元々は平安時代の「和魂漢才」なる言葉が、明治以降に「和魂洋才」へと転化したのですが、その「和魂」たる大和魂は、今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部の源氏物語にも出てくる言葉だと言います。戦時中、大和魂は戦意高揚のために利用された面が強く、その本来の意味の一側面のみが取り上げられて強調された感がありますが、元来はそれこそ万葉集の防人(さきもり)の時代から、鎌倉時代の元寇、幕末維新期の尊王攘夷など、日本を護ろうとする心は連綿と続いてきたものです。

 しかし和魂とは、単にそうした国防・軍事の事柄のみならず、もっと広い意味での「日本の心」としてのあり方やスタイルを意味していたと考えられます。ちなみに、広辞苑で「和魂漢才」と「和魂洋才」を引くと次のように説明されています。(*裕鴻註記・補足)

 「和魂漢才」:日本固有の精神と中国の学問。また、この両者を融合すること。日本固有の精神を以て中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう。

 「和魂洋才」:(明治以降、「和魂漢才」をもじってできた語) 日本固有の精神と西洋の学問。日本固有の精神を以て西洋の学問・知識を学び取ること。

 更に「和魂」とは「日本固有の精神、やまとだましい」と説明されています。そこで次に「やまとだましい【大和魂】」を引いてみます。

   「大和魂」:①漢才(かんざい)・(からざえ) すなわち学問(漢学)上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂(わこん)。源氏物語(少女)「才を本としてこそ、(*大和魂)の世に用ひらるる方も」②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。椿説弓張月(後編)「事に迫りて死を軽んずるは、(*大和魂)なれど多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるの悞(あやまち)なり」

 

 このように、二つの意味があり、①は現実的・実際的・実務的・実用的な観点で、外来の知識や技芸を日本の国情に応用して活用する精神であり、ある意味ではアメリカで盛んなプラグマティズム(pragmatism)に通じるものです。ついでにこの言葉の広辞苑による解説を引いてみますと、哲学用語として、

   「(事象の意のギリシア語*πράγμα :pragmaから)事象に即して具体的に考える立場。観念の意味と真理性は、それを行動に移した結果の有効性のいかんによって明らかにされるとする。主としてアメリカで唱えられ、パース・ジェームズ・デューイがその代表者。実用主義。」となっています。因みに末尾に出てくる三者は、チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce、1839-1914)、ウィリアム・ジェームズ(William James、1842-1910)、ジョン・デューイ(John Dewey、1859-1952)です。いずれもアメリカで新しい哲学的かつ科学的知見を切り拓いた人物です。シカゴ大学を中心に「シカゴ学派(Chicago school)」が生まれ、戦後「行動科学(behavioral science)」や、「問題解決型アプローチ(problem solving approach)」などにつながる考え方をもたらしたのも、このプラグマティズムです。ドイツ流の観念論哲学よりは、イギリスの経験主義(empiricism)を母体にして、アメリカで開花・発展したものと言えるのです。

 そもそも近代科学は経験主義です。観測や実験をして物理的な事実を確かめ、理論を検証しつつ進んでゆくわけですから、現実的かつ実用的なものに価値を置く方法態度は、科学的態度であり、かつプラグマティックな姿勢であるのです。

 この意味では、上記の大和魂の①の意味は、かなりプラグマティックな知恵や才能であるとも言えましょう。それが明治維新以降急速に西洋文明を取り入れ、近代化を果たしたこととも無関係ではないと考えられるのです。日本古来のものでなく、西洋からきた機械類や兵器類、そして科学的知識や科学技術なども、とにかく実用的に役に立ち、効果があるものならば、どしどし取り入れる、という実用的精神や実践能力に長けていたのは、この大和魂の①の側面があったからこそだと考えられます。

 同時に大和魂の②の意味からは、勇猛で潔いという精神が、旧来のものに固執しない積極果敢な進取の精神や、不撓不屈で困難に挑戦する精神につながっていることも見逃せません。前回の景岳先生の書にもあった通り、武士の「負けじ魂」がこれらを裏打ちしているのです。「なんとしても、なんとかして、やってやろうじゃないか」という、諦めずに挑戦し続ける根性が、こうしたチャレンジ精神を支えているわけです。もちろん精神論だけでは成り立たないにしても、こういう精神のもと、これを実用的に実践する知恵や才能を働かせるならば、目標を実現することに繋がってゆくのです。この意味で、大和魂の①と②の意味は、しっかりと連関していると捉えることができます。むしろこの両輪が揃ってこそ、実際的効果が生まれるのです。

 これを裏返せば、理屈ばかり捏ねていても実践はできず、考えもなしに暴走するだけでは結果・効果は得られないのであり、やはりよく考えて実行する、理論と実践の両方の能力が必要とされることを、古来日本人は重んじてきたと言えるでしょう。それがこの大和魂の真の意味であるのです。

 この文脈(context)において、文武両道が必要となるのです。文だけでも不充分、武だけでも不十分、文武の両道が揃って、はじめて結果・効果を得ることができる。それは軍事においても同様であり、政略があって軍略・戦略が立てられるのであって、政治と軍事の適切な相互補完関係(政軍関係)があってこそ、一国の防衛は成し遂げられるのです。そのことを充分にわかった上で、幕末維新期の志士たちは、政治と軍事の大改革の必要性を痛感し、明治維新を成し遂げたと見ることができます。新しい帝國陸海軍の軍備や実用訓練は、新しい帝國政府の樹立があってこそ成立しうるものだったのです。

 士魂つまりは武士の魂は、まさにこの大和魂であり、潔く古来・旧来のものの不充分な点を認め、積極的かつ勇猛果敢に、漢才にせよ洋才にせよ外来の知識や技術を、実用に供するものとして学習・受容・吸収し、わが国の国情において現実に使えるものとするための変換・改良・応用を行い、かつそれを実際に用いて実践躬行する精神であったと言えます。それが明治維新以降の、文明開花と殖産興業や富国強兵を成し遂げた和魂洋才の精神でした。さもなければ、つい先日まで、二百年の鎖国体制下で江戸時代の文物や槍・弓・刀・火縄銃とせいぜい旧式の大砲しか備えていなかった日本が、西洋から最新式の銃器・大砲や軍艦を輸入し、その運用や戦術を学んで吸収し、日清戦争と日露戦争で、当時の大国であった清国やロシア帝国の軍隊を陸に海に打ち負かし、しかも第一次大戦後は、世界の五大国にまで数えられるに至ったことを、説明することはできないのです。その間、こうした政府・陸海軍の指導者層を支えた精神的基盤は、この武士の魂である大和魂が連綿として受け継がれていたからこそ、成し遂げられたことだったのです。

 ここで改めて、武士道とは如何なるものであったのか、まずは日本人にして国際連盟事務次長をも務めた、新渡戸稲造博士(文久2(1862)年-昭和8(1933)年)の手になる”Bushido: The Soul of Japan”(明治32(1899)年米国フィラデルフィアにて初刊)の内容を検分してみましょう。ここでは、I B Cパブリッシング社2008年版の[対訳ニッポン双書]新渡戸稲造著『武士道**』(樋口謙一郎・国分舞訳)の和訳部分を用います。まずは同書の序文(Preface to the First Edition)の冒頭を少し読みます。

・・・10年ほど前(*明治22年頃)、ベルギーの著名な法学者であった故ラヴレ氏の家に招かれ、数日を過ごしていたときのことである。散歩していると、宗教の話題になった。その高名な教授は「つまり、日本の学校では宗教教育を行っていないということですか?」と尋ねてきた。私(*新渡戸博士)が、行っていないと返事をすると、ラヴレ氏は驚きのあまり突然立ち止まり、容易には忘れがたい声で、「宗教がない! それでは、どのようにして道徳教育を授けるのですか?」(原文:“No religion! How do you impart moral education?”) と繰り返した。そのとき、その問いに私は愕然とした。私は即答できなかった。私が幼児期に学んだ道徳の教えは学校で授けられたものではなかったからである。そこで、自らの善悪の観念を形成しているさまざまな要素を分析してみてようやく、そのような観念を私に吹き込んだのは武士道であることに気がついた。(*後略)・・・ (**前掲書18頁)

 盛岡藩士の三男に生まれた新渡戸博士は、東京英語学校(東大教養学部の前身)から札幌農学校(現・北海道大学)へと進み、さらに帝国大学(現・東京大学)から米国のジョンズ・ホプキンス大学へと進み、さらにはドイツのボン大学を経て同国のハレ大学から博士号(農業経済学)を授与されるに至ります。帰国後、札幌農学校教授、京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授、第一高等学校(現・東大教養学部)校長や東京女子大学学長などを務めました。その間、京都帝国大学より法学博士号も授与されています。そして、大正9 (1920) 年の国際連盟創立の際、事務次長に選ばれ7年間務めました。

 晩年は、現在では帝國陸軍将校らの謀略であったことが判明している満洲事変(昭和6年)と第一次上海事変(昭和7年)により、日本が国際連盟から脱退した年(昭和8年)に、国際会議参加のため訪問中だったカナダで急病のため病没しました。この第一次上海事変は、当時上海駐在の田中隆吉陸軍少佐と男装の麗人と謳われた川島芳子女史によって、引き起こされた出先陸軍の謀略であったのですが、当時はそんなことは知られておらず、これを批判して、日本を滅ぼすものは共産党か軍閥(陸軍)であると松山の新聞記者にオフレコで語った言葉が広められ、当時の右翼から批難攻撃を受けて、「非国民」とまで罵られました。しかし、本シリーズで取り上げた昭和20年8月15日の終戦時の様相を見れば、その言葉は鋭く未来を見透していたとも言えましょう。因みに、第一次上海事変については、以下の弊ブログ記事をご参照ください。

「なぜ日本はアメリカと戦争したのか(20) 第一次上海事変の田中隆吉謀略と東洋のマタハリ」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12386478659.html

「大東亜戦争と日本(44)第一次上海事変を勃発させた陸軍の謀略」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12665446993.html

 

 その一方で、この英文で著述・出版された『武士道』は、ドイツ語やフランス語にも翻訳されて世界的なベストセラーになり、また当時の米国大統領セオドア・ルーズベルトも愛読したといいます。そして、「この本を読んで日本人の徳性を知ったので、30部を購入し、知友に配った。また5人の子どもにも1部ずつ与え、日常熟読して日本人のように高尚で優美な性格と、誠実剛毅な精神を涵養すべしと申し付けた」(**前掲書10頁)と述べたといいます。その功もあって、同大統領は、日露戦争終結時のポーツマス講和条約の際、日本に好意的なスタンスで仲介の労をとってくれたとも言われているのです。

 確かに、今日的に見れば、この書が正確に「武士道」を解釈して英語で完璧に説明したものかどうかについては、様々な異論もあるでしょうが、しかし、明治32(1899)年という時点で、ここまで西洋人の歴史的かつ文化的脈絡に落とし込みつつ、極力正確に「武士道」の徳義や精神を、英文で著述できた人がどれだけいたか。それは今日においてさえも、こうした英文による日本の精神や文化の説明を、英語を用いてどれだけできるかどうかを鑑みても、この書の持つ意味と価値は、決して貶められるべきものではありません。むしろ、これから国際社会で活躍しなければならない日本人にとっては、現代でも必読の書であると言っても過言ではないのです。

 そもそも、英語にせよ外国語で、日本の文化や精神を正確に説明して伝えること自体が、大変困難な知的作業なのです。少し英語その他の外国語を話せる人ならば、このことの難しさは痛感しているはずです。単にA Iにせよ機械翻訳にかければよい、というようなレベルでは全くないのです。少なくとも、新渡戸博士は、ご自身が幕末日本に武士の子として生まれ、実際にそうした家庭教育・訓育の中で育ち、武士道を体得した上で、その後、明治政府が急速に打ち立てた西洋流の諸学校で学び、さらに米国やドイツの大学で修学した人物です。従って、わたくしたち現代日本人が武士道を研究するのとは、その基盤が全く違うのです。

 加えて、言わば発信者側の問題のみならず、受信者側の問題もあります。巧みに西洋の古典やキリスト教の概念を引用しつつ、多少のバイアスや色調の変化・変換があるにせよ、西洋人の彼らがわかる言葉を駆使して、日本独特の文化や精神の構造とその意味を語ることは、並大抵にできることではありません。日本文化の深い素養と理解のみならず、相手側の西洋文化についても、深い素養と理解をしていなければ、とてもこうした内容を伝える道筋は見出せないのです。批判するのは簡単です。しかしその批判者が、新渡戸博士を上回る内容と精度で、果たしてこの武士道をどれだけ西洋人に理解させることができるでしょうか。言うは易く、行うは難し。言うのは簡単だが、やるのは大変なのです。

 尤も、本ブログでも何度か取り上げている津田左右吉博士の批判のように、我が国独自の皇室制度に基づく天皇陛下のあり姿を、西洋流の立憲君主制に連接させようとする試みの観点から、新渡戸博士の説明が遊離していると言う論点は、ある程度宜なるかなとも言えます。しかしその点をさて置いてもなお、上述の通り、新渡戸博士が明治32(1899)年の時点で、西洋世界に対し、英文で武士道の素晴らしさを伝達し得たという業績は、やはり高く評価すべきことであるのです。

 いつまで閲覧可能な記事かどうかはわかりませんが、次の記事を読んでみてください。

〔ハーバード大学の有名教授から言われた「衝撃の一言」…国境なき医師団の「僕」が国籍よりも大事だと思っているもの〕

https://gendai.media/articles/-/117903

 この記事では、国境なき医師団 日本の事務局長である村田慎二郎氏が、ハーバード・ケネディスクールでの冬学期、1年間のMPA(Master of Public Administration:行政学修士)の留学中に、「アダプティブ・リーダーシップ論」の大家であるロナルド・A・ハイフェッツ教授から、次の言葉を投げかけられた時のエピソードが紹介されています。

 同教授曰く、「君は、日本人には見えない」 さらに、中央にある教壇から、教室の端におとなしくすわっていた村田慎二郎氏のすぐ前までやってきて、

   「もう一度言う。シンジロー、君って日本人に見えないんだけど」

 村田氏は、これに対し「私は日本人です」と答えたといいますが、これに対して教授は次のように言ったといいます。

 「いや、そうは思わない。君は日本という国がどんな歴史をたどってきたか、それすら知らない」と。

 この村田氏は、別の記事のなかで、イラクでの体験を綴っていますが、その時に役に立ったのが、国境なき医師団の同僚に対し、日本の歴史や文化を紹介する(勿論英語で)機会が重要だったことを記し、〔ウケがよかったのは、「サムライはどこから来て、どんな道徳があり、どのようにサムライの時代は終わったのか」「日本にとって天皇制とはなにか」「戦後、焼け野原からどうやって日本は経済大国になったか」など。相手の関心を引きつけるように話すことは、インターナショナルなチームで自分の居場所をつくるために大切だった。

   よく参考にしていたのは、『武士道』(新渡戸稲造著)と、『国民の歴史』(西尾幹二著)という2冊の本。まさかイラクのあのような場面で役立つとは、夢にも思っていなかった。〕と書いています。

   ご参考:〔国境なき医師団がイラクで驚愕…「シーア派最高権威」が日本人に言った「衝撃の言葉」 『武士道』の本に助けられる〕

https://gendai.media/articles/-/117895?page=5

 この村田氏のヴィヴィッドな現代の体験からも、新渡戸博士の『武士道』がいかに現代の国際社会においても有用なものであるかが実感できます。

 ここでは、この新渡戸稲造著『武士道**』の目次をさっと見ておきましょう。

第1章 道徳の体系としての武士道 (Bushido as an Ethical System)

第2章 武士道の淵源 (Source of Bushido)

第3章 義または正義 (Rectitude or Justice)

第4章 勇気、敢為堅忍の精神 (Courage, the Spirit of Daring and Bearing)

第5章 仁、側隠の心 (Benevolence, the Feeling of Distress)

第6章 礼儀 (Politeness)

第7章 正直と誠実の心 (Veracity and Sincerity)

第8章 名誉 (Honour)

第9章 忠義 (The Duty of Loyalty)

第10章 侍と教育と訓練 (The Education and Training of a Samurai)

第11章 克己 (Self-Control)

第12章 自害と敵討ち (The Institutions of Suicide and Redress)

第13章 刀・侍の魂 (The Sword, the Soul of the Samurai)

第14章 女性の訓練と地位 (The Training and Position of Woman)

第15章 武士道の感化 (The Influence of Bushido)

第16章 武士道はなお生きているか?(Is Bushido Still Alive?)

第17章 武士道の将来 (The Future of Bushido)


 この中から、少し拾い読みをしてみましょう。

・・・武士道は、日本の象徴である桜に並ぶ、日本の土壌に特有の華である。歴史に埋もれた旧い美徳のひからびた標本などではない。それは私たちの力、私たちの美として、私たちの心のなかに生き生きと息づいている。武士道には目に見える姿や形があるわけではない。しかし、武士道の薫り、道徳的雰囲気は、今なお絶えず私たちを引きつけ続けている。すでに、武士道をもたらし育んだ社会的条件は消失してしまった。しかし、かつては実在し、今は消失してしまったはるか彼方の星のように、武士道は見上げればなお私たちに光を降り注いでいるのである。封建制の産物である武士道は、その生みの母よりも永く生き、私たちに道徳の道(*moral path)を照らしてくれているのである。・・・(**前掲書24頁 )

・・・ヨーロッパと日本の封建制度と武士道の比較にもとづき、歴史学的に論じることは、大変興味深いことであるが、そこまで立ち入ることは本書の目的ではない。私が論じたいのは、第一に日本の武士道の起源と淵源、第二にその特質と教訓、第三に大衆への感化、第四にその感化の持続性と永続性についてである。・・・(**前掲書26頁)

・・・私は日本語の武士道を、凡そシヴァルリ(Chivalry)と訳したが、それは語源において騎士道(Horsemanship)よりも深い意味を持っている。武・士・道(*Military-Knight-Ways)は、字義的に見ると、武人、騎士の道であり、戦士たる貴人が、本来の職分にとどまらず、日常生活においても、順守すべき規範であるといえる。それはすなわち騎士の規律(*Precepts of Knighthood)であり、武士階級の「高い身分に伴う義務」(noblesse oblige)である。(*中略)

 このように、武士道とは、武士が守るよう求められ、教育される道徳的理念の規範(*the code of moral principles)である。それは成分法ではなく、言い伝えによって、また著名な武士や家臣の筆によって伝えられてきたわずかな格言があるにすぎない。たいていは、語られたり、書かれたりすることのない規範であり、だからこそ真なる実践を強く求める拘束力を持ち、心に刻み込まれた掟としての性格を持つ。またそれは、一人の頭脳による創造をもとに築かれたものではなく、一人の卓越した人物の生涯をもとに築かれたものでもない。

 それは、何十年、何百年にもわたる武士の生きかたの有機的産物(*organic growth)だったのである。・・・(**前掲書28~30頁)

・・・(*武士道の淵源)はじめに仏教(*Buddhism)から論じたい。仏教は、運命に身を委ねるという穏やかな感覚、不可避なものを従容として受け入れる心、危険や災難に直面したときの禁欲的な沈着、生を重視せずに死に親しむ気持ちを武士道にもたらした。ある高名な剣術の師(*柳生宗矩)は、弟子が技の極意を極めたのを見届けると「わが指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らねばならない」と言った。禅とはディヤーナ(* ध्यान、Dhyāna)を日本語に音訳したものであり、「言葉による表現の範囲を超えた思想の領域に、瞑想(*meditation)によって到達せんとする人間の営みを意味する」ものである。その方法は黙想(*contemplation)であり、その目指すところは、私の理解している限り、あらゆる現象の根底に存在する原理を体得し、究極的には絶対的なものを悟り、そしてこの絶対的なものと自己を調和させることである。このように定義すると、禅の教えは一派の教義を超越し、この絶対的なものを認識できた者はだれでも世俗的な事柄から解脱し、「新たなる『天』と新たなる『地』に」目覚めるのである。

 仏教が武士道にもたらしえなかったものについては、神道(*Shintoism)が豊かに充足してくれた。主君に対する忠誠、先祖への崇拝、さらに親に対する孝心などは、ほかの教義によっても教えられなかったものであり、神道がこれを訓えたのである。侍のややもすれば傲岸ともなりやすい性格に忍耐心が加えられた。神道の教理に「原罪」(*original sin)という概念が入り込む余地はない。

 逆に、人間の善性と、霊魂の神のような清浄性を信じ、それを神の意志が宿る至聖殿として崇拝する。神社の霊廟には礼拝の対象物や器具が甚だ少なく、本殿にかかげてある装飾のない一面の鏡が神具の主たるものである。この鏡が存在する理由は容易に説明できる。つまり鏡は人間の心の表象であり、心が完全に穏やかで、一点の曇りもないとき、そこに神明の姿を見ることができる。それゆえ、参拝(*worship)のために社殿の前に立つ者は輝く鏡の面に自身の姿を見るのであり、かような参拝という行為は「汝自身を知れ」という古代デルフォイの神託に通じているのである。しかし、ギリシャの宗教でも日本の神道でも、自己知とは人間の肉体的要素の知識、すなわち解剖学や精神物理学の知識を意味するものではなく、道徳的な要素にかかわるものであり、すなわち私たちの徳性を省みることである。(*中略)

 神道の自然崇拝は、国土を私たちにとっての心の奥底からいとおしく思われるような存在とし、その祖先崇拝は、人々の系譜をたどることにより、ついには皇室を全国民の共通の祖とした。私たちにとって、国土は、金を採掘したり、穀物を収穫したりする土地以上の意味を持つものであり、神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖な住処なのである、私たちにとっての天皇とは、単なる法治国家(Rechtsstaat)の長ではなく、文化国家の擁護者でもない。天皇は、この地において肉体を持つ天の代理人であり、その身に天の力と慈悲を兼ね備えている。(エミール・)ブートミー(*1835-1906、仏、『英米仏比較憲法論』邦訳版1894年刊の著者)はイギリスの王室について「権威をあらわすだけでなく、国民統合の創始者にして象徴である」と述べており、私も同意するところであるが、このことは日本の皇室において二倍にも三倍にも強調しうる。神道の教義は、日本人の感情のあり方を規定する二つの様相、すなわち愛国心と忠誠心を説いている。(*中略)

 厳密な意味での倫理的教義については、孔子の教えが武士道の最も豊かな淵源であった。孔子が説いた、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友という五倫の道は、その書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が感知していたものであり、孔子の教えはそれを確認させたにすぎない。平静で温厚、そして世才に満ちた孔子の政治道徳の教えは、支配階級であった武士にとって誠にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な雰囲気は、武人統治者の要件としても適合した。孔子に続いて孟子が武士道に大きな影響を及ぼした。力強く、すこぶる民衆的なその理論は、人間の共感を強く引きつけるものであったため、既存の社会秩序を揺るがし転覆させかねないと見なされ、その書物は長く禁書とされていた。それでも、この賢人の言葉は侍の心に永久の住処を見出したのである。・・・(**前掲書38~46頁より抜粋)

 このように、武士道の淵源は、古来日本に伝わる神道、現在のネパールに生まれた釈迦の教えがチベット、中国、韓国を経て日本に到来した仏教(特に禅宗)、そして古くから、わが国独自の武士たちのなかで培われ育まれて発展・継承されてきた様々な訓えが、すべて融合して独自の道徳観、死生観のもとに受け継がれてきたものなのです。

   それを戦後の日本が受け継がないならば、一つの大きな伝統的文化と価値体系が、失われることになってしまいます。日本の青年の皆さんにお願いです。ぜひこの武士道の灯火を消すことなく、受け継ぎ、活用して戴きたい。それが老年を迎えた者の切なる願いなのです。