聖徳太子が制定された十七条憲法は、終戦過程で帝國陸海軍を律したのみならず、時を超えて21世紀を生きる日本人にとっても、精神の拠り所となるものではなかろうか、そのようにわたくしは考えております。「温故知新」は、八冠を制した藤井聡太竜王・名人が揮毫にも選ばれている言葉ですが、人間の本質は変わらないものだ、と看破されていたという聖徳太子の智徳に基づくこの憲法は、戦後は特に伝統的な価値体系を見失ってしまいがちな日本人にとって、もう一度紐解くべき内容が詰まっているものと存じます。

 今回はまず、この十七条憲法の意義について、坂本太郎先生のご著書「聖徳太子**」(吉川弘文館・人物叢書、1979年初版刊、1985年新装版)の一節を読んでゆきたいと思います。(*裕鴻註記他)

・・・憲法の綱領は、『(*聖徳太子)補闕記(*ほけつき)』にいみじくも政事修国修身事と述べているように、国家のあるべき姿、政治にたずさわる君臣の心がけ、各人が分に応じて身を処する道を、具体的な事項に即して噛んで含める様に記したものである。国造治下に分れた国々を打って一丸とした統一的な国家を樹立し、その国家の永遠性と倫理性を確立しようとする。それは単なる権力機構ではない。君は統治者として絶対の地位にあるが、それに相応する責務もまた存する。礼を重んじ、信を尊び、賢者を官に任じ、人民の幸福を図らねばならぬ。群卿百僚または臣と称せられる人々は、君の言を受け、五常の徳(*仁、義、礼、智、信)を守り、公平に人民を治めねばならぬ。そして、すべての人は人間普遍の倫理たる和の精神を重んじて国家の平和を保ち、また仏教に従って枉(*まが)った心を直さねばならぬ。こうして政治的に統一せられた国家は、進んで悪を捨てて善に向い、対立を排して和を実現する倫理的な一大共同体となるべきであるとするのである。こうした国家の構想は、いまだかつてそれまでの日本で考えられたことはなく、太子の儒教・仏教などを究めた深遠な思想によって始めて樹立せられたものといわねばならぬ。

 憲法を支えた思想には、儒教・法家・仏教などの混在することは、何びとも指摘する所であるが、中でも儒教思想はもっとも卓越して存在する。国家として君臣の義を固くし、民生を安んずることは、儒教の根本精神であり、官人の、礼を重んじ、信を尊び、恪勤精励であるべきことを教えているのも、儒教の説く所と同じである。法家思想は儒教と截然と分ち難いが、信賞必罰を説き、訴訟の裁断に偏頗があってはならないと言う所などは、多分に法家者流の言であろう。そして、これら官人達への教訓が多くの部分を占めるので、憲法は官人を諭す心得に過ぎないという評価も生れる。

 しかし私(*坂本博士)はそれは皮相の見であると思う。これらの表面的な訓誡の基盤には仏教思想が力強く存在しその鋒茫を随所に表している。国家はもとより人倫の規範が、仏教精神によって支えられようとしている勢いを見遁すべきではあるまい。仏教のことが条文としてあらわに出ているのは、第二条の篤敬三宝の章、第十条の人は皆凡夫であるとする章などであるが、憲法で考えられている国家の人的組織、君・臣・民の三身分の設定は、私は仏国浄土の仏と菩薩と衆生との三大区分にたとえられたものだと思う。君は仏であり、臣は菩薩であり、民は衆生である。菩薩の利他行によって衆生は救われる。国も群卿百僚の誠意と恪勤によって民生の安定が得られねばならぬ。太子は脳中にこうした仏国浄土の姿を描いて憲法の条章を作ったのではあるまいか。

 官人への訓誡を越え、人間の倫理として和の重要性を説くのも、仏教思想が根底にある。第十条の、人の賢愚は鐶の端なきが如く、一概には定められず、共にこれ凡夫であると言い切っている所は、他の諸条の身分の差を強調することと矛盾する観もあるが、これは太子の究めた仏教思想から出た人間観であり、仏の大悲の前においては、賢者も智者も愚者も鈍者も、みなこれ一様に凡夫であるとみたのである。これは堂々たる人間平等観の宣言であり、仏教精神の神髄である。こうした仏教思想はこの時点においては、まだ太子の全精神を領してはいない。他の諸思想も適当に受入れ、表明しているので、憲法は混然とした思想の集大成といった観をもつが、現実の国政に責任をもった太子としては、この程度に止まらねばならなかったであろう。

・・・(**同上書92~95頁)

 坂本博士は当然に「日本書紀」に記載されている十七条の条項が正統なる記述であるとの大前提に立って、前回見た通り、「承詔必謹」の条は第三条であること、そして第二条は、三波氏が指摘されている通り、「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」となっていることから、聖徳太子(西暦574-622年)が、仏教の伝来(*西暦538年頃)のあとの興隆に尽くされた事績も踏まえて、聖徳太子の深い「仏教思想への帰依」を根本にした解釈をされています。しかし、平たく言えば、日本は古来、神道という伝統的土着の信仰や神社があるわけですから、外来の仏教とは相容れない要素があったのです。そこに政治的な勢力争いが絡み、「排仏派」の物部氏を、「仏教派」の蘇我氏が破った(*西暦587年)ことで、仏教を公式にまつる様になったとのことです。

ご参考:「奈良県における仏教の変遷」

 本稿では詳細にまで立ち入る余裕はありませんが、この物部氏と蘇我氏の争い(*西暦587年)と、のちの蘇我氏宗家を滅ぼす大化の改新(*西暦646年)に至る、古代日本における大きな政争と中央集権国家の成立過程の渦中に、生きておられた聖徳太子(西暦574-622年)は、もちろん仏教を深く研究され、敷衍普及に務められたことは間違いありませんが、その一方で「摂政」として推古朝の政治を担われた実務政治家としての側面も、忘れることはできません。

   この十七条憲法の発布(西暦604年)のみならず、冠位十二階の制定(西暦604~5年)や、いわば対等外交の嚆矢としての国書〔『隋書』「東夷傳國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)と記述のあるもの〕を携えた遣隋使(小野妹子)の派遣(西暦607~8年)など、内治・外交に数多くの業績を残されていることから、当時の権力者である蘇我馬子と協調しつつも、その陰には様々なご苦心もあったのでは、と想像されます。

   この文脈と情況から推測するに、基より仏教の研究・敷衍を基幹としつつも、古来土着の神道の祭祀の尊重や、冠位十二階の制定に連なる中国古典の主体たる儒教の研究にも、真摯に取り組まれていたと考えられます。殊に物部氏と蘇我氏の当時の二大勢力の争いに鑑みれば、物部守屋氏を蘇我馬子氏が討ったとはいえ、残存する神道重視の排仏派にも、一定の考慮や包含の姿勢が、実務政治家(摂政)としては、当然要求されていたと考えられ、この意味での神道の神祇祭祀との兼ね合いをどう捉えるかも大切な事柄です。坂本太郎先生による、この点に関するご見解も上記書**から読んでみましょう。

・・・憲法の内容には、一言も神祇祭祀のことに触れていない。『日本書紀通証』は「暦史略」という書を引いて、「十七条の中、神を崇め祭りを敬ふの条なし。神を蔑(*ないがし)ろにするの胸臆見るべし」と言い、『日本書紀通釈』もその文を引いて、「さる事なり」と賛意を表している。いかにも後世の大化改新のさいの詔には、まず神祇を祭って後に政事を議るべしといった精神が横溢し、律令の官制でも神祇官は太政官より前に規定せられた。

 しかし、大化と推古朝とは時勢が違うのである。そこには少なくとも四十年の時代の差があり、この四十年は重要である。推古朝ではまず何よりも外国の政治思想を摂取して、国制を新しく打ち立てようとする先駆者的な使命感に充ち満ちていた。先駆者はいつも急進的である。旧物に固執せず、まず新しいものを取入れたのが推古朝である。しかも、その政治を指導した太子は熱心な仏教信者である。国民のすべてに仏恩を被らしめ、仏国浄土をこの世に実現しようとする。憲法には固有の神祭りのことに言及する余裕もなく、必要もないと見たのであろう。この時代でも、古来の風儀として、神祭りは朝廷でも民間でも行われていたに違いない。太子もこれを行ったに違いない。そうした日常の行事であればこそ、あえて新思想を盛った憲法には載せる必要がない。その上、残念ながら神祭りには深い思想があったわけではない。日常の衣食住と同じ習俗である。衣食住のことが載せられていないように、神祭りのことも載せられなかったのであると、私は考える。

   これに関連して、推古十五年(六〇七)二月一日、詔して、皇祖天皇たちが神祇を祭った歴史を述べ、わが世に当ってこれを怠ることがあろうか。群臣共に心をつくして神祇を拝すべしといい、同十五日太子及び大臣が百寮をひきいて神祇を祭拝したという記事が『(*日本)書紀』に見える。これをもって、太子が神祇祭祀を忽(*ゆるが)せにしなかった明証とすることができると、黒坂勝美博士は『聖徳太子御伝』の中にいう。

 しかし、私の見る所では、この(*日本書紀の)記事はいかにも唐突である。朝廷の神祭りは(*推古)十五年の二月十五日に限られたわけではなく、古来の風習に従って、もっとしばしば行われていたに違いない。この日に限って、そんな業々しい詔を下して、神祇祭拝のことを令するというのは、いかにも不自然である。しかも二月十五日は釈迦入滅の日で、仏教の上でこそ大切な日ではないか。私はこれは、『(*日本)書紀』の編者が憲法に限らず、推古紀全体が余りにも仏教的記事の多いことに後めたさを感じて、とくに加えた造作の記事であろうと考える。それはあたかも「神を蔑にするの胸臆見るべし」と、千年後に評せられることを予見したかの如き編者の知恵であったと思う。・・・(**同上書97~99頁)

 このように、坂本博士は解説されています。旧来土着信仰を伴う神道と、遠く天竺(印度)発祥の仏教が伝来したことによる外来進取の信仰との「和」。そして、当時まで各地方における支配権を維持していた各豪族(国造)たちを、推古朝廷のもとに結集させ、その統御を行うための中央集権国家としての礎を据えるための、儒学的官制たる「冠位十二階」の制定など、日本古来の神道、天竺の神道たる仏教、そして古代中国の神道たる儒学を、それぞれバランスよく調和させる意味での「和」が、追求されていたと解釈することも可能です。

 この文脈では、前回見た三波春夫氏の解釈である「三宝ではなく三法(神と仏と儒)」と見て、それらの融合調和を目指したという解釈にも一定の合理性が窺われるのです。天竺(古代印度)の仏教思想の叡智、古代中国の国家興亡の儒学の叡智、そして古代日本の自然を敬い祀る神道の叡智、の三位一体ともいうべき倫理性をもとに、上記の通り「政治的に統一せられた国家は、進んで悪を捨てて善に向い、対立を排して和を実現する倫理的な一大共同体となるべきである」という国家としての志向性こそが、聖徳太子の示された道であった様に思います。

 そしてこの志向性の原針路となるものが、十七条憲法の第一条にあると考えられます。ここでその第一条の条文を読んでみましょう。まずは坂本太郎先生の上記書**からです。

・・・一に曰く、和を以て貴しとし、忤(*さか)らふことなきを宗とせよ。人はみな党(*たむら)あり。亦達(*さと)れる者少し。ここをもって、或は君父に順(*したが)はず、また隣里に違ふ。然れども上(*かみ)和らぎ、下(*しも)睦びて、事を論(*あげつ)らふときは、事理自(*おのずか)らに通ず。何事か成らざらん。

・・・(同上書**86~87頁)

 原文は、日本書紀の中の漢文です。一応見ておきますと、同書**86頁の『日本書紀』巻22、東洋文庫蔵の写真から判読しますと次の通りです。

・・・一曰 以和爲貴 無忤爲宗 人皆有黨 亦少達者 是以或 不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成・・・

 さて、この条文の同内容を、今度は前回同様に三波春夫著「聖徳太子憲法は生きている***」(小学館文庫、1998年刊)から見て見ましょう。尚、(*)内は同書***記載の振仮名です。煩雑に見えますが、読み方が少し異なる部分もありますので、一応原文のまま記載します。

・・・琴の和道 通蒙憲法 第一条

 和(*わ)を以(*もっ)て貴(*たっと)しと為し、忤(*いさか)うことなきを宗とせよ。

   人は皆(*みな)黨(*ともがら:党の旧字)あり。また、達(*さとれ)る者は少なし。

   是(*これ)を以(*もっ)て、或(*あるい)は君(*きみ)父(*おみおやこのあいだ)にも不順(*したがわざること)あり、また隣里(*いえいえむらむら)にも違(*なかたが)う。

   然(*しか)れども、上(*つかさたち)和(*やわら)ぎ下(*おおみたから)睦(*むつ)み諧(*うちとけ)て事(*ものごと)を論(*さだ)めよ。

   則(*しかるとき)は、事(*ことごと)も理(*ことわり)も、自(*みずか)ら通(*かよ)わしめ何事(*なにごと)か成(*な)らざらん。

   (*同頁下段の現代語訳)

第一条

 和を以って貴しとする。いさかわないことを旨とせよ。人にはそれぞれ朋党があり、しかも達者は少ないから、主君や父母に従順でなく、隣里とたがい違いになったりする。そこで、上下が親睦融和して話し合うようにすれば、事柄は自ら通じて、何事も成就するのである。

 (*引き続き、以下に本条に関する三波氏の解説を読みます。*裕鴻註記)

 第一条で太子は、人間性に対して、厳しくも正確な見方をしていますね。

 悟れる者は少なし、自分を磨け。人々が党(*派)を作るのは当然のことだが、党(*派閥)の力を非道なことに使ってはいけない。君主にも両親にも従わないということが起きる。家風や村里の風習を大切に、上に立つ者が下の者たちに打ち解けて語り合えば、いかなることもできるはずである、と諭してあります。

 また「忤う」ということについて、従来“さからう”とふりがなをした文書が多く、私(*三波氏)は疑問でした。やはり“いさかう”と読むべきでしょう。公務員が、上級者や同僚にいちいち逆らっていては、目茶苦茶になります。最善の解決策を見出すための討議に入ったときには、人を争ったり、諍(*いさか)うような気持ちではなく、平常心で務めよ、と言われたのだと私は思います。(*中略)「いさかい」をするなよ。太子の教えは、今日、身につまされる思いがしますね。・・・(***同上書36~38頁)

 この様に平易に三波氏は解説をしてくれています。かつて新自由主義(*市場原理主義的主張)の嵐が日本に伝播・伝来して来た頃、わたくしが若い頃勤めていたある大企業のトップが「和を以て貴しとせず」と話され、弱肉強食とまではいいませんが、これまでは必ずしも競争に強くなくとも、皆が安定的な生活保障を伴う会社人生を全うしていた企業風土を、より国際競争力の強い、厳しい競争原理の導入と、そしてその脱落者は容赦なく切り捨てられても致し方がない、という企業風土に改変しようとされました。その結果は、企業としては企業価値を上げて伸ばしたのだと思いますが、その反面の犠牲も伴ったのではと思うところがあります。とにかく一銭でも利益の上乗せを追求しないと新自由主義的企業評価では株主からの評価を得ることができないということかもしれませんが、「会社は誰のものか」という議論にも通じる、資本家・株主のものとするのか、あるいは従業員や関係会社の社員とその家族も含めたグループ全体の「生活の安定」ということを、日本の老舗企業は重視してきたと思うのですが、それにまつわる大きな歴史的転換が、およそ三十年前から始まったのではないかと感じます。

 現在、Disney+でも配信されている2020年の韓流ドラマに「マネーゲーム」という秀作があり、日本とは経済情況に違いがあるものの、やはり同国内の経済政策を巡って、新自由主義的立場とこれに抗する、悪く言えば官治主義といいますが、一種の政府主導の経済介入的政策もやむを得ないのではないか、というテーマが背景になっています。日本でもかつてアメリカをはじめとする外国の投資ファンドによって、日本企業が買い叩かれたり、古き良き大家族制の様な企業風土を強制的に解体させられたりした事例が数多く発生して、当時は「禿鷹(*ハゲタカ)」の様に瀕死の企業の死肉を貪るイメージが喧伝されたりもしました。

   市場原理主義からすれば、競争力のないゾンビ企業は生き残ることが間違いだから、痛みを伴ってでも早く売却なり解散なりして、市場から退場してもらうことが、次なる新規参入者による経済活性化とより大きな経済成長につながるのだ、という様な主張をよく耳にします。しかし、現実には、それで企業が外国資本に乗っ取られたり、あるいは目ぼしい資産や良好な事業部門のみが売却されて、その利益を短期極大的な配当その他で吸い取られ、挙句の果ては、また屍体処理専門の様な会社に売り逃げされ、結局は会社解散や倒産に追い込まれるなどの事例も数多かったのではないでしょうか。昨今の東芝の上場廃止のニュースにも、考えさせられるものがあります。

   私自身も昔大企業の財務畑で一時期働いていた経験もあり、本来の銀行、金融機関の役目は、企業が苦しいときに融資によって支え、また持ち直して生き続ける様に支援してくれる、というその頃に教わった「古き良き」金融機関のイメージは徐々に崩壊し、まさに「晴天には不要な傘を押し付け、雨天になったら傘を取り上げる」イメージに次第に変わってゆきました。

 「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の精神は、もとより単に経済面のことだけではありませんが、これからの21世紀の日本が、もう一度取り戻すべき重要な教えなのではないか、と最近のわたくしには思えてならないのです。

 経済学者のなかでも、決して「新自由主義」が全てなのではなく、元々はシカゴ大学でも異端派であったミルトン・フリードマン博士の主張が、時の米国政権と結びついて、アメリカ全土を覆い、それがグローバリゼーションの波に乗って、全世界に伝播されていったと捉えることができます。少し前ですが2013年刊の「経済学は人びとを幸福にできるか****」(宇沢弘文著、東洋経済新報社)という素晴らしい本があります。同じ「自由」と訳されていますが、宇沢先生は「リバティー(*Liberty)はフリーダム(*Freedom)ではない」というタイトルの節で、次のように書かれています。

・・・木村(*健康:たけやす)先生のご専門はイギリスの経済思想史、とくにジョン・スチュアート・ミルを専門とされていました。私(*宇沢先生)は一高(*旧制、現東大教養課程)で理乙(*クラス)だったのでドイツ語が主でしたが、英語のテキストはジョン・スチュアート・ミルのOn Liberty でした。その冒頭で、ここに言うリバティーはフリーダムではない、無制限の自由ではない。他の人々の自由を侵さない限りにおいて自由はある、と、いわば社会的自由なのだということが強調されていたのが、今でも鮮明に記憶に残っています。

 リベラルとは何かということは、長いこと私の心にかかってきました。日本ではリベラルもフリーダムも同じ「自由」と訳しています。さっきのハーヴェイさん(*David Harvey博士)の本(A Brief History of Neoliberalism:『新自由主義–その歴史的展開と現在』)も(*訳語は)「新自由主義」です。「自由主義」を英語にすると、どちらかというとリバタリアニズム(Libertarianism)というんでしょうか、自由を最高のものとする考え方です。

 リベラリズム(*Liberalism)というときには、人間が人間らしく生きて、魂の自立を守り、市民的な権利を充分に享受できるような世界を求めて、学問的営為なり、社会的、政治的な運動に携わることを本来意味します。そのときにいちばん大事なのは人間の心です。

 ただ、私(*宇沢先生)はその点で長いこと悩んでいましたが、数年前に、それまで発表した論考や講演を、東洋経済新報社で整理して、『経済学と人間の心』というタイトルの本にまとめて出版していただきました(『経済学と人間の心』は本書****の底本)。

・・・(****同上書11~12頁)

 先ほどの韓流ドラマ「マネーゲーム」に登場する経済学者の大家は、かつてアメリカ留学時代にミルトン・フリードマン教授の弟子であったという設定で、このドラマの中でも「新自由主義的発言」をしています。そして、宇沢弘文先生は、かつてシカゴ大学教授をされていたときの同僚が、このフリードマン教授だったのです。このフリードマン教授の考え方はどういうものであったのかを、宇沢先生の同上書****から少し拾い読みしてみましょう。

・・・自由主義制度を守る。要するに企業の自由をとことんまで追求してできるだけ儲ける機会をつくり出す。これが、デヴィッド・ハーヴェイさんがネオリベラリズムの特徴として挙げた点です。また、水、土地、空気、自然環境とか、マーケットがないものはマーケットをつくる。それが政府のいちばん重要な責務であるということが強調されています。

 フリードマンの信奉していた市場原理主義は、ネオリベラリズムよりもずっと過激で、彼は至るところで自分の考えを主張していました。フリードマンの市場原理主義には一貫した経済学の考え方というのはないんですね。フリードマンは、マクロ的な側面についてはいっさい論文も書いていないし発言もしていない。ミクロ的な側面についても、その時々によって違うんです。

 たとえばフリードマンが強調した合理的期待形成の考え方は、各人が将来のことを正確にすべて知っている。客観的な確率分布までわかっている。そして、その上で自分にとっていちばん良い選択をする。それが選択の自由だという。もしそうだとすると、マーケットなんか成立しないんですね。マーケットというのは、将来のことも、また他の人々がどういう行動をとるかもわからない。そこでマーケットという場で均衡点を見出そうとする。

 トリクルダウン理論というのもあります。金持ちに恩恵を施すと、滴の落ちるごとく貧しい人にもしたたり落ちる(trickle down)と。だから、まず減税は金持ちからやるというのが市場原理主義の主張です。今回(*2008年)のサブプライム金融恐慌の原因の一つであるブッシュ政権の減税政策は、このトリクルダウン理論を適用したものだったのです。

 先ほど言いました銀行と証券業務の垣根を取り払うことに、フリードマンはそれこそ生命をかけて見事に成功したわけです。その帰結の一つが今回(*2008年)の大惨事(*リーマン・ショックに始まる世界的金融・経済恐慌)です。(*中略) ブッシュ大統領の八年間は、一方では金持ちに対する減税と同時に、巨大な軍事的な経費と貿易の赤字をすべてアメリカの国債、あるいはアメリカの金融機関が発行する、サブプライム的なものでカバーしていたわけです。話は前後しますが、フリードマンがかねがね主張している、貧しい人たちを絞って、できるだけ儲けを多くするという市場原理主義の破綻がこういう形になって、百年に一度という大惨事を招くことになったわけです。・・・(****同上書31~34頁より部分抜粋)

 こうした新自由主義と、聖徳太子の「以和爲貴」の精神は、どう関係してゆくのか、次回も引き続き考究してゆきたいと存じます。