田中隆吉将軍の第三作、昭和二十三年十月に新風社から発行された「裁かれる歴史ー敗戦秘話ー」から、今回は「三国機関」を取り上げたいと思います。この機関は別名「ヤマ」とも呼ばれ、陸軍中野学校卒業生も加入し、リヒャルト・ゾルゲのスパイ団逮捕や、吉田茂氏(戦後首相)の憲兵隊拘束にも関わっていたと言われています。斎藤充功著「昭和史発掘  幻の特務機関『ヤマ』」新潮新書の50頁に掲載されている陸軍省組織図(昭和16年開戦当時)を見ると東條英機陸軍大臣直轄の「調査部長(三国直福少将)」(※昭和17年・軍事資料部に改編)の指揮下に「防諜部長(植田 謙 大佐)とあり、その下に「兵務局分室(秘匿名ヤマ)東京・本部」と記載されていますが、この機関は謎の多い組織で、その実態はあまりよく解明されていません。斎藤充功氏が苦労して追跡されている様子が同新書やその他の著作を読むとよくわかりますが、直轄ではないものの三国機関は、開戦当時兵務局長を務めていた田中隆吉少将指揮下の防衛課や中野学校も関係があったことが、同書54頁や56頁の組織図からもわかります。


   まずは、「裁かれる歴史ー敗戦秘話ー」から、田中隆吉少将自身の説明を見てゆきましょう。本書籍は絶版であり、古書としては出回ることもありますが一般の方には簡単には入手しにくいものでもありますので、ここではその第16の三国機関の節を以下に引用したいと思います。


・・・16  和製ゲシュタポ三国機関

  ナチス独逸にはゲシュタポがあった。ソ連にはゲー・ペー・ウーがある。何れも秘密の国家警察機関である。この秘密警察は一国一党の独裁政治形態を有する国家にとっては必要とする。

   第二次近衛内閣から東條内閣に到る間は、軍部の力が絶頂に在った頃である。日本の一切の政治は陸軍の指導下に一国一党の姿に於て運営せられて居た。故にわが陸軍も御多分に洩れず、極秘裡に、秘密警察組織をもって居た。その名は三国機関である。

   この秘密機関の創設は、板垣陸軍大臣時代の末期昭和十四年の四月である。創設当初はゲシュタポ的の性質を帯びたものではなかつた。その目的はスパイの防止を主とした単純な防諜機関であり、その内容は貧弱なものであつた。所在地は麴町の萬平ホテルで、その秘密事務所は、このホテルの一室を占有するに過ぎない有様であつて、人員も僅少であつた。従ってその活動範囲もスパイ行為の追及のみに限られ、追及の対象は主として外国人であつた。そしてその管轄は憲兵司令官に属して居た。

   昭和十五年七月、東條氏が陸軍大臣になると、憲兵政治の好きな氏は早速この機関に眼をつけた。そして直ちにこの機関を大臣直轄とし、その内容を拡充して政治部門と防諜部門の二つに分かち、之をゲシュタポ式の組織とした。その指揮者には三国直福中将を選び、優秀な憲兵将校と政治情報の蒐集に堪能な民間人を起用して機関員とした。この機関を三国機関(*みくにきかん)と呼ぶに到つたのは此時からである。

   この機関の存在を知るものは(*陸軍)大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。本部の所在地は最初牛込若松町の砲工学校内であり、事務所は同校の気象研究室を充てていたが、太平洋戦争の開始と共に市ヶ谷の陸軍省内に移転した。この機関の特徴は機密費が極めて豊富であつたことと、捜査の実行のためあらゆる最新の科学的資材を完備して居たことである。

   科学的捜査資材とはなんであらうか。その一つは録音機である。この録音機は極度に小型な精巧なものであつて、之を部屋の壁の中に装置すれば、その部屋の中で取り交はされる総ての音声が記録せられる。又バンド止め兼用のスパイカメラもある。このカメラは路上で行き違つた人の面影を突差に而も確実に撮影することが出来る。その外に精妙な電話窺取器材(無線電信探知機)暗号解読の電気装置など近代科学の粋を集めたあらゆる捜査器材を備へて居た。中野正剛氏の東條内閣打倒の陰謀に関し、伸つ引きならぬ証拠を摑んだのは、電話の窃取と交詢社内に装置せられてあつた録音機の賜物である。

   東條氏によつて完成せられた日本のゲシュタポである三国機関も、その防諜部門は民間に対してあまりに大なる害毒は流さなかつた。何んとなれば太平洋戦争開始後は内地に於てはスパイ的存在が殆んどなかつたためである。然し政治部門の活動は、アンチ東條の政客や団体を戦慄せしめた。

  政治部門に集まつた情報は大小となく殆んど毎日三国氏から東條氏に直接通告せられた。東條氏はこの通告に基いて、必要と見れば直ちに憲兵隊に通じ、逮捕或は取り調べの実行を命じた。

  東條氏の性格の最大の欠点は自己を信ずることが極めて強く、偏狭であつて猜疑心の深い所にある。従つて氏は阿諛と佞弁(*ねいべん)を好み、極度に直諫を忌み嫌う。三国機関の政治部門に属する機関員は最もよく東條氏の性格を知つて居た。彼等は東條氏のこの弱点に乗じてその意を迎へ自己の立身出世の具に供した。故に彼等の蒐める情報は概ね東條氏をして満足の意を表せしむるものが多かつた。

   昭和二十年(*十九年の誤り)七月、人心既に東條氏を去り、客観的情勢は著しく東條内閣に不利となり、その存続は全く不可能となれる状態に於て、東條氏が尚且執拗に政権に囓ぢりつかんとしたのは主としてこの三国機関が東條氏に阿(*おもね)つて、政治情勢の真相を伝えなかつたためである。

   太平洋戦争の勃発以後、東條氏が最も力を注いだのはアンチ東條の運動を弾圧することであつた。三国機関の政治部門はこの目的のために殆んど全力を注いだ。

   私(*田中隆吉)は東條氏の性格より判断して、三国機関の存在が東條氏の国内情勢に対する判断を誤らしめ国家の運命に暗影を投ずることを恐れ、戦争勃発の直後、三国機関の廃止を進言した。そのとき私*は(*三国機関の)政治部門が流す害毒を詳細に述べて廃止の必要を力説し、若し強いて残置するとすれば防諜部門のみに止(*とど)むべきであると主張したが、東條氏は反対に、戦争の勃発は盛々(*ますます)その重要性を増加したと主張して私*の進言を一蹴した。

   三国機関の活躍は巧妙且迅速であつた。昭和十八年一月、東條氏が肺炎を病んで高熱に苦しみ議会の再会(*ママ)を延期したときの話である。その頃私は伊豆の長岡温泉に滞在して居た。ある日の午後大和館(*旅館)の一室で宇垣一成氏と東條氏が退陣した場合の対策に就て密議して居た。会談半ばに東京の憲兵司令部から宇垣氏に向つて、「何を話して居るのか。貴方は何時田中(*隆吉)の所から家に帰るのか」と電話して来た。この一事は私*の周囲に三国機関の手先が動いて居り、その行動が極めて迅速であつたことを立証する。

   又昭和十九年の春、近衛(**文麿)氏は私(*田中隆吉)に

   「私(**近衛)の行動は詳細に東條が知って居る。電話の内容や、訪問客の人等は兎も角会談の内容まで知って居るのには驚く」

と語った。私は(**近衛)氏に対し三国機関なるものの存在とその内容を打ち明けて氏の行動の慎重なるべきことを忠告した。その年の秋、内大臣官邸で木戸(*幸一)氏に面会したときに、木戸氏も私(*田中隆吉)に

   「東條内閣時代には私(***木戸)の行動は事細かに東條が知つて居た。電話は勿論、宮中で人に会つたときの話の内容すら知つて居た。今になつてもどうしてあんなに詳しく知つて居たかその理由が判らぬ」

と言った。(***木戸)氏は私(*田中隆吉)が近衛氏の場合と同様に、三国機関の内容を詳細に説明したため始めて疑問を解いた。

   中野正剛氏が昭和十八年の九月、警視庁で取り調べを受けたときには、証拠不十分で無罪放免となつた。憲兵は東條氏の命令で再び中野氏を逮捕した。取り調べは厳重を極めたが中野氏は終始頑強に(*東條内閣倒閣計画の)事実を否認し続けた。然し最後に憲兵が、交詢社(*銀座にある実業家の社交クラブ)の一室で中野氏と東方会(*政党)の幹部とが会談をした内容を録音に依つて中野氏に聞かせたので、流石の中野氏も終に前言を翻さざるを得なくなつた。中野氏の自裁(*この後割腹自殺)の原因は恐らくこの録音にあるのではなからうか。

   (*昭和十六年)十二月七日正午に日本に到着したルーズベルト大統領の(*天皇陛下宛)親電が、同日夜に到つて始めてわが外務省に手交せられ、天皇の手許に到達するのが著しく遅れたのは、この三国機関が裏面に於て活躍したためである。その方法は極めて簡単である。電信線をある一定の時間、遮断すればよい。この種の操作は三国機関に取つては朝飯前の仕事である。翌八日(*昭和16年12月8日)、アメリカ国務省に手交すべき日本の最後通牒が、予定より遅れて、真珠湾攻撃と殆んど同時(*攻撃開始後となり騙し討ちとなった)にハル(*米国務)長官に交はせさられたのも亦この(*三国)機関の活動の結果である。それは、六ヶ絛から出来て居たこの電文の最後の一ヶ絛を、数時間遅らしたためである。この方法も亦極めて簡単である。前と同様にある時間を限つて電話線に故障を起させればそれで十分である。

   昭和十九年七月小磯内閣が成立してから杉山陸相の下に柴山兼四郎中将が次官に就任した。氏は就任と殆んど同時にこの機関を解散した。明敏なる氏はこの機関の害毒がそのもたらす効果に比してあまりにも甚大であることを知つたからである。

   私(*田中隆吉)は若し三国機関なるものが存在しなかつたならば太平洋戦争は起つて居なかつたと思う。何となれば東條氏の国内情勢判断の資料は議会の言論や、大政翼賛会が蒐めた報告には全然之を無視して、主として三国機関のもたらす政治情報を基礎として居たからである。三国機関の政治情報が常に東條氏の意を迎ふるに汲々として居たことは既に述べた。彼等は太平洋戦争勃発の直前、只管(*ひたすら)東條氏の開戦決意を狩り立てるのに有利な情報のみを提供した。高慢にして思ひ上がれる東條氏はその情報によつて、一億国民悉(*ことごと)く開戦を欲して居るものと速断しアンチ東條の空気は絶無であると過信した。

   昭和十六年十二月九日、即ち太平洋戦争勃発の翌日の夜のことであつた。私(*田中隆吉)は三宅坂の(*陸軍)大臣官邸に東條首相兼陸相を訪れて、兵務局が蒐めた国民情報を忌憚なく述べた。その要旨は次の通りであつた。

   「この戦争の勃発は、国民には全く寝耳に水である。一般国民は国際情勢の推移には全く無知であつて、その真相を把握して居らぬ。故に唯政府の言う所に盲従して居るのがその実情である。然しインテリ階級は、軍部を恐れて口にこそ言はぬが多くは反対である。私*の恐るるのはこのインテリ階級の態度である。戦争が長期に亙ると必ずこのインテリ階級の態度が国民に反映する。その結果は反戦思想の台頭となつて、国民の結束が破れる。故にこの戦争は可及的早期に終結せしめねば、惨敗に終るであらう」

   之に対し東條氏は不機嫌な態度で次の様に答へた。

   「それは杞憂だ。三国機関の情報では、寧ろインテリ階級が挙つて戦争を欲して居る。故に自分は国民全部の信頼があることを確信して居り、この戦争は必ず勝利を以て其局を結ぶことを疑はない」

   と。一事が万事である。三国機関が東條氏を誤つた罪は重い。然し誤られた東條氏の罪は更に重い。反省なき思ひ上がれる愚昧が生んだ結果である。・・・(同上書、新風社版  97~104頁、長崎出版版  96~103頁)


   ここには、いろいろな事件が記述されていますが、今回は特にこの中の「開戦通告遅延問題」に注目したいと思います。以前も、本ブログの「山本五十六長官は愚将ではない(2)開戦通告の問題」で取り上げましたが、真珠湾攻撃はある意味でアメリカ建国以来の衝撃と言えるほどでした。なにしろ当時米国では「日本人は近眼だから飛行士に適さないし、まっすぐ射撃することもできない式の、戦前のワシントンで広まっていた推測」があったのです。(エドウィン・T・レートン著「太平洋戦争暗号作戦  アメリカ太平洋艦隊情報参謀の証言」上巻80頁) 従って、まさか日本人の飛行士に米国の主力戦艦部隊が徹底的にやられるなどとは全くあり得ないことでした。確かに「最後通告」手交前の攻撃であったことから、「卑怯な騙し討ち(スネーク・アタック)」の印象と日本非難の口実を与えましたが、そもそも日本人にここまでやられたというショックと屈辱感がひどく大きかったのだとも思います。しかも米国海軍でも主流派は大艦巨砲主義でしたから、戦艦部隊が次々と日本海軍の航空隊に沈められて壊滅したことの衝撃も深刻であり、敗軍の将キンメル司令長官に替わって、太平洋艦隊の指揮を執るため真珠湾に着任したニミッツ提督も乗る旗艦(戦艦)がないと嘆いたほどです。実際、就任の式典は生き残った潜水艦のデッキで行われました。ニミッツ司令長官がその後も陸上司令部で指揮を執るきっかけにもなったのです。因みに、よく山本五十六長官が、日露戦争当時の東郷平八郎長官のように、艦隊の先頭に位置する旗艦で指揮を執らなかったという批判がありますが、ニミッツ長官は先頭どころか陸上司令部からずっと指揮を執って太平洋戦争に勝利したのです。それだけ日露戦争よりも遥かに三次元の航空隊や潜水艦部隊も含む大規模で複雑多岐な戦いを指揮しなければならなくなっていたのです。(イアン・トール著「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで」ご参照。私はトールさんにはサンフランシスコでお会いして山本五十六評価についてインタビューも行いました。) 


   さて、開戦通告が遅れた根本原因は、14分割されて送信された対米最後通牒の、最終部の第十四部とそれまでの全電文の打ち間違いの箇所を修正する訂正電報の発信時間が、あらかじめ予定されていた発信時刻より15時間遅れて、しかも「大至急」指定を外した電報で発信された(配達が翌朝回しとなった)事実が、近年発表されました。(井口武夫著「開戦神話  対米通告を遅らせたのは誰か」中公文庫刊、ご参照。)


   それを遅らせたのは、陸軍参謀本部通信課参謀だった戸村盛雄陸軍少佐(当時)が、陸軍参謀本部作戦課参謀の瀬島龍三陸軍少佐(当時)と謀って、ルーズベルト大統領から昭和天皇への親電の配達時間に介入して遅らせ、その結果、この親電の内容を読んでから、日本側最後通牒最終部の内容を、親電に対応するために一部変更しなければならないかもしれないと考えた外務省本省が、最終部の発信を遅らせたという可能性と、戸村陸軍少佐の逓信省への直接介入で「大至急」指定まで外して、予定時刻より発信を遅らせた可能性が考えられていました。ある程度これらを裏付ける史料も防衛研究所で見つかっています。その史料は、昭和11年8月から20年までの陸軍関係の動きについて、戦後防衛庁(現防衛省)が関係者から聴取した「防諜に関する回想聴取録」です。


   当時の陸軍は逓信省に圧力をかけ、陸軍諜報機関で外国との交信の電話を傍受録音したり、郵便や電報を事前入手して写しを取って戻し、時間を遅らせて配達させるなどの機密工作を実施しており、日本の外務省や欧米大使館の暗号までかなり解読して諜知していました。従って外務省自体も手の内を陸軍に読まれていたのです。開戦が近づいてくると、外国との全通信を14~15時間遅らせる様に指示していたという石井秋穂陸軍大佐の別途証言もあります。


   いずれにせよ、最終部と訂正箇所電報が予定時刻より15時間遅れて発信されたことは事実であり、従来在米大使館の不手際とされてきたのは不適当であり、もし予定通り15時間前に、しかも大至急扱いで入電していれば、大使館側も予定通り翻訳と清書が出来て、真珠湾攻撃前にハル国務長官に手交できたはずです。国際法上は、例え手交が攻撃の一分前でも有効とされていました。従って、30~20分前なら、そして正しい通告文ならば、米国がいくら非難したとしても、一応国際的には堂々と反論できたはずです。


   山本五十六長官は、開戦前に何回も海軍中央に対し、開戦通告は正々堂々と攻撃前に必ず行う様にと、強く要請していました。昭和天皇からも事前通告についてはご注意があった様です。山本長官は、日頃部下たちに「武士は夜討ちをかけても、必ず相手の枕を蹴って起こしてから討つものだ。」と諭していました。リンカーン大統領の伝記を何冊も原書で読み、アメリカンフットボールや大リーグの野球観戦も駐米時代によくしていた山本長官は、アメリカ人のフェアプレーの精神をよく知っていました。しかも相方として付き合っていた米国海軍軍人も紳士的だったことから、国際法の法的要件を具備していれば、アメリカは無視はしないはずだと信じていたと思われます。しかしこの期待は裏切られました。上記の陸軍参謀の妨害で発信時間が15時間も遅れ、その結果最後通牒の手交が攻撃の55分後となってしまったと今までは考えられていたのです。しかし、それが単に戸村少佐や瀬島少佐という、エリートとは言え中堅将校の独断専行的な恣意的判断によってのみなされたのか、それとも陸軍上層部の了解乃至指示があったのかは、不明でした。


   しかしこの田中隆吉将軍の著述によれば、上記の通り、当時首相を兼ねていた東條英機陸軍大臣の直轄組織である三国機関がこの最後通牒の送信を遅延させたのだとすれば、東條首相兼陸相自らの了解乃至指示のもとに行われたものと考えられます。日本海軍に末代までの「スネーク・アタック」の汚名を被せたのは他ならぬ帝国陸軍の首脳であったことになるのです。しかしこれには前例があるのです。他ならぬ田中隆吉将軍自身が、上海駐在であった昭和6年に勃発した満洲事変から欧米列国の注意を逸らすため、当時関東軍の板垣征四郎参謀長からの依頼で、男装の麗人と呼ばれた川島芳子女史を使って上海で日本人僧侶襲撃事件を起こし、それがきっかけとなって第一次上海事変が勃発します。当時国際的租界都市の上海で治安維持に当たっていたのは海軍陸戦隊でしたので、中国陸軍部隊の猛攻撃を受け、寡兵よくこれに対抗しましたが、多数の戦死者も出しました。そこで陸軍部隊の応援を要請することになるわけです。しかし、元を正せば同じ友軍のはずの日本陸軍の謀略で海軍は戦死者を多数出したのですから、極めて背信的行為です。このことは後に現地の海軍部隊も察知し、第一次上海事変直後に海軍陸戦隊の将校たちが当の田中隆吉少佐を呼び出して詰問し、自分の仕業だと白状させたということが、軍事史学会の影山好一郎博士のご教示に依れば、戦後の「水交」という旧海軍士官が組織した水交会の機関誌記事にも出ているということです。友軍であるはずの陸軍が、海軍を罠にかけてしかも多数の戦死者を出させるという様な謀略を許容する体質が、残念ながら陸軍にはあったと言わざるを得ません。


   前回までに取り上げました様に、この田中隆吉将軍の著述に信憑性があるのかどうかという問題はありますが、もしこれが事実であるならば、「開戦通告遅延」の問題に旧陸軍が組織的に大きく関わったことになるわけです。(今回はここまで)