田中隆吉将軍が戦後最初に書いた著書は、昭和21(1946)年1月に山水社から発行された「敗因を衝くー軍閥専横の実相ー」ですが、その序文の日付は昭和20(1945)年9月24日となっています。つまり終戦の8月15日から僅か40日後です。この時点では田中将軍自身が戦犯となる可能性ももちろんあり、連合軍の占領体制が一体どのようになるか、政府も国民も一切わからなかったのです。
従って、翌昭和21(1946)年2月18日に出頭して、国際検事団の最初の尋問を受ける6ヶ月も前の時点ですから、「東京裁判」には全く関係なく、田中将軍自身の考えでこの書は著述されたことになります。その序文にはこう記されています。(同上書中公文庫版、9~12頁)
・・・昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾した。大東亜戦争はここに惨憺たる敗北をもってその終りを告げた。この無条件降伏の瞬間まで、最後は必ず勝つと教えられ、また必ず勝つと信じていた国民は、呆然として自らを失い、唖然として言うところを知らなかった。しかして今や何人も異口同音に「何が故に?」と敗北の原因を問い尋ねつつある。
私は軍人の落伍者である。しかし昭和十三(*1938)年十二月から、昭和十七(*1942)年九月に至る四年の歳月の大部分を兵務課長として、また兵務局長として、これを陸軍省において過ごした。その職掌柄、全く政治、外交、経済の圏外にあった(*直接的に軍政に携わる職ではなかったの意)ので、これらの事柄とは何らの因縁はなかったが、これがために陸軍の中枢部において、中期以降の日中戦争と初期における大東亜戦争の推移とを、極めて冷静にまた仔細に眺むる事を得た。故に私は不肖ながら七千万の国民が、斉しくその胸に抱く「何が故に?」の謎を解く資格を有する一人であると信ずる。・・・(*は筆者註記、以下同様)
陸軍省兵務局(兵務課)は、昭和11(1936)年2月26日に発生した皇道派の陸軍青年将校によるクーデーター「二・二六事件」を受けて、陸軍部内の規律・統制を強化するために、同年8月に陸軍省軍務局から分離・独立して設置された組織であり、陸軍の軍規・風紀の監督部署でした。そのため軍事警察である憲兵隊を管理統括していたので、後に憲兵が東條英機首相・陸相に政治利用されるようになると、これに反対した田中隆吉兵務局長は辞職させられます。この件については次回以降、別途取り上げたいと思います。
また、ここで留意しておくべきことは、陸軍省兵務局長は、憲兵隊のみならず陸軍中野学校や「ヤマ(三国機関)」と呼ばれた諜報機関なども管轄下に置いていたことから、かなりの機密情報に接する可能性があったという事実です。もう少し上記書の序文の続きを見てゆきましょう。
・・・古来日本人は、物言えば唇寒しとして、言挙げせぬことをもって美徳とする。しかし私は事ここに至って美徳ならずとの理由によって、国民の聴かんとするところを黙して語らざるは、苦難多かるべき明日の日本のために美徳に似てかえって美徳にあらずと信じたるが故に、あえて自らその不敏を顧みず、去る九月四日稿を起し、「敗因を衝く」と題してこの拙き文章を書き綴った。私をしてここに忌憚なく言わしむれば、敗戦の数々の素因は、戦争勃発の前にすでにその萌芽が存在していた。(*中略)
書中に引用した人々の言葉は、私の記憶にして誤りなくば、誇張もなければ虚偽もない。これらは大東亜戦争の間には絶対に口外を許されざるものであったが、今日に至ってはもはやその要なしと信じたるが故に、僭越ながらその人々には何らの断りもなくこれを明るみに出した。故にこれを不都合なりとして怒る人あらば、願わくば明日の日本建設のために、寛容なる態度をもって宥恕せられよ。
また私の意見を独断に過ぐるものとして譏(*そし)る人があるかも知れぬ。あるいはまたこの書をもって自己宣伝なりとして批難する向きもあるかも知れぬ。しかしそれはなるべく私の所信と真実とを伝えて、いささかなりとも、新しき日本の建設に奮い立たんとする人々の心の糧たらしめんとしたほかに他意はない。故にこれらの譏りと批難は、喜んでこれを甘受する。・・・(同上書序文、10~11頁)
同上書「敗因を衝くー軍閥専横の実相ー」はこうして、昭和20(1945)年9月4日に書き始められたのですから、米戦艦ミズーリ号艦上の降伏文書調印式から2日後のことです。
国家が戦争に敗れたり、国家体制が崩壊したりした直後というのは、それまで国家機密・軍事機密とされてきたことや、政治的な理由などで極秘とされてきた事柄などが、表面化されやすい不安定な時期です。その混乱期からしばらく時間が経つと、新しい国家秩序の形成や回復により、旧秩序で秘密であったことのうち、新体制下でも具合が悪いと思われる内容は、また「秘密」に戻ってゆく傾向があります。
近年では1991年12月25日のソ連崩壊がこの事例に相当します。プーチン大統領の出身母体である国家秘密情報機関であったKGBもこの時点で一旦組織が無くなりますが、結局新ロシア連邦のFSBとして復活します。しかしこの崩壊直後の時期にはソ連の国家機密情報がいくつか漏れ出したと言われています。
大日本帝国もまた同様の状況にあったと思われます。同時進行で陸海軍の機密文書などは焼却されるか隠匿されるわけですが、連合国軍占領体制下となり国がどうなってしまうかわからない旧価値観の崩壊期ですから、この田中隆吉将軍の様に自己の判断で旧秩序への反省から意図的にその内情を暴露する人物も現れることになります。
従ってそこで明かされる内容は、著者自身が見聞したものという限定や限界があるとしても、またある程度は著者自身の保身や思惑による偏向が加わるとしても、いわば「確信犯」的にこの序文に書かれた通り、「これらは大東亜戦争の間には絶対に口外を許されざるものであったが、今日に至ってはもはやその要なしと信じたるが故に、」世上一般に明かされる「秘密」も当然あり得るのです。
一方で、この種の「秘密」はその本来的性質から証拠や根拠となる公文書などは存在しないケースが多く、常に信憑性が問われることにもなります。その意味で、客観的にある程度信用でき、しかもその「秘密」にもある程度接していた第三者の証言や著述が重要となり、傍証ともなるわけです。この意味で、田中隆吉将軍については、以前本シリーズ(13)でもご紹介した谷田勇陸軍中将の手記「田中隆吉を想う」の内容が重要となるのです。この意味で、繰り返しとなりますが谷田将軍著述の重要部分をもう一度検分して見ましょう。
・・・ 昭和6(*1931)年9月の満州事変から、支那(*日華)事変を経て、太平洋戦争に至る、約十一年にわたる「敵側のいう侵略戦争」のA級戦犯被告を、二十八名に絞ったこと、ならびに、その人選を、誤まらなかったことは、概ね田中のいうとおりである。(*中略)
私は、日本人の提出したA級戦犯の告発および密告状の綴を見せられたが、その多人数に驚くとともに、告発人の中に、(*田中隆吉以外の)陸軍将校の名を発見したときは、呆然としたのであった。しかも、証人として法廷に立つ意志はないと添加してある。
田中が検事側証人として極東(*東京)裁判の証人台に立ち、暴露した内容が正鵠に近かったとはいえ、陸軍の反逆児として指弾するに足り、ことに、昂奮の余り、先輩同僚を指名して、面罵に近い言論を弄したことは悪演技であった。しかしながら、彼の検事団に対する内面指導(この言葉は、満州事変以来、盛んに使われた)の功績は、認むべきものがある。(*中略)
これを要するに、田中の言動は、保身および私憤という悪、または、罪の面は確かにある。しかしながら、田中のいう功、または、善の面もあると、私は考える。この功罪両面の比率を、如何に断定するかは、私の語るべきものでもなく、観察者の心の反映であると思う。最後に、田中には後日、宮内庁から下賜品を賜っている。このことは、現在、宮内庁の公式書類には残されていないが、田中は、涙を浮かべて、このことを私に語った。裁判関係の二、三著書にも、このことが記されている。・・・(谷田勇著「実録・日本陸軍の派閥抗争」平成14年川喜田コーポレーション刊、562~563頁より)
要するに谷田将軍によれば、陸軍の内情を明かして検事側に立った「陸軍の反逆児」としては指弾すべきであるが、「暴露した内容が正鵠に近かった」ことは認めているのです。従って田中将軍の著述・証言内容の全てを額面通り受け入れられないとしても、一定の信憑性はあるものと合理的に推定できます。
また前回の本シリーズ(14)でご紹介した通り、歴史学者の重鎮、東京大学名誉教授の伊藤隆博士も、この田中著述について「多くの一次史料が公になっている今日この中の記述について不正確だという指摘もあり得るが、しかし逆にそれによってその正確さが立証されたという点も少なからずあり」とされています。
こうしたことを踏まえて、一定の事実は含まれるか、乃至は少なくとも事実が反映されている記述であるとの想定のもと、ご子息の田中稔氏手記も含む田中隆吉記録を、これから読み解いてゆきたいと存じます。
ここからは、再度ご長男の田中稔氏が纏められた昭和54(1979)年刊、自家版「田中隆吉著作集」所収の「父のことども」より、東京裁判で鬼検事と呼ばれたキーナン主席検事(米国)と、「怪物田中」との関わりを見てゆきます。まずこの二人の出会いから。前回ご紹介した様に、東京新聞記者の江口航氏宅から国際検事局により身柄を保護軟禁された田中隆吉将軍は、連合軍が一部接収していた白金の野村恵二氏邸に、身の回りを世話する付添の稔氏とともに移されます。
・・・彼(*田中隆吉)とキーナン検事との出会いは非公式には彼が野村邸に居たこの頃で、田中と云う日本軍部の軍人がどんな男でどんな待遇をされて居るかを見に来る程度であった。(*中略)息子稔の印象としては、態度の大きい不遜な感じのする人物に見えたものである。キーナン氏と彼*との間ではこの時は特にこれといった話はなく、キーナン氏は引上げていった。(*中略、この後は江口氏の手記からの記述となる)
国際検事団の主席検事キーナン氏と田中隆吉の(*公式的な)出逢いは、彼が明治ビル(*国際検事局)通いをはじめてから大分日が経った後のことだった。ホネディ検事が二人を引合せたのである。ホネディは田中の抜群の記憶力や分析判断の正確さ、ものごとを姑息にかくさない――いわゆるくさいものにふたをしない性格 自分が関与した事件でもあけすけに事実を述べる率直さなどを高く買っていて、得難い証人だとキーナンに進言して居た。田中は、はじめて野村邸でキーナンに逢っていやな野郎だと思ったという。一見傲慢で、尊大に見えたのである。
キーナンの方も田中に対して同じような印象をもったらしい。本来なら戦犯の列にも加えたいくらいの敗戦国の軍人上りのくせに、不遜にも対等の態度で振舞う無礼な男だと思ったのであろう。ただ戦時中の田中の去就については、手記その他の資料で承知していたようであった。
或る時、キーナンは田中に向って今次の戦争についてどう考えるか――と質問した。田中は彼に対して、戦争の正当性を強調して次の様な意見を述べた。――自分は元軍人だから軍人の立場で判断するほかないが、戦争をはじめた理由の当否は相対的なものだと思う。しかし今度の戦争で我々があやまちをおかしたとしたとするならば、それは戦争の見透しをあやまり、長期にわたって戦う十分の準備なくして戦をはじめたことだ。更には短期戦で収拾すべき手だてを怠った上に、局面を糊塗しながら国土を荒廃させて今日の悲運を招いたことである。
そして、このように大局を誤った責任は、軍指導部が負うべきものだ。そもそも国家機構のなかで武力を把握する軍の組織が権力を伸ばし、発言力を強めると、必ず政治関与がはじまる。軍人が政治に関与すると、軍閥を助長し、軍律がみだれて、腐敗が生じるものだ。軍の腐敗は諸悪の根源であって、はなはだ残念なことだが、今日外国の指弾をうけるような忌しい事件なども、軍律の弛緩、下克上の風潮などの軍の腐敗が生んだものだと思う。私は個々の作戦行動から生じた結果や、あるいは戦略の延長としての謀略行動などは、結果がよかれあしかれ、やむを得ないもので、取り立てて詮議だてすべきものではないと思う。戦争とは本来そう言うものなのだ。
(*田中は自分自身が関わった綏遠事件や第一次上海事変について、両方ともかくさずに検事団に話しをしてあったが、綏遠事件はともかくとして、上海事変は責任を問われるかと思ったが、結果としてキーナンは派生的事件としてあまり問題にせず、法廷にも持ち出さなかったという。この部分のみは同上書552頁より)
田中はおよそ右のような平素の持論をしゃべったが、キーナンは同感の意を表して、田中を見逃したようであった。それから態度がガラリと変り、うちとけた調子で次のような思いがけないことを話した。――実は私は日本に赴任する直前に、トルーマン大統領からきわめて重要な指令をうけて来て居る。その事はマッカーサー司令官も了解ずみだが、東京裁判での一番大きな任務なのだ。それは、こんどの裁判を通して日本の天皇に戦争の責任がなかったという結論をうち出すことである。
また(*ソ連など)二、三の国から法廷に於ける天皇の証言を求めるような要求があっても、天皇が出廷されることのないようにこれを阻止すること、これが私のつとめなのだ。ゼネラル田中、君は天皇を助けるために、私に是非協力してくれるだろうね。――田中は、きのうの敵であるキーナンの口から意外なことを聞かされて驚きを覚えた。彼は即座に、全面協力を誓って、キーナンと握手をかわしたのである。
もしもキーナンが田中を利用するための手段として天皇云々の話をつくりあげたのだとしたならば、彼も相当なしろもので、日本人の急所を心得た老獪かつ敏腕な検察官であったことは、その好敵手であった(*弁護団の)清瀬一郎も認めていたが、そのとき田中に語った話の内容は、単なる手管ばなしではなくて、事実にもとづいたうちあけばなしだった。
その骨子は、かつて私(*江口氏)の家で夜おそくまで(*田中と)話し合った通り、いたずらに事実をごまかして、みんなが、責任を回避すれば、お上に責を及ぼすおそれがあるという結論と符節をひとつにするものだったのである。キーナンは田中に対して、話の内容を他に口外することを禁じた。・・・(同上書544~546頁)
前掲の谷田勇陸軍中将の著書によれば、・・・田中も、旧軍人として、大いに悩んだが、開戦当時の陸軍省の局長以上のうち、東条大臣、木村次官(兵太郎・(*陸士)二十期)、武藤軍務局長(章・二十五期)は、現にA級戦犯であり、富永人事局長(恭次・二十五期)は捕らえられてソ連に、山田整備局長(清一・二十六期)は、戦後、自決し、その他の局長は技術的局長に過ぎないから、真相を語り得るのは、己れ一人しかいないという自惚れもあり、進んで、敵側の腹中に入り、正しく裁判を導いてやろうと、キーナンの懐刀になる気になった。・・・(前掲書561頁)という風に、検事側証人を引き受けた様子を書いていますが、そこには天皇の戦犯問題が基底にあったのです。この頃の極東国際軍事裁判(東京裁判)運営側の内部の模様について、前出の東京新聞記者、江口航氏の手記が「田中隆吉著作集」に引用されていますので、少し長くなりますが重要な点ですから、以下に取り上げたいと思います。
・・・その当時、われわれ(*江口記者たち)はアメリカの思惑を知るよしもなく、新聞記者仲間でもいろいろに取沙汰した。おそらく東京裁判で天皇追起訴の手段をとることはあるまいが、成行きに依っては陛下の出廷を仰いで証言を求めるような重大な事態が出て来るのではないかと予想するむきもあった。日本の弁護団でもそのことを憂慮したと、清瀬一郎も回想録の中でふれて居る。
私たちは、その可能性は国際間のバランス如何、極東委員会内部の動向にかかっていると見ていた。のちに田中がキーナンから聞いたところに依ると、国際検事団を構成する十一ヶ国のうち、アメリカの(*天皇不起訴の)方針を支持するものは、インド、フィリッピン、中国(*中華民国・蒋介石政権)、オランダなど、これに対して天皇有罪論乃至は天皇を出廷せしむべしと主張するのがイギリス、濠州、カナダ、ニュージランド、ソ連邦(*にフランスを加えて)の六ヶ国であった。なかでもイギリス、ソ連、濠州は強硬であり、裁判長をつとめた濠州のウエッブなどは、「実際の責任者である天皇を出廷させなければ公正な裁決ができぬ。」などと公けに裁判に対する個人の意見として述べたくらいであった。
だからこの問題を十二ヶ国(*11ヶ国の誤り)で評決すれば前者のアメリカングループ、(キーナンはその様に呼称した。)五ヶ国より、後者のアングログループの方が一票多く、五対六で天皇無疵論のアメリカの方針はやぶれることになる。したがってキーナンはこの問題を評決するような事態に追いこまないで、裁判の進行過程のなかで、ごく自然に天皇の平和のご意志を浮き上がらせて、開戦の責任や戦争に伴う犯罪行為が天皇のご意志に反して行なわれたという事実を立証しようという肚づもりであった。
またキーナンはこの点に関する限り、各戦犯容疑者も、自分の誘導にのってくれるものとはじめは信じて居たようであった。明らかに日本人の泣き処を利用するつもりで、彼は終始その筋書きを完全に演出しようと非常に苦心を払った。そして国際検事団の内部で、ソ連、英国、濠州などの強硬派とアメリカの虚々実々の確執がつづき、キーナンは裁判が終る迄強引な手口で彼らの要求をはねつけたのである。
キーナンはまだ若い時分に、禁酒法時代の語り草として有名なギャングの大立者アル・カポネ事件を手がけ鬼検事として名を売った男で、トルーマンのめがねに叶って任命され、裁判の途中にもしばしばワシントンに帰って経過を報告して直接その指図を仰いで居た。東京裁判は「極東軍事裁判。」という性格上、その管轄、構成、法規の制定など、すべて連合軍司令官の権限に属し、マッカーサーが一切の命令を出したが、天皇に関することは、ワシントンの指令がなければ手をつけることが出来ないことになって居た。
私(*江口氏)がキーナンとはじめて逢ったのは、芝白金の野村邸であった。(*中略)私の友人で、日本のホワイトハウス(*首相官邸)詰めのジャーナリストだ、――とかなんとか云って田中が紹介するとキーナンは私に向って――日本はなぜ満州だけで満足しなかったのだ。満州をかためて置けば十分やっていけた筈なのに、支那に手を出したのがまずかった。君はそう思わないか――と真顔でいった。まったくその通りで私(*江口氏)はキーナンの口から直接にかかることがらを聞いたことに若干の感銘をうけて、未だにふかく印象に残って居る。彼の口調には友人の失策を惜しむといった趣きを含んで居て、法廷で見せた検察官としての仮借ない態度、憎々しいほどの非情な面影すらなく、まことに分別をわきまえた紳士の風格を感じさせるものがあった。
・・・(前掲書546~548頁より)
実はチャーチル首相は、かつて日英同盟を支持し、英国を率いて大戦を戦い抜いたポツダム会談でも日本軍人の面子を立てる終戦対応を主張したと言われ、戦後の首相再選時にはまだまだ反日気分が濃厚ななか、今上(*上皇)陛下皇太子時代の訪英での真心の込もった歓迎を示し、日本に対しては終始一定の好意を保持していました。
しかしチャーチル首相率いる保守党は、ドイツ降伏後の総選挙で労働党に敗れ、終戦直前の昭和20(1945)年7月26日にチャーチルは下野し、イギリスはアトリー首相率いる労働党政権となっていました。
開戦当初、英陸軍はマレー半島とシンガポールで山下奉文将軍率いる日本陸軍に敗れ、英海軍は新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスがマレー沖で日本海軍航空隊に沈められて、威信を失した大英帝国の海外植民地自体が揺らぎ始め、やがて戦後のインド・パキスタン・英領マレー・ビルマ・英領ニューギニア、ソロモン諸島などと、後にはアフリカを含む全世界の大英帝国領土が相次いで独立するという事態を迎えることになります。
のちの名画「戦場にかける橋」(*この映画自体は必見です!)にも一部見られる様な、日本軍による英軍捕虜虐待や、シンガポールの華僑大量虐殺などが悪印象を増進させ、上述の通り、この東京裁判の時期はイギリス、濠州、カナダ、ニュージーランドというアングログループは、厳しい対日姿勢を執っていました。
そこに元々共産党政権として天皇制を否定するソ連のゴルンスキー検事が天皇追起訴を強く主張していたのです。
幸いにも中国はまだ共産党の支配下にはなっておらず、「以徳報怨」を対日方針としていた蒋介石政権の中華民国は天皇追訴反対の姿勢だったことにも救われました。またオランダも後にインドネシア独立を迎えますが、江戸時代からの修好による深い理解があったのかやはり天皇擁護派であり、戦争中の軍政に対する抗日ゲリラ活動など反日感情のあったフィリピンも、そして英領インド帝国はパール判事で有名ですが親日的であり、いずれも天皇追訴には反対でした。しかし何よりも主たる交戦相手であり、占領軍の主体であったアメリカの天皇擁護方針が極めて重要であったのです。
尚、江口氏の上記手記では、アングログループとキーナン検事が呼称している六ヶ国のうち、フランスが漏れていますが、フランスについては、前掲の谷田勇陸軍中将に以下の記述があり、キーナン検事の言うアングログループに属していたことが推測されます。
・・・(*昭和)二十二年の晩春であったと思う。私(*谷田勇将軍)は、田中(*隆吉将軍)から法廷に行ってみないか(*と)の勧誘を受け、二度ほど、検事団の控室を覗いた。田中は、法廷の廊下を肩をいからし、わがもの顔に大言壮語しながら闊歩し、どこの国の検事団の部屋にも入って行く。
仏国(*フランス)検事団の部屋では、戦前の天皇統治の実態、すなわち、日本は絶対の(*天皇)独裁国でなかったことを縷々説明し、(*大正末期の)摂政以来、長い統治の間、(*昭和)天皇が進んで、その意志を示したのは張作霖爆死事件、二・二六事件および今回の降伏と三者だけであったと強調し、筆者(*谷田将軍)を顧みて「そうだろう」と質問の形をとって念押しをし、「そうだ」と合い槌を打たされ、田中に利用されてしまった。仏国(*フランス)は、ソ連ほど繰り返し天皇戦犯問題を持ち出した国ではないが、あやふやな点があったから、しゃべったのである。とにかく、田中は天皇戦犯問題には力を入れて説得して歩いた。・・・(谷田勇著「実録・日本陸軍の派閥抗争」平成14年川喜田コーポレーション刊、557頁より)
念のため整理しておきますと、国際検事団の構成は、全部で11ヶ国であり、上述のキーナン検事の分類に従うと、天皇追訴に反対するアメリカングループは、アメリカ・インド・フィリピン・中華民国・オランダの5ヶ国、天皇出廷乃至天皇追訴を求めるアングログループは、イギリス・豪州・カナダ・ニュージーランド・ソ連・フランスの6ヶ国の、計11ヶ国です。従って評決を取れば5対6でアメリカングループが負けてしまうことになるわけです。こうした状況のなか、田中将軍は得意のフランス語を駆使して、やや態度が曖昧なフランス検事団を谷田将軍まで動員して説得しようとしていた様子がこの記述から窺がわれるのです。
近年ハリウッド映画で「終戦のエンペラー」という秀作がありましたが、実際にマッカーサー最高司令官は昭和天皇と会見し、その際陛下が具体的にどのような発言をされたかについての記録はありませんが、少なくともマッカーサーはこの会見の印象により陛下を起訴しないことに決めたと言われています。尚、巷間中国は天皇訴追派であったという説もありますが、同上書によるキーナンの直話によれば訴追反対の立場ですし、そもそも以徳報怨を中国国民に呼びかけたことからしても、日本をよく知る蒋介石主席が天皇訴追を指示したとは思えません。
この後、冷戦に向かう国際情勢や日本の占領統治上の思惑など、いろいろな政治的判断が背景にあったことは間違いありませんが、しかしもし万一にも天皇が戦犯として処刑されるような事態が起こったならば、旧陸海軍軍人のみならずかなりの反占領軍勢力による武力を伴う闘争活動や騒動を惹起し、丁度現代のイラクやアフガニスタンの様に、戦争後の内乱的状況が発生していた可能性は否定できません。その意味ではトルーマン大統領とマッカーサー元帥の判断は、やはり正しかったと言えるのではないでしょうか。(本日はここまで)