前回も取り上げた今井武夫陸軍少将(陸士30期、陸大40期) 著「昭和の謀略**」(原書房1967年刊)によれば、・・・参謀本部は昭和十二(1937)年の暮、従来数人の参謀で担当していたに過ぎない謀略や宣伝業務を担当する第四班を拡大して、第八課(*通称:謀略課)に昇格したが、ここで謀略、防諜等秘密戦の研究整備を計画した。

・・・(**同書188頁) ということなのですが、もう少し詳しく帝国陸軍の情報機関、秘密戦に関して見てみたいと思います。

 悪名高き田中隆吉陸軍少将(*陸士26期、陸大34期)ですが、彼は綏遠事件の翌年に陸軍大佐に進級し、昭和14(1939)年1月に陸軍省兵務局兵務課長に就任し、その翌昭和15(1940)年少将になりしばらく中国の第一軍参謀長を務めてまた年末に陸軍省兵務局長になります。そして翌昭和16(1941)年6月には陸軍中野学校長(第2代)を兼任しています。この陸軍中野学校について詳しく調べたのが斎藤充功氏で、その著書「***証言 陸軍中野学校――卒業生たちの追想」(2013年バジリコ(株)刊)の説明を以下に読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・インテリジェンスといえば、陸軍には外国の「軍事情報や兵要地誌」を収集する組織として参謀本部第二部(*情報部)があり、この組織は「第五課、第六課、第七課、第四班」の四課一班で構成され、情報収集の対象国は第五課がソ、独、仏、伊で、第六課が米、英を担当。第七課が支那(中国)を担当していた。

 また近代戦に不可欠な「謀略、諜報、暗号解読、防諜、宣伝」などといった具体的な活動の必要性に気付いた参謀本部は、遅まきながら支那事変以降、陸軍省官制が改正された昭和十二年(一九三七年)に「第四班」を「第八課」(通称謀略課)に昇格させて、そこで「国際情勢の収集、機密情報の収集、分析、宣伝工作、謀略活動、諜報活動」を担当させることになり、十一月に初代課長として支那課長のポストにあった影佐禎昭大佐を任命した。それ以前の「第四班」には専門知識を持つものはほとんどいなかった。ましてやプロの情報専門官など皆無で、唯一の情報源は各国に派遣している大公使館付の駐在武官や武官補佐官からの報告だけというお粗末さであった。

 こうした時代に満洲のグランドデザインを創出した石原莞爾大佐が、昭和十年(一九三五年)八月の定期異動で三年ぶりに東京に戻ってきた。就いたポストは要職である参謀本部第一部の作戦課長であった。そして翌年起きた二・二六事件を契機にして、参謀本部の改編作業に着手した。石原は日本とソ連の関係を重視し、ソ連情報収集の強化に乗り出した。この組織改革では、後に『後方勤務要員養成所』所長となる秋草俊中佐が第五課第五班長に就いた。秋草は前任地のハルビン特務機関(後年の関東軍情報部)で、安藤麟三機関長(少将)を補佐していた対ソ情報の第一人者であった。また、部下には最後の中野学校長になった山本敏少佐もいた。

 だが、総力戦に対する大局観をもつ石原といえども「作戦」の作戦課長である。その思考は第一部長(*作戦部長)に昇進しても変わらず、情報の価値を判断するプロの情報将校ではなかった。参謀本部には第一部の「作戦担当」に強い権限が与えられており、第二部の「情報担当」は二義的な扱いをされていた。これは日本陸軍の悪しき伝統でもあった。一方、軍政を担当する陸軍省では昭和十一年(一九三六年)七月に兵務局が新設され、同年十二月から「防共」に関する業務を行うことになった。当初は兵務局兵務課が業務を担当したが、三年後の一月には「防衛課」のセクションがつくられて、ここで国内防諜以外に国外防諜も担当し、カウンター・インテリジェンス(防諜)が業務として定められた。

 また、陸軍省では「情報組織」に理解のあった初代兵務局長の阿南惟幾少将(終戦時の陸軍大臣)が就任二ヶ月後の九月に、田中新一兵務課長(開戦時の参謀本部第一部長)、東京憲兵隊特高課長から兵務局付になった福本亀治少佐(後の中野学校幹事)、それにハルビン特務機関から転属していた参謀本部ロシア課員の秋草俊少佐の三人を兵務局長室に集めて「科学的防諜機関」の設立を命じた。そして、実務は途中から参加した参謀本部欧米課員の宇都宮直賢少佐を加えた四名が専従となって防諜機関を立ち上げ「兵務局分室」として「在京の大公使館、商社、新聞社、個人の電話、電信の盗聴、手紙の開封」などを専門とする防諜業務をスタートさせたが、この組織は陸軍大臣直轄の軍事資料部の極秘機関となり、通称「ヤマ機関」として国内防諜の要となってゆく。活動が軌道に乗り始めた昭和十二年(一九三七年)七月に宇都宮を除き、新たに陸軍省軍務局軍事課員の岩畔豪雄少佐(開戦後は近衛歩兵第五連隊長)を含めた四名が、再び兵務局長に呼び出されて「秘密戦実行要員機関」の設立を命ぜられ仮称『情報勤務要員養成所』を立ち上げた。養成所設立の目的は「敵国からの秘密戦攻撃に対して消極的な防衛対策だけでは軍機(*軍事機密)を保護できない。そのためには諜報、宣伝、防諜の専門要員を養成する機関が必要」との認識であった。

 それでは陸軍中野学校とは、どのような歴史をもった学校であったのか。

 その前身は、昭和十三年(一九三八年)一月に出された勅令「後方勤務要員養成所令」に基づき設置された『後方勤務要員養成所』に始まるが、当初は『防諜研究所』の名称が有力であった。しかし、研究所の名称は廃されて同年七月に、東京の九段牛ヶ淵にあった愛国婦人会本部の宿舎を借り受けて開所。看板は「陸軍省分室」と掲げられた。このとき入所した学生は十九名(一名は中途退学)で、これが第一期生であったが、入所した学生の中に(*陸軍)士官学校を卒業した者は一人もいなかった。(*中略)

 昭和十三年七月に中野学校の前身である後方勤務要員養成所が開校しているが、翌年の四月に同所は中野区に移転した。昭和十五年(一九四〇年)八月に「陸軍中野学校令」が制定されて、官制上初めて『陸軍中野学校』として認知されたのである。(*中略)

 ところで、学生の教育だが、冒頭「諜報、謀略、宣伝、防諜」などに関する特殊教育を受けていたと記したが、教育の内容を細かく見てゆくことにする。(*中略) 学科では、戦争学の中に重要な兵要地誌(Military Geography)があった。兵要地誌とは「地理、地形、地誌を調査して作戦に活用する情報収集と分析作業」で、研究対象国は英国、米国、独国、仏国、伊国、蘇国(ソ連)、支那国(中国)、蒙古で、南洋地域の兵要地誌も研究していた。他に兵器、築城、国体学も学び、外国語は蘇語(ロシア語)、英語、支那語の三ヶ国語が、任地によって選択コースになっていた。また特別講座も設けられていて課目は、気象学、交通学、航空学、心理学、統計学が講義されていた。その他、実科では自動車実習、通信実習も施され、武術は剣道、柔術を研鑽し、なんと「忍術」まで教育されていた。(*後略)

・・・(***前掲書6~13頁より抜粋引用)

 この陸軍中野学校では「謀略は誠なり」と教えていたといいます。これは文字面からはいろんな意味が読み取れる言葉ですが、おそらくは、真になんらかの「誠」の精神がなければ、その謀略は成功せず、またそれをなすべきではないとの戒めであろうと思います。この点について、冒頭に掲げた今井武夫陸軍少将の「昭和の謀略***」(原書房1967年刊)を少し読んでみたいと思います。

・・・(*前略) すなわち満洲事変当時、関東軍の意図した方針は明らかに外交政策と対立反撥し、(*関東)軍の行う謀略はこの外交政策を破摧せんとしたものであるから、政謀略(*政略と謀略)の不一致は当然のことであったが、支那(*日華)事変から大東亜戦争へと時代が推移するに伴い、国内の政治情勢も激動し、漸次(*陸)軍の政治的発言力を増加し、遂に(*陸)軍そのものが政治力を掌握したから、(*陸)軍の行う謀略は漸次政府の政策に統合され易く、ついに大東亜戦争では、完全に作戦軍の掌握下に謀略を統合し、政軍謀略は完全に表裏一体化して、下克上の悪弊も払拭されたわけである。(*つまりは陸軍が政治を掌握したから統合化されたのであり、「統帥権の独立」により政治が陸軍を統制下に掌握ができないこともあり、結局軍事政権化するしか統合の方法はなかったもの。裕鴻註記)

 いずれにしても政戦略と謀略が表裏の関係におかれている以上、これ等関係がよく統制を保って、相互緊密に連繋協調することは、その成功を収めるため極めて重大な関係をもつことはいうまでもなかった。

 翻ってここでわが(*日本)民族の異民族との関係について考察すれば、わが国は建国以来大陸と隔絶して、長く桃源境(*ママ)に安住したから、異民族との交渉圏外に孤立し、渉外や闘争の経験が少なかった。したがってその結果国際間の交渉に後進性が強く、世界思潮の動向把握や、他民族と和戦の駆引きに拙劣なことも当然で、兎角(*とかく)過度な緊張感を抱き勝ちであった。西欧先進国に対する卑屈感も、アジア大陸の後進国に対するいわれなき優越感もともに、同じ緊張感から発する同根の病弊で、いずれも国際間の円満な協力のためには障碍となるものであった。明治維新以来わずか数十年に過ぎず、国際生活の未経験国である田舎者としては、蓋し已むを得ないことであったろう。

 しかるに昭和初期以降十五年間戦争の激動期における異民族との死闘は、平時気取ったお上品振りをかなぐりすて、非常時の政戦謀略表裏の苦い経験をなめ、漸く国際事情体得のため長足な進歩を遂げた。

 すなわち満洲事変では、国際的な孤独をかこちつつ悲壮な気持ちで連盟を脱退して諸民族と摩擦したが、支那事変以降は漸次、諸国と和平協調の必要を感じ、アジア異民族の伝統や特殊性を理解し、国際正義の所在や自国国力の限界も覚った。

 終戦後わが国は敗戦国として国際社会に復帰して経済繁栄を誇っているが、わが民族が将来平和愛好国として国際社会に貢献し得る資質は、この戦争間における謀略なり傾向となっている異民族に対する関心の推移を見ても判然とするであろう。(*つまり井の中の蛙ではなく、広く世界の諸民族の動向を注視し理解に努めなければならないという戒めの意であろうか。裕鴻註記)

 最後に一、二付言せねばならないことがある。

 世には謀略とは頭から、譎詐権謀(*きつさけんぼう)端倪(*たんげい)すべからぬものとする先入観を持っている者がある。

 勿論平地に波瀾をまき起し、平時に異変を生ずる以上、そう考えることもあながち無理ではない。しかし謀略とて当然天地自然の理法にそむいて成功するものでないことも自明である。必ずや天の時、地の理、人の和を得てこそ可能である。既に時が熟し、地の利を得、民衆が渇望して自然に機運が醸成されて居ればこそ、最小の労力で、最大の効果を発揮出来るわけで、この理に反しては成功するわけがない。したがって謀略成効(*ママ)の要訣は相手もわが方の主張に同調する方が有利になるように仕向けることであるともいえるであろう。

 風上から薪に火をつけたら、たとえ燐寸(*マッチ)一本でも大火をおこすことも易々たることだが、風下から不燃性のものに放火したら、幾らガソリンを撒いても単なるボヤに終わるだろう。

 ただこの場合どちらが風上か、物件は可燃性であるか不燃性であるかを察知することこそ、謀略実施者に要求される最も大切な判断力である。

 この点を適確に察知して発火させた場合、ことにそれが他人に先んじてその意表に出れば出るほど、彼我両陣営の人々は意外に思い、端倪すべからずと考える。

 そこでまたどうしてもこの判断資料を獲得するための情報の蒐集が必要である。孫子は特に用間篇を加え、情報の必要を極言しているが、その中に

 爵祿百金を惜みて、敵の情を知らざる者は不仁なり。人の将に非ざるなり。

といっている。

 また世上往々譎詐権謀(*きつさけんぼう)に長じた者を以て、謀略の適格者と考える向きもあるが、これもまた大間違いである。詐偽師(*ママ)や嘘付きでは、相手側が信用せぬばかりでなく、第一味方が信用せぬ筈で、こんな性向の者の謀略こそ、単なる火付け盗賊に類した暴動に終って、後害を残すだけである。大局に通じ、将来にわたって判断を誤らないことこそ、工作者にとって最も緊要な資質といわなければならない。これ等は特に説明を必要とせず、訳りきったことであるに拘らず、長い世上に信じられている謬見(*びゅうけん)があるため、敢えて蛇足とした。

・・・(**前掲書264~267頁)

 今井武夫陸軍少将は中国語に堪能で漢籍の素養も深く、難しい漢語が出てきますが、その漢字の意味を熟読翫味すると、大変深い意味を感じさせる説明です。陸軍中野学校が教えた「謀略は誠なり」という言葉は、謀略目的、つまりはその基となっている国の政策にも「誠」の目標がなければならないし、その謀略を工作する者にもそしてその方法にもその基底には「誠」の精神がなければならず、またその謀略の結果がもたらす大局的な結果にも「誠」の心がなくてはならない……ということでしょうか。

 こうした基準に照らして、第一次上海事変の「謀略」には、日本の民間人や海軍の死傷者を鑑みれば、この「誠」があったのか、疑問なしとしません。

 くだんの田中隆吉少将が陸軍省兵務局長の傍ら学校長を一時期兼任していたこの陸軍中野学校で教材として使用されていた「陸軍中野学校破壊殺傷教程」が、前掲の斎藤充功著「***証言 陸軍中野学校――卒業生たちの追想」(2013年バジリコ(株)刊)の巻末に特別付録として掲載されていますが、その中の「第二節 謀略要員の獲得、培養及び教育」に「第一款 謀略要員の獲得」という項目があり、そこには次のような内容が記されています。

・・・一、謀略要員選定の要素 

(1)身体強壮にして阿片、酒色癖、特殊病等のなき者

(2)責任観念強く、義に厚き者

(3)剛胆慧敏、意志鞏固にして、いかなる苦難にも耐え、懐柔誘惑、強権にも屈せざる者

(4)技術的能力を有する者

(5)相手国、国情に通暁し、相手国語、とくに行動地域の語学堪能な者

(*後略)・・・(***前掲書227頁より抜粋引用)

 このように、大変厳しい基準が要求されていることから見ても、「謀略要員」は、いい加減な犯罪者まがいの人物や、いわゆる大陸浪人的な策士が求められていたのではないことがわかります。むしろ優秀な能力を持ち人格的にも立派な人物こそが最適とされていたのです。

 陸軍中野学校出身者も全陸軍から選び抜かれた優秀かつ立派な人物が多かったものと思いますが、彼らの一部は植民地となっていた地域でアジア民族の独立の手助けもしていました。前掲の今井武夫陸軍少将(陸士30期、陸大40期) 著「昭和の謀略**」(原書房1967年刊)の第三章「大東亜戦争」の中から「四、民族独立軍の組織」の項を読んで見たいと思います。

・・・大東亜戦争開戦後南方軍の行った謀略は、従来満洲事変や支那事変の謀略とは異なり、大本営で特別の一機関をつくり、最初から明確な任務を明示して工作をはじめられた。しかもその任務はいずれも、各民族の宿願にそい、その独立を援助して彼等の利益に合するものであったから、各民族はいずれも自発的に日本軍に協力し、日本軍もその作戦に大いに寄与することができた。しかもその工作は、すでに世界的傾向となっていた澎湃(ほうはい)たるナショナリズムの主流にのったものであったから、当時まだ牢固として強大な威力を誇っていた英国や和蘭(オランダ)の植民地政策も、単に彼等従来の覇権と武力だけで弾圧出来ず、日本軍敗戦後になってからでも、結局原住民の希望をいれて独立を認めざるを得なかった。ここに至って日本軍の謀略も単に、戦争間作戦軍に対する貢献に止まることなく、立派に開花することが出来たと言い得るであろう。

 しかもその謀略実施にあたっては、謀略機関を各作戦軍に配属したから、その工作は作戦軍の行動と密接に膚接(ふせつ)して行なわれ、政戦謀略は常に表裏一体化し、お互いに矛盾することなく、順調に成功を収めることができた。

 しかしこれと同時に、大本営の授けた独立援助の任務は、必ずしも日本軍各層の指導者が、各民族のナショナリズムを明確に把握した結果、行われたものでなかったことも指摘せねばならない。成るほど大東亜戦争の目的には八紘一宇(はっこういちう)の大理想も掲げられていたが、うっかり間違えば必ずしも原住民の民族自決を促進するよりも、帝国主義的占領に堕することなしとせず、各軍は各民族の独立を援助すべき大本営指示の真意と異なり、往々これを阻害する行動すら敢えてした。

 ビルマ独立に時期尚早を唱え、あるいはスマトラ軍政に旧土侯を起用して原住民の反抗を招いたり或いは印度独立連盟に対する(*日本)政府初期の冷淡な態度等に、その実例を見ることが出来る。しかもなお戦争後半となって日本軍の戦勢不振となるや、急遽独立を容認せざるを得なかったものは、異民族の現実に根強い要望に従わざるを得なかったからといえるだろう。

・・・(**前掲書256~257頁)

 この今井将軍の叙述は、極めて冷静かつ正確に実態を表現しているように思われます。同書第三章には、具体的にビルマ工作、スマトラ工作、インド工作が、各々の方面軍や作戦軍の司令官なり高級参謀の無理解や失策により、せっかく担当特務機関や中野学校出身者たちの努力で各地の独立運動勢力と良好な関係を造成していたにも関わらず、結局彼らを裏切る形になって、彼らは離反し、最後は日本軍に抵抗・対抗するに至った過程が詳述されています。歴史を訪ねることは、こうした失敗の事実をもあるがままに繙き、正確な史実を知ることから始めなければなりません。やはり「真っ白」でも「真っ黒」でもない、白黒のグラデーションとその陰影が浮かび上がらせる実像をしっかりと見据えるべきなのです。