前回に見た如くに、鈴木貫太郎首相(海兵14期)は昭和天皇の思し召しを胸奥に秘めて、陸軍中央の強硬派中堅層と一部海軍(特に軍令部)の強硬派による、徹底抗戦と本土決戦強行という方向を変えさせ、なんとかして終戦に持ち込むことに苦心していました。海軍省は米内光政海軍大臣(海兵29期)の強い決意のもと、沖縄戦に敗れた以上は、本土決戦をしても終局的勝利はあり得ないとして、早期終戦を決意していましたが、統帥部たる(海軍)軍令部では、大西瀧治郎次長(海兵40期)を中心に、徹底抗戦を主張していました。

   豊田副武総長(海兵33期)は、戦前は対米英避戦派でしたが、山本五十六長官(海兵32期)の戦死、古賀峯一長官(海兵34期)の殉職(実際は戦死に相当)を承けて、昭和19(1944)年5月3日から連合艦隊司令長官として、直前の昭和20(1945)年5月29日の総長就任まで、苦しい戦局での実戦指揮を執っていたことや、大西次長以下の軍令部内強硬派の突き上げもあって、終戦時には最後まで陸軍に同調した徹底抗戦派でした。

   海軍省でも、前年夏から密かに終戦研究・工作を推進していた井上成美海軍次官(海兵37期)が海軍大将に進級したことにより交代した、多田武雄次官(海兵40期)は、兵学校同期の大西軍令部次長の影響もあって、徹底抗戦派に与していました。つまり、海軍首脳(海軍省・軍令部の各ツートップ4名)の中では、米内海相のみが唯一の終戦推進派であったのです。しかしこの四名の中で最先任の米内海相が、最後には豊田総長と大西次長を呼びつけて珍しく大声で叱正するなど、断固として終戦を指導したことで、帝國海軍は最終的には割れることなく、終戦のご聖断に従うことと決したのです。

   また、いわゆる軍部の代表者は、陸軍大臣と(陸軍)参謀総長、海軍大臣と(海軍)軍令部総長の、合計4名ですが、この中で早期終戦派は上述の通り、米内海相のみでした。阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、本土決戦を主張していました。もっとも、三人とも肚の奥には、終戦も已むなきかと思いつつも、各々の部下の突き上げもあれば、無理に上から押しかぶせようとしても、部下の造反やクーデター暴発を招きかねないという、深刻な危機感を抱きつつの対応であったと思われます。それほど第18、19回でご説明した通り、特に陸軍中央中枢に配置されたエリート中堅将校層の動向や意向が大きく軍部全体、政府全体に作用する「困った組織体質」がありました。

   こうした背景もあったことに加えて、本シリーズ第15回でご説明した通り、当時の首相の権限や立場は制度的に極めて脆弱であり、特に当時「最高戦争指導会議」の構成員とされた、統帥部も含めた六巨頭(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)が全員一致しないと、最終的な国家意志の機関決定は決められないのです。このうちの、たった1人でも反対すれば、決まらないという、大変にむつかしい国家意志決定構造でした。

 本シリーズ第18回でも取り上げましたが、陸戦が主体となる本土決戦に備えて、もし陸海軍が統合されて国防軍に一本化されていたとすれば、当然にその主体は陸軍主導となり、この「最高戦争指導会議」で、陸軍と海軍が並立する構造は失わるところでした。そうすれば当然陸軍が主導する本土決戦による徹底抗戦が決定され、第16、18回で見た通り、日本側の本土決戦(決号作戦)の兵力は、陸海軍兵力約430万人と国民義勇兵が約2800万人の合計3230万人以上が、戦線に投入される予定でした。

   特に第87臨時帝國議会を通過した「義勇兵役法」により男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から45歳までが、義勇兵として国民義勇隊に動員されて戦うことになり、しかもこの国民義勇隊が使う武器は、弓矢や戦国時代の火縄銃にも近いような代物ですから、国民義勇隊は実際には竹槍と手榴弾で米軍の前に飛び込み、玉砕することしかできなかったものと思われます。こうした国民義勇隊に陸海軍将兵約430万人を加えて、3230万人以上が、特攻戦術と玉砕戦法で戦って、果たしてどのくらいが生き残ったか、を考えるとき、終戦直後に昭和天皇が現在の上皇陛下(*当時満11歳)に送られたお手紙の文言の意味が、戦後のわたくしたち日本人にも重くのしかかるのです。

   第19回でも取り上げた隠れたる名著、野村實著「山本五十六再考**」1996年中公文庫版より、以下の記述をご紹介します。(*裕鴻註記)

・・・戦争に敗れてアメリカ戦艦「ミズーリ」上の降伏文書調印式も終わった直後、昭和二十(*1945)年九月九日、(*昭和)天皇は日光に学童疎開していた(*明仁)皇太子に、(*大東亜戦争の)敗因などについて、

 「我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には 山県(*有朋) 大山(*巌) 山本(*権兵衛)等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコ(*跋扈)して大局を考へず 進むを知って 退くことを知らなかったからです

 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民を殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである……」

   との手紙を送られたという。元東宮侍従が明かしたという、新聞などの報じたこの手紙の史実は、おそらく正しいのであろう。戦争を避けようとして懸命だった天皇の、本心からの感慨だったはずである。・・・(同上書**139~140頁)

 以前もご紹介した通り、著者は戦後、防衛大学校教授・戦史編纂官(戦史叢書執筆など)を務められた野村實博士(慶大・史学、海兵71期)ですが、戦時中の野村海軍大尉は、空母「瑞鶴」、戦艦「武蔵」乗組、軍令部第1部付(作戦記録係)で太平洋戦争を経験、海軍兵学校教官で終戦を迎えられた方です。わたくしも昭和54(1979)年に一度、野村博士のご講演を間近で拝聴しましたが、流石に海兵次席卒業という大変頭の良い方らしく、大局のなかの本質を突いた、素晴らしい内容のお話でした。

   アメリカ側でも、九州への上陸作戦である「オリンピック作戦」と、関東への上陸作戦の「コロネット作戦」を合わせた日本本土上陸作戦の総称「ダウンフォール(*破滅)作戦」では、マーシャル参謀総長がトルーマン大統領に話した内容では、少なくとも25万人、多ければ100万人の米軍戦死者が出るだろうと予測していました。従って日米両軍に加えて対独戦を終えて投入されていた英連邦軍(英・豪・加・新蘭・印など)を含めた双方に、さらに膨大な戦没・戦傷者を出していたことは間違いありません。しかも原爆もさらに数発以上投下されていたことでしょう。

   殊に実際に陸軍兵力を使用したクーデター案を二案も用意していた、陸軍省軍務局軍事課内政班を中心とする陸軍中堅幕僚たちの一部強硬派将校は、阿南陸相と梅津参謀総長、そして土肥原賢二教育総監のいわゆる陸軍三長官や在京陸軍元帥たちの合意に基づく「承詔必勤」の通達を無視し、玉音放送阻止のため皇居に武装侵入して、玉音盤捜索などのクーデター行為(宮城事件)を起こしました。その過程で上官たる森赳近衛第一師団長(陸軍中将)を殺害して、ニセの師団長命令まで発出して事に及んでいるのです。幸い上級司令部の東部軍管区司令官の田中静壱陸軍大将が速やかに鎮圧に動いたため、このクーデターは失敗に終わりましたが、田中司令官は全ての叛乱事件の後片付けを終えた8月24日、これらの責任を執って司令官室で自決されました。

 帝國陸軍の体質のなかには、昭和に入ってからの三月事件、十月事件、士官学校事件、二・二六事件、そしてこの宮城事件のように、陸軍兵力を使用するクーデターの発想が、伏流水のように流れていることを忘れてはなりません。そしてそれが戦後の三島事件にも影を落としているのです。本稿では取り上げませんが、詳しくは、山本舜勝氏(元陸軍少佐、陸士52期、陸大59期、元陸軍中野学校教官、戦後陸将補)の著作、『自衛隊「影の部隊」― 三島由紀夫を殺した真実の告白』(2001年、講談社刊)をお読み下さい。

 そして、終戦決定時の鈴木貫太郎首相には、二・二六事件の際、当時侍従長として蹶起部隊に襲撃され、撃ち込まれた陸軍の銃弾が、まだその体内に残っていたのです。後世の我々からすれば、なかなかその銃弾の現実味が実感できないのですが、当時の首相も外相も海相も、いつなんどき銃弾で斃されるかもしれないという厳しい情勢のなかで、終戦への道筋を進めたという重い事実を、わたくしたちは決して忘れてはならないのです。

 ここで、この鈴木首相自らが語り残した口述記録「終戦の表情***」(昭和21年8月刊)から、いよいよその大詰めの御前会議へと進む状況を読みたいと存じます。おさらいすると、昭和20(1945)年4月7日の組閣以来、四ヶ月に亙って終戦へのタイミングを見計らっていた鈴木首相が、ついに動き出します。それは7月26日のポツダム宣言、8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下、そして8月9日未明の日ソ中立条約を破るソ連対日参戦と、連続した重大事態の発生が引き金となりました。以下、上記書***の記述です。

・・・それは八月九日午前四時短波放送に依ってソ連の対日宣戦布告がなされたということだった。余(*私)は瞬間、満ソ国境を堰を切ったように進攻して来る戦車群が想像され、満洲の守備兵が、本土決戦の都合上、その重要な部分を内地に移動していることをも考えた。この儘(*まま)ソ連の進攻を迎えたならば、二ヶ月とは持ち耐え得ないであろうことも考えられた。

 遂に終戦の最後的瞬間が来たなと、余は我と我が胸に語りきかせ、側らの迫水君(*迫水久常内閣書記官長)に対して静かに

 「いよいよ来るものが来ましたね」と語ったのである。そして陛下(*昭和天皇)の思召を実行に移すのは今だと思った。

 通常ならば、内閣の当面の政策たるソ連を介しての和平交渉が見事に裏切られ、ソ連の参戦ということになったのであるから、輔翼(*輔弼)の責任上、総辞職を決行するのが順序である。

 だが余は事態の緊迫化に鑑みて、自己一身の全責任を以て、この戦争の終局を担当しようと決意したのである。

 さし当たって本土決戦に導くか降伏に進むか、この二つの道があったが、大勢は勿論降伏以外には考えられない。(*ポツダム)宣言を受諾すべきであるということは余が、該宣言を一読した折から内心検討に検討を重ね全く決定していた事柄である。そこで取敢えず、最高戦争指導会議を開催することとした。

 ― 死中に活を求めるか ― 

 会議は構成員六名(*首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)だけで腹臓ない意見を交換し合うこととした。

 一種沈痛な空気の漂う中に会議は進行し、前後三時間を要したが、意見は左(*下記)の二つに分れた。一つはポツダム宣言の無条件受諾である。

   他の意見は次の三つの条件を交渉すべしと言う案である。

 一、占領軍は我が本土に上陸せざるように交渉すること

 二、在外皇軍は、所在に於いて無条件降伏の形式をとらず、自発的に撤兵して復員すること

 三、戦争犯罪人の処罰は、本邦側に於いて、これを行うこと

 但し、両意見共「ポツダム共同宣言が、天皇の国法上の御地位を変更する要求を含まざること」を前提とするということになっていた。

 かくて最高戦争指導会議は一端休憩となり、閣議が開かれたが、戦局の見透しに対しては阿南陸相は死中に活を求める戦法に出れば、完敗を喫するようなことはなくむしろ、戦局を好転させ得る公算もあり得ると力説したが、米内海軍大臣は、卒直に挽回の見込みないと断言したのである。各閣僚もこれに続き、各々の意見を開陳したが、何れも極めて悲観的結論であった。最後に外務大臣から内外諸情勢に関する経過が報告され、余は各閣僚の之に対する意見を叩いた。

 閣僚の大部分は無条件受諾説をとったが二三の閣僚の中には前述の三条件を附すべしと主張する者もあった。

 余はそこで、閣内の意見対立のまま、徒に時を過ごすことは、一分を争う現下の情勢に忠実ならざることを主張し、かくなる上は、陛下の御聖断を仰ぎ奉ろうと決意したのである。かようなわけで、再び戦争指導会議を御前に於いて開催することにきまり、平沼(*騏一郎)枢相(*枢密院議長)をも混じえて、八月九日午後十一時三十分から、宮城防空壕内で第一回の終戦御前会議が開かれたのである。

 先づ(*迫水久常)書記官長が起ってポツダム宣言の全文を朗読し、次いで(*東郷茂徳)外務大臣が起って、従来の経過を説明し、現下こそは戦争を終結する最も適当な機会であることを述べ、そのためには天皇の御地位即ち国体に変化のないことを前提として、ポツダム宣言を無条件に受諾することが最善の方法であることを論理正しくはっきりとした口調で述べたのである。

   これに対して(*阿南惟幾)陸軍大臣は「私は、外務大臣の意見には反対である」と前提して、我が戦力の現状を語り、敵の本土来襲を俟って、これに徹底的打撃を与えればその時こそ自ら、和平への道も有利に開けるとして、飽く迄抗戦すべきであることを述べ、しかし、若し前述の三条件を付しての受諾ならば賛成であると結んだのである。これに続いて米内(*光政)海軍大臣の意見開陳があったが、海相は外務大臣の意見と全く同じであるとのべ、平沼枢相も種々事情をただした後外相の意見に同意見であることを認めたのである。

   唯、(*梅津美治郎)参謀総長及び(*豊田副武)軍令部総長は、玉砕を期して、最後の決戦に出づることこそ、死中に活を求めるものであるとして、阿南陸相の説を支持したのであった。

   ― 御聖断下る ―

   御前会議には会議場の議長格のものがあって、それは総理大臣がやることになっているが、これは決して議事に最後の決を与えるものではない、議事進行について掌(*つかさど)るだけである。だから、従来の御前会議というものは、事前に出席者の意見を予め一致させて置いて、御前会議に際しては、一応の甲論乙駁した後、既定の結論に持って行き、満場一致を見てから陛下の御裁可を仰ぐことになって居って、会議は一種の儀式と言うてもよい位であった。

 それであるから、よし陛下は会議の決議に就いて、心中御不満があらせられても、御意見を申されるということはなかったのである。

 所がこの八月九日から十日の午前二時にかけての御前会議に於いては、出席者の意見が三対三で根本的に対立して了ったのである。しかもいづれも国を憂うるの熱情を以て論議して居るのであるから、この緊張した空気は誠に眞剣そのものであって、真に御前会議らしい雰囲気を呈したのであった。

 勿論こうなっては議長が決を採りようがない。一人でも異論があっては御裁可を仰げないのである。

 そこで余は、この重大なること柄を決するには、実に陛下御自身にお願い申し上げ、国の元首の御立場から御聖断を仰ぐべきであると心中強く決するに至ったのである。

 そこで余は、起立して「議を尽くすことすでに数時間、なお論議はかくの如き有様で議尚決せず、しかも事態は瞬刻をも遷延し得ない状態となって居ります。かくなる上は誠に以て畏れ多い極みではありますが、これより私が御前に出て、思召を御伺いし、聖慮を以て、本会議の決定と致したいと存じます」と述べ、玉座近く進み出でて、うやうやしく御聖慮の程を御伺い申し上げたのである。

 陛下には深更から数時間の会議にも拘らず、始終御熱心に討論に耳を傾けさせられて居られたのであるが、余の御伺いに対して、深く頷かれ、余に自席に戻るよう指示遊ばされてから、徐ろに一同を見渡して、

 「もう意見は出つくしたか……」

 と仰せられた。一同は沈黙のうちに頭を深くたれて、陛下の次の御言葉を御待ち申し上げたのである。

 「それでは、自分が意見を言うが、自分は外務大臣の意見に賛成する」

 と仰せられた。御聖断は下ったのである。しかも陛下には更に御言葉を続けられ、

 「各々の意見はそれぞれ皆尤ものことと思う、だが自分が外務大臣に賛成する理由は……」

 と仰せられ、諄々と現下の状勢について御諭しの言葉をのべられたのである。それは誠に理を究め、曲を正す、正鵠な御認識に依る御諭しの御言葉であり、如何に陛下が平素から正しく戦局を御認識あらせられたかが拝察出来る御論旨であった。一同は唯声なく粛然と襟を正したのである。

 かくて未曾有の御聖断は下り、一同は宮中を退出して、その日の午前七時、余は連合各国に対しポツダム宣言受諾の用意ある旨を打電せしめた。

 勿論この通告に際しては、ポツダム共同宣言の条項中には、天皇の国家統治の大権を変更する要求を含まないものと諒解するという旨を述べ、尚この諒解事項を連合各国に於いても確認ありたき旨を申し送ったのである。・・・(***同上書34~41頁)

 この御聖断が、第一回目のものです。実はこのあと、連合国からの回答が来て、その回答を巡ってまたも意見が割れ、鈴木首相はもう一度御前会議で御聖断を仰ぐことになるのです。

 このように鈴木貫太郎元首相は終戦一年後に語っているのですが、上記口述の前段にある、「閣議が開かれたが、戦局の見透しに対しては阿南陸相は死中に活を求める戦法に出れば、完敗を喫するようなことはなくむしろ、戦局を好転させ得る公算もあり得ると力説したが、米内海軍大臣は、卒直に挽回の見込みないと断言したのである。」という陸相と海相の議論をもう少し詳しく見てみたいと思います。これはポツダム宣言受諾に際して、上記の三条件をつけるかつけないかを巡る議論です。当時閣議に参加していた、鈴木貫太郎内閣の国務大臣兼情報局総裁を務めた下村海南(*宏)氏の著書「終戦秘史****」(昭和60年再刊、講談社学術文庫版)から、同閣議に於ける当該部分を拾ってみましょう。

・・・次いで閣僚の間に数々の議論があったが、陸海相の間には次のような言論戦もあった。

   阿南陸相 在外の我が軍の方は自主的撤兵の上完全に武装解除し復員させたい。皇室のみとしてはイタリヤの先例もある。ここに見解の相違がある、保障占領されて後では口も手も出しようがない。先方のなすままとなる。現に新京四平街へ空襲があるが、当方はこぶしだけあげている形である。統帥府の空気は私より強い、戦局は五分五分である、互角である、負けとは見ていない。

次いで二、三の問答あり。

   米内海相 戦争は互角というが、科学戦として武力戦として明らかに負けている。局所局所の武勇伝は別であるが、ブーゲンビル戦以来、サイパン、ルソン、レイテ、硫黄島、沖縄島皆然り、皆負けている。

 阿南陸相 会戦では負けているが、戦争では負けていない。陸海軍間の感覚がちがう。

 米内海相 敗北とはいわぬが、日本は負けている。

 阿南陸相 負けているとは思わぬ。

 米内海相 もし勝つ見込みあれば問題はない。

 阿南陸相 ソロバンでは判断できぬ。とにかく国体の護持が危険である。条件つきにて国体が護持できるのである。手足をもがれてどうして護持できるか。・・・(同上書****100~101頁)

 この陸相と海相の議論は、そのまま陸軍と海軍の立場と主張の違いを表しているのです。終戦間際とはいえ、所与の情報が限られている、まだ戦いの続いている最中に、どれだけ大局的かつ客観的な情勢認識と正確な判断ができるかは、実際にその渦中に置かれた人でないとわからないものです。しかし、歴史の様々な状況を知っている後世の我々から見れば、どちらの認識がより正しかったかは判断できるのです。その意味でも、拮抗する両論をどう収拾するかが、御聖断に委ねられたということになります。

   昭和天皇のこの第一回目の御聖断の御言葉のより詳しい内容を、ここで迫水久常著「大日本帝国最後の四か月***** 終戦内閣“懐刀”の証言」(2015年河出文庫版、河出書房新社刊)から見てみましょう。迫水氏は、当時この御前会議に出席していた内閣書記官長として、できる限り陛下の御言葉を正確に再現することに努めた人物であるからです。

・・・総理がじぶんの席にもどると、陛下は少しからだを乗り出すようにして、口を開かれた。

 「それならば、わたしの意見をのべよう。わたしの意見は、外務大臣の意見に同意である」

 地下十メートルのところに掘られている防空壕のなかである。もの音ひとつきこえない。陛下の声は参列者の胸に突き刺さった。わたしは感きわまり、涙がほとばしり出た。まえにおいてあった書類には雨のあとのように涙のあとがついた。わたしの隣席の吉積(*陸軍省軍務)局長、そのまた隣席の梅津参謀総長の書類の上にも涙のあとがにじんでいくのをみた。

   つぎの瞬間、すすり泣きの声がもれてきた。やがて、すすり泣きは号泣に変わった。わたしは涙のかなたにボンヤリと浮かびあがっている陛下のお顔を垣間みた。はじめは白い手袋の手で、親指をしきりに動かしてめがねを拭いておられたが、ついには両方のほおをしきりに拭っておられた。陛下のおことばはこれで終わりかと思っていたら、しばらくたって、腹の底からしぼり出すようなお声で「念のためにいっておく」と前置きされたのち、つぎのようなことを、とぎれとぎれにいわれた。

   大東亜戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、どうも予定と結果とがたいへんちがう場合が多い。いま、陸軍、海軍では、さきほども大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、わたしはその点について心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防備について話をきいたが、実は、その後、侍従武官が現地をみてきての話では、総長の話とはたいへんちがっていて、防備はほとんどできていないようである。また、先日、編成を終わった師団の装備について、参謀総長から完了した旨の話をきいたが、実は、兵士に銃剣さえ行き渡っていないありさまであることがわかった。このような状態で本土決戦へ突入したら、どうなるか。わたしは非常に心配である。あるいは、日本民族はみんな死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるか。わたしの任務は祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来ふたたび起き上がってもらうほかにこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。それに、このまま戦争をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者はみな忠誠を尽くした人びとで、それを思うと、実にしのびがたいものがある。しかし、今日は、そのしのびがたきをしのばなければならないときだと考えている。わたしは、明治天皇の三国干渉のときのお心持ちも考え、わたしのことはどうなってもかまわない。たえがたいこと、しのびがたいことではあるが、この戦争をやめる決心をした。

   すべては、陛下のおことばによってきまった。ときに(*八月)十日の午前二時二十分であった。

・・・(同上書*****206~209頁)

 現在の観点ではなく、大戦争を戦ってきた最終盤の大日本帝國に於いて、一体この御聖断以外に、誰がどのようにして、終戦を決められたでしょうか。このことを、わたくしたち日本人は、もう一度しっかりと受け止め、考えるべきではなかろうか、そのように思います。この陛下のお言葉の内容と、以前第18回にてご紹介した、クーデター計画案を起案した、陸軍中枢の優秀な中堅幕僚の次の陳述を、よく読み比べてみる必要があります。再録します。

  「此の度天皇は民族の根さえ残って居れば国家再興の時機は必ず到来すると申されたが果たしてそれでいいのか。天皇裕仁はそう申されても、それは明治天皇や其の他皇祖皇宗の御考えと一致して居るの(*と?)は思われない。今上天皇の御意図に反することは避け度いけれども、たとえ一時そう云う結末になっても皇祖皇宗の御志に副うて行動することが大きな意味に於て本当の忠節である。東洋思想に依れば承詔必謹のみでは不十分で諫争と云うことがあって本当に忠義になるのである。(*中略) たとえ又民族が殆ど滅亡に等しき迄に殺されて了ったにしても、国体を護持せんとしたその意志は永久に青史に生きるであろう。反対に民族の肉体的生命は残っても意志を放棄した民族は国家として再興出来ぬであろう。」(「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料(上巻)」513頁)(*筆者記註)

 わたくしは、やはり昭和天皇のお考えとお言葉通りに、見事に終戦がなされて本当によかったと存じます。もし本土決戦をやっていれば、私も含め読者の中には、相当数のこの世に生まれ得ない日本国民が多数あったものと思われます。本土決戦による追加犠牲者数が、米軍のいう五百万人か一千万人かはわかりませんが、確実にその子孫は論理的に現在存在し得ないのですから…。私の父は当時海軍兵学校生徒でしたから、本土決戦では戦死した確率は高く、そうなれば私自身も、子供も孫も、そしてこのブログも、今この世に存在していないのです。