現代の一般的日本人にとって、戦前日本の様相は既に理解困難になっています。二・二六事件の青年将校たちはなぜ、そして何をしようとしていたのか。また重臣たちは一体なぜあの様に残虐に殺されたのか。それを先ずは知ることから始めなければなりません。本ブログ別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか(5)帝国陸軍とクーデター、米内光政提督について」で取り上げた三田村武夫著「戦争と共産主義 : 昭和政治秘録**」(民主制度普及会1950年刊)には、「政治軍人の革命思想」として次の五項目の要約が記述されています。

  一、政党、財閥、資本家、特権階級を打倒し、天皇を中心とした一種の社会革命を断行する。

  二、政治の指導権を軍部組織の上に置く。(*つまりは軍事政権たる軍政府)

  三、満蒙積極政策を中心とした大陸進出計画を強力に実行する。

  四、思想的には共産主義を排撃すると共に、資本主義にも反対する。

  五、行動的には軍部の実力を背景としたクーデター、即ち、暴力革命の手段をも辞さない。(118頁**)

 また同上書**102~103頁には具体的要領としてこうあります。(*裕鴻註記)

…その頃の青年将校がいかなる思想を持つてゐたかを、昭和五年四月、仙台教導学校の大岸(*頼好)大尉等によつて秘密に発行された『兵火』第二号に付てみてみよう。

行動綱領

  1.東京を鎮圧し、宮城を守護し、天皇を奉戴する*ことを以て根本方針とす。この故に陸、海、国民軍の三位一体的武力を必要とす。(*天皇を手中にする)

  2.現在跳梁跋扈せる不正罪悪――宮内省、華族、政党、財閥、赤賊(*共産主義者)等々――を明らかに摘出して国民の義憤心を興起せしめ、正義戦闘を開始せよ。

  3.敵と味方とを明らかに区別し、敵陣営の分裂紛糾を起さすべし。躍進的革新を信ぜざる者の如きは凡てこれを排す。(*陸海軍の内部でも敵は排除する)

  4.陸、海軍を覚醒せしめると共に軍部以外に戦闘的団体(*在郷軍人:軍人OBや民間右翼を中心とする国民軍)を組織し、この三軍は鉄の如き団結をすべし。

これ結局はクーデターにあるが故なり、最初の点火は民間団体にして、最後の鎮圧は軍隊なるを知るべし。(*最初に民間右翼に騒乱を起こさせ軍隊が出動)・・・

 これは二・二六事件の首魁として処刑された北一輝の、日本改造法案大綱の冒頭に掲げられている「天皇大権の発動による、三年間の帝国憲法停止、帝国議会両院の解散、全国に戒厳令の宣布を行い、国家改造のための態勢をつくること」に通じる行動要領です。これが陸軍クーデターの骨格になっているのです。

 当時事件の捜査に当たった大谷敬二郎憲兵大佐(当時憲兵大尉)の戦後著書「二・二六事件の謎***」柏書房1967年刊では、蹶起青年将校たちの考え方をこう記しています。

・・・国家革新の途は、まず軍を(*昭和)維新体制に一体化し、これを出発点として(*天皇)大権発動の下に、軍民一致の国民運動によって国家改造の目的を達成しようとするものであった。それは武力や強権による維新革命ではなく軍事内閣による平和的な維新革命であった。・・・(***50頁)

 つまり蹶起した青年将校たちは、当初は武力によるクーデターには批判的であったのです。本来は国民運動により平和的に軍政府の首班たるにふさわしい人物(真崎甚三郎将軍)に内閣組閣の大命が降下することを望んでいました。そしてどうしても已むを得ない情況で直接行動に出ることになったとしても、自分たちは「君側の奸」を襲撃殺害しその罪を負って犠牲になることで維新の先駆け、捨て石となるだけであって、自分たちが直接生き残って政権を奪取する事は意図していないので、これは天皇大権を犯すようなクーデターではないと事件後も主張しています。むしろ彼らはクーデターたる三月事件を批判していたのです。

   ところが、いずれにせよこうした革新的な一部青年将校の活動・運動が、陸軍中央の省部(陸軍省・参謀本部)を支配するエリート中堅幕僚(*陸軍大学校出身者)の統制的方針と相反します。つまりこれら一般部隊勤務の隊附青年将校(非エリート)に対し、・・・彼ら(*エリート幕僚)は之を策動なりとし中傷排撃し、隊附将校は一意専心隊務に勉励し他を顧みるべからず、中央部における余輩が本務として極秘裡に国家改造計画を立案中なるを以て、青年将校は本務外に脱逸すべからずとの説をなしたり。・・・(***51~52頁)ということで、要は除け者にされたのです。そこで、・・・青年将校に対立する(*陸軍中央部)幕僚と、これに結託する新官僚、また、これらの幕僚を援護する一部右翼を国体反逆の徒とし(*中略)これらの幕僚系列もまた青年将校けっ(*蹶)起の場合の(*第二次の殺害)重要目標に指定されていた・・・(***54頁)というわけです。しかし一方で、彼らが先ずは重臣たちを殺害した後の、昭和維新断行のための国家改造には陸軍という組織全体が主導して動かねばならないために、・・・「例えば襲撃目標についても、最初から(*陸)軍内の弾圧勢力(*中央幕僚)を相当数斬るか、(*陸)軍内には全然刃を向けないか、と言う煩悶すべき問題にブッ突かる。襲撃後の部隊の集結位置及び行動に於ても、陸軍省、参謀本部を包囲する如くやるか、或いは全然両所を解放して仕舞うか。または最初から(*陸軍)省部内への交通を杜絶して、幕僚等の(*陸軍)大臣に対する一切の策動を避くる如くするか。第一次目標襲撃後、軍内の空気を速かに看取して、第二次目標を襲撃すべきか否か、を決定せねばならぬのであって、不適当な時機に無暗に動乱化を計れば、却って軍部の怒りを買わねばならぬ等、一切合財の問題が極めて複雑であって、すべて最初から計画することの不可能な条件ばかりである」と、この間の事情を(*磯部浅一は)説明・・・(***74頁)しているのです。

 そして蹶起将校中の最年長者である野中四郎陸軍大尉が、急速に決行論に傾いたのは、背景には間もなく(*昭和11 (1936)年3月に)第一師団が満洲に移駐することもありましたが、それよりも・・・(*昭和10 (1935)年)当時の(*陸)軍内情勢、それは十一月事件(*士官学校事件)以来あいつぐ青年将校への弾圧(*村中孝二陸軍大尉と磯部浅一一等主計が8月に免官)、真崎教育総監の罷免(*7月)、相沢事件(*永田軍務局長惨殺)の発生(*8月)、(*新)渡邉教育総監排撃運動にからんでの青年将校の粛正等々、相次ぐ粛正のあらしは、ウカウカしておれば、自分達も一網打尽に全滅の厄にあうことを、ひしひしと感じとったものではなかろうか。・・・(***62頁)と大谷敬二郎憲兵大佐は推察しています。実際に大谷大佐の別の著書「憲兵-自伝的回想-****」新人物往来社昭和48年刊の38~42頁に、当時陸軍歩兵学校の学生だったある陸軍少尉が渡邉錠太郎教育総監に対する辞職勧告書を送りつけたために重謹慎となった事例を挙げています。

   そしていよいよ・・・磯部はその行動記に、「蹶起の目的は重臣、元老特にロンドン条約以来の統帥権干犯の賊を斬り、軍部を被帽して維新の第一段階に進むこと・・・」(***「二・二六事件の謎」74頁)と記し、ついに蹶起の日を迎えるのです。彼らの襲撃目標となった重臣たち「君側の奸」は、前々回ご紹介した小堀桂一郎先生ご指摘の通り基本的に「この人々の自由主義的心性」であるのですが、より具体的には青年将校の言う「二つの統帥権干犯」に関わった人物が選ばれています。一つは上記の通り「ロンドン海軍軍縮条約」の締結・批准を、促進・支持した人物(岡田首相・斎藤内大臣・鈴木侍従長:いずれも海軍首脳OB)であり、もう一つが前回ご紹介した真崎甚三郎教育総監の更迭を、真崎総監自身の反対を押し切って林銑十郎陸軍大臣と閑院参謀総長宮がいわゆる「陸軍三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)」の会議で強行したことを指して、「統帥権干犯」としているのです。それは真崎大将の主張である、教育総監は天皇陛下から直接任命される親補官であり、陸軍将官の人事は「陸軍三長官」の合意で決められることになっているのに、教育総監である自分の同意なくして辞職させるのは、統帥権の干犯であるという主張が元になっています。しかし、基本的には陸軍の人事権は陸軍大臣にあり、陸軍三長官の合議というのは大正以降の慣習に過ぎず、かつ教育総監も参謀総長もその選任は基本的に陸軍大臣が行うのであって、特に本人が同意でないと更迭できないということはあり得ず、結論的には「統帥権の干犯」ではないというのが正解です。さもなければ、教育総監が自分は罷めると言わない限りは、永遠に更迭できないことになるからです。しかも、この件は林陸相だけではなく、閑院参謀総長宮が賛同されているのです。しかしさすがに真崎大将も青年将校も、閑院宮様に対して「統帥権干犯」だと言うわけにはゆかず、その攻撃の矛先が林陸相を動かした元凶としての統制派幕僚(特に永田鉄山軍務局長を首魁とした)と、真崎大将の後任となった渡邉錠太郎教育総監に向かいました。渡邉大将は丸善から定期的に洋書を大量に取り寄せて、普段から読書に励んでいた合理性思考の教養人であり、そもそも神懸かり的かつ狂信的なところのある国粋主義的皇国思想と、それを元にした「国体明徴運動」や「天皇機関説排撃」に批判的でした。前掲の大谷敬二郎著「憲兵-自伝的回想-****」にも次の記述があります。(*渡辺は本来の渡邉に修正)

・・・おりもおり、渡邉新総監は(*昭和10 (1935)年)十月の初め、名古屋偕行社で衛戍地将校を集め、その席上、「天皇機関説問題はやかましく、今やこれがよくないということは、天下の定説になってしまったが、わたしは機関説でもよいと思っている。(*明治天皇の)ご勅諭の中に、朕が頭首と仰ぎと仰せられている。頭首とは有機体としての一機関である。天皇を機関と仰ぎ奉ると思えば、なんの不都合もないではないか」といった。これから渡邉攻撃に火がついた。渡邉総監は機関説信者である。天皇機関説を排撃する軍は、機関説信者を軍教育の中枢におくことはできない。速やかにこれを追っぱらえ、と青年将校はいきり立った。・・・(****39頁) しかしこの渡邉総監の解釈は、いみじくも昭和天皇ご自身の解釈に通じています。「昭和天皇独白録*****」(1991年文藝春秋刊、寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー編著)の中で、陛下は・・・斎藤(實)内閣当時、天皇機関説が世間の問題となつた。私(*昭和天皇)は国家を人体に譬え、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支えないではないかと本庄(繁)武官長に話して真崎(甚三郎・教育総監)に伝へさした事がある。真崎はそれで判つたと云つたそうである。又現神(現人神と同意味。あきつかみ)の問題であるが、本庄だつたか、宇佐美(興屋)だつたか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。・・・(*****30~31頁)と仰っておられます。生物学者でもいらっしゃった昭和天皇らしく生物学に基づいた科学的知見を感じさせるご見解です。そのご解釈は上記の渡邉総監と同様です。

 また当時朝日新聞の陸軍省詰め記者として取材していた高宮太平氏の著書「順逆の昭和史******」昭和46年原書房刊にも、*渡邉錠太郎将軍について三月事件と十月事件を首謀した橋本欣五郎陸軍大佐との次の逸話が書かれています。

・・・昭和六 (*1931) 年四月一日、宇垣(*一成)陸相時代に師団長会議があった。そのとき橋本欣五郎は、菱刈(*隆)関東軍、林(*銑十郎)朝鮮軍、*渡邉(*錠太郎)台湾軍の三軍司令官を烏丸の湖月という小鳥料理に招待した。そして三月事件が失敗したから、こんどは満洲で直接事を挙げねばならぬと、怪弁を揮って三大将を説いた。林はすぐに賛成した。もっともじゃ。貴官らに言われるまでもなく、われわれもそれを痛感していると、大きなドジョウひげをひねって承知した。渡邉は軍人は陛下の命令以外に勝手な行動をすべきものじゃないと、頭からはねつけた。渡邉と議論しては橋本の怪弁も歯が立たない。菱刈は不得要領、タヌキの本性を発揮して、賛成か反対かわけのわからぬことをいう。金谷(*範三)の次には渡邉こそ参謀総長にと、買い被っていた橋本はすっかり興覚めして「あれは駄目だ」とサジを投げ、林に対しては「肚と口とは別々の奴だから、こちらの勢いさえよければ引っ張れる」と甘く見た。八月の師団長会議のあったときも、橋本は林と本庄(*繁)を招待した。真崎(*甚三郎)は台湾(*軍司令官後任)で直接関係がないから招かなかったらしい。前と同じ話をすると、本庄は黙って聞いているだけで、可否を明言しなかった。けれども橋本は「これは脈がある」と診察した。・・・(******111~112頁)ここでも理性的かつ陛下に忠実な渡邉将軍の姿が伺えます。

 前回も取り上げた中野雅夫氏の講談社刊「昭和史の原点(4)  天皇と二・二六事件*******」昭和50年刊にも、渡邉将軍に関して次の記述があります。

・・・(*陸)軍部内に、国体明徴の旋風が吹きあれているとき、陸相林銑十郎は、三度目の粛正人事を計画した。まだ軍内に(*前陸相の)荒木色が強く残存し、軍の統制が阻害されがちであった。(*中略) ほんらいなら、この程度の人事は、陸軍大臣一存でできたが、林は気弱であったのと、摩擦をさけるために、教育総監真崎甚三郎に相談した。(*中略) 当然だが、真崎は反対した。林は、陸軍大臣として計画した人事が実施困難となった。そこで、軍事参議官*渡邉錠太郎に相談した。渡邉は、「断の一字」と答えた。渡邉は旧尾張藩の出身で、典型的な武人で、硬骨漢であった。生活は質素で、収入の大半は書籍の購入にあてていたという。天皇と同様に、「天皇機関説」支持者で、軍隊教育に支障はなく、天皇を「現人神」扱いすることが、かえって弊害を生む、と公然と主張していた。林陸相は渡邉の支持で勇気づいた。(*中略) 永田(*軍務局長が相沢中佐に)殺されたことで、(*中略) 林銑十郎も軍再建の意欲を喪失した。軍人が嫌になったのではないか。林は(*昭和10 (1935)年)九月五日に、陸相を辞任した。後任に、林は渡邉錠太郎を望んだが、読書家で出世欲のない渡邉は拒絶した。結局、軍事参議官で派閥色のない川島義之が陸相になった。(*中略) その夜(*昭和11 (1936)年2月23日)、安藤の部屋に集まった村中、磯部、香田、野中は、坂井直中尉の一隊に齋藤(*實)内大臣を襲撃させたあと、高橋太郎、安田優両少尉に、教育総監渡邉錠太郎大将を殺害させること(*中略)を決めた。渡邉殺害は、二十二日の夜(*中略)は目標にはいっていなかった。それが急に追加されたのは、決行後に軍首脳会議が開かれたさい、真崎に抵抗する硬骨のあるのは渡邉なので、渡邉を殺すことになったのである。

・・・(*******同上書178、195、226頁)

 現代のイスラム原理主義やキリスト教原理主義、マルクス主義的原理主義など、原理主義の人々は一切妥協をせずに先鋭化して自分たち以外の考え方を排除抹殺しようとする傾向があると思いますが、当時の「国体原理主義派」という一種の「天皇宗」とも言うべき、実際の生きた天皇陛下から乖離した勝手な自分たちの「観念上のあるべき天皇像」を絶対の「現人神」として信仰するというのが皇道派の人々の様相であったのではないかと思われます。しかし現実の昭和天皇は、若き皇太子時代の訪欧時に英国国王ジョージ5世から親しく教わった「君臨すれども統治せずという議会制民主主義に則った立憲君主の帝王学」を旨に、日々のご公務に当たられていたと思われ、そのギャップが昭和前期の悲劇を生んだように思えてなりません。しかし戦前の軍人が全て狂信的な「国体原理主義者」であったわけではなく、渡邉将軍のような常識的かつ穏健な、かつ陛下に対しては極めて忠良な軍人も少なからず存在したのです。二・二六事件で襲撃され或いは惨殺された齋藤實提督、鈴木貫太郎提督、岡田啓介提督も同様の良識的軍人であったものと思われます。そもそも「国体とは何か」とか「天皇親政とか御聖断とは一体どういうことなのか」ということ自体が、決して一言で括られるような簡易な内容ではないのですが、本ブログ別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」の(64)~(70)回で詳しく検討していますので、ぜひご一読下さい。

   因みに昨今では「日本主義者」というと、こうした原理主義的な狂信的で過激な国粋主義者のようにのみ捉える傾向がありますが、「日本主義」にも合理的かつ穏健な考え方もあるのです。私も一度お会いしてお話を伺った森山康平先生の「山本五十六は何を見たか*******」2006年PHP研究所刊の中に、この戦前日本の「良識的な日本主義」に関する見事な素晴らしい説明がありますので、ご紹介したいのですが、ぜひ皆さんも同書をお読み戴きたいと存じます。

・・・さらに陸軍は、日中戦争(*日華事変)を進めながら国家総力戦という立場をとった。それが法律として結実したのが国家総動員法(*昭和13 (1938)年4月)であるが、それは生産も流通も消費もすべて国家統制のもとに置こうとした法律だった。国家総動員法と、強化された治安維持法は個人の思想も統制下に置こうとした。陸軍は日中戦争とリンクさせながら、全体主義を推し進めようとしたわけである。その全体主義は超国家主義とも呼ばれる。それをファシズムと呼んでもそう大きな異論はないだろう。(*中略) 全体主義といっても、それまでの日本が自由主義国家であったわけでもなく、米内(*光政提督)も山本(*五十六提督)もさらには井上(*成美提督)も決して英米流の自由主義者ではなかった。ごくふつうの日本主義者である。ふつうの日本主義者というのは、天皇陛下を敬いつつ、天皇を中心にして国民が力を合わせて国をもりたてていこうとすることである。しかし天皇の威光を笠に着て他を威圧するとか威張るという生き方をするものではない。自分の立場が悪くなると、天皇を引き合いに出して正当化を試みるような生き方はしない。いわんや、天皇の名を借りて好んで戦いの音頭をとるものでもない。軍人としての日本主義者とは、天皇の命令なく部隊を動かしてはならず、天皇の命令とあらば、水火も辞せず戦い抜くことである。それ以外は軍事にしても、経済にしても、個人生活にしても常識的な欧米風の合理主義にのっとった考え方をとる立場である。(*中略) 明治維新は欧米風の合理主義・理性主義・科学的精神・進歩主義を模範にして近代的国家への脱皮を図ろうとした一大啓蒙主義の運動だった。だから、そこには必ず自由と民主という政治経済思想が大幅に許容されるのが当然という暗黙の前提があった。ふつうの日本主義者は、ことさらには自由と民主という政治思想を鼓吹はしないけれども、言っていることや、やっていることは、自由主義的であり、民主主義的だった。天皇を敬うということとそれは少しも矛盾しないのである。なぜなら、天皇自身が国民の自由と民主の考え方を、直接命令して抑圧することはなかったからである。

 なるほど、大日本帝国憲法はあらゆる権威と権限を天皇に集中させてはいたが、中国の歴代王朝の皇帝のように独裁はできなかった。また、十七~十八世紀のフランス絶対主義時代における「朕は国家なり」の独裁はできない仕組みとなっていた。その仕組みを天皇自ら壊そうと試みたことはない。

 国民の自由と民主の思想や行動を抑圧したのは、天皇の名を持ちだして自分の都合の良い方向に国家を引っ張っていこうとした日本陸軍を中心とした勢力だった。その傾向が顕著にかつ露骨に示されたのは満州事変(*昭和6 (1931)年)以後のことである。満州事変以後、天皇や国家に関する寛容の精神が著しく狭められていった。そしてその仕上げが二・二六事件(*昭和11 (1936)年)だったのだ。・・・(*******同上書122~125頁より。*裕鴻註記及び修正。次回に続く)