参院選の結果は予想通りであったとは言え、これで捩じれも解消し、日本政府は安定した政権運営が当面できることとなった。為政者としては、これに勝る環境はない。かつて政治学では、今では民主主義の根幹とされる「多数決原理」は、「最悪の議決手段」とされていたことを皆さんはご存知だろうか。


近代市民革命が成し遂げられたのは、近世ヨーロッパの王権神授説に基く絶対王政に対し、人民の近代合理性を基に、換言すれば、「人間の理性」に対する信頼(ある意味では信仰)を基にした人民主権の思想が、国民主権や議会制民主主義の実現を希求する根拠となったのである。


もっと分かり易く言えば、「人間は理性的存在である」→「だから階級・出自・貧富に関わらず、全人民を対象に平等に選挙権を与え、公正な選挙を行えば、その結果として選ばれる議員は、全人民の理性的判断により選出された理性的議員となるはずである」→「理性的議員が議会で理性的に討論すれば、最上最良の理性的結論に到達して結論が一致するはずである」という理屈となる。


従って、「理性的結論は一致するはずだから、本来多数決を採る必要はないはずである」→「にも関わらずどうしても結論が一致せず、議論が一致しない場合の、『最悪のケースの議決方法』として多数決が採られる」ことになっていた。つまり、多数決を採ることは、議論を尽くして最上最良の理性的結論に達していないことを意味していると考えられていたわけである。


こうした思想をもとに、言い換えれば「近代的人間理性への信頼・信仰」を基に、可能な限り総員が平等な選挙権を持つ「普通選挙」の実現を目指して、各国では自由民権運動や議会開設運動が盛んになるのだが、その嚆矢は、革命直後の1792年にフランスで史上初の男子普通選挙が実現したことであった。その後一時中断し、1848年からフランスでは第二共和制時代に男子普通選挙が定着する。続くドイツ(北ドイツ連邦のみ)は1867年、アメリカは1870年、イギリスが1918年、日本が1928年に夫々男子普通選挙が導入されるのだ。比較的新しい出来事でもある。


ちなみに女性参政権が認められたのは1893年英領ニュージーランド(選挙権のみで被選挙権はまだ)が世界初らしい。ご本家のイギリスでは1918年に女性の制限選挙権が与えられ、女性の完全平等選挙権は1928年にようやく与えられた。アメリカでも女性参政権が合衆国全体で与えられたのは1920年のことである。またご存知の通り日本は敗戦により1945年に女性参政権が認められたのである。


閑話休題、議会制民主主義の本家本元と目されるイギリスでは、上記の通り1918年に男子普通選挙が実現するが、そこで出て来た現実は投票を金で買う露骨な腐敗選挙であった。理性的な国民総選挙どころか、私利私欲のカタマリの様な腐敗選挙の現出で、最も衝撃を受けたのは「近代的理性信仰」の学者たちであった。これでは理性的討論も理性的結論もあり得ないではないか。一体人間とは何か。その本当の姿とは何なのか。深い疑念に苛まれつつ、それでも「理性」と「合理性」を頼りに、少しでも「科学的」に人間を研究するにはどうしたら良いのか。


そこでアメリカのシカゴ大学の心理学者たちが始めたのが行動科学(Behavioral Science)という研究法である。特に1960年代以降、実用化されたコンピューターによる大量のデータ解析能力を武器として、例えば人間の「投票行動」について、人間を未知のものとして「ブラック・ボックス(Black Box)」と見なし、「あるデータ群のインプット→ブラック・ボックス→あるデータ群のアウトプット」という具合に統計処理を施すことにより、例えば人間の投票行動には如何なる性質・法則的傾向があるかを解明しようとした。


その膨大なデータの収集(調査)と、コンピューターを駆使した統計分析の結果、出て来た答えは、例えば「雨の日は投票率が下がる」→「雨でも投票に行く成員を抱えている政党が有利となる(日本でいえば公明党とか共産党?)」という様なものであった。確かにこれは言えていることなのだが、しかし、わざわざ膨大な時間と手間とコストをかけた統計分析を行わなくても、まあ「実証」という意味はあるものの、中味は常識的というか、ちょっと頭を巡らせばわかる程度の内容(アインシュタインの思考実験とまでいかないレベルの)しか出てこなかったのである。これがわかって、本家本元のアメリカでは行動科学はすたれてゆくのだが、遅れて日本に入ってきた行動科学は、日本人学者の「科学信仰」にマッチしたのか、ある程度命脈を保つことになる。


それはさて置き、議会制民主主義の理念の根本は、やはり理性的議論の積み重ねと、極力合致した結論に討議によって到達することなのである。しかし、国民の前に演じられる与党と野党の対立は、常に党利党略による対立が目立ち、なかなか一致した国家国民にとっての最上最良の結論に到達してくれない。なぜ議案によっては与野党が歩み寄り、合意した結論に到達するというケースが極めて少ないのか。野党は、とにかく与党に反対することが使命と思っているのか。対立と抗争こそが国会における使命と思っているのか。こういうところに国民が嫌気を感じているのが、わからないのだろうか。「党益」という「部分最適」に終始せず、「国益」或いは「国民益」という「全体最適」に向けて、与野党ともに邁進してもらいたい。もう野党と与党の党利党略のための抗争にはウンザリなのである。筆者は、今回の参院選の結果の一面に、「ねじれ国会」に象徴される「党利党略抗争」の見物はもう懲り懲りだという国民意識が反映されている部分もあると思う。


与党第一党として確固たる基盤を手にした自民党には、正々堂々と真に「国益」「国民益」のための政策を推進、実現してもらいたいし、野党にはその監視・修正役としての機能は果たしてもらいたいが、同時に真なる「国益」「国民益」につながると判断した政策については、与野党の垣根を超えて協力もしてもらいたい。いい加減「何でも反対野党」からは卒業して、成熟した議会制民主主義国の野党にふさわしく、大人の姿勢で「是は是、非は非」の判断を見せて欲しいものだ。そうすれば、将来また国民の信任を得て、政権交代もあり得るだろう。「何でも反対野党」では、もう二度と政権与党になることはなかろう。一方で、自民党と公明党も、小異を捨てて大同に立ち、この機会に真の政権与党としての実力を国民にしっかりと見せてもらいたいものである。さもなくば、また将来に政権を失うことにもなりかねないことを肝に銘じてほしい。