安政六(1859)年に僅か満25歳で斬首された越前国福井藩士、橋本左内(景岳)先生は、吉田松陰先生他とともに計十四名が刑死・獄死となった「安政の大獄」の犠牲となりました。講談社学術文庫から、橋本左内著『啓発録 付書簡・意見書・漢詩**』が1982年に発刊されていますが、伴 五十嗣郎(ばん いそしろう)先生による現代文全訳と訳注が併せて掲載されています。勿論古文が得意な方なら原文でも意味は取れるのですが、今回はその現代訳から景岳先生の意見書の一部を読んでみたいと存じます。



 幕末までの日本を支えてきた四書五経などの儒学を根底にしつつも、現実的な軍事力や科学技術の優位性を見せている洋学(当初は蘭学)を、福井藩の藩校「明道館」の教育体系に加える改革を、景岳先生は実行しました。当時の英邁なる藩主、松平慶永(春嶽)公の懐刀として側近に登用されましたが、逆に言えばそれが災いし、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)公の第14代将軍擁立運動に加担した罪を井伊直弼大老から問われ、若くして死罪となってしまいました。

 少しだけ、原文の雰囲気を味わってもらうことも兼ねてご紹介すれば、安政四(1857)年閏五月十五日付の「学制に関する意見箚子」は、次のように書き起こされています。(**前掲書167頁より)

・・・明道館御取立ての義は、深き思召も在らせられ、政教一致・文武不岐と申す御標準にて、後々は士大夫仁譲節烈の風に興り、庶民時雍文化に移り候やう、年来御労思あそばされ候御大願・御鴻業は、明道館中より御成就の基趾を開き候やうにとの御趣意に御座候やうに欽承し奉りをり候。・・・

・・・<訳文> 藩校明道館を開校されたのは、政治と教育の一致、文武が不離一体であるようにとのご目標のもとに、やがては藩士一統に、人情深く、おごることなく、節義正しい風儀を興隆させ、庶民も和らぎ楽しんで、学問の普及した文明の世となるようにと、長年お考えお骨折りの大事業についてのご願望が、この明道館を基礎として達成されるようにとのご趣意からであろうと、拝察申し上げます。・・・(**前掲書184頁)

 ここにある「政治と教育の一致」「文武が不離一体」の言葉のように、当時の武士の教育は、まさに政治を担う人材の養成であり、それは文武、即ち行政事務と軍事統帥の両方を統べることを目標にしたものであったのです。

 そこで教えられ、かつ学ばれる「学問」について、景岳先生は次のように説いています。安政四(1857)年四月の「藩校明道館における布令原案(抄)」からです。

・・・学問とは、人として踏み行うべき正しき筋道を修行することであって、技能に習熟するだけのものでは、決してない。ところが、とかく学問とは技能の修行と心得ている者が多くて、自分は学者になる家柄に生まれたのではないし、またそのつもりもないから、そう深く学問をする必要はないなどと、口ぐせのようにいっている人を見かける。これは結局のところ、学問を技能の修行と心得ることから生ずる間違いである。たとえ、どんなに詩文などを上手に作れるようになっても、故事などを博く暗記したとしても、それだけでは一種の芸人となり得たに過ぎない。

 仁義の精神を体得し、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友という人間関係の中で、守るべき道義を明らかにし、祖国を守り治める道を修行することは、学者に限らず誰もが学ばねばならない問題である。それ故に、以上の条々にも述べてきたように、学問は生涯を通じて心掛けねばならないものなのである。右の趣旨をよくよく理解し、学問の本質を取違えた学生が出ないよう、注意して指導することが大切である。

・・・(**前掲書159頁)

 つまり国家・社会の指導者にして、その政務を担う実務的能力を併せ持つ政治家・行政家を育成することが、ここに言う「学問」を修行することなのです。景岳先生の目指すところは、決して、官僚制の意味での矮小なる事務的行政官僚を育てるという意味などではありません。国家百年の計を見据えつつ、わが国日本の経綸を善導する慧眼卓越の士を養成しようとしていたことが窺えます。もう少し、上記の続きを読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・学校(*明道館)は、人材教育の場であるから、政事(まつりごと)と一体のものでなくてはならない。しかるに、世間の風潮は、この二つが遊離してしまうことが多い。たとえば文武の修行に精励して、品行もよい優秀な者でも、家柄が低く、しかるべき伝(つて)がないと、お役にもつけず昇進もできずに埋もれる外(ほか)なく、反対に、家柄や手づるがあれば、文武の修行をなまけがちで、品行もさしてよくない者であっても、重要なお役に就いて出世もするといったことが往々にしてある。これは、学校における人材育成の目的、常々の教育の主意と相違して、政治と教育が分離してしまった結果である。このようなことでは、学校は国家の平和安泰を象徴する飾りものにすぎず、実は無用の長物といわねばならないものとなる。

 このたび、藩校明道館ご創設のご趣意は、右のように、政治と教育が遊離する弊風を改め正そうという点に、第一の目的がある。何とか右のような弊害をなくし、今後は、ふだんから教育している文武にすぐれ才徳を兼備した優秀な人物を、詳しく調査して上申し、しかるべき役職に登用するように努めることを、第一に心掛けねばならない。・・・(**前掲書159~160頁)

 では、景岳先生は「人として踏み行うべき正しき筋道」たる学問をもって、どのような政治をするべきと考えていたのでしょうか。安政四(1857)年五、六月頃の「為政大要」の意見草稿から見てみましょう。

・・・現在の状況下で、政治を行う上に重要な点は、まずその規模を広大にして、正しい筋道を立てることであります。規模が広々としていなくては、諸役人がそれぞれの才能を充分に発揮して活動する場が不足しますし、正しい筋道を確立しなくては、年々政治の綱紀が乱れて、諸役人の志操は堅固ではなくなってしまいます。

 そのようなことで、政治に対する人々の信望を失い、怒りをかうようなことがあっては、実に国家の一大事でありまして、一切の成功不成功は、これによって定められるのでありますが、かといって、あまりにも民心にこだわりすぎて、一寸しのぎの事なかれ主義にあまんずるようでは、かえって弊害が多大であります。正しい政治を行って民心を失わぬようにすることを、ややもすると、人々の機嫌を取り結ぶような政治をとることと誤解する向(むき)があるので、注意が必要であります。

 ただ今は、殿様がご英明でいろいろの善政を発議され、藩内に文武忠孝の気風を高めようとご努力なさっておられますのに、藩士の重立った者は、いまだ大いに忠義誠実の気風を高めることなく、藩校もいまだに才智すぐれた賢明の人物を世に送り出さず、武芸稽古所も真の勇気を重んじ鍛錬している気配を見せておりません。これらは、いかなる理由によるのでありましょうか。

 おそらくは、上に立つ人が、真に身をもって国に殉じようとする純粋な忠義心から政令や法規を出しておられるのでないからだと存じます。もし長たる人が純粋な忠義心をもって、すべてのことをご執行であるのに、下の者がその意を体さず、その政令や法規を守ろうとしないのであれば、これに違反する者は刑罰をもって厳重に懲らしめるべきであります。

 いつの世でも、賞と罰の二つは政治を行う上に必要不可欠のもので、昔も今も聖主明帝と仰がれているお方は、結局のところ、この二点がまことに当を得、それがために群臣も善を勧め悪を戒めるべきことをよく承知し、政府も自然と慎み深く清潔で、内部がよく和(やわら)ぎ睦(むつ)ぶようになったものであります。しかし、罰を施されようとする時は、相手がたとえ取るに足らぬ下役の者であっても、丁寧に審理を進めて厳正なさばきを下さねばなりません。そうでなくては、また必ず人心を失い、怒りをかうこととなります。多くの場合、刑罰は善行の者を褒賞した上で、なお法規に背いた者がある時、はじめて用いらるべきであります。刑罰を褒賞より先にしますと、はなはだ苛酷で残忍なことになると存じ上げます。

 最近は諸有司(*役人)の方々がなにかにつけて倹約だ倹約だと申し立てられ、万事にわたり節約を心掛けておられますが、これは時節がら実にごもっともな次第と存じます。しかし、倹約と申しましても、それによって得た余剰をもって、まさか将来藩が高利貸しをしようというわけではなく、文武の道を奨励し、忠義の精神を興隆するために役立てようとのご趣旨と拝察いたします。となれば、いかに万事倹約とはいっても、必ず入用で有益のものは、買入れたり、製作したり、また建造したりされなくてはなりません。

 諸外国が、我が国を手中にしようと、虎視眈々たる昨今、足元が極めて危ういような時態(*ママ)が眼前に迫っているのに、今年は外国人はやってこないであろう、来年はまだ外国人との戦闘は始まらぬであろうなどと都合よく考えて、まさかの時、外国軍を迎え撃つための軍事訓練も中途はんぱ、小銃・大砲の準備も不充分、弾丸・火薬等も多くの貯えがないといった有様では、実に手ぬるいことといわねばなりません。昔より変事というものは、思いもよらぬ時に勃発するもので、今夜にも、いやたった今にも、いかなる不慮の出来事が生ずるか、予測しがたいのであります。その時になっては、これまで節約節約と千回も万回も繰返し唱えてこられましたことも、何の役にも立たなくなると、恐れながら存ずるものであります。

・・・(**前掲書163~166頁)

 このように景岳先生は警告を発しています。この意見書を読んでいると、今から166年前のことではなくて、まさに昨今の日本の状況を思わせるような内容が含まれています。要は、いつ外国から攻められるかもしれないという状況や事実から目を背けるのではなく、国家・国民・国土の安心立命のために、然るべき予算は投入して、いざという有事に備える軍備と軍事訓練は整えておかねばならない。そうしたきちんとした政治を運営するための然るべき財政規模と財政出動は行わねばならないし、そのための予算まで削って倹約しても、そもそも日本という国や国民がなくなってしまっては、元も子もないというのです。頻発している北朝鮮の弾道核ミサイル発射実験や、繰り返される中国公船による尖閣諸島周辺の我が国領海への侵犯行為など、「昔より変事というものは、思いもよらぬ時に勃発するもの」という景岳先生の警告は、決して古びてはいません。

 こうした日本の危機に対処するのは、本来は政治家の任務であり責務です。その政治を担う人材を得ること、そうした人材を養成することこそ、迂遠なようでいて、実は現代日本にとっての喫緊の課題であるのではないでしょうか。結局のところ、政治を行うのは「人」であるからです。それでは、景岳先生は、この人材に関しては、どのように説かれているかを見てみましょう。

・・・人材というものは、今も昔も必ずなくてはならず、いまだかって、不必要であった時代などなかった大切なものであります。今や我が藩も、従来の弊政を改め、新たなご政策を次々と断行されようという折から、ことに、すべての面で小さな成功に甘んぜられるようなことではなく、極めて大規模なご事業をめざされておるのでありますから、今ほど人材の獲得が急がれ、主要な問題となった時期は、なかろうと存じます。しかしながら、既に当藩が保有しております人材については、くわしい調査がなされ、細かな選択もほぼ終了いたしましたし、次第にその獲得のための研究や討議も始められたことでありますから、もはや人材を得、人材を養成する道は、開かれたものといってよいと存じます。これからは、我が明道館において、だんだんと少年達を養育し、正しい方向に教化して、まれに見る優秀な人材に仕立てあげ、将来、目下ご推進の各事業が、ますます広く大きなものとして達成されるよう、今からご配慮なさいますのが、現在の時勢によく適った方策であると存じます。

 もっとも、人材を得、人材を育てるためには、いろいろの手段があって、何も学校だけに限られるわけではありませんが、有用の大人材を養成しますには、学校において教育し感化するのが、一番正しく近道でありますから、やはり学校を最上の人材養成の場と考えるべきであります。このことは、単に私のいい加減な見解ではなく、おそらく天下の道理であると、長年確信をいたしております。

 さて、この教育による人材養成の問題は、この上もなく大切で、むずかしいことでありますが、現在の明道館の状態では、ひときわ実現がむずかしく、最大の難題であると存じます。大体、人材獲得のためには、四ヵ条の要件がありまして、この四つを実行することなしに、人材を得ようとするのは、夜中に歩きながら太陽を見ようとするのと同様の愚行であると考えます。さてその四ヵ条の要件とは、

 第一に、人材を知ること。すなわち、その人物の長所を見出し、また短所をも見抜くこと。

 第二に、人材を養成すること。その人物の長所・短所を確認した上は、その長所を伸ばし短所を改めるような養成に力を注ぎ、その成長を妨害する危難から保護してやるとともに、その者の内部から生ずる反抗心やひねくれようとする心などを取り除いてやり、その者が立派に志(こころざし)を遂げられるよう援助してやること。

 第三に、人材を完成すること。人材の養成を終ったならば、いよいよその者に学問と技能を教育し、その成果を正しい方向に開花させ、実際にその能力を試し、熟練させて、有用な人材として完成すること。

 第四に、人材を挙用すること。その者が、すでに実際の用に堪えうるところまで完成したならば、長期間挙用もせず、捨て去っておくようなことはしないで、ただちに推薦して、しかるべき任務につけ、活躍させること。

 この四つの要件をすべて実施しなかったならば、人材を獲得する方法が完全になりませんが、しかし、この四つの中でも、特に第一の人材を知ること、及び第三の人材を完成することの二要件を、充分に実現することは、非常にむずかしいことであります。

 その訳は、一日に千里も走る優秀な馬は、必ずひづめで人を蹴ったり、かみついたりする欠点を持っているものであり、また、小事にこだわって萎縮することなどない規模の大きな人物は、むしろ世間からは悪くいわれるものであるのが、今も昔もかわらぬ弊害だからであります。その上、とかく衰えた世の中の風儀や、物事にうとい俗世間の風潮は、怠け者で勇気もなく、何事にも臆病で、普通以下の能力しかない者でも、もの腰がやわらかで人に媚びることが上手であれば、たいてい誰にも愛されているものです。その上、そうした人物は、一見したところ目立った過失もないように思えるのでありますが、実は一生自分の利益のためだけに行動する貪利という病気が治っていない者で、彼らは学問に熟達するほど、人前で媚びへつらうことや、いいのがれが上手になり、古人がいう「郷愿(きょうげん)」、偽善者になりさがってしまい、なかなか安心して依頼できる者ではないのであります。

 それに引替え、豪胆でこせつかない人物や、才識がすぐれているため普通の尺度では押さえ切れず、ほしいままに振るまっている人物、また、純粋で正しく、意志も強くて人に屈しない人物や、果断で激しく、節操がかたくて衆人とは合わないような人物は、なかなか末(すえ)たのもしく思われます。ところが、これらの人物は生まれつき衆人より遥かにぬきんでているため、他人をたよらず自分自身をたのみとし、人に従属したり屈したりは決してせず、ややもすれば凡人を軽蔑しがちで、常識的な世論とは衝突する欠点を有しているものであります。昔から英雄豪傑と呼ばれる人物が、いつも思いがけない災難に出会うのは、結局ここに原因があるのであります。

 このようなぬきんでた性質をもつ人々は、とかく自己の信念をまげたり、また書物を読んだり、物事の道理を考究するといったことなどを嫌い、学問をいやがり、心にもかけずに捨て去ってしまう弊害を生じがちなものであります。しかし、いかに豪胆で小事にこだわらず、意志が強くて屈することなく、節操がかたいとはいっても、道理に熟達せず学術にくらいのでは、真に偉大な精神と才智にすぐれたはかりごとを身につけ、偉大な事業を完成し、いかなる難問をも解決するといった業績をあげることは、困難でありましょう。

 従って、これらのすぐれた資質を秘めた人物を上手に誘導し、さまたげとなる前途の弊害を取り除き、これに学問を研鑽させ、技能をみがかせてこそ、真に国家有用の人材ともなり、学問の光もあらわれるものであります。そうでなくして、人物も小さく、みだりがましく小賢しい人物に、さして重要でもない小さな事でも、潔く謹み深い態度をとるよう教え込んだとて、もともと器量の小さい人物に、表面だけを取りつくろう飾り物を添えさせたようなもので、その外には何の有益なこともなく、それでは学問というものが結局、世の中に害となってしまいます。

 わたくし(*景岳先生)の個人の意見ではありますが、現在の藩校創建のご趣意が行き渡れば、いずれ御家中の子弟どもすべてが学校へ通うようになり、藩中学ばぬ者のない勢いになることと存じます。そうなれば、多勢の中には自然右に述べましたような、ぬきんでた人物がいるはずであります。しかしもし幸いにそのような人物が登場いたしましても、目下の明道館の状況では、きっと、その人材を立派に養成することはできぬと存じます。

 その訳は、教官中にすぐれて機敏な眼力を有し、規模雄大な気概を持つ者がおらず、その学生のせっかくの大才能を見抜くことができないという欠点がある上に、そうした学生を指導するに当っても、ささいな行為や取るに足らない問題ばかりを厳しく監督し、真に助長してやらねばならない大切なところに気がつかず、おろそかにしてしまう欠点もあり、更に教官自身と同種の考え方を持ち、よく随従してくる学生をかわいがり、逆に異論を唱え異なる見解を主張するような者を嫌い遠ざけるといった欠点があるからであります。この教官の見識や体質に関する三つの欠点が除去されないかぎり、とても優秀な学生を心服させ、教官の方からその者を育成していくことなど、不可能であります。

 およそ、人を認識するにしても、教育するにしても、また優秀な人材に仕立て上げるにしても、教官の器量が英雄に価すれば、英雄を知ることができ、聖賢の域に達していてこそ、はじめて相手が聖人・賢人であることを認識できるものであります。器量小さい凡人の身で、英雄・聖賢の資質を秘めた者を見出し、これを立派に養成し、仕立て上げるなどということができぬものであること、いうまでもありません。

・・・(**前掲書185~190頁)

 こうして藩主春嶽公の肝入で藩校明道館の改革に乗り出した景岳先生は、洋学による科学技術や軍事学などの実学の修得と、四書五経を学ぶ経学を柱とした儒学による東洋の倫理・精神・政治哲学ともいうべき経綸を合致して身につける学制の改革にとどまらず、ここにいう教官側の問題点とその改革の必要性を厳しく指摘しています。上記のあとも引き続き、藩校の教官たちの問題を糾弾しています。例えば次のくだりです。

・・・このことは、単に我が明道館に限ったことではなく、従来の諸藩の学校が、ことごとく太平の世のうわべだけを飾る道具となってしまったことや、漢土(*古代中国)の学校が後世になって、あるものは興り、あるものは廃絶してしまった理由も、全く同様なのであります。それは、一言で申し上げますと、学務を監督する教官が、その職務に堪え得る能力を有していないためであると考えます。

・・・(**前掲書191頁)

・・・どんなに利口にいい回しても、精神のともなわぬ口真似では、人に向かって説き諭し、その論旨を充分に理解させ、あますところなく行き届かせることなど、できようはずがありません。まして、優秀な人材を育成し、これを世に送り出して活躍させるまでに仕立て上げるには、単に文字や言葉の上だけのことでは、何の効果もあがりません。まず第一に、教官自身に衆人にすぐれた行いがあり、人々を心服させ、その耳目を驚かすほどでなくては、これはとてもかなわぬことであります。

 ところが、現在の明道館の教官は、柄にもない大言を吐き、互いに張り合って議論しておりますが、それがすべて空理空論におちいり、真面目に聞こうとしても、実行不能なことばかりを申しております。その上、つね日ごろの言行等を詳しく考えてみますに、いまだに名誉や利益を求める俗っぽい感情や態度からぬけきっておらず、忠義・孝行のことや、節義を堅く守ることなど、いつも口にはしているものの、自分自身が踏み行うべきところは、まだまだ俗世間的な見識や論議にとらわれていて、虚偽を飾りつくろい、何ごとにも臆病で、周囲の形勢を見回してから行動するなどの欠陥を克服しえず、見かけは学者らしく振る舞ってはいるものの、並み程度のところを脱却しえぬままでいるのが、現状であります。・・・(**前掲書193頁)

  また、藩校において「文武一致」の教育体制を確立することについても、景岳先生は次のように指摘をしています。

・・・まず第一に教官の心中に、それを生かす計画と覚悟が備わっていなくては、なかなか文武一致のご趣意は、実現しないことと存じます。(*中略)

 また、現在はまだ学問が広く行きわたっていないため、武芸者と称せられる人は、とかく頑固で見識がせまく、片寄った考えを持っている場合が多く、とても簡単には、広くひらけた、心正しく雄大で潔白な見識を立て、国家の大目標達成のため、積極的に協力をするようにはならぬことと存じます。(*中略)

 その上にまた、深く心配いたしておりますことは、このまま文事と武事の掛りの者どもが、互いに心服し依頼しあうことなく、各々目前の自己の職務ばかりを行うようになれば、文武一致どころか、かえって文と武が反目しあい、互いにその欠点をあばきあい、文士(学者)は武芸者の粗暴と見識が片寄っていることを笑い、武芸者は文士の柔弱で臆病なことを嘲るようになりましょう。(*中略)また、昔からの道理にうとい儒学者のせまい料簡で、技能をいやしいものと見て、それを努力して修行する者をあざける風潮があります。(*中略)

 古(いにしえ)より聖人・賢人と呼ばれる人は、一つとして不得意なことがなかったように見受けられます。彼らは、極めて多芸多才でありながらそれを頼みとはせず、またはそれに慢心することもなく、さまざまの技術を修練して、それに堪能になってもそれに拘泥することもなく、それらの技術の中に重要な道理が存在していることを知って、あらゆる技術に共通する最重要の一点を、ちゃんと押さえ確認している人であると考えられます。

・・・(**前掲書195~198頁より部分抜粋)

・・・漢土(*古代中国)は、昔より文事を貴ぶ国柄で、文官の権威を高くして政治をとらせて来ましたから、文事に長じた人の中から、非常な人材も登場し、国を治め民を救う上で、大業績を上げて来ました。そのため、いささかでも儒学を学んだ人々は、とにかく儒学者さえ登用すれば国は無事に治まるように思っておりますが、これは彼ら古来の風にあまりにもこだわり過ぎた考え方であります。我が国は元来武を重んずる国柄で、政治体制上でも、武事を尚(たっと)ぶ風が強く、国民一般の風俗も、剛気で大まかなことを喜び、細々としてわずらわしいことを嫌いますから、どの時代にも、武人の中から忠義の心に厚く明快・清潔で、意志も正しく強く、大は一国の政治から、小は十四五歳の幼君まで安心してまかせられるような人物が、続出しましたことは、自然の勢いであります。このように、我が国には漢土(*古代中国)と同様にみなすことができない点が、いろいろ備わっております(*後略)。

 (*前略) 古代より近世まで、日本は武をもって天下を平定してきた国振りであって、臆病で卑怯なことをにくみ、節義に反することを恥じ、君主を敬い、祖先を重んずる習俗、これを約して言えば、敬神尚武の風儀が、現在もわずかながら残存しております。そしてこの精神こそ、世界に超絶する誇るべき風儀でありますから、今後も武道を骨とし、文事をその肉付けとして熱心に兼修する者を尊んで、実用に適さぬ無益な学問(*空理空論の観念論)にふけり軽はずみで派手な気風に流れがちな者は、これを抑えてしかるべきものと存じます。

・・・(**前掲書200~201頁より部分抜粋)

 この景岳先生がいう「世界に超絶する誇るべき敬神尚武の精神」が武士道の心ではないかと存じます。次回はこの武士道について、もう少し調べたいと思います。