。また内閣書記官長と陸軍省・海軍省の軍務局長が幹事(事務局)として出席しました。この連絡会議に天皇陛下のご臨席を仰げば、それが「御前会議」となって、結局、国務(政治)・統帥(軍事)に跨る国家としての政策(つまり国策)を策定してゆく場になってゆきます。

 この「御前会議(大本営政府連絡会議に陛下のご臨席を仰いだもの)」は、対米英蘭開戦の決定に至るまでに、次のように計8回開催されています。

第一回 支那事変処理根本方針

→「爾後蔣介石を対手とせず」

(昭和13年1月11日、第1次近衛内閣)

第二回 日支新関係調整方針

 →「近衛三原則(東亜新秩序建設)」

(昭和13年11月30日、第1次近衛内閣)

第三回 日独伊三国同盟条約(締結決定)

(昭和15年9月19日、第2次近衛内閣)

第四回 支那事変処理要綱に関する件他

 →「汪兆銘政権樹立と蔣介石政権対策」

(昭和15年11月13日、第2次近衛内閣)

第五回 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱

(昭和16年7月2日、第2次近衛内閣)

→「南部仏印進駐と関東軍特種演習(動員)」

第六回 帝国国策遂行要領

(昭和16年9月6日、第3次近衛内閣)

 →「対米交渉期限決定(「よもの海」の御製詠唱)」

第七回 対米交渉要領(甲・乙案)、帝国国策遂行要領

(昭和16年11月5日、東條内閣)

 →「対米交渉の最終案と開戦方針決定」

第八回 対英米蘭開戦の件(開戦決定)

(昭和16年12月1日、東條内閣)

 この過程を検分すると、一つ一つ確実に対米英蘭戦争に向けて舵を切った航跡が浮かび上がってきます。それは結果的なことで、その各時点では、それぞれ異なった思惑や志向があったとは思いますが、それでも確実に「反米英・親独伊」の方角に向かっていった方向性・志向性が見てとれるのです。

 さて、ここからは、前回末尾の稲田証言を引き続き、慶應義塾大学法学部政治学科名誉教授の故・中村菊男法学博士の遺著「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)のⅨ章「日華事変と参謀本部の雰囲気」から、読んでみます。(*裕鴻註記、日付表記など補正)

・・・(*前回の続き。稲田:) (*多田駿参謀次長の辞任問題の)ごたごたも一応落着いたので、私は(*昭和12年~13年の)年末年始の政治休み期間を利用して、南京攻略後の兵力整理の可能性検討のため、中支(*中国中部)に出張しました。

 中村:一月十六日(昭和十三年)の第一次近衛声明 (*「爾後国民政府を対手にせず」) は、どこで最初の起案がなされたのですか。

 稲田:(*陸軍省軍務局)軍務課です。もちろん、外務省や海軍とも相談したでしょうが、中心になったのは佐藤賢了で、その交渉相手は戦争指導課の堀場一雄少佐でした。堀場はソ連帰りの理論家で、参謀本部の立役者でした。近衛三原則も、もとはといえば、この堀場が始まりなのです。ところが私が支那に旅行して留守の間に、佐藤と堀場のふたりがけんかしてしまいまして、「稲田さんがいないので、佐藤賢了のクソ坊主にだまされた」と言っていました。

  〔*佐藤賢了、陸士29期、陸大37期、米国駐在(*但し米国嫌いの反米英派)、当時陸軍中佐・軍務局軍務課国内班長、のち軍務局長・陸軍中将/堀場一雄、陸士34期、陸大42期恩賜、欧州視察後ソ連駐在、当時陸軍少佐・参謀本部戦争指導課勤務、のち総力戦研究所教官など・陸軍大佐)

   しかし、あの声明で、とにかく蔣介石を相手にせずといってもね、現に戦争をしており、その敵の大将を相手にせずじゃ困るのです。意味のない言葉なのですよ。また一方、そのころ北支の方では王克敏(*政治家)を中心に政権をつくろうとしていた。これは北支だけでつくったようなものですが、実際は東京の(*陸軍)中央がやらせたのです。とにかく現地は、そういうものをつくって、自分の思うようなことをしようとする。極端なことを言いますと、長勇*のように、漢民族を一つにしていたら物騒だから、分割して統治するといった“支那分割論”まであって、支那を日本の号令一つで動くようにするといった、いい気な者も大ぜいいたのです。

 〔*長勇、陸士28期、陸大40期、十月事件の主謀者の一人、当時上海派遣軍参謀として南京事件の首謀者・陸軍中佐、のち沖縄守備の第32軍参謀長として自決、陸軍中将。尚、長勇将軍については、次の記事をご参照下さい。→ なぜ日本はアメリカと戦争したのか(23) 長勇将軍と「南京事件」について: https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12388120264.html

 ですから、支那(*日華)事変は早期にやめようという当時の参謀本部首脳(*参謀次長)の意向には、賛成するものがいなかった。新聞にしても、世論でも“暴支膺懲”といって、やめろという声はなく、海軍でもそうでした。ここまできて参謀本部はなにをいうのか、という気持ちだったのですね。もっとも海軍の上層部は違っていましたが、それでも南支那に勢力を拡張するというのなら双手をあげて賛成なのです。

・・・(**前掲書226~227頁)

 因みに、帝國海軍が硬化したのは、海軍の担任守備範囲である上海において、中国軍側による大山勇夫海軍中尉(没後大尉)と斎藤與藏一等水兵(没後三等兵曹)の惨殺事件や、上海在泊中の旗艦出雲への中国軍機による空爆と地上軍の大規模総攻撃などがあり、所在の海軍陸戦隊戦力ではとても防戦はできない状況にあったことが主な理由です。これについては、次の記事をご参照下さい。

→ 大東亜戦争と日本(40)日華事変を起こした犯人は誰か:https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663082124.html

   特に第二次上海事変以降、対中国戦を激化させた理由には、米内海相以下海軍側の硬化が挙げられますが、これは、長期間の「冬眠(スリーパー)」から目ざめた中国共産党のスパイで、第二次上海事変勃発当時、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった張治中(*チャンチーチョン)という名の国民政府軍の将軍が、蔣介石総司令官の指示に反して、戦火を拡大したことが原因だと考えられます。全身に30発もの銃弾を撃ち込まれた上に、死後の遺体を切り刻み顔面を潰すなどの損傷まである凄惨、残酷な方法で、大山中尉と斎藤一水が惨殺されたのも、その謀略の一貫であったと見られます。大山勇夫海軍中尉(海兵60期)は、当時上海海軍特別陸戦隊中隊長でしたが、そもそも海軍兵学校60期の同期生が127名しかいないことからもわかるように、全国から選りすぐりの秀才にして体力にも優れた海軍将校を、当時の帝國海軍は当然とても大切にしていました。米内海相にせよ、自分の兵学校の若き後輩が、このような残虐非道な方法で惨殺され、しかも遺体にまで暴虐なる損壊を加えたという過激なテロ事件に対しは、激しい怒りと断固たる決意をもって、当該中国軍部隊に厳しく臨もうとしたのは、当時の時代ではある意味で当然の反応であったわけです。しかも張治中司令官は、蔣介石総司令官の指令に反し、ますます戦火を拡大する激しい大規模な総攻撃を行いました。中国軍は大部隊(精鋭部隊八万を含む三十万の兵力)をもって、少数(約四千名)しかいない上海海軍特別陸戦隊に猛攻を加え、かつ列国の注視するなか、所在帝國海軍の象徴である第三艦隊旗艦出雲や上海共同租界市街地にまで空爆を加えるという暴挙に出たわけですから、断固たる反撃により、速やかに国際都市上海の治安を平常に復する必要が、帝國海軍としてはあったのです。戦後は、どんなことも一方的に当時の日本軍の責任にされてしまいますが、それぞれの軍事衝突事件においては、一方的な原因で起こることは稀であって、少なくともこの第二次上海事変の引き金を引いたのは張治中司令官が率いる中国軍の仕業であったことは間違いないのです。

   さて、更に稲田正純陸軍中将の証言の続きを**前掲書で見てみましょう。

・・・〔大きい風見章の責任〕〔*風見章:立憲民政党の政治家、当時第一次近衛内閣の内閣書記官長(現在の内閣官房長官に相当)、のち第二次近衛内閣の司法大臣。当時、日華事変拡大を予算面で支援した。ゾルゲ事件の尾崎秀実と親友であり、戦後は左派社会党に属した。〕

   中村:(*昭和)十三年の十一月三日に第二次近衛声明が出ました…。

 <第二次近衛声明:昭和13年 (1938年) 11月、国民政府の汪兆銘派に呼びかけた声明。この年の1月に出された「爾後国民政府を対手にせず」との第一次声明を修正したもので「我希求するは東亜新秩序の建設にあり国民政府と雖ども参加を拒否せず」とした。これをもって汪(*兆銘)の引出し工作を進め、日華の国交調整を企てた。>

   稲田:(*近衛)三原則が、汪兆銘の注文で四原則になりました。文化・交通の一項を入れたのです。汪(*兆銘)の注文は「文化溝通」ではなかったかと思いますが、堀場(*一雄陸軍大佐)の著書(*「支那事変戦争指導史」時事通信社1962年刊)くらいにのっていませんかしら。が、とにかく蔣介石を相手にせずという声明以後は、東京での支那(*日華)事変に関する仕事は事実上ストップしてしまったのです。参謀本部と陸軍省とが、互いにものを言わなくなったのです。

 <汪兆銘:1885~1944年、日本の法政大学に学ぶ。日本留学中孫文の門下となり、革命運動に挺身し、国民政府において蔣介石とならぶ実力者となった。党内では蔣(*介石)と抗争し、国際問題については日本に近く、不拡大、和議を主張した。国民党副総裁の要職にありながら1938 (昭和13) 年、日本の呼びかけで重慶を脱出し、南京に国民政府(*汪兆銘政権)を樹立、日本との提携を図ったが、1944 (昭和19) 年、名古屋で病没した。>

   それから(*昭和13年)十二月(*10月)の暮に海軍と陸軍が協同してバイヤス湾(*Bias Bay)の上陸作戦をやるつもりで輸送船団は澎湖島に集結し、いざとなった時、海軍がいやだと言いはじめておじゃんになった*。

〔*これは稲田将軍の記憶違いで、この時のバイアス湾上陸作戦は当時の第五艦隊(塩沢幸一司令長官指揮)の支援で成功しています。恐らく昭和15年9月の北部仏印進駐の際、平和進駐の交渉で仏印側の同意を得ていた西原一策陸軍少将を無視して、現地出張中の参謀本部作戦部長の冨永恭次少将と現地陸軍部隊たる南支那方面軍参謀長の佐藤賢了少将が共謀して武力進駐を強行したため、海路からの上陸平和進駐を支援していた第二艦隊は、陸軍側に抗議して引き返しました。この時、正式な陸海軍の交渉全権であった西原一策陸軍少将は、陸海軍次官と参謀本部・軍令部の両次長に宛てて「統帥乱レテ信ヲ中外ニに失フ」という電文を発信しました。海軍側の情況と措置については、当時現地でその衝に当たっていた第二遣支艦隊作戦参謀であった大井篤海軍中佐(のち大佐)が、戦後著述した「統帥乱れて 北部仏印進駐事件の回想」(毎日新聞社1984年刊)に詳述されています。この事件は、当時の東條英機陸相自らが冨永作戦部長らを更迭した、明らかに「統帥権越権の事件」だったのです。〕

 (*稲田証言の続き:) このため、以後、軍令部と参謀本部の作戦当事者がお互いにものを言わなくなってしまう。近衛は、軍がやらぬから何もできぬと言う。全部が行きづまりです。

   これではいけないというので、打開のためやったのが積極作戦です。ですから支那で戦線を進めたというのは手段であって、つまり作戦が表で、和平工作は裏であったといえるのです。実際は、これが逆にならなければならないのですが、和平工作を断固としてやる力が近衛さん以下、みんなになかったわけですね。

   中村:南京陥落(昭和12年12月12日)後、国民政府は漢口に移りましたが、その段階でも和平工作は続けられたのですか。

   稲田:和平工作は、ずっと切れたことはありません。杉山(*元、陸相)は主戦論だとか、梅津(*美治郎、陸軍次官)は主戦論だとかいわれますが、これは違います。駐支ドイツ大使トラウトマンが和平の斡旋に乗り出したときも、われわれ(*中堅幕僚)に内緒で和平の条件を出したのは杉山さんですよ。軍務局長までしか知らされていなかった。ところが、その和平の条件を海軍が暗号電報を解読して知ったのです。すぐに軍令部から堀場(*一雄)のところに「また内緒で支那とやっているだろう」とどなり込んできたものだから、堀場も驚いて私のところにやってきました。私も知らない。それで軍務課に行くと高級課員(*課長補佐)も佐藤賢了も知らない。みんなで軍務局長の町尻(*量基)さんのところに押しかけて行った。「なんとか事変をやめようとしてわれわれは苦労しているのに、内緒でやられたのでは仕事ができない」と言うと、局長は、「知らない、(*杉山陸軍)大臣も知らなかった」と言って、どうしてもほんとうのことを言ってくれませんでした。

   和平の問題となると、いろいろ口出しをするものが多いのは事実です。たくさんの利権屋が出てくる。海軍が文句をつけてくる。参謀本部の他の課が注文つける。そのなかで一番いやなものは賠償金でした。梅津(*陸軍次官)さんも、賠償金をとれと主張しました。といっても主戦論者じゃなく、梅津さんも(*日華事変を)早くやめたいと考えていたのです。ただ梅津さんは、なんといっても事務官(*タイプ)ですから、これだけの戦争をしてきたのじゃないか、ことに在支居留の日本人はひどい目にあっている、賠償をとらなければ、あとの処理がとれないというわけです。また、陸軍省のなかには軍備の拡張をするには支那(*日華)事変でもやらねばできない、という考えを持っているものもいたのです。このような状態ですから、賠償金をとることに反対するものは、ほんとうに少数でした。支那(*日華)事変は、みんなやめたかった。しかし、やめるに際しては事変を利用しようとしたところがあったといえるでしょう。

   (*昭和)十三年の暮ですが、ちょうど漢口作戦が終わったあと、私と堀場(*一雄)とで「支那事変処理要綱」をつくりました。最初ふたりでつくったものは、もっと話のわかるもので、蔣介石が見たら納得するようなものだったのですが、あちこちから注文をつけられて変わってきた。たとえば海軍は、揚子江の航行権をみんな取ってしまえというのです。それからアモイは絶対手離したらいかんというのです。思いとどめようとしても聞き入れません。さらに海南島を取ってくれという注文をつけてくるのです。これでは、支那は独立国ではありませんよ。属国扱いにしているのです。このような無茶な条件を付しながら、それじゃ事変を続けたいのかといえば、けっしてそうじゃないのです。

   中村:結論的に言いますと、事変が長びいてしまった根本の原因は、政治力があまりに微弱であったということでしょうか。

   稲田:政治力が微弱であったし、国策がなかった。力が分散していたということでしょう。

   中村:いまから判断しますと、たしかにそういえるのですが、当時においては軍が強硬に主張するので、政治がそこまで口出しできなかったという点もあったのではありませんか。

   稲田:そんなことはありません。まちがいないですよ。だれもやらないものだから軍が引きずるかたちになった。しかも「蔣介石を対手にせず」の声明から、私が作戦課長になるまでの間は戦争指導がゼロの状態でした。「蔣介石を対手にせず」がこたえているのですね。近衛さんは、利口ですから後悔していたにちがいありません。それというのも書記官長の風見章などがいけないのですが、要は近衛さんがしっかりしていないからです。・・・(**前掲書227~230頁)

   確かに政治家、特に近衛首相の優柔不断な「決断しない政治」に見えるスタイルは、いろいろと問題があったものと思われます。さはさりながら、やはり昭和に入ってから頻発していた首相など要人の暗殺事件や、五・一五事件、二・二六事件、そして未遂に終わったものの三月事件や十月事件といった陸軍のクーデター計画などで、軍部(特に陸軍)に対する不信感や恐怖感が、一般には漂っていたことも忘れることはできません。実際に、何かと言えば、また第二の二・二六事件が起こらんとも限りませんよ、という陸軍の脅し文句が横行していたのです。ですから「泣く子も黙る帝國陸軍」と恐れられていたことから、近衛首相を特段擁護する訳ではありませんが、他の政党政治家や重臣、他の省庁の官僚も、皆こうした陸軍将校による暴力的活動には脅威を感じていたのです。そもそも陸軍将校は通常でも軍刀を帯び、拳銃も携帯できたわけですから、常に殺傷能力を伴っていたわけです。海軍将校も短剣は帯びていましたが、それは殺傷や戦闘用というよりは、衣服に準じた装備品に過ぎず、とてもそれで戦えるようなものではありませんでした。

   近衛さんも、そして海軍も、実は常に陸軍によるクーデター(内乱)を警戒していたのです。永野修身軍令部総長(開戦時、海兵28期、海大8期)が、戦後A級戦犯として収監されていた巣鴨刑務所に、面会に行った富岡定俊海軍少将(開戦時軍令部作戦課長、終戦時作戦部長)に語った言葉があるのです。永野元帥はその後獄中で肺炎を起こし病没しました。よく陸軍関係者は、海軍からはA級戦犯の死刑が一人も出ていないと批難していますが、もし永野元帥が判決時までご存命であれば、開戦時の海軍統帥部最高責任者として、死刑に処せられていた可能性はあるのです。同じく獄中で判決前に病没した松岡洋右元外相も同様です。もとより東京裁判の判決は、あくまで戦争の勝者たる連合国軍が行なった、政治的な色彩を持つ軍事裁判によるものであり、戦後の日本国民による歴史的審判とは、全く異なる意味合いであることには留意が必要です。

   中村菊男先生の「昭和陸軍秘史**」の姉妹書に「昭和海軍秘史***」(昭和44年番町書房刊)があるのですが、その一節に掲載されている、この時巣鴨で富岡少将が聴いた永野元帥の言葉をご紹介したいと思います。

・・・〔クーデターのおそれ〕

 中村:それから国民の側をふりかえってみると、アメリカをたたけという国民の戦意についてですが、マスコミにあおられた点も大きかったと思います。そういう外部のムードによって、陸海軍が戦争に追い込まれた、ということはありませんか。

 富岡:軍令部にいて、その点は感じませんでした。ただ陛下が、終戦のご決定と同じように、統帥によって戦争をやめよ、といわれれば、おさまっていたかもしれません。しかし、そのかわりに当時の状況から判断するとクーデターが起こっていたでしょう。陛下は擁するけれども、軍権(*軍事政権)ができることになりはしないか、海軍はもともと根が深くないから海軍からクーデターは起こりえません。私は(*戦後の第二復員省大臣官房史実調査部長として)歴史を調べているので、開戦のときの軍令部総長である永野修身大将のところへいってきました。

 「あなたはなぜ開戦に同意されましたか、歴史にのこすことだから率直におきかせください」

 永野総長の返事はこうでした。一年前の、(*日独伊)三国同盟ぐらいのときに舵を取る(*方針変更する)なら別だが、ここまできて、満洲から手を引けというアメリカの条件(ハル・ノートを指す)を入れるとしたら、クーデターが起こるだろう。クーデターを起こすのはだいたい陸軍だろう、そうなると陸海軍が相打つことになる。海軍は二つ(*避戦派と主戦派)に別れるかもしれないが、とにかくまた(*対米英)戦争になる。この戦争は支離滅裂なものだ。どうしても戦争をさけられないとすれば、大義名分にそった戦争を正々とやって収拾を考えた方がよい、と自分(*永野総長)は考えたのだ、といわれました。私(*富岡少将)も、まったく同感でした。

 中村:私も当時学生(*慶應義塾大学法学部政治学科)でしたが、そういうように感じました。これで戦争が起こらなかったら内乱がおきるということが、冷静にみている若い者に感じられました。戦争はやってもらいたくないということと同時に、内乱の可能性ということを。

 富岡:内乱をもって終わるのなら別ですが、内乱をもってまた戦争がはじまるというのは、一番悪いかたちだ、と永野総長のいわれたことは、まったくの同意でした。(*後略)・・・(「昭和海軍秘史***」92~93頁)

   開戦当時、軍令部第一部第一課長(作戦部作戦課長)であった、富岡定俊海軍大佐(海兵45期、海大27期首席、のち終戦時作戦部長、海軍少将、男爵)は、秀才の誉れ高く、海軍大学校は入校時、卒業時ともに首席でした。海軍中央中枢の作戦課長にふさわしいと、考えられていた人材のお一人であったことは相違ありません。この優秀な頭脳をもってしても、陸軍のクーデターの可能性・危険性から、海軍が対米英蘭開戦に向かっていった軌跡を、読み取ることができるのです。次回引き続き、更に検討・分析を進めたいと存じます。