山本五十六海軍次官が暗殺の危機に際し、自らの志を述べた「述志」という文書が海軍省内海軍次官用金庫に遺されていましたが、山本長官の遺志により戦死後は堀悌吉海軍中将に他の文書とともに当時の澤本頼雄海軍次官から託されました。つまりこれは堀中将宛の私信ではなく、海軍次官としての公的な意味を持つ文書として後任の海軍次官たちに引き継がれていたものなのです。

 

一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ

豈戦場と銃後とを問はむや

勇戦奮闘戦場の華と散らむは易し

誰か至誠一貫俗論を排し

斃れて後已むの難きを知らむ

高遠なる哉君恩、悠久なるかな皇国

思はざるべからず君国百年の計

一身の栄辱生死、豈論ずる閑あらむや

語に曰く、

丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と

此身滅す可し、此志奪ふ可からず

                昭和十四年五月三十一日

                        於海軍次官官舎

                            山本五十六

 

 ここにいう「俗論」とは、何を意味しているのか、のちに別の山本文書で「衆愚の國論」という言葉も使われますが、それは前回(2)で見た通り、主に陸軍の臨時軍事費から出た「機密費」によって動いていた戦前右翼勢力による「反英運動」とそれにリンクする「日独伊三国同盟締結推進運動」の前に立ちはだかった当時の海軍トリオ、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美海軍省軍務局長に対する政治的謀略の一環として、暗殺テロ計画や様々な嫌がらせを伴う右翼活動とそれに伴う「國論」を意味しています。数年前にあるテレビの歴史番組で、こうした背景や経緯を知らない高名な評論家が、あたかも山本提督が「国民世論」を「衆愚」と言っているように解釈して発言していましたが、それは事実誤認であり、事実はこうした暗殺テロを脅しに使うような当時の右翼勢力による「俗論・國論」を意味するものなのです。

   ちなみにそうした当時の右翼勢力の考え方を示す例として「聖戦貫徹同盟」の、山本五十六海軍次官の辞職を強要する「斬奸状」の文面を読んでみたいと思います。これは第一次日独伊三国同盟締結に海軍首脳が反対していた昭和14 (1939) 年7月頃、海軍部内一般にも同文が葉書に印刷して郵送され、原書は海軍省に押し掛けて次官との面談を執拗に要求したものの秘書官たちに阻まれ、やむなく次官に渡す様にと手交していったものです。昨夜のNHK番組でもその原書が登場していました。なお、原文はカタカナですが、以下は読み易い様にひらがな表記に直し、適宜句読点を添えて以下に示します。(*裕鴻註記)

・・・「今次戦争(*日華事変)が日英戦争を通じてなさるべき、皇道的世界新秩序建設の聖戦たることの真義よりして、対英国交断絶と日独伊軍事締結は、現前日本必須緊急の国策たるに拘らず、英国に依存する現代幕府的支配勢力は、彼等に利益なる現状の維持のために之を頑強に阻止しつつあり。貴官(*山本五十六海軍次官)は、その親英派勢力の前衛として米内海軍大臣と相結び事毎に、皇国体のままなる維新的国策の遂行を阻害し、赫赫たる皇国海軍をして、重臣財閥の私兵たらしむるの危険に導きつつあり。貴官が去る(*昭和14年)五月十七日、英国大使館の晩餐会に於て日英親善の酒盃を挙げたる(*英国大使館主催の映画鑑賞会に高松宮様と一緒に参列し国際親善を深めた)翌日、鼓浪嶼(コロンス島、福建省厦門市にあり当時は万国共同租界が置かれていた)に於て英米仏三国干渉の侮辱を受けたる事実(*詳細は不明だが、恐らく現地で日本軍と英米仏当局の間で何らかのイザコザがあったのではと思われる)の如きは、即ち(*日華事変による)幾万の戦死者の英霊と前線将兵の労苦を遺忘せる海軍次官の頭上に降されたる天警なりしが、貴官頑迷なほ悟る処なきが如し矣。我等は、皇民たるの任務に基き、皇国日本の防護の為め貴官の即時辞職を厳粛に勧告す。 昭和十四年七月十四日 聖戦貫徹同盟 海軍次官山本五十六閣下」・・・(*実松譲著「海軍大将 米内光政正伝」光人社刊141~142頁より)

 著者の実松譲海軍少佐 (当時、海軍省副官兼大臣秘書官)によれば、この“斬奸状”なるものを受け取ろうとしたところ、彼等は実松少佐に「直立不動の姿勢」をとる様に要求し、その奉書の紙を広げ「天に代わりて山本五十六を誅するものなり」と前置きし、声高々にその全文を読み上げ、実松少佐に一礼を要求して手渡したそうです。その際、「山本次官が辞職しなければ、聖戦貫徹同盟は全国に呼びかけて、次官の立場を窮境に陥れるつもりだし、その他の手段も敢えて用いるつもりだから、その覚悟でいろ」と脅し文句を言ったとのことです。この時からすでに80年以上が経っていますが、昨今のネット右翼の一部に、その後大戦で戦死までされた山本元帥を誹謗中傷して貶める様な内容を見るとき、あたかもこれらの旧陸軍シンパの戦前右翼の亡霊が、いまだに形を変えて活動しているのでは…との錯覚に陥ります。現代にも続く「山本長官批判」の陰には、こうした当時からの海軍トリオ(米内・山本・井上各提督)に対する戦前右翼勢力の攻撃が、その源流となっている様に思えてなりません。

 それからごく最近のテレビ番組でも、山本五十六海軍次官が連合艦隊司令長官に転任したのは、あたかもこうした「暗殺テロを逃れるため」だけであったようにも受け取れる表現が見られましたが、事実は、当時の平沼騏一郎内閣における陸軍の主張による「日独伊三国同盟締結論」が、ナチスドイツによる突然の「独ソ不可侵条約の締結」により、さすがの帝國陸軍も驚愕し、同じく推進していた平沼首相も「欧洲新情勢は複雑怪奇」として内閣総辞職をしたため、同内閣の米内光政海軍大臣と山本五十六海軍次官がこれに伴って辞職した機会に、後進の大臣と次官に道を譲って転任したことが根幹なのです。

   つまり当時すでに、日独伊などの「防共協定」が締結(昭和12 (1937) 年11月)されていたために、同協定国の日本の事前了解なく、その「防共対象」たるソ連とドイツが勝手に「独ソ不可侵条約」を締結することは、明白に同防共協定違反の、ドイツによる背信行為であったのです。これで泡を食った陸軍は、さすがにこの時(第一次)の「日独伊三国同盟締結」を取り下げざるを得なかったのです。しかもちょうど、陸軍は「ノモンハン事件」でソ連軍と局地戦闘の真っ最中であり、いわば戦闘中の敵とドイツが突然「不可侵条約」を結んだのですから、「完全に裏切られた」という状況になったわけです。これで、当面は陸軍も萎えてしまい、三国同盟締結の危機は去ったため、海軍としても安心して首脳陣が交代したのです。

 米内光政海相(*海兵29期、海大12期)の後任には、山本五十六次官(*海兵32期、海大14期)の海兵同期生、吉田善吾海軍中将(*海兵32期、海大13期)が連合艦隊司令長官から転任してくるのですが、山本次官は吉田中将の生真面目で几帳面すぎる性格をよく知っていたため、まだまだ複雑な政治情勢が続くことを心配し、「吉田とは同期生です。吉田の弱味も強味も知りつくしています。かれの弱味は、私でなければ補強できません。(*引き続き吉田新海相の下で)次官として残してください」(*実松譲著「海軍大将 米内光政正伝」光人社刊183頁)との希望を出したのですが、米内海相は上記のような右翼勢力による暗殺テロを懸念し、かつ米内海相の観点としては山本提督が次期連合艦隊司令長官に適任であるとの判断から、吉田司令長官の後任者として山本次官を転出させたのです。

 こういう背景や事情も十分に研究・検討しないままに、恰も山本次官を「海上に逃す」ためだけに連合艦隊長官に転任させたというのは、当時の対米英強硬派たる「艦隊派」やそれに連なる右翼勢力による「批判的な穿った見方」です。山本提督は、その時点で既に海上部隊・航空部隊でも、霞ヶ浦海軍航空隊副長、巡洋艦五十鈴艦長、空母赤城艦長、第一航空戦隊司令官(旗艦:赤城)など、実施部隊の指揮官職を執ってきている経歴もあるのです。しかも同期生の吉田中将がすでに前任者として連合艦隊の指揮を執っているのですから、昭和12年1月1日付現役海軍士官名簿(*国立国会図書館所蔵)を見ても、吉田中将(16位)の次に記載されている山本中将(17位)が、その後任として連合艦隊司令長官に就任しても、全くおかしな人事ではないのです。


   こうした「ためにする批判」は、戦前は旧陸軍とそれに連なる上記のなんとか同盟のような戦前右翼勢力、そして海軍部内では軍縮条約離脱を推進した「艦隊派」とそれに連なる親独反英米強硬派の人々によるものなのです。昨今のテレビ番組でも新書などの書籍でも、こうしたしっかりとした文献研究や分析検討を経ないで、安易に独自解釈したような批評的コメントを載せる例が散見されるのは、極めて残念かつ遺憾な風潮であるように思います。

 さて、これらの「山本批判」には、大別すると「旧軍人や戦前日本を全否定する左翼的立場からの批判」と、上記の貫徹同盟や日独伊三国同盟を推進していた「旧陸軍およびそれに連なる戦前右翼からの批判」、そして最後に旧海軍部内で「旧来の漸減邀撃作戦を至上と考える艦隊派に連なる海軍軍人」、「戦前右翼的な心情を強く持つ反英米親独強硬派」、「航空主力派に反発する大艦巨砲主義の戦艦主力の艦隊決戦派」などの旧海軍部内の反山本長官派の人々によるものがあります。本シリーズでは、これらの人々の「ものの見方・考え方」を辿りつつ、その批判の基盤思想と妥当性を検分してゆきたいと思います。

 先ずは、旧陸軍の考え方と捉え方を取り上げます。わたくし自身は、例えば東條英機陸軍大将に対して、もとよりなんら個人的な憎悪も恨みもありませんし、そもそも東條元首相をヒットラーやムッソリーニのような独裁者と同一視すること自体は、戦前昭和期の日本の歴史を正確に理解することを歪めるものだと思っています。その意味で、いわゆる「極東国際軍事裁判(東京裁判)」で、東條元首相以下七名の方々が「A級戦犯」として処刑死され、残りの方々が禁固刑に処せられたのは、やはり占領下にあった特殊状況での勝者たる連合国による「事後法による報復的裁判」によるものであったと考えています。

   つまりは一種の「政治犯」として、「戦争の勝者(戦勝国)が敗者(敗戦国)を裁いたもの」であると認識していますが、その意味では戦後といえども占領下の状況に於ける、戦争の継続的な意味と流れの中での敵国軍による犠牲となったという面があったものと考えています。

   しかし本件は終戦時に、時の大日本帝國の政府と統帥部が「ポツダム宣言」を受け入れて全土が連合国軍に軍事占領された以上、まことに残念ながら受け入れざるを得ない敗戦国としての日本の国情であったものと思います。同戦争の「戦勝国」はおそらく未来永劫、この裁判の正当性を覆すことはないでしょう。それがリアルな国際関係の世界なのです。

   どんな国もひとたび開戦を決定し、敵国と全面戦争をする以上は、敗戦した場合には戦勝国の意向に服するしかないのです。もしそれがどうしても認められないというのであれば、もう一度これらの戦勝国と全面戦争をして勝利し直し、今度は自らが戦勝国としてこれらの敗戦国の歴史を全て書き直させるしかありません。その現実的な可能性を云々する以前に、「そもそもこんな戦争をしなければよかったのではないか」とも思うのです。

 一方で、この「東京裁判の判決」から全く離れた観点から、日本国民として、「どうしてあの戦争を戦うことになったのか」、そして「あの戦争とは一体なんだったのか」という歴史的な問いに対しての、「日本国民自身による回答と納得」は「どうしてもしなければならない戦後作業」の一つであると思います。外国人によるのではなく、日本人自らによるあの戦争に関する正確な認識こそが、これからの日本の「未来に真に資する貴重な教訓」として、活かすべきものになろうとわたくしは考えます。

   そういう文脈(context)と脈絡において、当時の東條首相を含む開戦を決定した人々を「公人」として認識し、或いは旧陸海軍や旧憲法下の政府・統帥部の機構・組織を「公的機関」として捉え、その構造的かつ本質的な問題が那辺にあったのかを、冷静かつ論理的に検分することは許されるべきであるし、また戦後の日本人として、しなければならないものであると思うのです。

   決して「死者を鞭打つ」類のことではなく、こういう上記の立脚点と観点を大前提として、真に「日本の未来」のために、以下の検分を進めてゆくということを、読者のみなさまには深くご理解賜りたいと存じます。

 本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」でも取り上げた「大東亜戦争作戦日誌」(1998年芙蓉書房出版刊、昭和54年刊原著の改題新版)の著者、井本熊男元陸軍大佐(陸士37期首席、陸大46期、戦後陸将)は、1995年7月に当時92歳で共同通信社社会部による取材を受け、そのインタビューの全文が「沈黙のファイル**」(共同通信社1996年刊)の巻末・資料編に所収されています。**同書は、主に瀬島龍三氏を軸に、戦前・戦中・戦後の歴史を調べた良著で、1999年には新潮社により文庫版化もされています。古本ならば入手可能ですので、ぜひ皆さんも同書**の全文をご一読ください。ここでは、上記の資料編のインタビューから少し部分引用したいと存じます。

   陸軍士官学校を首席で卒業し、陸軍大学校を卒業したエリートの参謀将校、井本熊男陸軍少佐(当時)は、以前に昭和10 (1935)年12月から参謀本部作戦部作戦課で勤務し、昭和14年に支那派遣軍参謀に転出して一年ほど中国戦線で過ごしたあと、また昭和15 (1940) 年10月に参謀本部作戦部作戦課に戻ってきました。その二度目の作戦課勤務は、まさに日本が対米英蘭開戦に向かっていく重要な時期に、陸軍の作戦中枢の真っ只中にいたことになります。その時代を回想したインタビューから、以下の部分を読んでみたいと思います。(*漢数字等表記一部修正)

・・・(*質問者) ――東京の作戦課に戻ってからは?

「東京に帰ると、参謀本部を前年出る時にはいなかった人が相当たくさん作戦課員として仕事をしているんですよ。その人たちがそう広くもなかったけれど、作戦室にこの(ひざ)くらいの高さの広い台の上に南方の地図を広げて、みんなで集まって研究をしていた。(*昭和15年秋の時点で!) この前まで『支那(*日華)事変からどうしてはい上がるか』と苦労していたのに、その支那(*中国)は小さな図が壁に一枚張ってあるだけなんだ。それを見て『これでいいのかな』という気持ちが起こった。今まで支那と取り組んでどうすることもできなかった。日本の生産力のピークはもう過ぎてる。このまま進めば支那の上に英米、場合によってはソ連も敵にすることになる。北部仏印に進駐(*昭和15年9月)しているんだからフランスも敵になる。

   支那がなぜ片付かないかというと、英米ソが支那を支援しているからなんです。支那が屈服するはずないんです。広い土地は捨てたけど大きな領土を持っている。奥地には広い土地がいくらでもある。そこで英米ソの支援を受けておれば日本に屈服する必要がないことは、蔣介石とかそういう鋭利な人たちはいくらでも判断できる。絶対に降伏しない。

    そのことを考えると英米と戦争してそれでいいのかと。これじゃ日本は危ないじゃないかというのが、一番の強い印象だった」

――作戦課に戻ってからの担当は?

「支那作戦をやれと土居(明夫)課長から言われた。それは当然でしょう、支那に一年間いたんだから。南方地域も一応心得ているから、南方の研究をしてる諸君の仕事の内容も極めて理解していました。支那で感じたことと、東京でやってることがつじつまが合わず、心配だったので、石原(莞爾)将軍の話を聞いてみようと思ったんです。

   私(*井本氏)は昭和10 (1935) 年に参謀本部に配属された時、石原将軍の教育に感銘を受けた。『支那と戦争しちゃいかん』と石原将軍が孤軍奮闘する様子を見ながら支那事変に入ったんですよ。支那事変は石原さんの言う通りになった。それから将軍が言っておった国防方策、『日本は今戦争ができる状態じゃない。日満支結合して大工業を興した後でなければ戦争はできない。これから十年は戦争はできない』、それも本当だと私は思い込んでいた。

 石原将軍は昭和12 (*1937) 年に参謀本部を出て関東軍に行くが、東條(*英機、当時関東軍参謀長)さんと反りが合わなくて独断で飛び出したような格好で、陸軍の主流から追い出されていた。京都の第一六師団長をやっていたが、将軍はのほほんと時局を見ていないはずだ、必ず話を聞いたらためになることがあるはずだと思ったんです」

――それで石原さんを訪ねたんですね。

「『支那事変はおっしゃった通り(*泥沼化)になりました。これからどうしたらいいでしょう』『今、作戦部では支那を離れて全く南向きの運動をやってる。ご見解はいかがですか』と聞いたんです。石原さんは多くは言わなかった。私の話を黙って聞いていた。そしてしきりに『支那事変をこのままにして戦争を起こして英米を敵にしたら、日本は滅びる』と力を込めて言った。私が心配していたことと重なり合うんだね。それが京都訪問の成果でした。私の意見は間違いないという気持ちを強くしたんです」

――石原さんの話を聞いてからどうされたんですか?

「私は私なりの信念を持って仕事がしたいと思っていた。富永(*冨永恭次)作戦部長が北部仏印進駐(の問題)で作戦部長を辞めさせられ、その後任に田中新一さんがなった。作戦課長の岡田重一さんも北部仏印進駐のごたごたで辞めた。その後を継いだのは情報部のソ連課長だった土居明夫さん。作戦課員は土居さんにあまり心服してなかった。土居さんは軽々しくものを言って、あまり権威がないということだろうと思うが、あまり土居さんを信用していなかった。土居さんは『必ずドイツがヨーロッパを制覇する』という考えを持っていたんです。『それに便乗して日本は大東亜で支那事変を片付け、大東亜の盟主になる』という考えを相当強く持っていたように思う。

 昭和16 (1941) 年の6月23日だったか、独ソ戦争が始まった時は非常に喜んでね。『これでわれわれの目的は達成される。一段階上に上がった。ドイツと心中してもいいから大いにやらなきゃ』と言った。その意見には同意できないな、と思いながら聞いておった。私は土居さんに課長室で『課長は南方の作戦をするとおっしゃるが、南方作戦というのは英米と戦争することになる。支那事変の裏には英米ソがあります。英米ソ相手にさらに戦争を拡大するのは、日本の力では非常に危ないと思うが、どうですか』と二、三回意見を言った。しかし土居さんは絶対僕と議論しない。議論を避ける。『そうか、君がそういう考えなら、南方は嫌いなようだから支那に専念してくれ』と言った、いつも肩透かしを食わされてるような感じだった」

――1941 (*昭和16) 年7月に土居さんの後任として服部卓四郎さんが作戦課長になりますね。

「7月1日に服部作戦班長が中佐のままで作戦課長(*本来は大佐の職)になったんです。服部さんを課長に持ってきて土居さんを出したのは作戦部長の田中新一さんだと思う。田中さんにとって土居さんはなかなか使いにくかったし、作戦課でもあまり信用されてない。自分の思い通りの下働きをする作戦課長には向かないと思ったんでしょう。むしろ(*田中部長と)幼年学校(仙台)も同じで、若くて素直な服部さんなら思う通りになるというのが田中さんの考えだったと思う。土居さんは非常に不服だったらしい。送別会の席で田中部長に盾突くような態度が目立ったんです。とにかく土居さんは非常な不満を持って満洲に出て行った。

   服部という人は優秀で人望がある。だれからも信用された。外柔内剛で、自分の信念は曲げないが、外に対しては非常に柔らかい。それが服部さんが広く信用されたゆえんです。しかし、そういうことで作戦課長になった服部さんは、田中(*作戦)部長の思想に反対しなかった。反対は許されんような状況だった。服部さん(*課長)と田中部長は本当に一本で結ばれておった。服部さんと辻政信(*作戦課戦力班長)が一緒になって東條(*英機)陸軍大臣、田中(*新一作戦)部長らを全部その気持ちにし(て開戦に踏み切らせ)たという説があるが、そうじゃないと私(*井本熊男氏)はみている。服部―辻のコンビが大東亜戦争を押し上げたかどうか僕は知らんけど、そういうこともあったかもしれないが、第二次近衛内閣ができて東條陸軍大臣、田中作戦部長のメンバーで時局処理要綱をつくった時は既に、(東條、田中の)腹は決まっていて、大東亜戦争をやる気構えだった。服部、辻から説得されなくても、先にそういう思想をより強く持っていたと僕はみている」

――その理由は?

「昭和15 (*1940) 年の暮れ、支那事変を処理しようという気持ちが政府にも大本営(*統帥部:主に参謀本部と軍令部から成る)にもあって『最後の対支作戦計画を立てろ』と田中部長(*陸軍少将)が私(*井本少佐)に言ったんです。私は一年間、東京を離れていて東京の空気(*情況、雰囲気)がよく分からなかったので、作戦計画を何度書いても田中さんに気に入られない。田中さんはどういうことを考えているのか、いろいろ質問したりした結果、実は大東亜戦争を考えているんだ、英米と戦争しながら、その戦争中における対支戦争を書くのが田中さんの腹の中だと分かった。田中さんはそれを言わずに対支戦争を書けという。結局、英米との戦争があると仮定して支那事変を片付けるような一つの案を書いたら『それでいこう』ということになった。田中(*新一)という人は昭和15年の暮れの時点で大東亜戦争を考えていた。非常に強く考えたんだろう。だから服部、辻の意見具申で東條、田中が戦争をするつもりになったという見方は誤りだと、私なりに考えたんです」

――服部新課長はどういう考えだったんですか。

「その服部さんが課長に就任して早々に、私が『南方戦、言い換えると英米戦争を始めたら危ないと思う』と言ったら、服部さんは黙って聞いていた。結局、服部課長とも『戦争したらこういう格好になる、それでもいいか』と、具体的問題について論議ができなかった。そういう議論にはならなかったんです。服部さんは、田中部長の強烈な考え方と同じで、疑問を持たずに(*対米英蘭)戦争に持っていかねばならないという考えを持っていた。(*作戦)課の中に僕のような考えを持つ者はいなかったと思う。作戦課長が交代する時には申し送り事項というのがある。『井本というのは戦争に反対しておる。教育するかどうかしないと、ちょっと邪魔になるかもしれん』という(*土居前課長から服部新課長への)申し送りがあったんだろうと思っている。

 (陸軍には)『直上の上司に対しては意見具申してもいいが、飛び越えての意見具申はするな』という決まりがある。それから、意見具申が採用されないで別の案が決まったら、たとえ自分の考えと違っても、その任務を遂行しなきゃいかんという内規がある。僕はそれに従った。まだ大東亜戦争は国策になっていない、(*杉山元)参謀総長は戦争の上奏をしてないし、意見具申をすることは一向に差し支えないことだと思ってた。服部さんは別に議論をせずに『君の言う心配もあるだろうが、実は心配はちっともしてない。作戦課も参謀本部も一本になって戦争準備に進んでいる。それに異論を唱える者がおったら課の統制もとれなくなるから、どうしても君、納得できなければ課を出てもらう以外に手はない』と言った。だから作戦課を出る覚悟をした。もう作戦課にはおれない、どこに出されてもいいと」

――そういう意見を持っていたのは井本さんだけだったんですか。

「独ソ戦がうまくいったらそれに便乗しようと、満洲に八十万の兵力を集める関特演(関東軍特種演習)を始めた。それまで僕はこの問題にタッチしなかったが、関特演が始まると支那派遣軍から兵力を抜かなければならない。その使いに僕は何度も(支那に)行かされた。支那総軍の畑(俊六)大将と、南支那方面軍司令官の後宮(淳)中将は一番、(*対米英)戦争になることを心配していた。畑大将は野田(謙吾)総参謀長を東京に使いに出して意見具申した。(*対米英)戦争に反対の意見具申だったと思う。後宮中将は東條陸軍大臣と同期生で『東條に手紙を書いて君に渡してもらうが、戦争してはいかんぞ、このままで戦争したら大変なことになるぞと支那軍が言っておったと、東條に直接言ってくれ』と語った」

――井本さんは作戦課で南方戦の総括参謀になられるわけですが、そのいきさつは?

「昭和16年8月、南方戦の総括をしていた岡村(誠之)という参謀が病気で仕事ができなくなった。服部課長から『井本君、南方総括をやってくれ』と言われた。僕は『そういうことならやりましょう』と言った。やらざるを得ないでしょ。そうしなければ仕事が進まない。結局、出て行けと言われた者が作戦統括になってしまった。意見具申は採用されないで、いやだった作戦の統括をやれと言われ、僕はとにかく性根を入れ替えるような、根本から考えを変えるような大転換をした」(*後略)・・・(**前掲書310~315頁より部分引用)

 昨今も巷間では、あたかも山本五十六長官が大東亜戦争を始めたというような「批判」が散見されますが、連合艦隊司令長官は、国家(政府と統帥部)が開戦を決定して米英蘭と戦えと命じたら、その命令に従って実際に戦うのが職分なのです。従って、開戦を決定した時の政府(内閣)と統帥部(大本営:陸軍の参謀本部と海軍の軍令部)の中で、誰々によってどのように開戦が決定されたかが、真の開戦決定に関する当事者であり、その責任者なのです。その中でも圧倒的な力を持っていたのは、統帥部の中枢たる戦争計画の原案を起案する陸軍の参謀本部作戦部作戦課の幕僚たちであったのです。井本参謀はまさにそこにいたわけですが、この証言によれば、その上司の田中新一作戦部長は、昭和15 (1940) 年の暮れ頃からすでに開戦派であったこと、そして東條英機陸軍大臣も同じ考えをその頃から持っていたということがわかるのです。(今回はここまで)