読者の皆様には何のお知らせもできずに、しばらくご無沙汰を致しましたこと、心よりお詫び申し上げます。実は、コロナに感染し闘病しておりました。今も咳が少し残っていますが、ある日突然発熱し、咳と痰と喉の痛みの症状が出たので最寄りのクリニックにかかったところ、コロナ検査で陽性でした。

 早速抗ウイルス薬と熱・咳・喉の対症療法薬の投薬をして戴き、自宅で療養しましたが、すぐに家内にも伝染しました。幸い同居の91歳の母には、何とか感染させないで済みましたが、家内は自身が40℃を超える高熱のなか、家族の食事を用意し看病してくれ、心から感謝の気持ちで一杯です。家内がいなかったら、きっと一家全滅ではなかったかと思うほどの危機的事態でした。

 コロナについてはここ数年、巷間様々な情報が流れ、陰謀説だとか、風邪と変わらないなどという説も目にしていました。一応高齢者としての用心から、すでに6回の予防接種は受けていましたが、いざ今回感染してみると、大変でした。人によって症状の出方や強弱が異なるのか、家内は高熱が酷かったのですが、私の熱はせいぜい38℃台でした。しかしそれよりも、喉の痛みが激しく、お水を一口飲み下すだけでも、まるで喉の皮を一枚剥がされる様な激痛が走りました。熱も出ているし、とにかく水分を採らねばと思うものの、とにかく喉を通らず、大変苦しい状態が四日間ほど続きました。後半に気がついたのですが、救世主は「牛乳」でした。

   上述した通り、ミネラルウオーターは、ほんの一口飲むだけでも喉が痛くて飲み込むのが大変なのに、ふと思って牛乳を飲んでみたところ、するすると喉を通ったのです。本当にミルクのおかげで、水分も栄養も摂ることができて、命拾いしました。もしも皆さんも罹患されたら、ぜひ牛乳をそのままで飲んでみてください。特に温めたりしなくて、そのまま冷たい牛乳が良い様に思います。私は不思議と喉の痛みがほとんどない状態で飲むことができました。

 現在定められている「5日間」を過ぎてもなかなか症状は消えず、ようやく発症後2週間を経過してほぼ完治しました。でもまだ咳は少し残っています。実際にコロナに罹患してみて思うのは、まずはコロナという病気が実際に存在することを、あらためて実体験として確認したということです。また症状も、それまでに聞いたり読んだりした通りの症状が出たこと、そして普通の風邪などとは比べものにならない様な激しい痛みを伴う症状であり、これまで6回接種していたワクチンが効いたのかどうかはわかりませんが、65歳以上という危険年齢であるにも関わらず、幸い重症化せずに済んだという事実。そして、最も症状の酷かった状況から鑑みるに、もし重症化してしまったら、生命に関わる状態になったであろうことが実感できました。幸いに家族ともどもそのような重篤な事態にまでは至らず、今回は助かりましたが、それでも各症状には苦しみ、「やはりコロナは侮れない」と強く認識せざるを得ませんでした。

 そして、インターネットの世界で様々に流れているコロナに関する情報について、真摯に考えさせられました。もちろん人によって、体質などの違いから、一概には言えないことも多かろうとは思います。しかし、少なくとも「コロナなどは存在しない」という類いの情報は間違いであり、実際に存在することを実体験しましたし、またその症状も通常の風邪とは段違いの、大変苦しく痛みを伴う病気であることも体感しました。ワクチンについても様々な情報や否定的意見もありますが、少なくとも私自身と家族については、ワクチンを6回打っていたことが、重症化せずに済んだのかもしれないと肯定的に理解できる心境です。もとより医学者でもないただの患者としての実感なので、権威も何もない心象ですが、それでも実際に苦しんだ者としては「真実」なのです。

 「情報」というものが如何に大きな影響を及ぼすものであるか、もともと海軍史を渉猟してきた関係で、インテリジェンスの歴史や問題にも触れてはきましたが、あらためて考える機会となりました。比較的症状が軽くなった一週間、それでも仕事は全く手に付かないなか、昨今話題になっていたT B S「日曜劇場」のドラマ「VIVANT」を、U-NEXTで纏めて視聴しました。一億円かけたというモンゴル-ロケを含む大迫力の映像もさることながら、今まで陽の当たることのなかった日本の情報機関を取り上げた内容を、大変興味深く拝見しました。「VIVANT」は「別班」のことではないか、というキーワードが示す、戦後日本の「影の部隊」を主役の一つに据え、また存在は知られてはいるものの、その実態には謎も多い公安警察や外事警察も交えて、エンターテイメントとしては大変面白いテレビドラマに仕上がっていました。

 「別班」については、2013年11月28日付の共同通信の「陸自、独断で海外情報活動 首相、防衛相に知らせず 文民統制を逸脱 自衛官が身分偽装」という記事で一躍脚光を浴びましたが、この記事を書いた石井暁氏の「自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体」(講談社現代新書2018年刊)を読むと、その取材の過程や詳しい内容がわかります。

 アメリカではエドワード・スノーデン氏でも有名な「N S A」、イギリスでも映画の007:ジェームス・ボンド海軍中佐で有名な「M I 6」など、近年までその存在自体が同国政府によって否定されてきた情報機関があります。日本政府としては、「別班」などという組織は存在しないと公式には答えていますが、上記の石井氏の著作以外にも、この「別班」に関して記述している書籍は複数存在しています。その中でも、今回は、次の二冊に着目したいと存じます。まずは、「**特務 日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史(Special Duty  A History of the Japanese Intelligence Community)」リチャード・J・サミュエルズ(Richard J. Samuels)著、小谷賢訳(日本経済新聞出版2020年刊)です。著者のサミュエルズ博士は、同書によればマサチューセッツ工科大学(M I T)フォードインターナショナル教授、M I T国際研究センター所長、M I T―日本プログラム所長というご略歴です。


 そしてもう一冊が、同書の訳者でもある小谷賢博士の著書「***日本インテリジェンス史 旧日本軍から公安、内調、N S Cまで」(中公新書2022年刊)です。小谷博士は、N H Kの歴史番組などにもよく登場されるので、ご存知の方も多いかと思いますが、現在は日本大学危機管理学部教授で、名著「日本軍のインテリジェンス」(講談社選書メチエ、第16回山本七平賞奨励賞)などインテリジェンス関係の著書が多数あり、かつて防衛研究所や防衛大学校にも勤められていたご経歴があります。いずれも高名な学者でいらっしゃるこのお二人の専門家は、この「別班」に関して、それぞれの公刊書(つまりは公開情報)にて、どのような記述をされているでしょうか。


 まずはサミュエルズ博士の上記書「**特務」から見てみましょう。(*裕鴻註記)

・・・ムサシ機関

 少なくとも部分的には証拠づけることができる〔日米の〕直接のつながりは、陸自情報部の下部組織で正式には陸幕第二部別班として知られているものである。日本側にはムサシ機関というアジア太平洋戦争を思わせ、アメリカの同僚には秘密にされていたあだ名で知られている。1954(*昭和29)年、米陸軍司令官ジョン・エドウィン・ハルが吉田(*茂)首相に陸自と米軍が合同で軍事情報員を訓練することを提案した。この目的のために、1955(*昭和30)年に東京とワシントンは最初の一時的な情報連絡協定に署名した。彼らは秘密裏に、30人ほどのアメリカと日本の経験を積んだ人員(青桐グループのメンバーを含む)を持つムサシ機関を、埼玉県にある米軍のキャンプ・ドレイクで立ち上げた。それは米陸軍の軍事インテリジェンス部隊である第500部隊と陸自の陸幕情報部が合同で管理し、その資金の80%はC I Aから防衛庁の内局調査課を通して送られていた。

 1961年まで日米の軍事情報協力は円滑に進行していたようで、どちらの側も正式に彼らの協力が訓練から収集、工作まで拡張されることに合意していた。日本は平等な立場を約束されていたが、その工作部隊は自衛隊の他の部隊にさえ秘密にされることになっていた。ムサシ機関がなぜ陸幕の一部として存在できなかったかといえば、それは公式には財政上の問題であった。その予算は教育訓練活動のみに向けられていたのである。しかし、元陸幕第二部の司令官である塚本勝一は、インテリジェンスは「ごく当然の施策」なのだから正式に認識されるべきであったと論じている。もう1人の元高官は日米の工作員を同じチームに入れていたのは「教育的」であったからだと伝えている。ただ、ムサシ機関で誰が誰を教育していたのかについては議論の的となった。アメリカ側は通例の後見人的態度を維持していたが、元中央調査隊長の寄村武敏は、アメリカ側は陸自の分析官からとくに中国に関してより多くを学んでいたと主張している。その組織図〔図表3・4〕(*本稿では省略)は概念的には公平なバランスを反映している。

 日本側は「直接」外国で行われた工作はないと主張しているが、それは本当ではない。彼らはたいてい基地外で私服で活動し、国内や東アジア全域で共産主義者を監視した。その予算は1963(*昭和38)年には50%が日本の負担になっていた。部隊は漁民や商社の重役、旅行者、観光客などを訓練した。ムサシ機関のエージェントはまた写真を含む情報を、彼らが補助金を出した海外旅行者や来日外国人から収集した。小さな写真館や小売店などの「表の事務所」から活動しており、その事務所は東京に6カ所、大阪に3カ所、札幌に2カ所、福岡に1カ所と日本中にあった。本部は新宿駅近くのこれといった特徴のないビルで、エージェントは「軍隊キャバレー」に足繁く通って軍歌で郷愁にふけることもできた。仕事では、アメリカや日本に対する起こりうる敵対的な活動について知るために、最近(*1960年代)北ベトナムを訪れた日本の商社の従業員や漁民にインタビューした。日本と中華人民共和国が1972(*昭和47)年に関係を正常化した後は、エージェントたちは大陸に行き、台湾政府やその国防部(*国防省)と協力して情報を収集した。・・・(**前掲書180~181頁)

 このように記述されています。現代では、アメリカの15センチレベルの解像度があるといわれる衛星写真や、映画「スノーデン」などにも出てくる高度なコンピューターを駆使したインターネット情報通信や暗号解析などのI T技術の進展により、こうした人を頼りとする「ヒューミント」の情報活動は、当時とはその役割や意味も変わってきていると思われますから、今もこうした活動がそのまま行われ続けている、というわけではないと思います。

   しかし、かつて中国共産党政権とは国交がなく、またソ連や北ベトナム、そして今もそうですが北朝鮮との海外渡航が困難だった時代には、こうした「人に頼った」情報収集活動にも大きな意味があったものと思料されます。映画の「007の世界」もあながち全くの絵空事ではなく、また現在のロシア大統領も若き日々はソ連の情報機関K G Bのエージェントだったことからすれば、非現実的なことでもなかったのです。

   わたくしたち一般市民は、もとより国家機密情報などに接する機会も資格も何もありませんが、唯一合法的に入手できる、こうした公刊図書類からの公開情報からだけでも、世上一般には秘密とされている内容の片鱗や、それらを適宜組み合わせて推理することによって浮かび上がる全体像を「想像」することで、案外真相に近づくこともできるのです。実はこうした断片的情報の収集集積・整理分類・分析読解・体系的再構築などの一連の知的作業こそが、「インテリジェンス」という用語が示す「知的情報活動の本質」でもあるのです。

 秘密のヴェールに覆われた「別班」ですが、もう一つの上記公刊図書「日本インテリジェンス史***」(小谷賢著)の関連する記述を、少し長くなりますが以下に見てみましょう。(*裕鴻註記)

・・・陸上自衛隊幕僚監部第二部

 1951(*昭和26)年9月8日、日本はサンフランシスコ平和条約によって(*連合国軍の占領下からの)独立を果たし、同日(*締結)の旧日米安全保障条約によって、引き続き米軍が日本領土内に留まることが決定した。すでに朝鮮戦争の勃発(*昭和25年6月25日に北朝鮮軍が韓国を侵攻)を契機として50(*昭和25)年8月に警察予備隊が設置され、それは保安隊を経て54(*昭和29)年6月に防衛庁・自衛隊として発足することになる。

 しかし戦前の反省から、この新たな組織には暴走を防ぐための様々な安全弁が仕込まれた。戦後日本はまず日本国憲法第9条によって戦争を放棄し、軍事組織である自衛隊は他国から侵略された時のみに自衛権を発動することが許容された。また軍人が大臣を務めていた戦前とは異なり、戦後は選挙によって選ばれた文民(*civilian)の政治家が防衛庁長官(*現・防衛大臣)となることで、文民統制(シビリアン・コントロール*civilian control)の原則が徹底された。さらに外務省組織令によって日本の安全保障政策については外務省の所掌事務となったので、防衛庁・自衛隊はそこに関与することができなかったのである。

 このような安全弁は、インテリジェンス分野の活動においても同様であった。自前の組織に加え、内閣調査室や公安調査庁の枢要ポストを確保することで、戦後日本のインテリジェンス・コミュニティの中心に躍り出た警察は、防衛庁・自衛隊が発足すると、その情報ポストを押さえることになる。後述するように、防衛庁内局(*文官たる事務官の組織)の調査課長や陸上自衛隊幕僚監部の調査第二部別室長、である。

 当時、防衛庁・自衛隊のインテリジェンスの中心的役割を担っていたのは陸上自衛隊(陸自)である。組織上は情報活動を統括する陸自幕僚監部第二部の傘下に、情報資料を収集する中央資料隊、防諜業務を行う調査隊(C I C)、米軍と隠密活動を行う特別勤務班(別班、ムサシ機関)、電波傍受を行う第二部別室などが存在していた。

   1954(*昭和29)年に陸上自衛隊幕僚監部第二部(*以下、第二部)が設置されると、そこでは情報調査の業務、特にソ連を始めとする共産圏の情報の収集と分析を行うことになる。必要に応じて旧日本軍でソ連情報を担当していた者やロシア語のできる者たちが集められ、中には太平洋戦争期にフィンランドで駐在武官補としてソ連暗号の解読を行っていた広瀬栄一や、後にソ連のスパイ事件で逮捕される宮永幸久も含まれていた。

   第二部ではソ連から日本に帰国してくる引揚者の聞き取りや、ソ連で発行される新聞や雑誌といった公開情報の分析、ソ連のラジオ放送の受信、翻訳業務等も行われていた。(*中略)

 時を同じくして、1954(*昭和29)年には小平に陸上自衛隊調査学校が設置される。その目的は、「防衛および警備のために必要な情報に関する業務等に必要な知識及び技能を習得させるための教育訓練を行うとともに、情報関係部隊の運用等に関する調査研究を行う」とされた。

 教科は戦略情報、情報、航空写真判読、地誌、調査、心理戦防護、英語、ロシア語、中国語、朝鮮語であり、卒業者たちは第二部の調査隊や資料隊に配属されていった。また調査学校の対心理情報課程を修了した者は「青桐グループ」と呼ばれ、後述する別班勤務となることが多かったようである。ただし調査隊の発展に尽力した松本重夫によると、心理情報課程はインテリジェンスというよりは、レンジャーやゲリラ等の特殊工作活動を想定していたという。

 第二部は創設されると直ちに日本のインテリジェンス・コミュニティの一員として、他省庁との情報共有にも乗り出し、毎月内閣調査室や外務省のソ連課とも情報交換会を実施していた。(*中略) さらに第二部の米側のカウンターパートは、キャンプ座間の米陸軍司令部参謀第二部(G2)であり、その隷下の第500部隊と頻繁に接触して情報交換を行っていたという。第500部隊にも、陸軍参謀本部で支那班長を務めた山崎重三郎ら旧軍の情報関係者が40~50名ほど勤めていた。(*中略)

 旧陸軍中野学校を卒業後、陸上自衛隊調査学校(中国語課程)を経て各部隊の資料隊で勤務した寄村武敏は、中国情報については米軍からもらうより与えるほうが多かったと証言している。自衛隊には中国語専門家が10名ほど、在日米軍には50~60名が在籍していたが、質量ともに(*陸自の)資料隊の情報が勝っていたという。後に第二部長となる塚本勝一も、「陸上自衛隊の中央資料隊が持つ情報の正確さを米軍も認め、連絡会議は熱のこもったものになっていった」と述懐している。

   調査隊(C I C)、特別勤務班(別班、ムサシ機関)

   (*前略) 特別勤務班(別班、ムサシ機関)については情報が錯綜していたが、1976(*昭和51)年4月国会で金大中(*キムデジュン)事件への関与が疑われたことにより、その存在が判明する。そして1978(*昭和53)年には『赤旗』特捜班が『影の軍隊****』を出版したことによって、一般にも知られることになる。本書****内では、別班は「日本のC I A」と形容され、米陸軍第500部隊と連携して、金大中事件に関与したと綴られているが、これはかなり誇張された表現のようだ。元別班員の坪山晃三は「実際にはそんな活動はしていません」と証言、三島由紀夫事件で有名な山本舜勝(*きよかつ)も別班で米軍との連絡担当幕僚を務めていたが、『赤旗』の著作はかなり誇張・歪曲されたものだと指摘している。

 坪山によると、別班は朝霞の米軍キャンプ・ドレイク内に25名ほどの人員を抱え、任務は海外旅行者や商社員に聞き取りをして中ソ北朝鮮の現地情報を得ることであったらしく、調査能力は同じ(*陸上幕僚監部)第二部の調査隊のほうが上だったという。金大中事件への別班の関与については不明な点が多いが、韓国中央情報部(K C I A)の依頼を受けて坪山が、当時東京に滞在していた金の所在を確認したことは確かなようである。ただしこの頃、坪山は陸上自衛隊を退職しており(*民間の興信所勤務)、後の金の拉致には関与していない。

 では、別班はどのような経緯で成立したのか。別班長を務めた平城弘通(*ひらじょうひろみち)によると、1954(*昭和29)年頃に在日米軍が日本政府に対して、日米共同防衛作戦の実施と自衛隊による秘密情報工作員育成の必要性を提案したことが事の発端であった。当時C I Aは内調(*内閣調査室)や公安調査庁と協力していたため、米軍としても同様に日本国内にカウンターパートを持っておきたかったものと推察される。その後、日米間で軍事情報専門家訓練(M I S T)協定が結ばれ、同年(*昭和29年)9月から朝霞で教育訓練が開始されている。最初に派遣されたのが、当時(*陸上幕僚監部:陸幕)第二部保全班の山本舜勝であった。

 その後、1961(*昭和36)年6月30日に防衛庁長官承認の下(*つまりは政治家たる文民統制のもと)で、広瀬栄一(*陸幕)第二部長とウッドヤード米陸軍第500部隊指揮官との間で新協定が結ばれ、日米双方で人員と資金を分担(日本が25%、米国が75%)して創設した組織が「ムサシ機関」と呼ばれるようになる。ムサシ機関では自衛官も私服勤務とされ、極東ソ連、北朝鮮、中国、北ベトナム等共産圏に対する調査活動が目的とされた。基本的には国内での活動に限定されていたものの、平城の回想によると、アジア地域の駐在・往復する商社員、ソ連・北朝鮮の港に寄港する可能性のある漁民にも訓練を施し、ある程度は海外の情報も収集していたようである。1960(*昭和35)年当時の工作資金は毎月40万円程度、謝礼は一件2000円程度と内調や警察の一〇分の一程度の額だったという。

 いずれにしても別班は(*陸幕)第二部長の隷下に置かれ、防衛庁内局(*つまり文官たる事務官)の防衛局長、運用課長、調査課長らも承知している存在であったため、自衛隊(*制服組)の極秘機関とはいいがたい。(*すなわち文民統制を逸脱していない。但し文官たる事務官が管掌していれば文民統制なのかということは別問題。)ただし1973(*昭和48)年時点の国会において久保卓也防衛局長(*文官たる事務官)が「私ども別班というものを持っておりません」(第71回国会 衆議院 内閣委員会 第52号 昭和48年10月9日)と発言していたように、できれば世間一般からは秘匿しておきたい組織であったことは確かである。同じ(*陸幕)第二部には通信傍受業務を専門に行う「別室」が存在しており、別班はこの別室と比較され、秘匿度の高い組織と指摘されることもあるが、実際には後述する別室のほうが秘匿度が高く、謎の部分も多い組織だといえる。・・・(***前掲書60~67頁より部分抜粋)

 かつて防衛省の機関に所属されていた小谷賢博士は、このように記述されています。この本は、誰でも購入ができる公刊図書ですから、ここに記述されている内容は公開情報です。従って、政府答弁という政治上の立場はさて置き、「別班」なる組織がどのようなものであったかを、こうした図書を勉強すれば、窺い知ることができるのです。しかし、「別班」なる組織というものが、現在の防衛省の組織編成に存在しないことは十分あり得ます。そもそも組織編成表に記載されていなければ、組織としては存在していないということも事実であるからです。ただ、組織としてではなく、そうした役割や担当業務を担う職員が、別の組織内に存在したり、特命を帯びて業務に従事したりしていることは、民間の企業でもあり得ることです。筆者がかつて所属していた(旧)一部上場の大企業においても、「特命休職」を命じられ、既存の組織に属さずに特定の業務や経験を得るための教育研修などを命じられる場合も少なからずありました。

 従って、組織論上存在していようが、存在していなかろうが、むしろ重要なのは、そうした外国の軍事関連情報の収集の必要性が国家としてあるかどうかが肝心です。頻繁にわが国の排他的経済水域(EEZ)や領海周辺にミサイルを撃ち込まれたり、公船による領海侵犯を受けたり、さらには領土の上空を飛び越して太平洋にまでミサイルを撃ち込まれたりしている「国際的現実」を目の前に見ているわたくしたち日本国民にとって、これら周辺諸国の軍事的な活動を探知し、より正確な情勢判断を政治家の皆さんが行えるように、必要な情報を収集し、整理分析して、政府当局者と自衛隊最高指揮官である文民の首相に助言する必要があることは、明瞭に理解し得るところです。戦後日本のような平和を希求する国であればあるほど、牙を持たないウサギの耳が長いように、情報には鋭敏であるべきです。

 そして、こうした文民統制の制度のなかで、本当に警戒すべきことは、防衛省・自衛隊が必要な情報を取得することではなく、むしろこうした軍事的情報に対する感度も姿勢も低調で、きちんと重要な情報を活かした正しい舵取りを政府と政治家が行うことができるのかどうか、こそが、むしろ国民が真に監視しなければならない文民政治家の義務であり、ホンモノのシビリアン・コントロールを遂行するための、軍事を含む情報に対するあるべき態度なのではないでしょうか。

   第二次世界大戦中のチャーチル首相が、ずっと居住して執務し、まさに文民政治家として戦争の指揮を執っていた地下室施設が、現在は「チャーチル博物館・内閣戦時執務室(Churchill Museum and Cabinet War Rooms)」として一般公開されています。私も家内と一緒に以前ここを訪問し見学したことがありますが、本当のシビリアン・コントロールを戦時に行う政治家は、よほど軍事に関しても卓越した知識と理解のもとに制服組の軍人たちを綜合指揮しなければならない、ということを眼前で彷彿とさせてくれる博物館です。皆さんもロンドンを訪れる機会がありましたら、ぜひ予約して同博物館を見学されることをお勧めします。

 またぜひ2017年の映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(原題:Darkest Hour)」を鑑賞してください。この映画を観ると、軍事に関する「シビリアン・コントロール」を担う首相は、一体どのような立場に置かれ、どのような苦渋の決断をしなければならないか、がよく理解できます。文民政治家が軍事力の最高指揮官であるためには、相当に軍事に関しても勉強し、深く広い軍事的な知識や戦略センスを持っていないと、とても務まりません。

   外野席からは色々と言われるかもしれませんが、現在のロシア軍によるウクライナ侵略戦争から祖国を守り、奪われた国土や連れ去られた子供たちを取り戻そうとして、必死に国民を引っ張っているゼレンスキー大統領のような「政治主導」が、果たしてわが国の政治家にもできるのかどうか、それこそが「文民統制」を守るためにも、最も必要かつ重要な「危惧」なのであって、国際的に危険な軍事的行動を取り続ける中・露・北という周辺国を抱えるわが国が、必要な情報を収集しようと努力することは当然であることを認識するとともに、戦時の「文民統制」をしっかりできる政治家を養成することに、わが国はもっと尽力すべきなのではないでしょうか。それこそが「VIVANT」が存在する意味を、真に問うことであるように思えてなりません。

 冒頭の我が家のコロナとの戦いを終えた今、比べればまことに卑小な危機であったかもしれませんが、それでもやはりいつ生じるかも知れない危機に立ち向かうことの困難さと、それにつけても情報の重要さを痛感したことから、今回のテーマを考究してみた次第です。

   次回からは、現在追究しているシリーズ「日本よ、士魂を取り戻せ!」に、また戻りたいと存じます。