韓国の国史(*歴史)教科書の問題点について、本シリーズでは ①「反日種族主義  日韓危機の根源」(2019年日本語版:文藝春秋刊)や ②「大韓民国の物語   韓国の『国史』教科書を書き換えよ」(2009年日本語版:文藝春秋刊、永島広紀訳)を編著刊行された李栄薫(イ・ヨンフン)先生をはじめ、そもそも ③「親日派のための弁明」(日本語版:荒木和博・荒木信子 訳、草思社、2002年)を世に出した金完燮(キム・ワンソプ)先生、それから日本に帰化された呉善花(お そんふぁ)先生著 ④「韓国併合への道 完全版」文藝春秋社2012年刊(文春新書870)などを通じて、検討・検分を重ねて参りました。

 先ずは「歴史的事実」に基づく、李氏朝鮮王朝時代の頑迷固陋な封建的社会構造及び両班という支配階層や奴婢・白丁という奴隷的賎民層を抱える社会的問題点、それが故の自主的な開国・近代化の遅れと国家独立維持の困難性、朝鮮半島の地政学的位置からくる清国・ロシア・日本という隣国による勢力争いなどの結果、1910(明治43)年ついに日韓併合に至り祖国の喪失という悲哀を招いたこと、更には当初の「武断統治」や「義兵闘争」「三・一独立運動」などによる民族としての「恨(ハン)」の蓄積が、戦後の南北分断後の北朝鮮や韓国の「反日感情」に連なっていることがわかりました。

   その一方で明治以来、日本に頼って国の開化と独立を図ろうとした人々や、リアリストとして已むを得ず日本と合邦することで国の近代化を図り、国力と民力を養おうとした愛国愛民の指導者たちの姿も見てきました。この李氏朝鮮王朝末期から大韓帝国、日本統治時代を経て、終戦後の大韓民国と北朝鮮の建国に至る過程の「歴史的評価」や、今後の南北統一に関するビジョンなどが、実は現代の「韓国教科書問題」にとどまらず、我々が直面している文在寅(ムン・ジェイン)左翼政権の激化しつつある反日政策や、李栄薫(イ・ヨンフン)先生ご指摘の「反日種族主義」にも連なっていることがわかってきました。

 今回は、「歴史家というのは『歴史と格闘する知識人』である」という李榮薫(イ・ヨンフン)先生の言葉を胸に刻みつつ、本シリーズ(9)でも取り上げた、今日の韓国「反日左翼的歴史教育」のバイブルである「解放前後史の認識」(ハンギル社1979~89年刊、全6巻)の根底に流れる「唯物史観」「マルクス史観」について、検討してみたいと思います。

   滔々たる大河の流れも、必ずその水源が存在するように、20世紀末の大きな転換点となったソ連をはじめとする東欧社会主義圏の崩壊をきちんと踏まえた、マルクス・レーニン主義/共産主義の問題点を改めて認識・確認しておくことが、今後の世界にとっても大切であると思われます。逆にいえば、それほど大きな影響を全世界の特に20世紀の歴史に与えたこの「歴史観」の責任は極めて重くかつ大きいのです。

 私は史学科出身ではなく、政治学・社会学そして文化人類学の観点から「歴史と格闘」している者ですが、史学科の大先輩から読んでおくようにと教えられた古典的名著に、林健太郎著「史学概論(新版)」有斐閣1953年刊行1970年新版発行という本があります。

   もちろんカール・マンハイムの「思想の存在被拘束性」ではありませんが、この本が書かれた「時代の存在被拘束性」というべきものもあるでしょうが、少なくともこの本の新版初版が出た昭和45(1970)年以降、筆者が所蔵する第29刷が発行された平成8(1996)年までの状況においては、特にその新版に追加された「付論 戦後歴史学の課題」の内容については、今も変わらず十分な妥当性と有効性を持つものだと私は思います。

   ちなみに林健太郎先生のお父上は海軍兵学校32期の*林季樹海軍大佐で、山本五十六、堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎といった各提督と同期生です。米内光政提督が戦艦扶桑の艦長時代に同艦副長(*中佐時代)も務められましたが、ワシントン軍縮条約の余波で予備役に編入され、中学校の教師に転じられました。しかし大戦中に志願して海軍に復帰し、済州島(のち金海に移転)の釜山海軍航空隊司令をされました。林健太郎先生ご自身も、一高の教授をされていた戦争中の昭和19(1944)年に、徴兵により帝国海軍に召集され海軍一等水兵として勤務されたご経験もあります。

   林健太郎先生の最終的な思想に現在の私の思想は極めて近く、心より尊敬する方であり、また高校時代には先生の「歴史の流れ」という文庫本を愛読したことを覚えています。一高から東大という戦前のトップエリートのコースを進み、東京帝大西洋史学科出身の歴史学者として、最初は一高時代からマルクス主義と唯物史観に傾倒されていましたが、戦後まもなく共産主義者やソ連の実態に気が付いて失望し、自らの判断でマルクス主義とは決別して、その後独自の現実主義の立場から学術のみならず評論や公的活動にも取り組まれました。

   昭和43(1968)年に東大の安田講堂などが占拠された東大紛争では、当時文学部長として全共闘に一週間以上監禁されても怯むことなく学生相手に対話を続け、その後東大総長として紛争後の大学立て直しにも尽力されました。

   この間の経緯や、林健太郎先生ご自身の考え方は「昭和史と私」(2002年刊文春文庫)や、「歴史からの警告 戦後五十年の日本と世界」(*1999年中公文庫)を読まれるとよくわかります。ぜひご一読をお薦め致します。大正2(1913)年生まれの林先生は、昭和6(1931)年の満洲事変勃発の年は旧制高校三年生であり、昭和11(1936)年の二・二六事件の時は東大の大学院生として、戦前期の日本を同時代の知識人の眼でずっと目撃されてきた方です。

 さて、本シリーズ(9)回で検分した通り、韓国左翼の「反日的歴史認識」のバイブルである「解放前後史の認識」(ハンギル社1979~89年刊、全6巻) という「親日批判、(*大韓民国の)建国批判、民族解放を謳った革命思想の論文集」(*久保田るり子氏解説)があります。累計百万部を売り上げたという、この本の影響力は韓国では甚大であり、これが今日の「反日主義・反日政策」の根源となったとも言える本なのですが、その第3巻の内容は、当時の韓国の「社会経済の分析と革命理論の提示」でした。

   植民地時代と米軍政時代は「植民地半封建社会」であり、それが強く残る韓国では、まず「反帝国主義に基づく反封建的な」土地制度の改革を遂行して地主層を毀弱化し、一般農民層の支持を確保して政権を掌握した次に、適当な時期に社会主義革命にもってゆこうと主張します。つまりは毛沢東の二段階革命論と新民主主義革命を受容し、実践しようとするものでした。

 この「植民地半封建社会」という規定や、「二段階革命論」という革命戦略は、戦前日本の共産党にモスクワのコミンテルン(国際共産党)から与えられた革命運動綱領(テーゼ)によく似ています。その内容にまつわる状況を林健太郎先生の「歴史からの警告 戦後五十年の日本と世界**」(1999年中公文庫)から読んでみましょう。(*裕鴻註記、尚漢数字・記号などは適宜修正)

・・・このマルクス主義というのは昭和七(*1932)年頃岩波書店から刊行されはじめた『日本資本主義発達史講座』というものに由来するいわゆる「講座派マルクス主義」です。これはそれまで有力だった「労農派マルクス主義」に対立して日本の資本主義の封建的性格を強調するものですが、この理論は、一九三二(*昭和7)年のコミンテルン(国際共産党)の日本に関するテーゼ(*活動綱領)が「天皇制」の打倒を第一任務に掲げ、来たるべき革命はまず天皇制という封建制を倒すブルジョア革命、ついでそれを社会主義に転化させる革命という二段階でなくてはならない、と説いたことに対応したものでした。

 この来るべき革命の段階論などというものは、今から考えれば随分現実離れした無意味なものだったのですが、この講座派理論が当時の日本を「軍事的半封建的資本主義」と規定したことは、軍国主義的傾向が強くなっていた当時においてはその風潮に批判的だったインテリ(*知識人層)に大いにアピールするものを持っていました。

 他方戦前の(*旧制)大学の歴史学科では明治以降の近現代史というものは研究されていませんでした。それは歴史という学問はあくまで実証主義であって、外交文書などの史料類が公開されるまでは研究対象になりえないという理由によるものでした。そこで戦後この近現代史の論議が急に盛んになると、そこには専門の歴史家が育っておらず、時代の風潮として共産主義がきわめて盛んだったこともあって、歴史叙述がこの「講座派マルクス主義」一色に塗りつぶされることになったのです。

 この歴史観は戦前の歴史をすべておくれたもの、低いもの、悪いものと解しますから、明治維新がフランス革命のような「下からの」革命でなく「王政復古」の形をとったことが大変よくないということになります。そしてこういう「封建制」を残したから、明治維新で成立した天皇制はヨーロッパの十七、八世紀に見られたような「絶対王制」であり、それがそのまま昭和時代の軍国主義につながっていると見るわけです。

 こういう見方がいかに偏っていて事実に合致しないかは、今では一般にみとめられていると思います。明治維新は後進国の近代化として他に例のないような成功例で、その成功が、文化的伝統との断絶ではなくその継承の上に行われたことによるものだというのも、今ではすでに国際的な認識と言ってよいでしょう。(*ロバート・N・ベラー著/堀一郎・池田昭訳「日本近代化と宗教倫理」1962年未來社刊等)

 明治二十二(*1889)年の欽定憲法はプロイセン憲法を模したものでしたが、日本にはプロイセンのような「ユンカー」(大地主・農業経営貴族)はいなかったので、広く中産階級からエリートを養成して近代国家をつくりました。そして天皇は伝統的に君臨すれど統治はされなかったから、おのずと英国のような立憲君主制となり、昭和の初期にはほぼ、政党による議会政治も実現していたのです。

 私はさきに歴史家の責任と言いましたが、歴史家が全部左傾していたわけではありません。しかし戦後の日本では教育界で「日教組」というものの勢力がはなはだ強く、ここで詳しく述べる余裕はありませんが、それが中学の歴史教科書などに強い影響を及ぼしていました。たとえば日露戦争のような日本の独立のための防衛の戦いでも、独占金融資本に転化した日本資本主義による侵略戦争だというようなことを言う。だから日露戦争といえば教科書に出てくるのは必ず与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」であり、内村鑑三の反戦論であり、いかにも日本が悪いことをしたかのような書き方でした。

 ことほどさように日本の近現代史の捉え方は偏っていた。つまりそういう現実があったものだから、どうしてもそれに反発する勢力が生まれ、こちらはこちらで「大東亜戦争は悪くなかった」と、これまた反対の方向に偏る結果となっていってしまったわけです。

・・・(**前掲書256~259頁)

 つまり日本でも「戦前の日本」は「軍事的半封建的資本主義」と規定され、「二段階革命論」つまりまずは「天皇制という封建制を倒すブルジョア革命、ついでそれを社会主義に転化させる革命」を目指すよう国際共産党(コミンテルン)から指令されていたのですが、それは上記の韓国の「植民地半封建社会」という規定や、「二段階革命論」という革命戦略に極めてよく相似しています。

   また戦後日本の「日教組」主導の歴史教育が左傾した理由や近現代史研究の左傾状況も、同じく本シリーズで見てきた韓国の「反日種族主義による歴史認識」や「国史教科書問題」に相似するものであることがわかります。つまりは実証主義に基づく近現代史研究が進展する前の時点で、マルクス主義史観・唯物史観が、共産主義革命を目指す戦略的な政治運動上の必要性からも、先行して歴史学界に蔓延し、その結果として偏向した歴史教科書による学校教育が推進される結果となってしまったということです。このマルクス主義史観・唯物史観とはどういうものか、あらためて林健太郎著「史学概論(新版)***」(有斐閣1953年刊行1970年新版発行) から見てみましょう。

・・・<第八章 唯物史観の諸問題>

 カール・マルクスによって創始された唯物史観が発展段階説の一種に数えられることはいうまでもない。(*中略) 先ず発展段階説としての唯物史観はいかなる内容を持っているか。それは『経済学批判』の序文に「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産諸様式を、経済的社会構成の前進的諸時代と称することが出来る」と書かれているように、人類社会を「アジア社会、奴隷社会、封建社会、資本主義社会」の四つの発展段階に分かつものである。この四つの発展段階の前に、モルガンの『古代社会』によって提起され、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』によってマルクス主義の中に採用された「原始共産社会」をおき、又資本主義社会の後には社会主義社会が来るべきであるという主張をこれに加えるならば、唯物史観は結局人類の発展を六つの段階において考えるものであるということが出来よう。・・・(***前掲書100頁)

 簡明に言えば、「唯物史観」はここでいう六段階の発展段階の「歴史法則」に従って、その国家・社会の発展段階がどの段階であるかを規定し、その規定に基づいて、その次の段階へと進ませる「革命」を行い、最終的な社会主義社会による共産主義への完成を目指すというものです。ところがマルクスにせよエンゲルスにせよ、その発展段階説の歴史研究の土台は西欧社会に置かれていたため、東アジアの特に日本の明治維新などはすっきりとこの発展段階の分類に当てはまらないために、「戦前の日本」はコミンテルンにより「軍事的半封建的資本主義」と規定されたわけです。

   また韓国も同様に植民地時代と米軍政時代は「植民地半封建社会」と規定され、建国後の大韓民国の社会状態もその影響が強く残る発展段階だと規定されたというわけです。そして大韓民国よりも、発展段階に於いては先行して「社会主義社会」「人民民主主義社会」に到達している北朝鮮に「統合される」ことを以って、韓国は歴史法則的に進化を遂げるという論理につながるのです。そしてその北朝鮮が国是とする「主体(チュチェ)思想」を学ばねばならない、つまりはその思想に同化しなければ「民族の統一」は成し遂げられないということになるのです。これは前出の「解放前後史の認識」(ハンギル社1979~89年刊、全6巻)の第4、5、6巻の以下内容をおさらいするとよくわかります。

   第4巻:前半三巻のモラル審判、歴史認識、革命理論を前提に、朝鮮戦争の起源と性格を説明し、「北朝鮮は、革命的なソ連軍の支援で、革命的な共産主義者と民衆が連合した政権であり、米帝と反民族・反共産革命勢力の支配下にある南朝鮮(*韓国)を解放させる『民主基地』である」と主張。そして朝鮮戦争はアメリカが介入したために南朝鮮の「解放」と「革命」は挫折したと説明。

   第5巻:北朝鮮の歴史的な正統性を主張し、その理解のためには主体(*チュチェ)思想(*金日成の血統(白頭血統)たる金一族を民族の首領として仰ぎ戴く)を学ばねばならないと主張。

   第6巻:要は、韓国は社会主義革命・共産主義革命により「解放」され、北朝鮮との「民族の統一」を果たさねばならないとする主張。

 つまり、この「民族の統一」の美名の陰にある実質的な中身は「韓国を北朝鮮へ飲み込ませること」であり、現在中国が香港を飲み込もうとしていることにも相似しているのです。これが金大中大統領や文在寅大統領が北朝鮮最高指導者と約束した「連邦制による南北統一」の中味でありその意味なのです。

 しかしながら、ソ連と東欧社会主義圏が崩壊し、ベトナムの「ドイモイ政策」や中国共産党政権でさえも「社会主義市場経済」を取り入れた今日、未だに市場経済に切り替えない北朝鮮の国家と社会が、本当に「歴史法則」としての「発展段階」において韓国よりも「進歩」していると考えられるのでしょうか。この根底的な疑問は拭えません。更には、そもそも歴史には絶対的な「法則」があるのか、その知的体系には問題はないのかという問題があるのです。

 マルクスやエンゲルスが生きた19世紀のヨーロッパは、産業革命の進展による工業化が進むなか、実用的な「近代的科学」への信頼とその自信に満ち溢れた時代でもありました。特にニュートン力学に代表される物理学的な法則の発見や解明がもたらした「科学的法則」への一種の信仰とも言える信頼により、この世界と宇宙は「科学的法則の束」により構成されていて、人類がその「法則の束」を全て解明すれば、その「法則」に従ってどのような結果をも推測することが可能となり、ひいてはこの世界と宇宙を人間が制御し得るのだという「決定論哲学」が幅を効かせます。つまりこの宇宙と世界は「科学的法則」によって成り立っており「決定」されるものであるという主張です。当時の大砲がその力学的弾道計算や空気の摩擦抵抗などの影響力を加味修正することにより目標に正確に着弾することなどから、こうした「科学的法則」さえ完全に得られれば、どのような「結果」をも得ることが可能だと信じたのです。もちろんこれは現代でも、例えばアポロ11号が月に到達して着陸し、また無事に地球に帰還できることも、日本の「はやぶさ」が任務を達成できるのも、その「科学的法則の束」のおかげだという意味においては通用するものです。

   しかしその一方で、20世紀を代表するアインシュタインの相対性理論を嚆矢として進展した量子力学の描く現代的物理学の世界では、「確率的にしか言明できない」或いは観察するという行為自体が結果に影響を与えてしまう「量子の奇妙な振る舞い」が確認され、単純な「近代科学的決定論」では取り扱えない宇宙像が見えてきました。つまりはニュートン物理学に基づく近代的な「決定論的世界観」に替わる、量子力学に基づく現代物理学的宇宙観の時代となりました。その意味でも、マルクス主義の発展段階説に基づく「歴史法則」自体が、果たして「科学的法則」だと言えるのかということがあらためて問われて久しいのです。上述の通り、無理やり日本や韓国を唯物史観の発展段階にこじ付けて当て嵌め「規定する」ような「歴史理論」自体の妥当性そのものが、もはや「前近代的な遺物」であると言えるのです。こうした「歴史理論」や「歴史法則」の問題については、次回はもう少し林健太郎先生の著述を確認してみたいと思います。