前回に引き続き、現代日本の適切な安全保障政策・防衛政策を考えるにあたり、戦前日本から学ぶべき考え方とは、一体どのようなものだろうか、という視点からの考察をしてゆきたいと存じます。それは遠いようで実は、目前に迫っている参議院選挙の争点である安全保障政策につながっているものなのです。歴史の教訓に学ばない者は、歴史を繰り返すことになりかねないのです。

 

 先年亡くなられた半藤一利氏が若い頃に補佐していた、戦前からの「海軍記者」伊藤正徳氏の「連合艦隊の最後**」の一節には、こうあります。(*裕鴻註記・補説等)

 

・・・満州事変を起こしたのは誰だ。日華事変を拡大したのは誰だ。三国同盟を迫ったのは誰だ。日米交渉を「媚態外交」と叫ばせているのは誰だ。時を得顔の学者や評論家や作家達をして、大東亜共栄圏とか、米英不倶戴天とか、国辱外交とかを書き立てさせ、散々に国民の戦争熱を煽ったのは誰だ。

   その責任者が、自分で点火拡大した火焔から俄に身を隠し、今や満天から降りかかる火の子を海軍の頭上にだけ集めようというのは、責任回避も甚だしい。得意の謀略にも程がある。まず陸軍が消防せよ、海軍ひとりが猛火をかぶるは真ッ平御免だという建前であった。

   (・・・)ただ、時すでに戦争の病菌は国民の多数を侵していた。陸軍は自らつけた火をさらに煽り、その途方もなく燃え広がった火の子を全身に浴びて立っていた。彼れはそれを自ら消し止めることが出来たろうか。

・・・(**同上書322-323頁)

 

 前回見た通り、根本的には旧海軍系統の「開戦経緯」分析に見られるように、昭和6年の満洲事変から連なる旧陸軍の侵出的大陸政策と、日華事変の泥沼化というウネリ(波動)が伝播しつつ拡大してゆき、トドのつまりは対米英蘭蔣戦争へ怒涛のように流れ込んでいったように、私には感じられます。

 

 但し、これらの責任の全てを、帝國陸海軍をひっくるめた「軍部」にのみ押しつけることにも、また問題はあると思われます。前回取り上げた防衛庁戦史叢書の「開戦経緯(海軍編)」を執筆された内田一臣提督は、同叢書付録の「執筆者のことば」で次のように述べています。

・・・敗れた国策-「国家戦略」を、「軍事戦略」で補うことは、元来困難なことである。遺憾ながら、日本には、政治家にも軍人にも、この両者のあるべき関係を十分に心得ている者が少なかったように思われる。・・・

 

 つまり戦前の日本は、国家の総力と智力を結集した「国家最適」のレベルでの、有効かつ適切な「国家政戦略」を樹立することができなかったのであり、その時々の帝國政府や帝國議会を率いていた政治家にも、そして陸海軍以外の諸官庁の官僚にも、また財界、言論界、学術界の中で戦争を推進する方向の思潮・言動に与していた者にも、そして現在のロシア国民ではありませんが、情報統制による限られた知識しか得られなかったにせよ、一般国民の中の有力者にして強硬派の人々にも、当然のことながら「応分の責任」はあるのです。その結果、全国土・全国民に戦争の惨禍が降りかかったのです。

 このことを転じて見れば、現代日本の政治家や言論界、マスコミの皆さんをはじめとする国民各層が、しっかりとこの歴史の教訓に学び、適切・適確な防衛思想・国防思想を形成しなければならないことを示唆しているのです。

 

   戦前日本の「海軍記者」であった伊藤正徳氏が書いた「連合艦隊の最後」(文藝春秋新社刊)によれば、潜水艦以上の海軍艦艇について見ると、当時の英米の公式発表による数字では、日本海軍は340隻を沈められたのに対し連合国海軍(米英蘭豪など)の150隻を撃沈しており、「完全撃沈比率」は44%に上ります。国力・生産力は日本の10倍とも20倍ともいわれる強大なアメリカを主軸とする連合国海軍を相手に、スコアでいえば10対4強の対戦結果でした。

  そしてこの間に元帥2名、大将5名、中将56名、少将252名、その合計315名の提督が戦死されたのです。これほど多くの提督が戦死した例は世界中の海軍を見渡してもかつてなかった事です。そして大佐以下の海軍将兵は31万2613名が戦死し、海軍軍属として戦死された9万6533名を合わせた海軍の戦死者合計は40万9146名に達します。つまり帝國海軍は死力を振るって戦ったという事実をこの痛ましい数字は厳然と示しているのです。そして伊藤正徳氏はこう書いています。

・・・四十万人は誰のために尊い自分の命を捨てたか。皆な日本の為に捨てたのである。四十万人は戦争を欲したのか。皆なそれを欲しなかったのである。ただ軍の指導部(主として中堅層)がそれを欲し、言論も政治もその威圧に屈し、また之を阻止することの出来た唯一の対抗力としての海軍も最後の砦を譲った為に、遂に無謀の戦争を仕掛けて其の戦争の犠牲となったのだ。満洲事変以後の「戦争の道程」はここで解説する遑(*いとま)はない。戦争となった以上、日本は負けられない。その為に彼等は生命を投げ出したのである。

・・・

 また、伊藤正徳氏はこうも書いています。

・・・顧みるに日本は米英の文化で國を開き、日清戦争にも、日露戦争にも、英米の援助を受け、また第一次大戦は英米と共に戦った。日本の海軍はその基礎を英国に学んだ。もし友邦に関して、國に宿命があるならば、日本は英米の側にあるべき宿命を持つようである。強いてこれを破ったのは運命に逆行するものであり、それ故に逆運の破滅を招いたとも観じ得るであろう。かくして聯合艦隊は滅びた。が、聯合艦隊が、世界一の均衡を得た海軍(ウェル・バランスド・ネーヴィー)と謂われて、明らかに他國の侵略を防ぎ、國防の理想としての平和を保障して来た史実は、斯かる威容も一朝その道を誤まれば遂には亡びざるを得ない教訓と共に、併せて国民の記憶に残らねばならない。

   日本の海軍はインチキのない社会であった。善い風格が国民に敬愛された。男らしく、そうしてスマートであった。いい軍艦と、多くのいい軍人から成っていた。不幸にして、軍部の侵略暴挙を断乎として阻止するの勇を欠いた為に――結果としては同調した為に――七十年で築き上げた聯合艦隊を失った。艦と人は去った。が、魂は死なしてはならない。そこに國の護りを見るからである。

・・・(前掲「連合艦隊の最後**」昭和31年文藝春秋新社刊、305~308頁及び313頁、*裕鴻註記)

 

 わたくしが親しくご厚誼を戴いております工藤美知尋博士(政治学)の著書に、「海軍良識派の支柱 山梨勝之進 忘れられた提督の生涯***」(2013年芙蓉書房出版刊)という本があります。その一節を読んでみましょう。

 

・・・山梨勝之進は日本海軍良識派の中心に位置する人物だった。「海軍良識派」とは、海軍の発展を日本をとりまく内外の環境に合わせながら図るという考え方をする海軍軍人のことをいうが、山本権兵衛に源を発し、その弟子ともいうべき斎藤実、加藤友三郎といった海軍大臣を後継者とした海軍省主流の人々のことである。したがって、「海軍省派」ともいう。あるいは、「艦隊派」に対するところの「条約派」ともいう。筆者が考えるに、具体的には次のように要約することができよう。

(1)日本海軍の利益にとらわれることなく、日本のナショナル・インタレスト(国益)を考えて行動した日本海軍のリーダーたちのこと。

(2)国際環境、国際思潮などを総合的かつ的確に判断して海軍政策を立案した将官(*提督)のこと。

(3)米英協調路線をよしとする将官たちのこと。

(4)「常備艦隊(Fleet in Being)」(実力を発動しないが、戦略上無視できない牽制艦隊)でよしとする将官たちのこと。

(5)主力艦(*戦艦)に関するワシントン海軍軍縮条約(*1922年締結)や補助艦(*巡洋艦以下の艦艇)に関するロンドン海軍軍縮条約(*1930年締結)の意義を積極的に評価する将官たちのこと。

(6)財部彪、谷口尚真、山梨勝之進、左近司政三、堀悌吉、下村政助など、世間からいわゆる「条約派」と呼ばれた将官たちのこと。艦隊派の要求に押され、大角岑生海相によってロンドン軍縮条約後の数年間で予備役に編入された将官たちのこと。・・・(***同上書8~9頁)

 


 この海軍良識派の提督たちの考え方を、基本的に引き継いでいたのが「海軍三羽烏」と呼ばれた米内光政、山本五十六、井上成美の三提督であり、各々海軍大臣、海軍次官、海軍省軍務局長として、陸軍や右翼からの強烈な運動があったにも関わらず、頑として第一次の日独伊三国同盟締結を阻みました。結局諦めたヒトラー総統は、丁度関東軍がノモンハン事件で大規模な軍事衝突をしている相手の、ソ連との独ソ不可侵条約を突如として締結したため、もともとは「日独伊防共協定」として、ソ連に対抗するためのものであったはずの三国同盟案そのものが、いわばナチスドイツの「裏切り」に遭って、あえなく崩壊してしまったわけです。時の平沼内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として内閣総辞職に至りました。こうして第一次の日独伊三国同盟案は頓挫したのです。

 さすがの陸軍も開いた口が塞がらず、右翼による暗殺計画が露見していた山本次官の身を案じていた米内海相は、これを機会に次官留任を希望していた山本提督を連合艦隊司令長官として転出させました。その直後の昭和14 (1939) 年9月1日に、ヒトラー総統はポーランド侵攻を開始し、欧州大戦が勃発します。自動参戦条項のあった三国同盟を、もし陸軍の言う通りに締結していれば、この時点で日本は第二次世界大戦に枢軸国側として参戦を余儀なくされていました。その意味でも、海軍良識派はここで一旦国の危機を救ったのです。

 

   その山本提督が、戦前好んでよく揮毫していた「国雖大好戦必亡 天下雖安忘戦必危」、すなわち「国、大なりといえども、戦さを好めば必ず亡び、天下安し(今が平和)といえども、戦さを忘れるならば必ず危うし」という司馬法の警句は、まさに現代の日本人が最も傾聴すべき言葉だと思います。自ら他国を侵略するような「いくさを好む」ようなことは、決してしてはならないが、同時に今が平和だからといって「いくさを忘れ」、軍備をしない国はまことに危うい、という今から2千5百年ほど前の、古代中国の「戒め」なのです。

 

 現在のロシア軍によるウクライナ侵略戦争のさなか、今度の参院選に向けて、わが国では右からも左からも、この安全保障に関する議論が盛んですが、現代日本が最も耳を傾けるべきなのは、こうした海軍良識派の考え方ではないでしょうか。つまり必要な軍備や厳しい訓練は行い、万一の事態に備えるが、自国から他国を侵略するようなことは決してしないという態度です。

   しかし、もしもどこかの外国軍隊が侵攻してきて、わが国の領土・領空・領海(但し排他的経済水域も含む)の主権を犯し、国民の生命・財産を危険に晒すような場合には、敢然として防衛のために戦うことを辞さない。敵軍も相当な損害を覚悟しなければ、安易にわが国に攻め込むことなどはできないということを、常日頃の厳しい訓練や高い水準の実任務遂行により、仮想敵国によく知らしめておくこと、これこそが「プレゼンス(presence)」と言われる「毅然とした存在感」なのです。

 戦前の帝國海軍の良識派提督も「戦わずして敵を威圧することも、海軍の大切な任務である」ということを、海軍の存在意義の重要な柱としていました。最後の海軍大将となった井上成美提督は、戦後次のように語ったといいます。

・・・「戦(*いくさ)はしないほうがいい。しかし、月月火水木金金で猛訓練をしている。そのジレンマは大変なもんだったろうと人はいうけれども、わたしはそれとは違いました。

国の存立のためには立つ。国滅びるというのなら、国が独立を脅かされるときには、とにかく立つ。そのためには軍備というものが必要だ。国の生存を脅かされ、独立を脅かされた場合には立つ。

   そのかわりに、味方をつくっておかなけりゃいけない。自分だけじゃ勝てない。正々堂々の主張をするならば味方ができる、とわたしは考えています。弱い国家を侵略してそれを征服して自分のものにしようとする者は、必ずほかの国の批判にあって、みそかの晩の金勘定の清算をさせられる時期が来る、と思う。

   軍備というものは要らないじゃないか、戦(*いくさ)しないのなら――そういう意味じゃないですね」ということであり、「前のように一国、一国が自分の国力相当の軍備をしてがんばっていると、そういう時代じゃなくなって、やっぱり目的を同じうするような国と国が集団防衛ということをやる。これが、第二次大戦後の国家防衛のひとつの型(*NATOや日米同盟など)になっているんじゃないかと思う。(*後略)・・・(宮野澄著「最後の海軍大将・井上成美****」昭和57年文藝春秋刊、161〜162頁)

 

 戦争は悪であり、戦争には反対だから、軍備も要らない、自衛隊も要らない…というのは、あまりに幼稚で非現実的な、短絡的意見だとわたくしは思います。例えは、拳銃は殺人ができる凶器・武器だから、警察官には一切持たせるな、という主張と論理構造は同じです。それなら、殺人を厭わない武器を持ったテロリストや、すでに何人も殺害している凶悪な犯罪者に対して、警察官は平和的に丸腰で逮捕せよ、そのために殉職しても、それは平和のためだから仕方がない、とでもいうのでしょうか。

   ただその一方で、防衛予算さえG D Pの2%に増やせばそれでいい、というわけではありません。やはり有効かつ真に必要なところに予算を投入しなければなりません。

 

 上記の井上提督は、当時の軍令部から出された軍備増強案に対し、会議の席上大変厳しい反対意見を直言しています。上記書****から、その様子を読んでみましょう。

・・・(*昭和16年)一月、軍備計画の予算化を求めるため、海軍省、軍令部の首脳会議が海軍大臣官邸で開かれ、軍令部から「㊄(*マル五)計画」といわれる「第五次軍備充実計画案」が提出された。提出といっても、鼻息の荒い軍令部のこと、事務手続き上提出したのだという態度であった。ところが、軍令部の予想に反し航空本部長の井上(*成美中将)が、この案に真向から反対した。

   「これは明治、大正の軍備である。ただアメリカが戦艦何隻持つから日本はその八割、空母何隻持つからその八割必要という考え方で、アメリカの軍備に追従して、各種艦艇をその何割かに持ってゆくだけの月並みの計画だ。いったんアメリカと戦争になったら、どんないくさをすることになるのか、何で勝つのか、何がどれほど必要なのか、その計画がない。日本のような国は特徴あり、創意豊かな軍備を持つべきだ。自主性もない、特異性もない。こんな杜撰な計画に膨大な国費を費やし得るほど日本は金持ちではない。かりにこの計画通りの軍備ができたとしても、こんなことでアメリカには勝てぬ。この要求は撤回せよ。」

   それは並居る将官(*伏見軍令部総長宮、及川古志郎海相など)を前にして彼らを一喝するに近い激しいものであった。会議はこの井上の一喝で流会になり、「第五次軍備充実計画案」は撤回された。(*後略)・・・(****前掲書155頁)

 

 この井上提督の「戦争になったら、どんないくさをすることになるのか、何で勝つのか、何がどれほど必要なのか、その計画がない。日本のような国は特徴あり、創意豊かな軍備を持つべきだ。自主性もない、特異性もない。こんな杜撰な計画に膨大な国費を費やし得るほど日本は金持ちではない。」という部分は、そっくりそのまま、現代日本の防衛政策に適合するのではないでしょうか。

   与野党を問わず、特に「国防族」と呼ばれる国会議員の皆さんは、しっかりと自衛隊幹部と現場部隊の意見を聴き、大切な防衛予算を適確・適切な分野に投入できるよう、大いに働いて戴きたいと、強く要望申し上げる次第です。

 

 空想的な反戦平和観念論でも、威勢のいいだけの強硬論でもなく、本当に現実的に有効な軍備・戦備と、その維持活用体制の充実を目指し、実効的にわが国と国民を守る、安全保障政策を推進してくれるような候補者を見極めて、わたくしも「たかが一票されど一票」の貴重な民主主義の権利を、参院選投票日には行使しようと思います。皆さんも必ず投票してください。たといそれが最初は僅かな波であっても、いずれ確かな有効な波を、国民が起こせることを心より願いつつ…。