亡くなられた安倍元総理が遺された課題のうち、重要な一つは「第三の矢」を如何にして飛ばすか、ということだったと思います。

 

<「三本の矢」とは>

 

 まずはアベノミクスの「三本の矢」とは何であったかをおさらいします。


「第一の矢」は、大規模な量的金融緩和政策であり、「2%のインフレ目標」とか「円高の是正」などの「デフレ脱却のためのリフレ政策」でした。前者は間違いなく実施され続けており、後者については皮肉なことに、ウクライナ侵略戦争の余波もあって、この2%も円安も達成しつつあります。

 

「第二の矢」は、機動的な財政政策であり、「国土強靭化など大規模な公共事業投資」や日銀と連動した建設国債の買い入れ・長期保有など、「ケインズ的な財政政策」でした。これは今でも、決して十分とは言えないと思います。


「第三の矢」は、民間経済の「成長戦略」であり、企業のイノベーションによる若者・女性・高齢者のそれぞれが輝く「全員参加の成長戦略」でした。しかし、ここが残念ながら、達成できていません。

 

 そしてプライマリーバランスという「財政健全化」を「第四の矢」とするかどうかについては、賛否両論があったといわれています。これは現代貨幣理論(MMT)からすれば、現在も大いに検討の余地があると思われます。


 わたくしは経済学部出身でもなく、経済・財政・金融の専門家でもありません。しかし一時期ではありますが、旧財閥系の大企業で経営計画策定を担当したことや、中小企業の規模ではありますが、十年近く会社経営の実務に携わった経験から、本ブログでしばしば取り上げてきた「高度な平凡性」の観点から、以下に若干の私見を申し述べたいと存じます。

 

<規制緩和の問題>


   「新自由主義」と呼ばれる、経済発展には政府のより一層の「規制緩和」が必要だという、アメリカのミルトン・フリードマンの主張に端を発した「レーガノミクス」的な「市場原理を過大に評価する考え方」が存在します。それが、この「第三の矢」という「新たなる経済成長」の鍵であるように、今だにかなりの経済の専門家がおっしゃっています。しかし、果たして本当にそうなのだろうか、というのがわたくしの素朴な疑問なのです。

 

 大企業を中心とする民間企業は、現在のわが国において、日本政府による「規制」のために、自由な設備投資や新規事業開発ができないというのでしょうか。それが、根本的な原因なのでしょうか。わたくしはそうは思いません。


 そもそも「小さな政府」を理想とし、極力「政府の干渉」を排除し、個人や民間企業の活動を、「最大限に自由にする」ことが、旺盛な企業や個人の経済活動を促し、経済を成長させる鍵である、という見方・考え方自体の「真実性」に関する根底的な疑念を拭えないのです。これは元々、「個人と神の関係」だけに、全ての生活の基礎を置く清教徒の「ピューリタニズム」、つまりは、プロテスタントのキリスト教原理主義に基づく思想なのです。


   そしてこれは、一種の「無政府主義に近い思想」がその元になっているのです。因みに、今のアメリカの「銃規制問題」も、実はこれに絡んでいます。「政府の介入」を好まず、「個人の自由」や「個人の自衛権」を重視することから、「個人の銃保有の自由」の権利を守ろうとする主張に繋がっているのです。つまりは、極めてアメリカ的な文化・社会要因に基づく考え方であるということなのです。(本稿での「文化」とは文化人類学的な意味です。)


 しかし、日本は、当然のことながら、アメリカとは、国も歴史も文化も社会も伝統も、かなり異なる部分や性質があります。平たく言えば、アメリカ流が「適合」することもあれば、「非適合」の場合もあるということです。アメリカでは、いくら「適合」し「効果的」な政策であっても、そっくりそのまま、それが日本にも「適合」するとは限らないという、極めて当たり前のことが、経済学的な分野では、いわゆる「外部経済・外部不経済」的な要因として取り除かれ、捨象されてしまっているのではないか、という危惧と懸念を感じます。

   なぜなら、同じ「自由民主主義体制」と「資本主義体制」という意味での「同時代的」な現代人として、アメリカ人と日本人は、確かに共有している「同質性」もある一方で、それぞれの伝統的な文化や社会の独自性から来る「異質性」も併せ持っているからに他なりません。仮にアメリカでは「有効」な対策であっても、それがそのまま日本でも「有効」とは限らないのです。

 

 そして、さらに重要な第二点としては、その本家本元のアメリカに於いてさえも、現在は様々な「新自由主義」に対する異論が出され、少なくとも現在のバイデン政権は、基本的に「新自由主義」とは訣別する志向性を示していることです。本ブログで今まで取り上げてきた、シリーズ「新しい資本主義を考える」の第(10)回と第(11)回や、今年のお正月にアップした『新春に「経済と人間の心」を考える』でも述べた通り、日・米両国内にも「新自由主義の弊害」を指摘し、方向転換を迫る経済学者の方々がいらっしゃるのです。詳しくは、ぜひ次の記事をお読みください。





   相変わらずエコノミストの立派な先生方による、お決まりの呪文ような「規制緩和がまだまだ足りないから、大企業は新規事業を始めたり、設備投資を進めたりしないのだ」というご主張を読んでいると、いつも思うのです。それは、日本の文化・社会・組織構造に、実はちっとも合っていない「診断書」を書いて、それで「処方箋」が出ているのだけれど、その「薬」は、本当に「日本の体質」に合っているのだろうか、という疑問なのです。


   今も昔も、多くのエコノミストの先生方は、「規制緩和・岩盤規制改革と法人税減税」をしないと、かつてアベノミクスにいう「第三の矢」という「新成長戦略」は成功しないと主張されています。その理論は、新自由主義とか市場原理主義とも呼ばれる考え方を基礎としており、その根本は、ごく簡略に言えば、政府の規制を極力廃止し、企業が自由に行動できる様にさえすれば、企業は収益を追求するため、旺盛に新規事業や投資拡大を行って、その結果、経済成長が成し遂げられるという「思想」です。


   しかしこれらの経済思想では、国や民族の「文化性」、つまり国民性やその社会の伝統的価値観などは一切考慮されていません。そもそも文字通りの「アメリカン・ドリーム」と、「未来肯定的・楽天的」な社会価値観と行動原理を基盤に持つアメリカでは、ある程度その実効性もあろうかと思いますが、日本の特に大企業は、いくら法律を変え、会計基準をアメリカ式に直しても、その中味の組織原理、社員・経営者の行動原理が変わらない限り、あまり機能しないと私は考えています。


   本ブログで何度も取り上げてきましたが、この問題の本質は、欧米社会やエコノミストの先生が批判する「日本の岩盤規制」という様なことではないのではないか…と私は思うのです。それは一種の日本社会特有の「文化的社会構造」である場合も多々あるのではないかと思います。本当に、規制を緩和し、官庁の関与を少なくさえすれば、日本の大企業をはじめとする社内外の起業家たちが、喜び勇んで、今まで「規制」のためにやりたくても出来なかった「新規事業開発」に次々に取り組み、国内経済の活気と雇用創出につながる新産業が「雨後の筍の如く芽吹く」ということに、本当になるのでしょうか。


<日本の組織文化・風土の問題>

 

 さて、本日の主題は、「規制緩和が進まないこと」が、日本経済が再成長しない「元凶」なのではなく、もっと他に「根本的な理由」があるのではないかという点にあります。最近の記事「神々の山嶺とマロリーが遺した精神」でも書いた通り、これはあくまで私見ですけれども、「問題の核心」は、日本の大企業における組織文化・組織風土にこそあるのではないかと思うのです。



 つまり大企業の経営陣にとっては、お金を使うことには責任が生じます。ところが、その新規投資や新規事業や新規製品開発が「必ず成功する」という保証は本来ありません。ということは、もし失敗しても「どこかの誰かのせい」にできるという「身代わりの引き受け手」がいない限り、失敗した時に自分たちに跳ね返ってくる「失点」の方が、僅かな確率の成功した場合の「得点」よりも、特に担当者個人にとっては、極めて悪影響が大きいのです。従って、誰も積極的には「火中の栗」を拾おうとはしないのです。むしろ「何もしない」方が、遥かに安全で「まし」なのです。

   ましてや、正社員中心の終身雇用制が崩れ、会社人生の不確定性が増す今日では、尚更わざわざ「リスクを背負って」まで「一体誰が」新規事業や、思い切った挑戦的な投資、成果の絶対的保証のない新製品・新事業の研究開発を、積極的に行うでしょうか。いくら社員の研修教育で「企業内起業家」や「アントレプレナーの企業家精神」を説かれて、そういう「勇気を出せ!」といわれても、真っ当なサラリーマン人生を全うしたい大勢の会社人間には、実際上「無理な注文」なのです。そして、もちろんこんな「サラリーマンの本音」は沽券にもかかわるし、自ら言葉にして発することなどはできないのです。だから結局は「沈黙が支配する」ことになります。

 

   近年学校での「いじめ問題」がいよいよ深刻なことになっていますが、昔から今日ほどひどくはないけれども、「いじめ」自体は子供たちの中にありました。決して「魂の勇者」とは言えない、実際的な身の対処としての「いじめられない方法」は、「いじめる側に回ること」か「いじめる側に加勢しつつ傍観者を装うこと」であり、決して「いじめられる側に、立ったり、いじめられる側に加勢したりしないこと」であったのです。なんとも情けないし、正義のかけらもないのですが、大多数の子供はそうやって「いじめ」を回避してきたこともまた「事実」なのです。


   そして会社においても、これに近い「身の対処」が多々見られても、全くおかしくはないのです。その様な「生き様」からは、「起業家精神」は極めて出てきにくいのです。いくら優秀な大学を出ていても、むしろそうであるがゆえに、こうなる傾向があるのかもしれません。個人の価値観は多様であり、もとより安易な批判は許されませんし、こうした性質を持つ人たちの「大過なく人生を過ごしたい」という、ごく普通の「庶民的な願い」も、また決して否定はできません。


   その一方で、会社組織の内部では、「何もしないこと」や「自分は何も生産的・価値創出的なことはしないで、部下のアラばかり批難攻撃して仕事ができるフリをしているタイプの上司」を「排除」できる様な、人事考課・昇進登用システムに、変更しなければならない経営課題を背負っているのです。

   つまり「前向きに何かやって失敗しても、何もやらないよりは評価される」人事考課システムが必要です。もちろん「何かやって成功した場合の高い評価と昇進・昇給」は確保されなければなりません。


   以前ボストンで、あるハーヴァード大学の日本人教授とお会いしました。その先生も話されていたことですが、日本社会(特に男性)の嫉妬は実に激しいものがあるのです。鎖国時代の二百年間に培われた、横並びの「日本の村社会」的性格かどうかはわかりませんが、「出る杭は打たれる」のです。若くして頭角を現した、極めて優秀なその先生は、そうした日本社会特有の「嫉妬」に嫌気がさして、こちらに来たのだとおっしゃっていました。もちろんアメリカは大変厳しい競争社会ですが、一方で、本当に優秀で成果を挙げる人物は、その分高く評価され、また厚遇もされるのです。日本は、必ずしもそうではありません。むしろ「潰される」のです。

  

   この意味で、どしどし出て伸びる「杭」が賞賛されて勝ち昇ってゆく欧米社会とは、日本の構造的特性は全く違うのではないか?「出る杭を打つ」ような「本音」での日本的文化・社会・組織・心理の構造からは、いくら「規制」が緩和されたからと言って、どしどし新規事業が生まれるとは、わたくしにはとても思えないのです。

   現実には、上記のハーヴァードの日本人教授がおっしゃる通り、まことに情けないことに特に「男性社会の嫉妬」の構造は、想像以上に凄まじく、「出る杭は打たれる」し、日常的に「足を引っ張られる」ことが、結構横行しているのです。

   これを糺すのは、見識と識量を持つ経営トップでなければなりません。しかしそのトップご自身が、どうやってその地位に登りつめたかによっては、またこの「出世構造の繰り返し」となっている会社も多いかもしれません。

   けれども、たとえご自分が「責任を執らない身の対処方」でトップまで出世してきた場合であっても、現在の勝者となられたトップは、これを変革しなければならない責務を負っているのです。誰かがいつか、これをやらなければならないのです。会社の真の未来のために。


   日本の大企業にこういう土壌がある限り、いくら規制を撤廃ないし緩和し、投資減税を行っても、アメリカの様に、どしどし企業内アントレプレナー(起業家)が出現してきて、「新成長戦略の新しい果実」がどんどん出て来るようなことにはなりにくいのが、日本の企業社会の現実なのです。エコノミストの皆さんがおっしゃる「もっと規制緩和さえすれば、新規事業が生まれる」という「説」は、実はこうした日本の大企業の内部実態を知らないものであって、これに同調される政治家・官僚・学者先生のお考えも、同様の思い込みであり幻想なのではないか、という疑念と危惧を強く抱かざるを得ないのです。


   この推測を裏切るように、「規制緩和による」新規事業や新規投資が、これから日本国内でどしどし生まれ、経済成長とともに日本国内の仕事がどんどん増えて、一般国民が豊かになってくれることを、私も心底より願っています。しかし、もしそうならないとすれば、別の方法、つまり彼等とは別の、例えば宇沢弘文先生の「社会的共通資本」の経済学とか、上記「第二の矢」の「ケインズの考え方の再評価」が、もっと必要となってくるのではないでしょうか。その意味で、私には「新自由主義はもはや古い」と感じられるのです。


<減点主義と得点主義の問題>

 

   日本の社会、特に大企業の問題点は、やっぱりなんと言っても「減点主義」なのです。「得点主義」や「加点主義」が、その評価基準にはなってはいないのです。もちろんこれは「本音」の部分の話しですが…。競争原理を加速させる「業績評価主義」や、同期入社社員間での年収格差、出世格差を、いくら制度的に導入してみても、それで「馬がニンジン目当てに走る」わけではないのです。


   相変わらず「出る杭は打たれる」し、「何か変わったことをやると、うまく行っても妬まれるだけで、むしろ失敗した時には取り返しがつかない。なるべく自分から何かしでかさない方が身の安全だ。とにかく失点なく生き残ることが一番重要だ。」という「本音」で生きているのが、殆どの社員だと言ったら怒られるでしょうか。

   上司にしても同じで、「下手に失敗した部下を庇うと、自分が切られてしまう」ことから、「昔みたいに部下を守って引き上げてくれる様な、貴重な上司という種族はほぼ絶滅状態」というのが、組織内の実態ではないでしょうか。この意味で、みんな「責任を執りたくない症候群」に侵されているのではないでしょうか。


   つまりは、トップから中堅管理職まで、大半の人々の「本音」は、実は自分がリスクを背負ってやるような「新規事業」など、誰もやりたくないのです。何故なら、もしそれが上手く行っても、その結果は、自分自身が新規事業先に出て行くだけで、本社のエリートコースにはむしろ残れなくなるのです。ましてその事業が失敗でもしようものなら、もう会社員としての「本社での出世」どころか「定年までの雇用」も危なくなってしまう。そんな「危ないマネ」を誰が本当にしたいでしょうか。それならば、自分自身では実は何もせず、他の何もしない社員を𠮟りつけて監督しているだけの方が、サラリーマン会社員としては、「よっぽど安全でいい」ということになるのです。


   角度を変えて言えば、日本の大企業は「相当に確実な案件」にしか、取り組まないのです。つまり「自分(自社)が先頭に立つ必要はない。誰かが(むしろ外国の他社でいいから)先に取り組んで、もし上手く行っていて結果が良さそうなら、そんなに離されないうちにそれを真似して追いかける。そうすれば失敗は少ない。」そういうマインドが、むしろ日本の大企業のホンネではないでしょうか?


   欧米社会の構造や論理をもとにして、いくら説いてみても、実は「笛吹けども誰も踊らず」というのが「日本の実態」なのではないでしょうか。いい加減に、「本当のこと」に根ざした「改革」に取り組まない限り、「第三の矢」はいつまでも発射されず、当然「的」にも届かないのでは、という心配なのです。

   これを改善するためには、まず人事の「減点主義」を廃し、失敗しても減点よりも得点が多ければ評価する「加点主義」に変えることから取り組まなければなりませんが、本当にそれはできるのでしょうか? それは、この国に根を張り巡らしている根本構造に関わることなのです。野党も含めた政治家の皆さんは、まずこの「減点主義の改革」に率先して立ち向かってほしいと存じます。


   日本の本当の未来を拓くためには、真に「得点主義・加点主義の人事評価システム」への転換が不可欠なのです。それは、なんでもかんでも批判し反対しこきおろすような「ネガティブな文化」から、少しでも前へと進める力や志向を後押しする「ポジティブな文化」への「革命的な転換」を計ることであり、悪いところばかりを見つけて批判する「ネガティブ・チェック」から、良い点や評価すべき点を見出して推進する「ポジティブ・チェック」へと、その志向性(向かうべきベクトルの方向)を、百八十度変針しなければなりません。


<内部留保の問題点>

 

   現下の日本では、法人企業統計によればいわゆる「内部留保」たる利益剰余金は、2020年度末で金融・保険を除き484兆円にまで達しています。これはある意味では、冒頭の「第一の矢」の効果でもあると言えるかもしれません。もちろん今般のコロナ禍やウクライナ侵略戦争絡みのコスト上昇などに対して、この「内部留保」の一部を使って、大企業は危機を乗り越えてもいると言えますが、それでもまだまだ、かなり膨大な「内部留保」が貯め込まれたまま残っているのです。


   こうした「内部留保」を抱える大企業には、株主や融資銀行団を気にした「短期間に高収益を挙げる」という経営指標から一旦離れて戴き、より積極的に、「回収に長期間かかっても最終的には利益をもたらす」型の「新規事業を創出」してもらわなければならないのです。しかもそれは海外への投資や海外企業の買収などではなく、「国内での起業」や「国内での研究開発」で、「国内の雇用を生み、国内の一般国民の所得が上昇し、国内での消費が増える事業」をなんとしても企て、起こしてもらわなければならないのです。そのためには、株主や銀行団には、政府からの要請も含めた説明で、理解を求めることも重要となります。

   確かに日本の大企業の「内部留保」(つまり企業の利益剰余金の蓄積)は巨額です。しかし、もっと問題なのは、それが「使えないお金」になっているのではないか、ということなのです。

   だからと言って、共産党の言うようにこの大企業の「内部留保」のお金に課税するのはいけません。何故かといえば、このお金は、「課税後の残り」であるからです。つまりすでに一旦税金を支払った後に残ったお金なのですから、これにさらに課税するのは「二重課税」になるのです。そんなことをされては、企業も個人もたまりません。


   であるからこそ、私たちが促進しなければならないのは、大企業自らが、この自分たちの「内部留保」を、前向きの新規事業や研究開発や、そして従業員の給与アップに用いることなのです。それを後押しするような、国会や政府による「制度設計」こそが肝要なのです。

 

<政府の国家的プロジェクトの肝要性>


   いきなりこうした企業文化を変えるのは、大変むつかしいことです。それはおそらく大企業といえども、自分たちだけではなかなか困難なことです。そこで必要なのは、一種の「国家的プロジェクト」による「後押しの重要性」です。

   最近の気候変動による大規模自然災害の増加と激甚化傾向のなか、例えば老朽化して危険な橋やトンネル、山崩れするかもしれない地盤や道路、いつ決壊するかもしれない堤防などの、修理・補修・建て替え・強靭化などに反対する人は、ほとんどいません。従って、そのために公共投資をしたり、お金を使うことには、反対は少ないでしょう。

   これは振り返れば、冒頭に掲げた「第二の矢」でもあるのです。政府・政治家・官僚の皆さんは、ぜひそうした「国家プロジェクト」を、当面どしどし案出・推進して、大企業に参加・参画させ、前向きな投資や資金需要を促進して、この膨大な484兆円(2020年度末時点)に達した大企業の利益剰余金を、寝かさずに活性化してもらわなければなりません。

   そうしなければ、日本の国内経済に「長期的な未来」は見えてこないのです。そして「長く暗いトンネル」が続いているような現代日本の状況においても、皆さんとともに「朝の来ない夜はない」という言葉を信じたいと、心より願っています。


(ご参考:本稿関連書籍群)