大東亜戦争の開戦前、昭和16(1941)年4月13日付で「日ソ中立条約」が締結され、5年後の昭和21(1946)年4月までは有効期間でした。ソ連はモロトフ外相が、昭和20(1945)年4月5日に条約廃棄通告をしましたが、同条約第3条に従って、昭和21(1946)年4月25日までは同条約が有効であることを、モロトフ外相も確認しています。日ソ中立条約の条文は以下の通りです。

   第一條

   両締約國ハ両國間ニ平和及友好ノ關係ヲ維持シ且相互ニ他方締約國ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

   第二條

   締約國ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三國ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約國ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

   第三條

   本條約ハ両締約國ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約國ノ何レノ一方モ右期間滿了ノ一年前ニ本條約ノ廢棄ヲ通告セサルトキハ本條約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

   第四條

   本條約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ

(*尚、この条約本文に以下の声明書が添えられています。)

   聲明書

   大日本帝國政府及「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝國及「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦間ニ締結セラレタル中立條約ノ精神ニ基キ両國間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝國カ蒙古人民共和國ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社會主義共和國聯邦カ滿洲帝國ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ聲明ス

   昭和十六年四月十三日「モスコー」ニ於テ

大日本帝國ノ爲 松岡洋右 建川美次

「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦政府ノ委任ニ依リ ヴェー、モロトフ

 

〔出典:大日本帝国及「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦間中立条約・御署名原本・昭和十六年・条約第六号〕(*裕鴻註記)

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000040083

 

 一方で、昭和20(1945)年2月8日に始まったクリミア半島のヤルタ会談において、米英ソ三国首脳による「極東密約」が結ばれていました。はからずも同年4月12日に高血圧による脳出血で急逝するルーズベルト大統領と、同年7月26日に総選挙で敗北して下野するチャーチル首相が、ソ連のスターリン首相と三人揃って顔を合わせた、最後の三国首脳会談となりました。迫水久常著「大日本帝国最後の四か月** 終戦内閣“懐刀”の証言」(2015年河出文庫版、河出書房新社刊)から、そのヤルタ密約の内容を見てみましょう。(*裕鴻註記)

・・・このとき(*ヤルタ会談で)、秘密のうちにソ連の対日戦参加が約束された。かれらは一週間後の(*1945年)二月十一日、日本の紀元節(いまの建国の日)にあたる日に秘密協定を結んでいる。内容はつぎのようなものであった。

 

   ソ連、米国および英国の指導者は、ドイツが降伏し、かつ、ヨーロッパにおける戦争が終結したのち、二か月または三か月をへて、ソ連邦が左(*次)の条件により連合国に味方して日本国に対する戦争に参加することを協定した。

   一、外蒙古(*蒙古人民共和国)の現状はそのまま維持されるものとする。

   二、一九〇四年(明治三十七年)の日本国の背信的攻撃(*日露戦争のこと)によって侵害されたロシア国の旧権利は、つぎのように回復されるものとする。

   イ、樺太の南部およびこれに隣接する一切の島嶼はソ連邦に返還されるものとする。

   ロ、大連商港におけるソ連邦の優先的な利益はこれを擁護し、同港は国際化され、またソ連邦の海軍基地としての旅順港の租借権は回復されなければならない。

   ハ、東清鉄道および大連に出口を供与する南満洲鉄道は、ソ中合弁会社の設立により共同運営されるものとする。ただし、ソ連の優先的利益は保障せられ、また、中国(*中華民国)は満洲における完全なる主権を保有するものとする。

   三、千島列島はソ連邦に引き渡されなければならない。

   前記の外蒙古ならびに港湾および鉄道に関する協定は、蔣介石総統の同意を要するものとする。ルーズベルト(*米大統領)はスターリン(*ソ連首相)からの通知によって、右同意を得るための措置をとるものとする。

   (*米英ソ)三大国の首脳は、ソ連邦の右(*上記)の要求が、日本国の敗北したのちにおいて確実に満足せしめられるべきことを協定した。ソ連邦は中国(*中華民国:蔣介石政権)を日本国の羈絆(*きはん)から解放する目的をもって、自己の軍隊によりこれに援助を与えるため、ソ連邦―中国(*中華民国)間友好同盟条約を中国(*中華民国)と締結する用意のあることを表明する。

・・・(**上記書161~162頁)

 

 こうしたヤルタ会談での極東密約を知らない大日本帝國政府は、ソ連が上述の通り昭和20(1945)年4月5日に日ソ中立条約廃棄通告をしても、同条約第3条によって昭和21(1946)年4月25日までは同条約が有効であることから、一応この国際条約をソ連が遵守するであろうと想定し、昭和20(1945)年4月30日に自決したヒトラー総統のあとを継いだデーニッツ総統が、直後の5月8日に連合国軍に降伏調印をしたことを踏まえ、中立のはずのソ連を仲介して、なんとか講和の道を探ろうとしていたのです。ムッソリーニも同年4月28日には銃殺されており、大日本帝國がかつて頼みとした日独伊三国同盟は崩壊し、全世界から孤立したわが国は独り戦いを続けていたからです。

   また陸軍部内では、ソ連を仲介とした講和には反対しないという姿勢が伺われました。それは満洲を守る関東軍から、既にかなりの戦力を抽出して南方戦線等に投入していたので、手薄になっている満洲へのソ連軍の侵攻を避けたいという目論見や、アリューシャンから米軍がソ連との連携によってカムチャッカ半島を経てソ連極東部に航空基地などの足掛かりを持つようになれば、北東方面への米航空戦力の展開による、千島列島・樺太、満洲・朝鮮半島、本土北東部への空襲なども招きかねない、との懸念もあったものと思われます。

   鈴木貫太郎内閣で国務大臣兼情報局総裁を務めた下村海南(*宏)氏の著書「終戦秘史***」(昭和60年再刊、講談社学術文庫版)の51頁にも「これはいかにも不思議だが、陸軍はいつも和平(*交渉)はソ連一本槍であった。」と記述されています。同上書***によれば、小磯國昭内閣時代の昭和19(1944)年9月の最高戦争指導会議では当時の杉山元陸軍大臣や梅津美治郎参謀総長も賛成したという「ソ連を仲介する和平交渉案*」において、ソ連への「お土産」とした次のような条件まで、陸軍首脳は容認していたといいます。

・・・この案*につき、杉山陸相の発言に梅津参謀総長も小磯首相も賛成したが、重光(*葵)外相(*対ソ強硬派)の絶対反対により立消えとなった。当時のソ連へのお土産は、

   一、満洲は中国へ返還する。満洲に於て有していたソ連の権益については、中国(*中華民国南京国民政府:汪精衛・陳公博政権)とソ連間で話し合って決める。

   二、南樺太はソ連へ返還する。

   三、朝鮮は独立せしめ、中立として日ソの緩衝地帯とする。(日露戦争前にかえる)ということであった。・・・(前掲書***51~52頁)

 つまりは、このように相当な譲歩をしても、とにかくソ連を敵に回さずに、和平の仲介をさせようというのが、既に小磯内閣時代からの帝國陸軍首脳の考え方だったということです。陸軍が反対するような和平交渉を進めることは、政府・内閣にはできません。従って、昭和20(1945)年4月7日に小磯内閣のあとを受けて成立した鈴木内閣になっても、ソ連を仲介して和平交渉をするという基本的なスタンスは、「変えようがなかった」とも言えるのです。当初鈴木内閣の外相就任をなかなか受けようとはしなかった東郷茂徳外相については、前掲の迫水久常著「大日本帝国最後の四か月**」によれば、次のような記述があります。

・・・東郷外相は、入閣後まもないころから米国と直接和平の交渉を進める腹づもりでいたが、軍部(*陸軍)の反対に出合い苦慮していた。そのころ、米国は、日本の国家としての無条件降伏を要求すると内外に向かって公言していたので、国体の護持を絶対の条件とする以上、直接の話合いは、土台無理だと考えられた。米国と直接談判できないとすれば、次善の策を講じなければならない。結局、最少限度にソ連の参戦を防ぎ、できることならば、ソ連を間にたてて、少しでも有利な講和をもたらすという目的で、活発な対ソ工作をくりひろげることで閣内の意見が一致した。この工作は、秘密のうちに進められた。東郷外相は、ベテラン外交官の広田弘毅元首相に白羽の矢を立てて、私的にマリク駐日ソ連大使に接触させて、ソ連側の意向を打診してほしいとたのんだ。これが軍部に知れわたると、どんな事態が起こるかわからないので、ことは慎重に運ぶ必要があった。

・・・(**前掲書33~34頁)

・・・(*昭和20年)六月二十九日、(*広田元首相は)四たびマリク大使に会ったが、この会談は沖縄が壊滅的な打撃を受けた直後なので、これ以上の進展をみることなく終わった。沖縄戦線の敗北が悪材料の一つになったことは否定できないが、このほかにも会談の成立をさまたげる大きな要因が介在した。それは陸軍の憲兵である。

 広田元首相がソ連を通じて和平工作をしているといううわさをききこんだ憲兵は、広田邸へ乗りこんで事情をきいたり、ある時は、ぶしつけにもマリク大使に会見を求めるようなこともした。非礼きわまりないことだが、当時の憲兵のなかには、極端に行き過ぎたものもあって、かれらの行動には常軌を逸するものが多かった。少しでも和平を口にしたり、戦争の見込みについて悲観的な言動をする者は、ただちに軍(*陸軍)の意向にそむくものとして逮捕していた。戦後日本の政治的基盤を築いた吉田茂元首相なども鈴木内閣が成立するのと時を同じくして和平論者の烙印を押され逮捕された。(*いわゆるヨハンセン(吉田反戦)・グループの監視)・・・(**前掲書35頁)

・・・(*昭和20年)五月に入ってまもない十一日、鈴木内閣のもとで第一回の最高戦争指導会議(*首相・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長の六名)が開かれた。ついで、翌十二日には第二回の会談が開かれ、一日おいた十四日には第三回の会談といったぐあいに矢継ぎばやに進行し、一つの結論を導き出した。このときの主な議題は、東郷外相の強い発言が認められて、日本とソ連の関係を好転させようというものだった。東郷外相はつぎのような覚え書きをつくり、鈴木総理をはじめ、他の五人(*阿南陸相・梅津参謀総長・米内海相・及川軍令部総長・東郷外相本人)の了解を得ている。

 (*以下が覚書の内容:)

 日ソ両国の話合いは、戦争の進展により、多大の影響を受けるばかりでなく、その成否いかんもこれによるところ大である。現下、日本が米英との間に国力を賭けて戦いつつある間においても、ソ連の参戦をみるようなことがあってはならない。もしソ連が大東亜戦争に直接介入してきたら、日本の死命はたちどころに制せられてしまう。このため、対米英の戦争がどのような様相を呈するにせよ、日本は極力ソ連の参戦を防ぐための努力を惜しんではならない。なお、わがほうとしては、ソ連の参戦を防ぐだけでなく、進んでその好意的な中立を獲得し、ひいては戦争の終結に関し、わがほうに有利な仲介をさせるのがもっともよい方法である。これらの目的を実現させるため、すみやかに日ソ両国の話合いをはじめなければならない。わがほうとしては、ソ連が対独戦争で勝利をおさめたのは日本があくまで中立の立場をとったからであると力説し、近い将来、ソ連は米国と相対立することが確実なので、日本をして国際的に相当な地位を保たしめるのが良策であることを説く必要がある。かつ、日、ソ、支(*中華民国南京国民政府)の三国が団結して、米英にあたるときがくることを知らせなければならない。そうすれば、ソ連の最高指導者たちは日本のいうことをきいてくれるかもしれない。ただ心配されるのは、ソ連が対独戦争を終わったあと、その国際的な地位が向上したと思いこむと同時に日本の国力がいちじるしく低下したとの判断をもっているのは確実なので、ソ連側の要求が急にふくれあがってくるのは覚悟しなければならない。ソ連の欲求は、かつての(*日露戦争終結時の)ポーツマス条約の破棄を中心としてくるだろうから、日本は極力それを軽減するようにつとめなければならない。この交渉を成立させるためには、ポーツマス条約および日ソ基本条約を廃棄することにし、つまるところは南樺太の返還、漁業権の解消、津軽海峡の開放、北満(*満州北部)における鉄道の譲渡、内蒙古におけるソ連の勢力範囲の拡大、旅順、大連の租借などの要求を覚悟しなければならない。場合によっては、千島列島の北半分を譲渡することもやむを得ない。ただし、朝鮮はわがほうに留保することにし、南満州は中立地帯にし、できる限り満洲国の独立を維持するようにしなければならない。なお、中国については、日、ソ、中三国の共同体制を樹立することがもっとも望ましい。(*以上が覚書の内容。但しここにいう中国とは、中華民国南京国民政府:汪精衛・陳公博政権のことを意味していると思われる。)

 この覚え書きは、厳秘にされていて、関係者以外はだれも知らなかったが、六巨頭会談(*最高戦争指導会議の正式メンバー)の席上東郷外相は、つぎのようなことばをつけ加えた。

 「ヤルタ会談(*昭和20年2月)では、おそらく、日本についての問題がとりあげられていると思うが、今日の段階では、ソ連を日本側に引き入れるのは、たいへんむつかしく、望みは薄いとみなければならない。従来のソ連のやり口からみて、大東亜戦争への参加を防ぐことはなかなかむつかしいと思われるので、むしろ、米国を相手にして、直接、終戦へもっていくのがいちばんよいのではないだろうか」

 「今後採るべき戦争指導の基本大綱」は、(*昭和20年)六月七日の閣議の席にも提示された。このあと、陸軍側の申し出もあって、御前会議を開くことになった。・・・(**同上書28~31頁)

 

 ここで、この昭和20(1945)年4月7日の鈴木貫太郎内閣成立に至るまでの、前年からの太平洋の戦局を少しおさらいしておきますと、昭和19(1944)年は、6月19日に事実上最後の日米空母機動部隊同士の決戦であった「マリアナ沖海戦」が、米側の圧倒的勝利に終わり、東條首相兼参謀総長兼陸相が絶対に死守すると言っていたサイパンとテニアン、グアムなどのマリアナ諸島が7月から8月にかけて相次いで玉砕し、米軍が占領したことによって、ここに進出した米大型長距離爆撃機B-29が、直接日本本土を空襲できるようになりました。因みに初の東京空襲は同年11月24日です。開戦以来、陸軍憲兵を駆使して強権的な「東條幕府」と陰口されていた東條内閣も、さすがに持ちこたえることができずに昭和19(1944)年7月22日に総辞職し、同日付で後継の小磯國昭内閣が成立します。

   この時、東條英機首相兼陸相兼参謀総長に歩調を合わせてきた、海軍の嶋田繁太郎海相兼軍令部総長も退任し、昭和天皇の特旨によって現役に復帰した元首相・海相の米内光政提督が海軍大臣に復帰しました。また軍令部総長には、及川古志郞元海相が就任します。陸軍も陸軍大臣には杉山元・元参謀総長/陸相が就任、参謀総長には梅津美治郎元関東軍総司令官が就任しました。しかし小磯内閣下の戦局は益々傾き、小磯首相が注力した蔣介石政権との和平交渉(繆斌工作)も頓挫して、翌年4月7日に総辞職します。そのあとを受けて、いよいよ鈴木貫太郎内閣の登場となるのです。

   ところで、昭和20(1945)年2月18日~3月22日の硫黄島侵攻によって、米軍は航続距離の短い護衛戦闘機をB-29に随伴させて、本土空襲に参加させることができるようになりました。

   これで完全に日本本土は米戦略爆撃機の攻撃圏内になったため、この頃から東京をはじめとする全国の主要都市に対する空襲が激化し、次々に各都市は壊滅してゆくことになります。帝都東京だけみてみても、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲に始まる、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25―26日の計5回の空襲は極めて大規模なものであり、天皇陛下が居住される明治宮殿も5月25日の空襲で炎上・消失しています。

 一方で、南方からの石油を含む各資源の海上輸送ルートを脅かす、フィリピン諸島の攻防も、昭和19(1944)年10月20日にマッカーサー大将自らが米陸軍部隊を率いてレイテ島に上陸し、その後の在比島帝國陸軍部隊の死闘に呼応して、帝國海軍も10月20―25日に行われた「レイテ沖海戦」に、残る連合艦隊の全力を投入して戦いました。もはや実質的な艦隊航空戦力を失っていた第三艦隊基幹の空母機動部隊(小澤治三郎司令長官)は、連合艦隊司令部(豊田副武司令長官)の作戦計画に従って、旗艦瑞鶴など空母四隻を犠牲にしつつ、ハルゼー提督麾下の米空母機動部隊主力を、自らが囮となって見事に北方海域に吊り上げました。その隙に、栗田健男司令長官が率いる第二艦隊(大和・武蔵など戦艦主力の水上部隊)基幹の第一遊撃部隊と、低速力のため別行動の西村祥治司令官率いる旧式戦艦山城・扶桑主力の第三部隊、そして志摩清英司令長官が率いる第五艦隊基幹の第二遊撃部隊がレイテ湾に突入する計画でした。

   真珠湾で一旦沈められ、修理された米戦艦六隻を主力とする米艦隊が待ち受けるレイテ湾に突入したのは、西村提督指揮の第三部隊と志摩提督率いる第五艦隊(旗艦那智)だけでした。西村司令官坐乗の旗艦山城は沈みながらも主砲を発射し続け、扶桑も激戦の中で火を吹きながら沈みます。詳しくは次の記事をご参照下さい。

   主力とする第二艦隊(栗田健男司令長官)は、まず米潜水艦の雷撃で当初の旗艦重巡愛宕と、摩耶が沈没し、高雄が一時航行不能となり戦線離脱となりました。栗田司令部は旗艦沈没で泳いだあと、戦艦大和に旗艦を移し、その後度重なる米航空戦力による空襲で戦艦武蔵を失いつつも、「サマール沖海戦」で偶然遭遇した米海軍護衛空母部隊に対し、大和・長門・金剛・榛名の戦艦部隊と重巡部隊の砲戦による交戦を行い、護衛空母ガンビア・ベイと米駆逐艦2隻を撃沈し、他の米護衛空母4隻に損傷を与えました。皮肉なことに米護衛空母の装甲が薄かったために、命中した徹甲弾はそのまま艦体を突き破って反対舷から海中に没し、有効弾とならなかったために、これらの護衛空母は多数の穴が空いても沈没には至らなかったのです。しかし、第二艦隊では、これらの空母を正規空母と誤認し、戦艦の砲撃で空母1隻、重巡1隻、大型駆逐艦1隻を撃沈、空母2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を撃破・損傷させたものと思っていました。

   この護衛空母部隊との遭遇戦の後、第二艦隊は隊形を整え、あらためてレイテ湾に突入する南方への針路に戻しました。しかし、その後程なくして、第二艦隊司令部の大谷藤之介作戦参謀による米主力空母機動部隊発見の報により、栗田長官は同湾突入を中止し、北方近くに所在するとされた敵主力艦隊撃滅に向かいましたが、実はこれは虚報ないし誤報で、敵艦隊を捕捉できず、戦機を失してレイテ湾再突入も不可となり、結局多くの艦艇を失って撤退する結果となりました。こうして連合艦隊の最後の艦隊決戦は、敗北に終わりました。

   期待された地上航空部隊も、米空襲などで稼働機が激減しており、ついに帝國海軍は在比島の大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官の指揮のもと、10月25日に「十死零生」の航空特攻作戦を開始します。これに先立つ10月20日の第一神風特別攻撃隊命名式の時点では、隊長の関行男(せきゆきお)大尉(戦死後二階級特進にて海軍中佐、海兵70期)が直率した敷島隊以下、のちに久納好孚(くのうよしたか)中尉(戦死後二階級特進にて海軍少佐、法政大学出身予備学生11期)が加わった大和隊、朝日隊、山桜隊、菊水隊の下士官特攻隊員24名(全員が甲種予科練10期生)が最初に選抜・編成され、のちに若桜隊、葉桜隊、初桜隊、彗星隊が加わり、計9隊が第一航空艦隊による第一神風特別攻撃隊となりました。(出典:金子敏夫著「神風特攻の記録」2001年光人社刊、38~59頁及び82~59頁から抜粋整理)

   この第一神風特別攻撃隊の各隊は、それぞれが悪天候や索敵に悩まされながら出撃と帰還を繰り返しつつ、敵空母部隊を首尾よく発見できた場合には、躊躇無く爆装零戦が突入しました。戦果は多岐に亘りますが、例えば護衛空母を取り上げてみると、10月25日に関隊長率いる敷島隊5機が突入に成功し、1機が突入したセント・ロー撃沈、2機突入のカリニン・ベイ大破、1機突入キトカン・ベイ小破、1機至近突入のホワイト・プレインズ小破という戦果が確認されています。また大和隊第三次攻撃隊は、10月26日に護衛空母スワニーに2機が突入して大破させ、同じくペトロフ・ベイの艦橋付近にも1機が突入して炎上撃破しています。また初桜隊の1機は正規空母イントレピッドの機銃座に突入し小破させています。

   これに先立つ10月25日には菊水隊・朝日隊・山桜隊が発見・攻撃し、護衛空母サンティーの甲板に1機が突入しましたが爆弾が不発弾で中破にとどまりました。加えて護衛空母スワニーは2機の特攻機を撃墜したものの、次の1機が甲板に突入して損害を受けましたが応急修理して復帰した翌日に、上記の大和隊の攻撃を受け、また大破しつつも沈没せずに退避し、本国で翌年1月末まで修理を受け、同艦はその後沖縄戦に参加することになります。米海軍のダメージ・コントロール(損傷時復旧能力)は極めて高く、損傷を受けてもなんとか沈没せずに帰還できる艦船が多かったことは、評価すべき点です。

   上記の他にも正規空母のフランクリン大破、レキシントン中破、エセックス中破、軽空母のベローウッド大破、カボット中破や、空母以外の戦艦・巡洋艦などの艦艇も特攻機により大破・中破して戦線を離脱しています。(出典:金子敏夫著「神風特攻の記録」2001年光人社刊、82~133頁から抜粋整理)

   こうして若き特攻隊員たちが生命を引き換えにした戦果は、無視できない戦法として特攻作戦を継続・拡大させ、特に本シリーズ第16回でも先述した沖縄攻防戦における集中的な特攻攻撃につながっていったのです。そしてもし本土決戦が行われたならば、この特攻攻撃と玉砕戦法が陸海軍将兵のみならず、義勇兵として動員される一般国民にまで課せられたことは間違いないのです。


   一方でその後、昭和20(1945)年1月6日から始まったルソン島攻略戦では、3月3日には激戦の末に首都マニラを米上陸軍が占領しましたが、引き続き同島北部に立て篭もる日本軍との死闘は、終戦まで続きました。しかし主要なフィリピンの航空基地は米軍が再占領し、実質的には比島は米軍の勢力圏となり、南方から日本本土への資源輸送の海上交通路は、米軍の制空権下に入ったため、実際上途絶せざるを得なくなりました。

   つまり日本本土決戦用の石油も資材もその他の資源も、南方からは入って来なくなったのです。重油も航空用ガソリンも残りは僅かでした。本土では、松の木の根っこから搾り出した松根油をガソリンの代わりに航空機の燃料として使用することまで、試みざるを得なかったのです。飛行性能が悪くなるのみならず、このため墜落した飛行機まで出るような粗悪な燃料事情になっていったのです。

 そして昭和20(1945)年4月1日に沖縄本島への上陸を開始した米軍と、沖縄所在陸海軍部隊の激戦が続きましたが、陸軍中央にはこのあとに想定していた「本土決戦準備のための時間稼ぎ」という観点があったのに対して、海軍では「沖縄は太平洋戦争の最後の砦」という認識に基づき、連合艦隊は天一号作戦を発令し、残存していた虎の子の戦艦大和以下十隻の「最後の艦隊」を水上特攻隊として沖縄に向けて出撃させ、4月7日の「坊ノ岬沖海戦」で、旗艦大和以下計六隻が米海軍空母機動部隊発進の艦載機群に撃沈され、最高指揮官の伊藤整一第二艦隊司令長官は作戦の中止を命令し、自らは沈む大和と運命を共にしました。

   このあと軍令部総長に就任する直前の豊田副武連合艦隊司令長官は、十次に亙る航空特攻作戦(菊水一号~十号作戦)を敢行し、菊水作戦だけで海軍機930機、陸軍機931機の計1861機、菊水以外の海軍機707機を合わせると総数2568機が特攻機として沖縄戦で連合軍艦船に突入しました。護衛・戦果確認機などの被害も含め、日本陸海軍はこの特攻機作戦で3千名以上の戦死者を出しましたが、米軍や英連邦軍など連合軍艦船も36隻が沈没、368隻が損傷を受け、各々5千名近い戦死者と戦傷者を数え、合わせて1万名近い戦死傷者を出しています。(出典:金子敏夫著「神風特攻の記録」2001年光人社刊224~225頁)

 しかしこのような特攻作戦による必死の攻撃にも拘わらず、米軍の強力なロジスティックス(補給力)による圧倒的な物量と戦力の前に、奮戦した在沖縄陸海軍部隊もほぼ組織的戦闘能力を失い、昭和20(1945)年6月23日には、沖縄守備軍最高指揮官の牛島満司令官と長勇参謀長が自決して沖縄は陥落し、いよいよ本土決戦を迎えるしかないという状況に立ち至ったのです。このような絶望的な状況のなか、大日本帝國はどうするのかが、鈴木貫太郎内閣及び統帥部たる参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)に委ねられたのです。(次回に続く)