前回取り上げた越前国福井藩士、橋本左内(景岳)先生(1834-1859)は、藩校明道館の改革のみならず、まさに激動の時代を迎えていた幕末期の日本が、一体どのように進んで行けばよいかを考究していました。それがゆえに、かの西郷隆盛も七歳年下の景岳先生に敬服していたといいます。今回は、まずこの景岳先生が見透していた当時の日本の歩むべき方向性がどのようなものであったのか、橋本左内著『啓発録 付書簡・意見書・漢詩**』(講談社学術文庫1982年刊、伴 五十嗣郎(ばん いそしろう)全訳注)の末尾に掲載されている平泉洸(あきら)先生による「偉大なる先哲景岳先生」から、次の部分を読んでみたいと存じます。平泉先生は、当時金沢工業大学教授で、本文は昭和56年10月4日財団法人ふくい藤田美術館開館記念講演で話された内容を再録したものです。(*裕鴻註記)

・・・(*前略) 当時の日本国、重大問題が二つありました。一つは鎖国か開国かの問題、今一つは(*13代)将軍徳川家定病気重態であって、しかも後嗣(あとつぎ)が無い、これをどうするかという問題、以上二つとも、非常にむつかしい問題でありました。今から考えれば不思議なようでありますが、三代将軍家光の代、寛永年間(*1639年)に鎖国の方針をきめて以来約二百年、我が国は世界の中に孤立して、自分の耳目をとざしてきました。それが嘉永六(*1853)年ぺルリ(ペリー)が来航し要求するに及んで、にわかにあわて出して、開国かどうかの議論が起り、大多数の者は開国に反対でありました。反対どころではない、攘夷、つまり武力で打払えというのであります。その問題を決定しなければならない時に、将軍は重態であり、後嗣がきまらないのでありますから、政府に責任者が無いという状態でありました。

 この国家緊急の大問題に対して、人々困惑して議論沸騰しました時に、橋本景岳(*左内)先生の立てられた説は、真に抜群のすばらしいものでありました。その要領は、次の通りであります。

 すなわち同じ地球の上に国を立てながら、自分だけが孤立して、一切外の国とは交際をしないということは、不条理であり、不義理であって、するべきことではない。その上に、それは、航海術の発達した今日においては、不可能なことであり、できる相談ではないのだ。すべきことでもなく、できる相談でもない以上、当然鎖国の方針を一変して、国を開いて万国と交わらなければならないのであるが、世界の情勢を観察するに、弱肉強食の有様で、弱いものは征服せられて属国となり、併呑せられて亡国となる例が多い。それ故に開国に当っては、軍備を充実しなければならず、その軍備といっても、昔風の槍や刀だけでなく、西洋の兵器と戦術を研究して、それに対抗し、これを撃破する力をもたなければならぬ。

 殊に注意しなければならないのは、世界の強国(*列強)の動きだ。今日強国というべきものは、英国と露国とであって、遠い将来に国際連盟のようなものができるであろうと思われるが、その時にも連盟に牛耳を執るものは、英・露二つの国のどちらかに相違ないと思われる。しかしただ今のところ、アジアに迫ってくるものは、北からは露国、南からは英国、一つはシベリアを席捲して進み、一つはインドを併呑して清国(*中国)に迫って来た。日本はこの二つの強国に対処する方針を策定しなければならない。

 自分(*景岳先生)の考えでは、この二つの国は互いに相争っているのであるから、我が国はどちらか一つの国と同盟するがよい。もし日英同盟成立すれば日露戦争が起り、逆に日露同盟成立すれば日英戦争となるのであろうが、どちらにせよ同盟があれば我が国は苦戦であり敗戦であっても、全然亡国となることはあるまい。そしてその苦戦の経験により、鍛錬せられて強国となってゆくに相違ない。

 但しこの方針をもって進むためには、国内の態勢を今のままにしておいてはならない。日本国の国体の本義にかえり、天皇を奉じ、天皇を中心として、三千万(*当時の人口)の国民一丸となって進まねばならない。そして国民の中には、さがせば必ず人材があり才智才能があるから、従来の身分その他の関係を離れて、有能の人材を抜擢し、適材を適所に登用しなければならぬ。

 かような見地からいえば、将軍の後嗣に就いていわれている二人の候補者の優劣もおのずから明瞭である。すなわち一人は一橋慶喜(*のち15代将軍)、年齢二十一歳、聡明であり、人望がある。他の一人は紀州の慶福(後の家茂、*14代将軍)、年齢十二歳、聡明の噂もなく、人望があるとも聞かぬ。非常の時、まさか違えば戦争という重大な時に、十二歳の少年で将軍が勤まるはずはない。およそ将軍職は、天皇によって任命せられるものであるから、天皇より御指示をいただいて、年長、聡明、人望の人を任命せられるがよい。

 以上が景岳先生の意見の概略であり、大要であります。

 これは当時において破天荒であるのみならず、かくまでに雄大にして、適切であり、まことに道理にかなった救国策を、我々は古今幾百年の間に、一度も聞いたことがなかったのであります。

 この救国策を聞いて、最も驚嘆し、感銘し、景岳先生の無二の親友となった人は、大西郷でありました。初対面の時、先生は二十二歳(*数え年)、これに対して西郷隆盛は二十九歳(*数え年)、大西郷の方が七つ年上でもあり、体格も豪壮、景岳先生の方は女のようにやさしく弱々しく見えましたので、初めは西郷もこれを軽くあしらっていましたが、やがて国事を論ずるに至って、西郷は驚嘆し、驚嘆につぐに敬服をもってし、敬服につぐ心服をもってし、景岳先生の指導の下に、一緒に国事に奔走するようになりました。景岳先生は二十六歳(*数え年)にして殺され、事を共にした人々、皆罪人として処分を受けましたために、その一生の事蹟、明瞭にすること容易ではありませんが、大西郷は、これも当然井伊(*直弼)大老の弾圧、いわゆる安政の大獄によって殺されるはずでありましたが、(*中略) 井伊大老のきびしき追及をまぬがれて、(*後略、西郷は生きのびることができました。)

・・・(**前掲書241~244頁)

 ここで想い出すのは、陸大47期首席卒業の俊英、高山信武(たかやましのぶ)元陸軍大佐(陸士39期、戦後陸将)が、ある本に寄せた序文の、次のような一節です。

  「(*前略) 今更のように考えさせられることは、哲人ニーチェの曰う『偉大とは適時適切に方向を指示するをいう』との教訓であって、政戦両略の運用に任ずる指導者は、合理的な組織基盤の上に立ち、先見洞察の明と、正しい情勢の認識把握のもとに、日本人のもつ体質をたえず反省しながら、国策の方向を決定しなければならない。」

 幕末の動乱期の渦中において、景岳先生による上記の、現代流に言えば適確な地政学的分析と将来的な国際情勢の推移の見透しに基づくその救国策は、まさに『偉大とは適時適切に方向を指示する』内容であったのです。そうであるがゆえに大西郷、西郷隆盛も心服したのです。

 しかし、歴史上先覚者の多くが辿ったように、橋本景岳先生は明治維新の九年前に「安政の大獄」で斬首されて生涯を終えました。井伊直弼大老が一橋派(14代将軍に慶喜公を推していた派)を弾圧したため、隠居謹慎を命ぜられた主君春嶽公とともに処罰されたのです。この時同じく吉田松陰先生も斬首刑に処せられました。そして坂本龍馬は維新直前に暗殺され、西郷隆盛は西南戦争で自決、その翌年大久保利通は暗殺されました。この他にも数多くの幕末維新の志士が、結局は天寿を全うできなかったことを鑑みると、それは先覚者の宿命なのかもしれません。

 それにしても、明治維新の十数年も前の時点で、当時の限られた情報から、上記のような地政学的な国際情勢の分析と日本の国策対処案を考えていたのは、さすがに慧眼でした。景岳先生自身は、上記講演にもある通り、今後英国と露国が、東アジア進出で対立拮抗するものと見た上で、親露派の立場を取っていました。それはアヘン戦争に敗れた清国の状況などから、英国に対しての警戒感がより強かったものと推察され、また安政元(1854)年に締結された日露和親条約を、ロシア側全権のプチャーチン提督と交渉した幕臣の川路聖謨とも交流があったことなどの影響も考えられます。景岳先生の没後3年で発生した生麦事件を端緒に、勃発した文久三(1863)年の薩英戦争などを鑑みても、こうした英国の海軍力を警戒するムードは、当時から存在していたと思われます。

   しかし明治維新以降、景岳先生没後43年の1902年には、日本は逆に日英同盟を結んで、その2年後の1904年に勃発した日露戦争に勝利し、さらにはその後、第一次世界大戦を経て、没後61年の1920年には国際連盟が設立されていることも見逃せません。加えて言えば、没後100年以上を経た戦後日本は、まさに日米同盟によって軍事的な集団安全保障体制を構築していることを考えれば、幕末時点で大国と同盟することにより、集団的安全保障を図るという構想そのものはまさに、現代的センスであるとも言えるのです。

 こうした長期的タイムスパンで、地政学的な大局的国策を考えることができたのも、四書五経を柱とする古代中国五千年の治乱興亡の歴史と、その中での国のあるべき対処を計るという経綸、すなわち政治哲学を、深く考究していたからではないかと考えられます。「合従連衡」にせよ、「遠交近攻」にせよ、孫子の兵法のみならず、国家の栄枯盛衰のことわりを指南する叡智を学んでいたからこそ、二十歳そこそこの青年であった景岳先生が、今にいう国家戦略をここまで考え、国家が進むべき方向性まで案出していた、という事実を、21世紀に生きるわたくしたちは、決して忘れてはならないのです。

   景岳先生が西郷隆盛(1828-1877)らと交流を始めたのは、安政二~三年(1855~6)年頃ですから、今で言えば、まさに大学生くらいの年齢なのです。もとより僅か15歳にして、『啓発録』を著したのですから、論語の「十有五にして学を志す」或いは当時の元服の年齢から数えれば、すでに五年以上の高等修学とさらに見識を高めた結果ではあります。

 では、この15歳の時に景岳先生は当時の若き武士として、どのような考えであったかを知るために、『啓発録**』の中から、「学に勉む」の項を少し読んでみましょう。前回同様、伴 五十嗣郎先生になる現代訳です。

・・・学に勉む

 学とはならうということで、すぐれた人物の立派な行いを習い、みずからもそれを実行していくことをいう。従って、先人の忠義や孝行の立派な行いを習っては、直ちにそれを慕(*した)いまねし、自分もそうした人々の忠義孝行に、決して負け劣るものかと努力することが、学ということの第一の意義である。

 ところが、後の時代になって文字の意味を誤解し、学とは詩や文を作ったり本を読むことであると思っているが、これは間違いである。作詩・作文や読書は、学問の添物(そえもの)のようなもので、刀とその外装の柄や鞘、二階とそこへ登る階段のような関係にある。従って作詩・作文や読書を学問と思うのは、ちょうど柄(*つか)・鞘(*さや)を刀(*かたな)と考え、はしご段(*階段)を二階と思うのと同じで、まことに浅はかで雑な考え方といわねばならない。

 さて、学問の本旨とするところは、忠孝の精神を養うことと、文武の道を修行することの二つしかない。主君に忠義の真心をもって奉仕し、両親に孝行の真心をもって仕える、その真心で、一心に文武の道を勉強することである。

 そして、平和な時代に主君のお側近く召使われたときは、主君のお誤りを補い正し、君徳がいやが上にも盛んなものとなるよう努力し、もし役人として任用されたときは、その役所の万端をよく取り仕切り、依怙贔屓(*えこひいき)をせず賄賂(*わいろ)を受取らぬなど、万事公平廉直を旨として、役所中の者がその威厳を恐れ、その徳を敬い慕うほどになるよう、常に心掛けていなければならない。

 不幸にして戦乱の時代となったときは、それぞれ自分の職務を立派に遂行して外敵を討平(*うちたいら)げ、世の中の乱れを平定せねばならぬが、そのためには直接太刀や槍を振い、格闘して敵の首を討つ手柄を立て、あるいは陣中にあって敵を滅ぼす作戦の立案に参画し、あるいは食糧や兵器調達の責任者となって、味方の兵を飢えさせず、兵力の減少をふせぐよう種々の努力をはらうなど、日ごろから工夫し修練しておかねばならない。

 武士として、これらのことをいつでも勤め得るためには、昔より今に至るまでの様々の知識を学び覚え、世の情勢の変化に即応して、直ちに大事を処置する方策を暗記するくらいに習熟しておかねばならない。それには、学問を自己第一のつとめとし、書物を読んでわが知識を広め、心胆を練ることが最も大切である。とはいえ、少年の間はどうしても一つの事をずっと続けて修業することを嫌い、熱心に読書を始めたかと思うと、すぐそれを中止したり、文事の学習に精を出していたかと思うと、たちまち武芸の修練に転向するなど、何をしても少ししただけで厭きてしまいがちであるが、これは学問をする上で、非常によくない態度である。

 次に、勉、つとめるというのは、自己の力を出し尽し、目的に達するまではどこまでも続けるという意味合いを含んだ文字である。何事によらず、長い間強い意志を保ち続け、努力を重ね続けるのでなければ、目的を達成することはできないが、まして学問は、物事の道理と筋道を解釈し明らかにするものであるから、前に述べたような軽々しく粗雑なやり方では、いつまでたっても真の道義は理解できず、世の中の実際に役立つ学問とはなり得ないものである。

 その上また、世間には愚かな俗物が多く、そうした者が学問を始めると、それを鼻にかけたい心が起って上調子になり、出世や富に心を奪われたり、自分の才能や聡明さを人に誇りたい病気が、時々出てくるものである。これらは、みずから用心して慎むべきであることは言うまでもないが、良い友人からそのつど戒めてもらうのが、極めて効果の大きい者であるから、何といっても交わるべき友人を選び、わが仁を行うことの助けとし、わが徳を補うよう、心掛けることが必要である。・・・(**前掲書40~43頁)

 とても十五歳の少年が書いたとは思えない熟慮が窺える内容です。このような心構えのもと、藩医であった父のあとを継ぐべく、まずは大阪の適塾の緒方洪庵先生や、その後江戸に出ては有名な杉田玄白の孫の杉田成卿先生のもとで、蘭方医学を中心に幅広く修学を続けて大成されたわけです。もう少しこの啓発録や景岳先生の書簡などから、当時の武士のものの見方や考え方が読み取れる部分を拾い読みしてみましょう。

・・・(『啓発録』「稚心を去る」の項より)

 (*前略)源氏や平氏が活躍した時代から、織田信長など群雄が割拠した時代ごろまでは、十二、三歳ともなると父母に別れを告げて初陣に参加し、見事敵を討取って武名をとどろかせた人も少なくない。そのような抜群のはたらきは、稚心(*子供じみた心)をすっかり取去っていたからこそできたのである。もし、少しでも稚心が残っていたら、両親の庇護の下からちょっとでも離れることはできなかったであろうし、まして戦場へ出て敵の首を討ち、武名をあげるなどということのできたはずがない。

 更にまた、稚心を取除かぬ間は、武士としての気概も起らず、いつまでも腰抜け士(さむらい)でいなければならない。そのため、わたくしはりっぱな武士の仲間入りをするために、第一番に稚心を去らねばならぬと考える。・・・(**前掲書23頁)

・・・(『啓発録』「気を振う」の項より)

 気とは、人に負けまいと思う心、すなわち負けじ魂と、恥辱を知ってそれを悔しく思う気象のことである。それを振うというのは、常にそうした心を持って、その精神を振い立て振い起し、絶えず緊張をゆるめず油断のないように努力することである。

 この気というものは、生命のあるものはみな備えているものであって、鳥や獣でさえ持っている。それで鳥や獣でも、ひどく気が立った時は、人に危害を加えたり苦しめたりすることがあるのだから、人間の場合は、なおさらである。その人間の中でも、武士が一番この気を強く身につけているから、一般にこれを士気(しき)とよんでいる。どんな年若な武士に対してでも、それが武士であるならば無礼を加えようとしないのは、この士気を恐れてのことであって、別にその人の腕前や身分を恐れるからではないのである。

 ところが、長く無事平穏な時代が続くうちに、武士本来の気風が衰え、気力も弱々しくなり他人に媚びへつらい、武士の家柄に生まれながら武道の修行を忘れてしまい、出世を望み遊興におぼれ、何事もまず損得を計算し、ことの是非を二の次にして大勢につくといった情けない武士が多くなった。そのため昨今の武士は、人には負けぬ、恥辱は堪えられないという男らしく勇ましい気象をすっかり失って、腰にこそ大小(*の刀)を帯びてはいるものの、内実は呉服反物の包みをかついだ商人や、樽を背にした樽拾いにも劣るほどで、雷鳴や犬の声にも後ずさりするような、腰抜けになってしまった。これでは、まったく嘆くほかないのである。

 しかるに今でもまだ町人や百姓が武士を貴んで「御侍様(おさむらいさま)」と呼ぶのは、武士本来の価値を認めてのことではない。その武士が仕える主君(藩主)の御威光を畏れているために、仕方なくその家臣の武士としての姿に対し、敬意を表するだけのことである。

 昔の武士は、ふだんはみずから土に親しんで耕作に従事していたが、恥辱には堪えられぬ、人には負けぬという逞しい気概は日ごろから養っていて、何か一大事が勃発して、天皇様や将軍から召集の命令が下れば、即座に鋤鍬を武器に持替え一軍の将となり、虎や狼のような猛々しい軍勢を手足のごとく指揮したものであった。その結果、勝利をおさめれば輝かしい武名を歴史に残し、武運つたなく敗れたならば、そのまま屍(しかばね)を戦場にさらすことも珍しくなかった。

 また、富や出世の誘惑があっても、生死にかかわる問題や、いかなる困難に直面しても、決して信念や節義をかえない大勇猛・大剛強の気象を持っていたから、人々はその意気に感動し、その忠義や勇気を賞賛して尊敬したのである。

 これに反し最近の武士は、勇気はないし道義には薄く、戦いに勝つための工夫策略にもとぼしいから、とても敵の大軍中に突撃して、縦横無尽に駈廻ることなどできはしないし、まして、主君の参謀として作戦を練り、味方を勝利に導く大勲功をあげることなど思いもよらない。(*中略)

 このような武士としての覚悟も能力もない者に、高い禄高や重い役職を与えて、毎日安楽に暮させているのであるから、主君の恩恵というものは、言葉に尽くしがたいほど有難いものである。それほど有難い御恩を蒙りながら、覚悟も不確かな腰抜け武士ばかりで、万一の時、殿様に恥をおかかせ申し上げることになっては、まことにまことに申訳ないことであって、それを思うと寝ても睡られず、食事ものどを通らぬはずである。殊にわれわれの祖先が家を興した時には、わずかなりとも槍一筋の功労を立てたであろうが、その後の子孫になると、代々何の手柄もなしに禄を食み、安楽に暮しているのであるから、少しでも学問の修行を心懸け、忠義の精神を養い、粉骨砕身してわずかでも主君の御恩に報いなければならない。

 この忠義の精神をゆるめず常に引き立て、後戻りせぬようにするためには、以上述べた士気を引き立て振い起し、人には負けぬという決意を忘れぬことが大切である。とはいえ、いくらこの士気を振い立てても、それに伴って志(こころざし)が立っていなければ、ちょうど氷がとけ酔いがさめていくように、決心がゆるみ後戻りすることがある。それゆえ、一度士気を振い起したならば、次にはしっかりと志を立てることが大切である。

・・・(**前掲書27~30頁より抜粋)

・・・(『啓発録』「志(*こころざし)を立つ」の項より)

 志というのは、心の行くところ、すなわち自分の心が向かい赴くところをいう。武士として生れ育って、忠孝の精神を持っていない者はない。(*中略)

 また、志を立てるというのは、自分の心が向かい赴くところをしっかりと決定し、一度こうと決心したからには真直にその方向を目指して、絶えずその決心を失わぬよう努力することである。ところで、この志というものは、書物を読んだことによって、大いに悟るところがあるとか、先生や友人の教えによるとか、自身が困難や苦悩にぶつかったり、発憤して奮い立ったりして、そこから立ち定まるものである。従って、呑気で安楽に日を送り、心がたるんでいる状態では、とても立つものではない。志の立ち定まっていない者は、魂のない虫けらと同じで、いつまでたっても少しの向上もないが、一度志が立って目標が定まると、それからは日に日に努力を重ね成長を続けるもので、まるで芽を出した草に肥料のきいた土を与えたようになる。

 昔から学問・徳義が衆人にすぐれていたとされる偉人でも、目が四つあり口が二つあった訳ではなく、その志が大きく逞しかったから、ついに天下に知らぬ人もないような名声を得るに至ったのである。世の中の人の多くが、何事もなし得ずに生涯を終るのは、その志が大きく逞しくないためである。(*中略)

 物事を分別する力が少しでもついてきたら、まず自分自身で将来の目標と、それを達成する方法を、しっかりと考え定め、その上で先生の意見を聞いたり友人に相談するなどして、自分の力の及ばぬ部分を補い、そうして決定したところを一筋に心に刻み込んで、行動を起こさねばならない。必ず、学ぼうとすることが多岐にわたり過ぎてそのために目標を見失うことのないように、注意したいものである。すべて、心が迷うということは、心の中にしようと思う筋道が多すぎることから生ずるものであって、従って心が迷い乱れるのは、まだ志が確立されていない証拠といえる。志が不確定で、心も迷い乱れては、とても聖賢豪傑になれるものではない。

 とにかく、志を立てる近道は、聖賢の教えや歴史の書物を読んで、その中から深く心に感じた部分を書抜いて壁に貼りつけておくとか、常用の扇などの認(したた)めておくとかし、いつもそれをながめて自己を省みて、自分の足らぬところを努力し、そして自分の前進するのを楽しみとすることが大切である。また、志が立った後でも、学問に励むことを怠れば、志が一層太く逞しくならずに、ともすれば、かえって以前の聡明さや道徳心が減少し、失われてゆくものであるから、注意しなければならない。

・・・(**前掲書34~37頁より抜粋)

 このような志と心構えをもって、景岳先生はさらに五年ほどの修学・修業を重ね、その培われた高く広い見識が各藩の志士たちにも評価されたことにより、藩医職を解かれ藩主春嶽公の側近に登用され、上述の通り慶喜公将軍擁立運動や救国策の提言に東奔西走するようになります。しかしこれが災いして安政の大獄により、春嶽公は隠居謹慎を命ぜられるとともに、景岳先生も幽閉謹慎の身となり、さらに井伊大老の裁きによって斬首刑に処せられました。

 鎖国時代の日本は、諸外国からの圧力・圧迫にも晒されず、対内・対外戦争もないまことに太平の二百年を過ごしていました。それがゆえの「鎖国と太平による制度疲労、組織疲労」も幕末には現れてきており、その点を厳しく指摘しつつ、実際的な対処策の道筋を考案して示す、という取り組みを景岳先生は果たそうとしていたと言えます。この太平・平和なる日本の姿を、処刑される前年の安政五(1858)年二月、当時朝廷の内大臣であった三條實萬(さんじょうさねつむ)公への書簡の冒頭で、景岳先生は次のように描写しています。

・・・我が日本の尊厳は、世界に比較しうる国がありません。天皇の御位(みくらい)は、神代以来連綿として絶えることなく、国民もまた、すべて神々の御血筋をいただいております。風俗はすなおで美しく、武士は忠義に厚く、清廉潔白で恥辱を知り、農民や商人は質素で実直な気風を持ち、上(かみ)を尊び、よく法を守っております。また、下(しも)に反逆を企て法に抵触する者少なく、上に身命を捨てて節義を守る人が多いことから、政令や法律は寛大にして厳粛であり、一人一人が自己の職務に精励し、平和な日々を送っております。

 更にまた、国土が肥えて作物に適することも世界に秀で、物産も豊かで多く、種々の鉱物・植物から魚貝鳥獣に至るまで、不充分なものはありません。国民が今日まで、衣食に不自由することなく安楽に暮してこられましたのは、実にこの日本に生まれたからこそのことで、これらはことごとく天子様の御恩のお陰であると、有り難く存じ上げる次第であります。・・・(**前掲書113頁)

 このあと、景岳先生は鎖国攘夷派が優勢な朝廷内を、実質的な開国に向けさせるための説得を同書簡のなかで展開してゆくのですが、上記の日本の国情は尊王攘夷派を中心として、鎖国体制の日本を維持しようとする人々が抱いていた自国のイメージであると考えられます。同時に、二百年間の鎖国体制下にあって、幕末当時三千万であった日本の人口を維持するだけの食糧や物産などの生産と流通の確保は当然できていたわけですから、外国の特に海軍力を中心とする軍事的圧力がなければ、このように日本は平和安泰であったのに、その鎖国の夢を醒めさせた夷狄(外国)を討ち払うべしという、攘夷派の心情を裏打ちしている描写であると考えられます。一方で、このような日本のあり姿は、自然環境調和型の社会再構築に向かってゆくであろう、これから21世紀以降の日本を形成してゆく際の、一つのお手本的な日本社会のイメージやヴィジョンとしても参考となるのではなかろうか、そのようにも思えるのです。