二・二六事件で蹶起した陸軍青年将校が襲撃して惨殺した唯一の陸軍将官が渡邉錠太郎教育総監でした。前々回になぜ渡邉総監が殺害されたかについて、中野雅夫氏の講談社刊「昭和史の原点(4)  天皇と二・二六事件**」昭和50年刊の記述では、・・・渡邉殺害は、(*昭和11年2月)二十二日の夜(*中略)は目標にはいっていなかった。それが急に追加されたのは、決行後に軍首脳会議が開かれたさい、真崎に抵抗する硬骨のあるのは渡邉なので、渡邉を殺すことになったのである。・・・(**同上書226頁)となっていたことをご紹介しました。

 硬骨漢、渡邉錠太郎陸軍大将とはどんな人物であったのか。本当に「君側の奸賊」として蜂の巣のように銃撃で無残に殺されなければならなかったような人であったのか。唯一陸軍軍人として二・二六事件で惨殺されたこの将軍の姿を検分してみたいと思います。同時に、片や蹶起青年将校たちに崇敬され、彼らの昭和維新を断行する軍政府の首班になることを望まれていた真崎甚三郎陸軍大将とは、一体どのような人物だったのでしょうか。もとよりどのような人間も、その全てを捉えることなどできません。また人間である限り、真っ黒な人も、真っ白な人も存在しません。本ブログの分析でよく用いる「高度な平凡性」という分析の窓(分析概念)で見るまでもなく、この世に完全な悪人も完璧な善人もまずはいないということは決して忘れてはならない真実です。従って本稿で分析・表現した内容も、当該人物のあくまで一面を示すことでしかないことはお断りしておきます。

 先ずは前回も取り上げた、当時朝日新聞の陸軍省詰め記者として取材していた高宮太平氏の著書「順逆の昭和史***」昭和46年原書房刊から、次の臨場感溢れる会議のやり取りを、少し長くなりますがご一緒に読んでゆきたいと存じます。それは真崎・渡邉両将軍の人物をよく示しているからです。時は昭和10(1935)年7月18日、前々回取り上げた真崎教育総監の罷免発表の翌々日です。(以下、*裕鴻註記・修正)

・・・七月十八日、陸相官邸で非公式軍事参議官会同を催した。出席者は林(*銑十郎)陸相、*渡邉(*錠太郎)教育総監、参謀総長代理杉山(*元)次長(*参謀総長は閑院宮様)に、荒木(*貞夫)、真崎(*甚三郎)、阿部(*信行)、川島(*義之)、菱刈(*隆)、松井(*石根)の各(*陸軍軍事)参議官。林はこの会同では新旧教育総監のあいさつ程度で済ますつもりであったところ、それが妙にこじれて午後一時半から六時まで四時間以上も激しい論争が行なわれ、従来隠されていた派閥関係が露骨に表面化した。最初林から普通のあいさつをし、*渡邉から就任の言葉が述べられ、真崎から退任のあいさつをしたが、真崎は更迭の経緯を真崎流に解釈して、林の措置を非難した。林は蒼白な顔色をして聞いていたが、別にこれを反駁しようとしなかった。そうすると荒木が起って、「只今、真崎大将の話を聞くと陸相の措置ははなはだ失当で、統帥権干犯のおそれもあるように思われる。この点、陸相の明快な答弁を願いたい」と正面きって挑戦してきた。そう言われると林も黙っているわけにはゆかぬから、経緯報告をして、真崎の陳述が事実と相違せることを詳細に述べた。荒木は再び起った。

(*荒木)「陸相は真崎大将の陳述は事実と違うとのことであるが、将官の人事については(*陸軍)三長官協議の上決定することに陸軍省と参謀本部の間に協定があり、その協定は上奏御裁可を得ているものである。それを無視して真崎大将の承諾しないものを、陸相が独断で罷免したことは統帥権の干犯ではないか」

林「独断ではない、(*閑院)参謀総長宮殿下の御同意を得ている」

阿部「その協定は御裁可を仰いだものではないと聞いている。いわゆる上げ置き上奏で、陛下に奏上しただけのものではないか」

渡邉「その問題は山県(*有朋)公が非常に心配されて、そういう協定をして将来過ちないようにしたもので、只今阿部大将の言われる通り、上げ置き上奏となっている」

林「これについては陸軍省でも参謀本部でも研究した結果、教育総監が辞任を肯じないときは、陸相、参謀総長合議の上辞任させて差支ないという結論を得ている」

荒木「杉山次長、果してその通りであるか」

杉山「左様であります」

菱刈「理屈はそうでもあろうが、ただ何となく陸相の執られた措置は穏当を欠いたように思われる」

林「こういうことになったのは私の不徳の致すところである。しかしこれ以外に執るべき手段がなかったから、その点は御了承を願いたい」

荒木「陸相は軍の統制云々と言われ、真崎大将がその統制をみだしたようなお話であるが、それはそもそもどういうことであるか」

林「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶる面白くない影響を与えている」

松井「派閥は確かにある。それはかねて自分も面白くないと思っていた」

川島「自分もその点は松井大将と同感である」

真崎「派閥とか何とか言われるが、それなら、永田(*鉄山)軍務局長はどうであるか、永田は宇垣(*一成)陸相のとき三月事件に関与し、陸軍の統制をみだしたのみならず、その後の行動は永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか、こういう者を側近に置いて、自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」

渡邉「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。問題を紛糾させるためなら別だが、永田君のことはまた別に議論する機会があろう」

菱刈「そうかも知れぬが、その三月事件とやらいうのは、従来小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない、ついでに事情を聞いてみてはどうか」

阿部「それは他の機会がよかろう」

真崎「陸相は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うがどうか」

林「荒木前陸相から何らの引継ぎも受けていないから知らぬ」

荒木「それでは申し上げよう」

ここで荒木は三月事件の性格から、宇垣(*一成)、建川(*美次)、二宮(*治重)、小磯(*國昭)、大川周明のことなどを挙げて、永田もまたその一味として動いていることを、冗漫な口調で述べた。聞き終って林が、「只今のお話だけでは永田を罷めさせねばならぬほどの事実がよく諒解できない。殊にそれだけ悪いことをしているなら、何故君が陸相のとき罷免しなかったか、今ごろになって持ち出されることはすこぶる迷惑だ」と逆襲した。これは荒木も一本参った。林はなお続けて言う。「永田に非違があれば無論これを糺明するのは自分の責任であり、あるいは永田の責任といえども自分もまたこれを負わねばならぬこともある。抽象的な攻撃より具体的な事実を示されたい」林は荒木の言に対してキッパリ言い放った。「具体的に言えば永田は一日も現役に留っておれないと思えばこそ抽象的に言ったのだが、御希望とあれば申上げよう」荒木も引くに引かれぬ立場になってきた。それを引取って真崎が三月事件について、永田が起案したクーデターの策案を提出して各参議官に回付した。右下がりの永田特有の文字、誰が見ても疑う余地なきもの。真崎は末席に控えている永田を特に呼び寄せて、「これは貴官の執筆と思うが間違いはないか」と念を押す。一見した永田が「その通りである」と答える。そこで真崎が、「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を軍事課長自ら執筆起案しながら、時の当局者はこれを不問に付している。軍紀の頽廃これよりもはなはだしいものがあろうか。その者を事もあろうに陸軍軍政の中枢部たる、軍務局長の席につかせているとは何事であるか」

   それまで三月事件の真相については、林を初め列席の参議官は、知らない者が多かった。わずかに杉山参謀次長が、(*当時)陸軍次官として知っているだけである。いわんや永田の起案になる計画書のほんものは杉山すらも見ていない。これは前に記した如く、(*当時の)小磯軍務局長が一見した上宇垣(*当時陸相)にも見せないですぐ永田にかえし、永田は金庫の中に収蔵したまま、山下(*奉文、後任軍事課長)に事務引継ぎのときにはすっかり失念していたものである。林はさすがに驚いた。永田は釈明を求められれば、何時でも応答する気構えでいささかも困惑の色を見せていない。真崎らにはそれすら面憎いかぎりだと見た。林が何か言おうとするのを押さえて渡邉が正面に立った。

(*渡邉)「只今の書類は、確かに穏やかならざることが書いてある。しかも書いた者は永田であることも間違いはない。けれどもこれは永田個人の策案で、陸軍省として責任を負うべき書類ではないように思うがその点は如何なものか」

真崎「なるほど正式の書類ならば、局長、次官、大臣の決裁がなければならぬという渡邉総監の意図のようであるが、普通の書類とは違う非合法なるクーデター計画書ですぞ、大臣、次官の決裁印がなくても、実質は立派な公文書である」

渡邉「自分は単なる私文書と思ったが、真崎参議官の見解では公文書、軍の機密文書だとの御意見、列席の諸官は果してどう認められるか」

渡邉は巧みに各参議官の見解を知ろうとする。が誰も発言するものはない。荒木が一人、「念を押すまでもなくこれは立派な軍の機密書類である」と断定する。

渡邉「宜しい。一歩を譲って機密公文書と認めよう。それならばお尋ねするが、軍の機密文書を一軍事参議官が持っていられるのはどういう次第であるか。機密書類の保存は極めて大切なことである。これが一部でも外部に漏れたとすれば、軍機漏洩になる。真崎参議官はどうして持参せられたか、御返答によっては所要の手続を執らねばならぬ」

 私文書だ、私文書だと言っていたのは、責任を逃れんがための策略とばかり思い込み、立派な公文書である、機密文書であると断定してしまった以上、さあその出所を追及され、下手な答弁をすれば、軍法会議ものである。一座はシーンとして一言も発する者がない。たまりかねて荒木が立つ。

(*荒木)「その書類は軍事課長室の機密文書を収蔵している金庫の中にあったものである。不穏なる文書なるが故に、陸軍大臣たる自分の許に届けられ、当時参謀次長たる真崎参議官に回付したもので、機密漏洩などもっての外の事だ」とすっかり泥を吐いた上に、見当違いの大見得を切った。

渡邉「書類が真崎次長の許に回付された経路はそれで判ったが、その書類が教育総監が所持せねばならぬ書類であるか、さらに教育総監をやめて参議官となった真崎大将が所持せねばならぬ書類かどうか、憶測をたくましうすれば、永田を陥れんがためにひそかにそれを所持していたとも解せられぬことはない。この点について弁明があれば承ろう」

 真崎も荒木もグーの音も出ない。鬼の首ならぬ永田の首をとるつもりで出した書類が、どうやら両刃の刀で自らの首を斬りそうになってきた。阿部が起って調停する。

(*阿部)「渡邉総監の言われるところはもっともである。真崎参議官が今日までそういう書類を所持されていたことは、永田軍事課長が自ら執筆した書類の処置を失念していたと同じ過誤であったと思われる。この書類に関するかぎり、この辺で打切り同時に陸軍の手許に返還されては如何なものか」

 この助船でやっと真崎も荒木も生色をとり戻した。この論戦で胆を冷やされた皇道派の両勇士は、なおいろいろと林人事について、非難したがもう勝負はついた。四時間の論戦の主要題目は実はこういう次第であったのだ。・・・(***同上書210~215頁より)

   もともと永田鉄山軍務局長が大正10(1921)年10月に仲間の中堅陸軍将校たちとドイツのバーデン・バーデンで交わした密約から端を発した陸軍改革は、山縣有朋公以来の「長州にあらざれば人にあらず」という長州人事閥を切り崩すことと、陸軍の制度・装備の近代化、国家革新による総力戦体制の確立、満蒙問題の解決(勢力下におく)などを目指したものでした。そして昭和4(1929)年5月19日に「一夕会」という同志会合を結成し、その人事刷新の要として、彼らが担いだのが荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍だったのです。その結実として昭和6(1931)年12月の犬養毅内閣で念願の荒木陸相を実現させます。同時に真崎将軍は参謀本部次長に就任、参謀総長には閑院宮様が就任されたので、実質的な実務は真崎次長が取り仕切ることになりました。

   一方で林将軍はこれに先立つ昭和6(1931)年9月の満州事変の際、独断で指揮下の朝鮮軍を越境させて増援し「越境将軍」として持て囃されました。但し、本来定められていた陛下の勅許を得ずに派兵したことを、時の鈴木貫太郎侍従長(元海軍軍令部長・連合艦隊司令長官)からは、それこそ統帥権を犯すものと指摘されています。しかしこれで名を挙げた林将軍は、まずは荒木陸相のもと、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された後の齋藤實内閣発足時に教育総監に就任し、さらに荒木陸相が肺炎で体調を崩して辞任した後任の陸相に就任することになります。

   片や荒木陸相には、実は皇道派として自分が甘やかし煽て上げた革新青年将校らを自らは持て余した面もありました。若い青年将校たちには人気がありましたが、これは反面下克上の雰囲気にも繋がります。またこの時、真崎次長を後任の陸軍大臣にしようとしましたが、閑院参謀総長宮は余りにも自分を蔑ろにする真崎次長を嫌っており反対したため、真崎将軍を已む無く教育総監に転じさせました。そして当時は皇道派寄りと思われていた林教育総監を後任陸相にしたのです。陸軍では「三長官」と言って、大正のはじめに陸軍の将官人事は陸軍大臣・参謀総長・教育総監の三長官の合議で決める慣習が成立していました。これが上記の会議でも論題として出てきたわけです。

   また、荒木陸相や真崎次長は、極端に皇道派の人材を陸軍中央や東京方面に集めたため、その反動としての批判も生じます。殊に永田少将以下の後に統制派と呼ばれる中堅エリート将校からも反発を受けることになり、当初は皇道派寄りということで荒木陸相のバトンを受け継いだ林陸相も、さすがにこれは行き過ぎだと思い、永田少将を陸軍中枢たる軍務局長に据え、行き過ぎた皇道派人事を是正しようとします。当然これに真崎教育総監は都度反対するので、粛正人事は進まず、ついに真崎総監を嫌っておられた閑院総長宮の賛同を得て、三長官会議で真崎総監の反対を押し切って彼を更迭し、替わりに渡邉錠太郎新総監を誕生させたわけです。そしてこれに不満な真崎将軍と荒木将軍が反撃に出たのが、上述の軍事参議官会議でした。これを見事に処置したのが渡邉将軍だったのです。

   前掲の高宮太平著「順逆の昭和史***」昭和46年原書房刊から、この荒木貞夫陸相についての記述を少し見てみましょう。

・・・荒木の青年将校に対する人気は素晴らしいものであった。(*昭和6(1931)年8月)第六師団長から教育総監部本部長になって東上したとき、東京駅では凱旋将軍を迎える以上の大歓迎であった。これは後の話だが、荒木(*陸相)が局長会議で訓示した一項にこういうことがある。

   今の青年将校は維新前後の志士のようなものだ。身分は低いがその愛国の至情に至っては涙ぐましいものがある。これに反し中央部にいる上級将校は当時の家老みたいなものだ。お家大事ということは判っていても、愛国、憂国の熱情に乏しい。こういうことでは青年将校を率いてゆくことができない。

 局長級の中には、ずいぶんばかにしたことをいうと憤慨したものもあったが、(*陸軍)大臣の訓示とあれば笑うわけにもゆかず、顔をしかめていた。また正月とか祭日となると、(*陸軍の)少尉、中尉が、千鳥足で泥靴のまま陸相官邸に現われ、「荒木はいるか」と怒鳴りつつ奥に通る。それを見ながら、「若い奴は元気がいいのう」と歓迎するから、「荒木閣下」「荒木閣下」である。いやしくも陸軍大臣を捉えて、酔っているとはいえ呼びすてにするとは、何処の国の軍隊にも見られない奇現象であった。宇垣(*一成)が、青年将校に人気があるのがいけないと言った点は確かに肯綮(*こうけい)に当っている。・・・(***129頁)

・・・(*こうした)荒木が陸相となったのだから一部の青年将校たちの鼻息は急に強くなった。荒木は彼らの守護神のように思われ、荒木もまた彼らを信徒のように遇した。陸相荒木に短絡できるということは、青年将校の大きな誇りであったが、一面それら青年将校を預っている各級の団隊長、殊に大隊長(*少佐クラス)や連隊長(*大佐・中佐クラス)にとっては頭痛の種となった。若い者が各種の意見具申をするのを聞くと、随分無理、非常識がある。それを指摘すると、これは荒木閣下の御意見である、これは軍中央部の秘匿された意図であるというように主張する。それを正確に識別するだけの能力を持つ団隊長は、そうたくさんあるものではない。大抵は中央の意向がそうであるならといって、青年将校の主張を認容する。さらに賜暇(*休暇)をとってしきりに上京する。帰ってくると真偽とりまぜて東京の情報を放送する。そんなことに惑わされて、地方の軍隊の軍紀も次第に乱れてくる。補任課(*人事課)や軍事課には連隊長以下が青年将校の取扱について、非常に悩まされている状況を師団から訴えるものが多くなった。如何にそれがはなはだしかったかは、昭和七年三月三日の師団長会議における荒木の訓示の一節にこういうことがある。

 (*前略)かりにも軍人たるの本分を忘れ、その職守を顧みず、建軍の本義に背戻(はいれい)して軽挙妄動せんとするが如きことあらば、おそれ多くも五カ条の聖諭に背き、軍紀を以て成る国軍においては、その神聖の機構をみだるものにして断じて許すべからざることとす。

 荒木自身が手を焼き始めたことが判るであろう。しかしいったんみだれかけた軍秩(*軍の秩序)は、鉄壁の防波堤を構築せざる限り、これを防止することはできない。師団長に訓示しながら相変らず、陸相官邸に青年将校の集まることすらおさえきれない有様では、滔天(とうてん)の濁流は陸軍も国家ものみつくさねばやまない勢いをなすのは当然である。

・・・(***138~139頁)

 こうして荒木陸相が蒔いた青年将校の下克上気分が、二・二六事件へとつながっていった一つの要因を成したことは間違いなく、さらにはその後の陸軍の国家全体における暴威の道をも開いたと見ることもできるのです。真崎将軍は荒木将軍ほどではないとしても、青年将校に担がれていたことは確かであり、それが蹶起将校の真崎内閣樹立要求につながっています。しかし陸軍にはこれとは異なるクーデターの源流が生じていました。それが三月事件、十月事件及びこれに連動した満州事変です。これらについて次回以降見てゆきます。